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スマイル  作者: 小町翔石
13/29

第十三話  アユミとアゲハ

 はい、とカズマが渡すと、ありがとう、と真夏が受け取った。


「インスタントだけどそんなに、味、落ちないよ。勝手にミルク混ぜちゃったけど、ないほうがよかった?」

「ううん。あったほうがいい」


 テーブルの前で安物のクッションに座りアイス・コーヒーを飲む真夏は、カズマが収納袋からCDを取り出す様子を眺めていた。


「はい。これ」

「これかあ」


 真夏は顔をほころばせた。

 過剰にならないように、白々しくないように。

 そして、内心ではおずおずとしながら、訊いた。


「……怪我、痛そうだね」

 カズマの目を見ながらは言えなかった。

「うん。ジンジンする。顔洗うのって、ほんと地獄だよ。すんごい痛いの」

「……喧嘩って、嘘でしょ?」

「……うん。嘘。みんなには内緒にしてね。でも本当のことは言えない。絶対に」

「うん。聞かない」


 と真夏は答えたが、集まった状況証拠からいつくかの可能性を推測することはできる。

 いまはそれで充分としておこうと、真夏は自分を納得させた。


 気がつくと窓の外は加速度を増して暗闇に染まっていた。

 まだ真っ暗ではなかったのだが、カズマにも自分にもバイトがあると真夏はコップを空にした。


「ごちそうさま。じゃあ、コップ洗ったら私帰るね」

「うん。あ、いいよ。コップは俺が晩飯の後片づけするときに一緒に洗うから」


 大丈夫、と真夏は台所に立ち、慣れた感じで水を出した。

 女性が台所でコップを洗う。

 何でもないことではあるが、カズマはそれに小さな感動を覚えた。

 そこにアユミを重ねた。

 台所でコップを洗うアユミ。

 もちろん、アユミだってコップを洗うことくらい、それこそ日常茶飯事だろう。

 だがこうして真夏がコップを洗う姿は、家庭の匂いがする、優しさとか温かさを感じさせる母性的な姿だったのだ。


「じゃあ、またね」

「あ、うん。気をつけて帰ってね。またね」


 靴を履く真夏を玄関まで見送りに出て、カズマは真夏とバイバイと手を振り合った。

 来た道を逆になぞって歩きながら、真夏は考えていた。

 

 もう五時に近くなって、街にはネオンが光っていた。

 駅から出てきた若者もそれ以上の年齢の者たちも、大半がこれから好みのアルコールを飲もうと連れ立っていた。

 ひとりで焼鳥屋に入る三十代ほどのスーツ姿の者もいた。

 臭いがスーツにつきはしないかといつも思うのだが、もう何度もそういうひとを見てきたので、きっと上手な消臭方法があるのだろうと真夏は結論づけた。


 核心に触れられなかった自分を、でも、まだ核心に触れられる距離ではないのだからと正当化した。

 これからもっと距離を縮めなくちゃと、真夏なりに勇気を出した。

 ホームに電車がやってきて、さあ、バイトだ、と真夏は乗り込んだ。



    6



「まだ痛む?」


 どちらも綺麗に完全にとまでは言えないが、腫れが引きあざも消えたカズマに、アユミは訊いた。

 二週間以上、連絡は遮断されていた。

 弁当は作り続け、空の弁当箱はきちんと郵便ポストに収まっていた。


「うん。まだ少し、痛い」


 一度目を伏せてから、目を合わせてにこりとして、答えた。

 連絡はアユミからよこした。

 液晶画面に、明日休み、四時過ぎ、そっちに行く、という簡潔なものだった。

 その文面から最初は、まだ少し怒っているのだろうか、と思ったのだが、それなら連絡をよこすはずがないとすぐに考えを改めた。

 そしてその素気無さに隠されたアユミの照れている心情に気がつき、カズマは微笑んだ。

 向こうから来るまで連絡を絶っていたのは、怒っているアユミをさらに怒らせてしまうだけだからと、カズマが自分のほうからコンタクトをとらなかった、ということもある。  

 だが、一日一日、今日もない、これは違う、今日もない、来てほしい、今日もない、とこぼれ出る溜息とともに日々を過ごすのを体感してみると、それはひどく長くて重くて、苦しいものだった。

 自然と早足になった。


 ドアを開けると、部屋の中にアユミがいた。

 お互いの部屋の合鍵は交換してあるのだ。

 テレビもつけずに、音楽もかけずに、アユミはベッドに腰かけて待っていた。


「まだ痛む?」

「うん。まだ少し、痛い」


 バッグを置いてカズマが答えると、アユミはそっと立ち上がった。

 立ち上がり、カズマに歩み寄った。

 その表情からは何かを読み取ることはできなかった。

 カズマはわずかな恐れを胸に、アユミの足取りを見ていた。

 触れられる距離にまで来ると、アユミはカズマの体に腕を回した。

 アユミの髪の甘い香りで、一瞬だけ苦しくなった。

 ああ、これだ、この匂いだ。

 カズマも腕を回した。


 何秒後だろうか、

「いつまでそうしてるの?」

 アユミがいたずらに笑った。

 カズマも笑って、ふたりはほどけた。

 するとすぐにカズマに背を向けて、ベッドに戻った。

「これからバイトでしょ。セ○○○はなし」

「うん」

「つまりベッドに座ってるのはそういう意味じゃないんだからね。そのクッションじゃお尻が痛くなっちゃうからだからね」

「うん」

「こっちを見るな」

「うん」


 それからふたりは他愛のない会話を途切れ途切れにし、早めの夕食をともにした。

 アユミは話しながら、カズマと目が合うと三秒も持たずに目を逸らした。

 それに、華麗に宙を舞うアゲハ蝶が花にとまったのを愛でていると、その気配を察知しふわりとまたどこかへ去って行ってしまったときのように、カズマの後ろ髪は引かれた。


 残念だけど、とカズマは言った。

「もう、バイトの時間になっちゃった」

「行ってらっしゃい」


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