第十話 夢、気がつくとハル
アパートに着くと郵便ポストを確認してから、部屋に入った。
以前、鍵を閉め忘れた状態で朝を迎えたことがあった。
疲れていたとか、酔っていたとかではなく、うっかりと締め忘れてしまったのだ(そしてカズマはまだ飲酒できる年齢ではない)。
目が覚めて、起き抜けに水を飲むのが健康にいいと聞いて、上京してからだが日課にしている一杯のミネラル・ウォーターをコップに注いでいるときに、気がついた。
気がついたときに、大袈裟ではなく、血の気が引いた。
部屋を見渡しても、泥棒に入られた形跡はない。
一応、念のため、と盗られて困るようなものも確認したが、ある。胸を撫で下ろして、あらためてミネラル・ウォーターを飲んだ。
眠気は飛んでいた。
だが、とてもじゃないが、気分のいい目覚め方ではない。
自分で自分を馬鹿だと思った。
以来、鍵は二度以上は確認してから出入りしている。
灯りを点けると、ポストに入っていたチラシをゴミ箱に捨てた。
鍵をかけ、かけたことを確認してから捨てた。
布団の乱れ方、テーブルに置かれたリモコン、東京に来てからひとつ割ってしまい買い替えたコップ。
どれも部屋から出たときのままの状態だ。
問題はない。
うがいと手洗いをしてから、ミネラル・ウォーターをコップに半分だけ注ぎ、飲んだ。
シャワーを浴びてから眠るまでの三、四十分ほど、テレビを見た。
予約録画をしておいた番組だ。
まだ眠くはないのだが、そこでベッドに入るようにしている。
二日続けて睡眠時間を遅らせると、それが定着してしまい、結果、睡眠時間が短くなってしまったり、朝、それまで起きられていた時間に起きられなくなってしまったりするのだそうだ。
まだ二日続けて遅らせた経験がないので真偽のほどは定かではないのだが、失敗して後悔するよりはと、カズマは灯りを消した。
心の中でアユミにおやすみを言ってから、目を閉じた。
午前中にセ○○○をして、午後から夜まで働き、ひと息ついたカズマは、魂がスポンと抜け出たかのように眠りに落ちた。
そして、夢を見た。
料理を作り客に提供すると、その客にクレームをつけられるという、悪夢だ。
焼きそばに髪の毛が入っていたというクレームなのだが、その髪の毛の量がおぞましいもので、そばの面影はなく、客が突き出した箸には一メートルほどの長さの髪の毛が、一万本はあろうかという気色の悪さだった。
カズマがアルバイトをしている店では焼きそばはメニューにはないし、焼きそばがメニューにある店でアルバイトをしたこともない。
夢の中で焼きそばを作ったわけでもない。
だがその焼きそばは確実にカズマが作ったもので、頭に手をやると、カズマの頭部には一メートルほどの長さの髪が生えており、右の側頭部の毛が一万本あまり抜けているのだ。
身に覚えがなくても、動かぬ証拠としてそれがある。
すごい剣幕で謝れと迫られて、カズマは腰を折って謝った。
ここは店の内装も違うのになぜか店主はアルさんで、アルさんも一緒になって謝って、迷惑をかけてしまったことで、カズマはいたたまれない気持ちになる。
この夢も例に漏れず、荒唐無稽であるのだが、まだ続きがあるのだ。
クレームを付けた客(五十代でシャツの袖を肘までまくって一六〇くらいの身長で、がっしりとした体格の男だ)は、謝るならいいんだよと言うと、その髪の毛を勢いよくずるずるずるとひとすすりで食べてしまったのだ。
カズマが聞いた話では、夢というものは目が覚めてから十分ほどで、全体の九十パーセントほどを忘れてしまうそうなのだが、その夢のそのシーンはそのインパクトも相まってはっきりと覚えていた。
悪夢ではあるのだが、時間が経つほどに何だか笑い話のようにも思えてきて、アユミやエメラルド(カズマがアルバイトをしている店の名前だ)のみんなに話してみたらどうだろうかとカズマは思った。
まずはと学校で話してみた。
ややうけ程度だった。
話題はアルバイト先で見た変な客へと変わり、みんなの話を聞きながら、やっぱやめておこうと決めた。
午後になり、授業が終わると、アルバイトまでの間に渋谷に出た。
単なる買い物のためだ。
当然だが、仕送りとアルバイト代だけでは欲しい本やCD、服もすべて自由に買うことはできない。世の中のほとんどの学生が、財布と相談しながらゴーやストップのサインを出す。
カズマは本とCDを諦め、服を買った。
これからの季節のマストアイテム、Tシャツだ。
アユミに少しでも格好いいと思われたいからだ。
ふと、ビルの前で足を止めた。
アユミが働いている洋服屋のあるビルだ。
二秒だけ立ち止まったが、また歩きだした。
ひょっこりと顔を出しても、アユミが喜ぶはずがないとわかっているからだ。
好きな人が嫌がることなど、するはずもない。
四月になってまた少し伸びた日が暮れる前に、一度アパートに戻って夕食を済ませてしまおうと、カズマは駅に向かった。
渋谷の人の流れに乗って歩いた。
あれだけの人が歩いているのにもかかわらず、速度は一定だから不思議だ。
前の女性の靴を蹴ってしまわないようにときおり下を見ながら歩調を合わせた。
信号で止まったときに、耳元で囁かれたかのように認識した。
もう春だ。
こんなことを言うといやらしいかもしれませんが、
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