第十四話 カズマのジコ
ふたりは立ちあがって、部屋を出た。
五時ごろの東京なのに、いや、東京だからか、いつもの住宅街がアメリカのポップアートのように、カズマには見えた。
大統領にハッピーバースデーを歌った歌手の顔が六つ並んでいるあの絵のように、濃いグレーの建物が華やかに見えたのだ。
もちろん、ただの目の錯覚、気のせいだ。
だが、アユミとのよりが戻って、カズマは浮かれていた。
それを見透かしたのか、
「気をつけなさいよ」
そうアユミは言った。
何を意味するのかはわからなかったが、気をつけるのはいつ何時でも大切なことだからと、肯いた。
「じゃあ、行ってきます。今度、都合いいときに、デート、しようよ」
「考えておく」
とアユミは笑った。
もちろん、アユミが言ったことに他意はない。
いま言ったことではなく、先ほど言ったことだ。
腕の立つ占い師のように未来が見えたわけではない。
人間が社交として言う単なる挨拶に過ぎない。
だが、偶然とはこうしておこるものなのだ。
いつものように働いて、変わらない味の料理を作り、経験を積み、楽しい思いをした。
そのアルバイトの帰り道で、一時停止を怠った原付バイクに、カズマは撥ね飛ばされてしまった。
死んだ。
スローモーションの中で、カズマは思った。
地面に転がって、唖然としていた。
加害者の男は、カズマの様子を窺いもせずに、原付バイクを起こして逃げて行ってしまった。
警察への通報は目撃者のカップルの男性のほうがした。
死んだ、と再び思った。
思ったのだが、
「大丈夫ですか?」
と声をかけられたカズマが体の隅々に意識をやり、どこか異変はないかと確認すると、案外どこも痛くはないぞと、気づいた。
異変らしい異変は、心臓がこれまでにないくらいの速さでバクバクと胸を叩いていることくらいだ。
試しに上体を起こしてみた。
大丈夫、痛みはない。
「……大丈夫みたいです」
こんなときなのにこんな礼儀正しさは、何だか情けなかった。
だが、立ち上がろうとしたときに、右足の甲に激痛が走った。
「大丈夫じゃないですう」
患部を抑えて、その場にしゃがみこんだ。
警察が来て、事故のあらましを尋ねられてから、カズマは救急車に乗ることになった。
病院に着きレントゲンを撮るなど怪我の具合を見てもらったのだが、骨に異常はなく、一週間としないうちに腫れも痛みも引くでしょうと、医者に微笑みとともに言われた。
大した怪我でなくてよかったのだが、それ以外の対応が面倒だったと、カズマは後日、思うことになる。
タクシーでアパートまで帰り着いたときには、一時を回っていた。
心臓がドキドキとしているので寝つけないだろうと思っていたのだが、ベッドに横たわるとものの数分で眠りに落ちた。
朝になり、患部を確認したが、変わらずに腫れあがっていた。
当然だが、歩くのも一苦労だ。
痛む足でトイレに向かい、用を足した。
右足に体重をかけるとより痛むと確認し、左、よいしょ、左、よいしょ、のリズムで右足をかばいながら朝食をテーブルに運んだ。
手はもちろん、石鹸で丁寧に洗ってある。
手の込んだ料理は、朝からは作る気が起きない上に足も足なので、究極のお手軽にして最高級の美味を誇る料理、TKG、卵かけご飯で済ますことにした。
白菜のキムチととても相性がよかった。
昨日の夜に処方された痛み止めを飲み、足をかばいながらシャワーを浴びた。
服を着替えたり、学校へ行く準備をしているうちに、痛みが少し和らいだ気がした。
アユミにはこのタイミングで事故のことを知らせた。
長文にならないように要点だけまとめようかと思ったが、思い直し、なるだけ克明に伝えた。
一週間もしないうちに治る程度の怪我だけど、痛かった。
でも「痛い」より「怖かった」のほうが強いっていうのが正直な気持ちだと伝えた。
メールの最後につけておけば、そんなに心配するほどではないだろうと伝わるだろうと、思った通り長文になったメールを、心配してね、で締めた。
いつもより十分早くアパートを出て、学校に向かった。
教室にたどり着いたとき、時間は普段の登校時間とほぼ変わらなかった。
いつもの二倍の時間をかけて歩いた計算になるわけだ。
カズマに気がついた仲間に、手を上げて挨拶をした。
手を上げて返してきた仲間のひとりが、すぐに異変に気がついた。
「また新しい怪我だ」
もはや、カズマと怪我はワンセットになっているかのようであった。
「原チャリに撥ねられたんだよ」
事実をありのままに言ったのだが、日ごろの行いが悪いのか、信じる者は少なかった。
だが、心配をしなかったわけではない。
「かっちゃんて、本当に怪我の絶えないひとだね」
「なんか憑いてるんじゃないの?」
「お祓いしてもらったら?」
「今度みんなで神社に行かない?」
「いいね」
「どこかいい神社知らない?」
「私、恋愛のお守り欲しいから、恋愛成就の神社に行きたい」
「かっちゃんのお祓いと何の関係もないじゃんか」
みんなが笑った。
その声を聴いていると、怪我をすることもそんなには悪いことじゃないんじゃないかと、カズマも笑顔になった。
「痛い?」
カズマの足を見ながら、真夏が訊いてきた。
「うん。でも、朝、痛み止め飲んだのが効いてきたみたいで、いまはたいして痛くはないよ」
そう言うカズマの目を、真夏は凝視していた。
どんな嘘も看破できるように、隠している真実を見つけられるように。
でも嘘をついているようには見えなかったし、隠しごとも見当たらなかった。
「この場合のお守りって健康長寿かな? 無病息災かな?」
と真夏はみんなの顔を見回して訊いた。
本当はもっと踏みこんで訊きたかったのだ。
踏み込むために、また頑張ろう。
その小さな体に、勇気の炎を燃やした。




