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スマイル  作者: 小町翔石
20/29

第二十話  愚か者のコイ

 きちんと目を見て言った。

 真夏は当然、ショックを受けた。

 アユミの笑みは消えた。


 ビル内でかかっている音楽も、買い物客や店員の話し声も、足音も息遣いも鼓動も、何も真夏の耳には届かなかった。

 言いたいことが言葉にならず、そのうちにじわじわと涙がにじんできた。

 真夏は逃げるように去っていった。


「まなったん」

 とカズマは目で追った。

「何やってるの。追いかけなさいよ」

 言われてから、カズマは真夏の後を追った。

「来ないで」


 そう言った真夏はトイレに入っていった。

 これでは後は追えない。

 女子トイレの前で待つわけにもいかない。

 しかし、放っておくこともできない。

 カズマは少し離れたところで待つことにした。


 都心に住んでいるひともいるだろう、田舎から出てきて買い物を楽しんでいるひともいるだろう、カズマや真夏のように田舎から上京してきてだいぶ都会になじんできたひともいるだろう。

 きっといまこのビルにいるひとの数は三百はくだらないだろう。


 でも泣いているのはきっと真夏ひとりだ。

 泣かせたのは自分だ、すぐに追いかけていれば真夏がトイレに入る前に腕を掴むことができたのに。

 

 カズマは自分を責めた。

 だが腕を掴めたとしても真夏の涙を止めることはできなかったであろうことまでは、頭が回らなかった。

 真夏は失恋したのだ。

 好きな男が目の前でほかの女を選んだのだ。

 カズマは待ちながら、女性を泣かせたのは人生でこれが初めてだと気がついた。

 その女性が泣かされて当然の振る舞いをする馬鹿な女ならそんなに罪の意識に苛まれることはない。

 しかし、泣かせたのは真夏だ。

 専門学校に入学してすぐにできた友だちだ。

 いつも笑顔でみんなに好かれている、温かで心のきれいな、あの真夏だ。

 真夏がトイレにこもって泣いているのだ。

 そう思うとカズマはたまらなく苦しくなった。

 変質者として扱われようとかまわないから女子トイレに入っていって真夏を慰めようかと思ったくらいだ。


 でもやめた。

 カズマが選んだのは真夏ではなくアユミなのだ。

 カズマがすべきことではない。

 真夏の涙が止まって、気を取り直して出てくるまで、何十分でも、何時間でも待つこと。

 それがカズマが真夏にしてやれる最大限の誠意だ。


 時計やスマートフォンで時間を計ったわけではないので正確だとは言えないが、真夏がトイレから出てきたのはゆうに三十分以上経ってからだった。

 カズマを見つけると、充血した目を伏せて申し訳なさそうに笑った。

 そして言った。


「お店、戻ろう」

「いいの?」

「うん。服、買うから」


 刃傷沙汰になりはしないかと肝を冷やしたが、店に戻ると言葉どおり、真夏は先ほどの服を買った。

 アユミが店と通路の境まで見送りに来た。

 やはりもう笑ってはいなかった。


「もう店に来てもらえないんじゃないかと思ってた。来てくれてありがとう」

「ううん、いいんです。私、振られるのって初めてなんですけど、そんなに多く恋愛したわけじゃないし。同じひとを好きになった者同士だから、そしてそのひとが選んだのがあなただから、わかり合えるかもしれないって思ったんです。今度からアユミさんって呼んでもいいですか?」

「うん。もちろん」

「じゃあ、いまの間だけ、手、つないでもいいですか?」

「うん。ハグだってしちゃいなさいよ」

「じゃあ、また来ますね」

「うん。ありがとう。カズマ、後で真夏ちゃんの抱き心地、聞かせてね」


 真夏が笑って、アユミも笑った。

 カズマの笑顔は少しひきつっていて、真夏はカズマの手を握った。

 ビルを出ても、そこでお別れとはならなかった。

 真夏はカズマに取り乱したことを謝った。

 かずまはそれを受けて後を追うのが遅れたことを謝った。

 手をつないだままで。

 時刻はまだ二時を回ったところで、若いふたりはさあ、と渋谷の街に繰り出した。


 夕方になるとカズマのアパートに行き、カズマの手料理をふたりで食べた。

 九時ごろまで真夏はいたのだけど、セ○○○はもちろん、ハグさえもしなかった。九時を過ぎてそれじゃあと帰るとき、真夏は


「今日のことはみんなには内緒にしようね」


 と笑った。

 部屋でひとり残されると、カズマは何だか大切なものを失ったような気持ちになった。



                    11



 アユミから十二時になる前にはアパートに行くわと連絡があった。

 来て、ではなく、行く、なのでアユミがカズマのアパートに来るという意味だ。

 カズマはそのときを待った。


 真夏が滞在した四時間余りで、香水の匂いなのか髪の毛や皮膚呼吸によって発せられた体の匂いなのか、真夏の残り香が部屋に色濃く漂っていた。

 それは甘く、アユミとはまた違う匂いで、真夏の存在を強く訴えかけていた。

 それを不愉快と思われてしまうかもしれないと思いはしたが、空気を入れ替えたり匂いを消そうとしたりはしなかった。


 アユミは宣言どおり、十二時になる前にカズマのアパートのチャイムを鳴らした。

 これまでなら何も言わなくても部屋に入ってきたのにアユミは立ったままなので


「どうぞ」


 とカズマは招いた。

 二、三秒の思案の後に、アユミは足を前に出した。

 が、それ以後は思案だとか迷いだとかの様子は見せなかった。

 いつものアユミだ。

 アユミはベッドに腰かけると、安物のクッションに座ったカズマにいつになく真剣な眼差しで言った。


「時間も時間だし、私も早く寝たいから言いたいことだけ言わせてもらうけど、いい?」

 カズマは肯いた。

「本当に私でいいの? あなた、きっと後悔するわよ」

「ううん、たぶんしないよ。だって、僕はアユミさんのいいところ、知ってるもの。言ったら悪いけど、アユミさんが、実はそんなには強い女性じゃないってことも、知ってる。ひとを思って、気遣って、正義感が強くて曲がったことが大嫌い。当たってるでしょ。ひとづきあいは本当は得意じゃないけど、僕といるときは積極的につきあってくれている。それだけ心を許してくれている。つまりは、僕を好きでいてくれている。これも、当たってるでしょ? 自分で言うと変だって言うひともいるけど、僕はそうは思わないから、言う。好きでいてくれている。でも少し照れるけどね。もしも後悔したとしても、それは僕の人生の糧になる。しなきゃいけない。糧にして、前に進まなきゃいけない。ライフ・マスト・ゴーズ・オン。もしかしたら、ああ、あのときまなったんとつきあっておけばって将来思うことになるのかもしれない。それは誰にもわからない。だからアユミさんとつきあってよかったって思える日々を、僕たちはこれから積み重ねていかなくちゃいけないんだ。僕はアユミさんが好きだ。僕はアユミさんとつきあいたい。アユミさんにとってもそうであるように、僕はこれからひととしてもっと一人前になろうと思う。アユミさんとつきあうに相応しい、そういう男になるから、だから、僕とつきあってください」


 アユミはこう答えた。


「馬鹿ね」



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