第二十三話 「者」とメモ
橋爪がやってきた日から、アユミはカズマと上手く話せなくなっていた。
カズマはそれを避けられているのではないかと思った。
距離を置くべきなのか?
詰めるべきなのか?
結論に達することはできず、曖昧な態度をとるしかできなかった。
と言っても、それまでもそんなに親密に、そしてそんなににぎやかに話すこともまったくと言っていいほどなかったので、それまでどおりと言っても過言ではないのだが。
カズマは朝にまた弁当を渡す。
そのときにアユミと二、三言葉を交わす。
アユミの目はやはりどこか陰っている。
心の調子が悪いのだろうかとも思うのだが、自分が何かへまをしてしまった可能性も拭えない。
だが、
何で冷たくするの?
とか、
俺、何か怒らせるようなこと、した?
などと訊くと地雷を踏むことになるのは自明の理だ。
言い方は悪いが触らぬ神に祟りなし、アユミの心が落ち着くまでそっと時間を置くこと、それが一番に取るべき方法だとカズマは学習している。
次に一緒に買い物に行く日が近くなって楽しみだと、それだけ言ってカズマは学校へ行った。
そんなカズマの思いやりが、アユミの心を少し軽くした。
駅を出て、いつものように仕事に向かうアユミの視界に、橋爪が入った。
二度見して確認したのだが、しっかりと捉えてもそれは橋爪で間違いがなかった。
「何ですか?」
とアユミは嫌悪感をにじませた。
「ごめん。悪いとは思ったけど、もう二週間も連絡がないから、俺は本気でやり直したいから、やっぱり直接会って話をしようと思って。仕事の邪魔をする気はないんだ。ビルまで五分でもいい。話をしてくれないか?」
男はアユミの頭に浮かんでくる憎たらしいあんな奴なのに、拒むことはできなかった。
ビルに着くまでの五分余り、アユミは橋爪と話をした。
と言ってもアユミは短く相槌を打ったくらいなのだが。
信号待ちで立ち止まったときに橋爪は、今日も変わらず暑いなとハンドタオルで汗を拭いた。
三年前と変わらぬ仕草だった。
自分を都合のいい女にした男。
自分は会社を辞めたのに、のうのうと仕事を続けた男。
最後には私を捨てて家庭を選び、よき夫、よき父として奥さんや子どもと笑った男。
離婚をしたなら、全部チャラになるとでも思っているのか。
それでも、思ったよりアユミの腹は立たなかった。
もっと気が狂いそうになるくらい激昂して、衆目も関係なく怒鳴り散らして、バッグから包丁でも取り出して、最悪、怒りに任せて刺すところだって妄想したくらいなのに。
ビルにはすぐに着いた。
橋爪は大人しく足を止めた。
「顔を見られてよかった。話しができたこともよかった。連絡が欲しい。迷惑かもしれないが、また会いに来るかもしれないことを許してくれ。アユを失ってから大きな存在だったって気がついたんだ。愛してる。じゃあ、またな」
昔はその言葉を避けていたくせに。
去り際の橋爪の科白にずるいと思った。
思ったのだが、三年間の年月が流れたぶん老けた橋爪の後ろ姿を見て、少し同情した。
仕事を終えアパートに帰り弁当箱を郵便ポストに入れると、アユミはシャワーで一日の疲れを落とした。
四月から風呂上がりに三五〇ミリリットルのビールを飲むことをやめたからか、肌の調子がいいし体重も二キロ減った。
鏡を見ても、顎のラインがすっきりしたように思える。
気分がよくて、笑みがこぼれてしまうのをとめられない。
代わりに飲み始めた三十種類の野菜がミックスされた紙パックのジュースに、ストローを差し込んだ。
半分ほど飲んだジュースをテーブルに置いてソファに座った。
それはとても軽やかだったのだが、そんな気分は長続きはしない。
少なくともアユミの場合は。
無論鬱状態になる病気を患っているわけでもないが。
音楽をかけて調に身を任せた。
起きてルーティンをこなし仕事に行き、帰ってきて化粧を落とし寝る。
ほぼ毎日。
単調にも思われる毎日は、しかし起伏に富んでいると言う「者」もいる。
喜びの芽を見つける努力をすれば、陰徳を欠かさないで誠実に生きていれば、いいことがあると、言う「者」もいる。
そんなのは嘘っぱちの綺麗事だと、アユミは唾を吐く。
アユミはこう思う。
いや、実際に努力して誠実に生きて単調な毎日に起伏を生んだひともいるのだろう。
きっといる。
それならばなぜいじめを苦に自殺する子どもがいるのか。
老老介護で疲れ果て心中の道を選ばざるを得ないひとがいるのか。
努力が足りなかった?
陰徳を欠かした?
そんなはずはないはずだ。
「者」たちはこう反論する。
そこまで不幸なひとは例外と言えるくらい少数だ。
だがそれを言ったら自殺や心中を考えるような目に遭っているひと自体が少数だ。
そして少数だからと見過ごしてもいいわけではない。
そういうひとたちを救済するための手を、誰かが差し伸べなければないのだ。
私は差し伸べられた。
得意満面で、神さまはそのひとに乗り越えられない試練は与えないとほざく「者」には、もはや何も言うまい。
時間の無駄だからだ。
つける薬がないからだ。
五分四秒で音楽が終わると、気を取り直すために一度だけ大きく深呼吸をした。
アユミはジュースの残りをズーズーと音を立てて飲み干した。
空になった紙パックをリサイクル用の袋にひとまとめにして入れてから歯磨きをした。
寝室に行きベッドに横になる前に、箪笥の上の収納スペースに置いた熊のぬいぐるみを見た。
そしてその横の小さな紙きれを見た。
それはまだ捨てられないでいる橋爪のスマートフォンの番号が書かれたあのメモだった。




