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スマイル  作者: 小町翔石
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第二十八話  蝶とツキ

ひとは弱いものです。だから強くありたいと思うのではないでしょうか?

誰しもに怖いものがあります。それを乗り越えたときに、

ひとは一段階、成長できるのだと思います。

できないものはできません。

しかし、不可能を可能にするために努力するその姿を美しいと思うのです、私は。


今回はそんな話です。

では、どうぞ。

「三年前、私はあなたを好きだった。好きだと思ってた。でも、違うの。あんなのは好きなんかじゃなかった。もちろん、愛でもなかった。三年経って、私はわかったの。変わったの。あなたを恨みもしたけど、もうそんなことに囚われたくはないの。私のことは忘れてください。私もあなたを忘れるわ。あなたはあなたの人生を歩んでください。私は私の人生を歩むから。もう、私とあなたは他人なの。もともとが不倫関係だなんて、ひとに話せる間柄じゃなかったしね」


 ここまで言われても、まだ橋爪には未練があった。


「アユ……」

「私の話は終わり。最後に何か言いたいことはある? 聞くだけなら聞くけど」

「アユ……」

「さよなら」

「待ってくれ」


 立ち上がり去ろうとするアユミの腕を、橋爪が掴んだ。

 気持ち悪いと、アユミは思った。

 かつて愛していると思っていた男に腕を掴まれて、いま、気持ち悪いと思ったのだ。


「離して」


 思わず大声が出た。

 中腰になった橋爪は手を離し、静かに椅子に座った。

 だが、それで終わりではなかった。


「カズマくん、だったかな。彼がそんなにいいのか?」

「何でカズマを知ってるの?」

 アユミの背筋が凍った。

「さあ、何でかな」

「答えてよ」

「なら、座ったら?」

 アユミはゆっくりと腰を下ろした。

 橋爪は優位に立ったと微笑んだ。


「アユが年下の子どもと本気になるとは思わなかったよ。彼のどこがいいんだ?」

「誠実なところ。一途なところ。ねえ、何で知ってるのよ」

「探偵を雇ってね、調べさせてもらったよ」

「カズマに何するつもり?」

「何もしないさ。アユの態度次第ではね」


 アユミは思った。

 汚い。

 ここまでの男だとは思いもしなかった。

 私を捨てたときの非情さが三年経ってさらに悪くなっている。

 もしも私だけじゃなくてカズマにまで被害が及んでしまったら……。


「ここじゃ何だから、ふたりきりになって話せるところに行こうか」


 アユミは狼狽した。

 怖いと思った。カズマの手を思い出し、すがった。

 勇気が湧いた。


「私の態度次第では、あなた、カズマに何かするの?」

「さあ、どうだろうね」

「なら、警察に通報するわ。いまだって充分に脅迫罪よ。立派な犯罪よ。あなた、警察に捕まって刑務所に入ることになっても、それでもカズマに何かできるの?」


 橋爪の微笑みが見る間に消えて、言葉を失い、目に怒りが宿った。


「ああ、刑務所に入ることになってもいい。アユが俺とよりを戻さないなら、必ず後悔させる。絶対にだ。それでもいいのか?」

「よくはないわ。でも、あなたにはできないわ。よかった。今日あなたに会って、はっきりとわかった。あなたへの思いはもう過去のもの。いまは何とも思っていない。恨みもしたこともあったけど、それすら私は飲み込む。飲み込んでカズマとつきあうわ」


 凛と立ち上がり、アユミは言った。


「さよなら」


 返事を待ったのだが、橋爪は俯いて何も返事をしなかった。

 アユミは橋爪を置き去りにした。


 スクランブル交差点を渡って駅に行き改札をとおるとき、交通系ICカードを出したのだが、指が震えていた。

 いまになって来たのかと、アユミは穏やかな気持ちで震えている指を見ていた。


 カズマを思った。


 駅を出て空を見上げると、狭い空に月が見えた。

 小さな黄色い月だ。

 反射的に周囲を見渡しても、前から歩いてくるひとも、後ろを歩いているひとも、まるで気づいた様子はない。

 背丈がでこぼこなふたりは漫才師のように話に夢中になっていたし、ひとりで黙々と歩いているひとはきっと急いで家に帰りたい何かしらの理由があるのだろう。

 

 独り占めだと、アユミは嬉しくなった。


 あの月の美しさに気づいているのは、いまここでは私だけだ。

 まるでご褒美のようだ。

 ありがとうと叫びたい気分だ。

 爽快だ。

 恥ずかしさも忘れてスキップでもしようか。

 カズマにも教えたい。

 この気持ちを共有してほしい。

 バイト中のカズマにいま知らせることは無理だけど、バイトを終えたカズマがスマホを見てそして空を見上げたら、きっとこの月を見るだろう。

 そうアユミは思った。

 思って街灯の下で立ち止まりメールを送った。


 スマートフォンをバッグにしまいアパートに向かって歩き出すと、不思議な感覚に包まれていると気がついた。

 それは温かく、そして優しく、眩しくもある。

 アユミがそれまで一度も感じたことのない感覚だ。


 月には魔力がある、だなんておとぎ話を、でもいまならば信じられる。

 もうすぐ二十六になるというのに、信じられる。

 騒がしい駅前から住宅街に入って少し広くなった夜空に浮かぶ月を見ながら、アユミは歩いた。


 アユミはまだ気がついていない。あるいは年老いて孫を膝に抱きながら物思いにふけるときなどにふと気がつくのかもしれない。

 この日がターニング・ポイントになっていたことに。


 アユミはトラウマに、おのれの一番の恐怖に立ち向かい、打破したのだ。

 たまさか思い出して気に病むことはあるかもしれないが、もう橋爪を恨んではいない。

 だから、過去の自分も含めて自分なのだと思える。

 もちろん、いままでが嘘のように自分を愛することだって、できる。

 それに、いままでが嘘のように他人を愛することだって、きっとできる。


 世界が変わる。

 優しくなれる。

 楽しくもなれる。

 きっと、もう二度とカズマに暴力を振るうこともない。

 アユミは脱皮したのだ。

 小さな黄色い月の光を浴びながら、麗らかな蝶になったのだ。

 宝石に彩られた一対の翅をはばたかせているアユミには、笑顔がよく似合っていた。


次回で最終回です。長らくお付き合いいただけて幸せでした。

(まだまだ至りませんが)作家冥利に尽きるというやつです。

ありがとうございました。

次回を楽しみにしていただけたら、とても嬉しいです。


では、また。

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