第二十一話 飲むゼリー
中学の国語の授業の古文の時間に、その時代のひとたちは夢に思い人が出るのは相手が自分を思っていてくれるからだと受け止めていたと習ったことを、この朝のアユミは思い出した。
唾を吐きたくなった。
最悪の目覚めを二度寝をすることでやり直そうかとも思ったが、時間がそれを許してはくれなかった。
重い体をシーツから無理矢理に剥がすように起き上がった。
早番と遅番とがあるが、遅番のリズムに生活を合わせてしまうと早番の朝に起きられなくなってしまうからと、遅番の日でも午前七時の遅くとも三十分になる前には起きるように癖づけている。
朝食はまた昨昼の残りのおかず(つまり昨日は遅番だったのだ)と飲むゼリーとヨーグルトにピーナッツ・クリームを塗ったパン一枚とコップ一杯の牛乳だ。
ごくまれに苺ジャムに変えるときがあることはあるのだが、飽きはこない。
シャワーを浴びるのは歯磨きをした後だ。
そして歯磨きは食器を洗ってからする。
朝の口臭はうがい薬でうがいをすることで消すようにしている。
煙草は吸わない。
深酒もしない。
体に悪いからだ。
シャワーを終えて髪を乾かし着替えてから化粧をする。
終わるころには八時半を回っている。
出勤までの三十分に音楽を聴く。
あるいは録画しておいた番組を見る。
そうしてリラックスをする。
リラックスをしてカズマが弁当を持ってくるのを待つのだ。
いつもならば。
何か考えがあったわけではない。
ないのだが、ふといまごろ弁当を作っているであろうカズマのアパートに行ってみようかと、思ったのだ。
照れはもちろん、ある。
わずかに幼児性を感じるからだ。
だから二の足を踏み、踵を返した。
そこから思いとどまって、やっぱりと、十メートルほど先にあるカズマのアパートに歩いていった。
アパートを出ると、まだ九時になっていないのにもかかわらず、太陽は容赦なかった。
東京はまた三十度を超えるなと、日焼け止めを塗った両腕を確認した。
アユミたちよりもさらに駅から離れたアパートに住んでいるサラリーマンがひとり奥から歩いてきた。
Yシャツにネクタイをしっかりと締めて仕事に向かっていたが、手にはもうハンドタオルが握られていた。
アユミは思い出したくもないことを、思い出してしまった。
フラッシュ・バックしてしまったのだ。
こんな気持ちじゃ会いに行けない。
アユミは自分の部屋に戻った。
九時になる十分くらい前に、カズマが弁当を持ってやってきた。
精一杯の笑顔で迎える努力はしたのだが、やはり借り物か作り物の笑顔になってしまっていた。
だが、アユミはどうしても顔を合わせておきたかったのだった。
「自信作だよ。じゃあ、またね」
カズマも少し困惑気味の顔をしていた。
それが何だかおかしかった。
アユミの胸の雲間から少しだけ光が差して、重しが少し軽くなったと実感した。
それで充分だった。
ありがとう。
それがアユミの素直な気持ちだったのだが、それをまだ認識はできはしなかった。
それから間もなく、アユミは出勤した。
駅へ向かうひとの流れに交じって歩いた。
満員の電車に揺られ渋谷へ行った。
アユミは東京生まれの東京育ちなので、朝の電車の混みようは当たり前でとくに驚きも嫌悪しもしなかった。
その日の体調によっては座りたいと思う場合もあるにはあるのだが。
電車を降りて駅を出ると、やはり日差しは強かった。
ハンディファンと折り畳みの日傘をバッグから取り出した。
同じようにしている女性が何人もいた。
考えることはみな同じのようだ。
九時過ぎの渋谷のスクランブル交差点には大勢のひとひとひとで、その中にいるアユミは、いや、アユミだけではないだろうが、よくもこんなにひとがいるものだと感心半分呆れ半分に思うこともある。
そこにいるひとのほぼ一〇〇パーセントが無言で無表情に思えるのも、よくよく考えると怖いものがある。
仕事場には三十分になる前に入り、午後の六時半まで仕事だ。
どの仕事でも働くというのは大変なことだが、店長も先輩たちも人柄がよく、楽しんでできる仕事だとアユミは思っている。
開店時間が来てビルに客が入ってきた。
さあ、今日も頑張ろう、とやってきた客に笑顔でいらっしゃいませと声をかけた。
それは見間違いではなかった。
客が試着して自分には似合っていなかったと購入を控えた洋服をたたみ、元あった棚に戻したときに一瞬目の端にひとが入った。
この時間なら客がいることくらい当たり前だ。
少なくはあるが、男性がひとりでいることもまあまあ珍しくはない。
だから、ああ、男のひとだ、としか思わなかった。
ただ、何かが引っかかった。
数秒後、はっと振り返らざるを得なかった。
髪型、眉、目、鼻、口、頬、顎、耳、背丈、体格、服装、すべてが三年前と一致していた。
男は口角を上げた。
そしてアユミに歩み寄ってきた。
「ここで働いていたんだな」
「何の用ですか?」
とアユミは答えた。
「そんな他人行儀な態度をとらなくたっていいだろう」
「もう他人です」
「話がしたい」
「嫌です」
「妻とは別れた」
「もう関係ありません」
「話がしたい」
と男はアユミの腕を掴んだ。
「やめてください。ひとに見られてるじゃないですか」
「話をしよう。十分、いや五分でもいい。話をしてくれないか? お願いだ」
振り返ると同僚が見ていた。
何より怖かった。
だからアユミは
「本当に五分でいいんですね。嘘をついてそれ以上拘束したら警察に通報しますよ」
と譲歩した。
「ああ。してもいい。何時に休憩をとれるんだ?」
アユミは返事をした。男が去っていったあと、あまりにアユミが青ざめていたので心配した店長が訊いてきた。
「どうしたの?」
「大丈夫です」
と答えたアユミは、どう見ても寄る辺のない顔をしていた。
自分でもわかっていた。
本当は誰かにすがりついて助けを請いたい。
誰でもいいからあの男の魔の手から救ってほしい。
でもあの男とかつて不倫をしていたことなど、誰にも話せるはずがない。
だからこれは自分の力で解決しなくてはならない問題なのだ。




