雪と桜
――屍食鬼の館にさらわれてから、一週間がたった。
雪は首まで湯に浸かる。湯桶からは檜のいい香りがふわりと鼻腔を満たしてくれる。心地よさに目を細め、しずくの滴る天井を見上げた。
起き上がれるまで回復したのは、粥を食べて眠ったあと。すぐだった。
寝ている間になにか大変なことがあったのか、龍胆と菫は血走った眼をしていた。
『雪。これからは、知らない人から食べ物をもらってはいけないよ。わかったねっ!?』
と、龍胆に肩を揺さぶられ、
『雪お姉ちゃんのごはんは、これからはぼくが調達するからだいじょうぶだよっ』
と、菫に力強く宣言された。
一応うなずき、その場は収まったが。
・・・あれ以来、ふたりとも、過保護に拍車がかかった気がする。
今だって。
「お姉ちゃん。ゆかげんはどうですかぁ・・・?」
壁の向こうから声がした。菫だ。
外から風呂を沸かしてくれている。
「ありがとう、菫ちゃん。気持ちいいわ。でもそろそろ上がろうかしら」
雪はのんびり言う。小さい子に面倒を見てもらうのは情けないが、嬉しいのも確かだ。
菫はつきっきりで介助してくれる。
「ころばないようにしてね。お着替えはりんどうさんが置いていったよ!」
「・・・っ!」
龍胆の名を聞いて、雪は心臓が跳ねた。
彼は菫の倍、過保護だった。
何処へ行くにも、雪を歩かせるのは心配だとついてくる。特に階段は抱き上げないと気がすまないらしい。
さすがに厠は遠慮していただいたが、出会って数日の男性に・・・しかも美男子にそこまでされると落ち着かない。
恐る恐る風呂桶から上がり、なんとか体を拭く。足首まである長い黒髪は重く、拭くのはおっくうだった。
そのまま浴衣を着て、脱衣所の扉を開ければ、当たり前のように龍胆が待っていた。
「っ!?」
雪はたじろぐ。壁にもたれて待っていた辺り、最初からずっといたらしい。
「さっぱりしたかい? ああ、髪が濡れているね。拭いてあげる」
遠慮する間さえあたえず、彼はさっさと手ぬぐいを持ち、丁寧に雪の髪を包む。
「あの・・・っ。近いうちに髪は切りますから」
雪は手間をかけたくないと暗に言ったつもりだったが、龍胆には響かない。
「どうして? もったいないじゃないか。俺の楽しみを奪わないでくれ」
「た、たのしみ・・・??」
(楽しいのですか? わたしの髪を拭くのが?)
雪の頭の中は疑問だらけだ。すると龍胆は髪の毛をすくい取ると、そっと口づけた。
「ひっ」
「君の世話をやくのは俺の幸せだ。・・・すべてが愛おしくてたまらないのだよ」
雪は耳まで真っ赤になった。
よろよろと後ずされば、案の定、足がもつれる。
その華奢すぎる体を受け止め、「あぶないよ」と龍胆はさっさと抱き上げてしまった。
雪は(ひえぇぇ・・・っ!)と体を丸めて縮こまる。
「じ、じぶんで歩けますから・・・っ!」
「十年以上、ほぼ寝たきりだったのになにを言っているのだね? 君の骨は老人より脆いんだ。骨折でもしたらもっと動けなくなるよ」
ぐうの音も出ない。雪は「ううっ」と涙目で龍胆を見上げる。
「お、おに・・・っ」
「なんとでも言いたまえ」
淡々と言いながら階段を上がっていく。腕に抱かれた雪は本当に華奢だ。ぶかぶかの浴衣に埋もれるよう。
(龍胆さまも痩せているのに・・・)
彼も骨が浮き出るほど痩せている。だが腕の力はしっかりとしていて、揺るぎない。
冷たい体温にも慣れ、雪はいたたまれないまま二階へ運ばれた。
すでに布団は敷かれていた。やわらかいそれに降ろされる。
雪はもじもじと逃げようとしたが、龍胆は手際よく髪油を手に取ると、雪の髪にすりこんでいく。
毛先から丁寧に櫛でとかされ、雪はうっかりまどろんだ。
「――」
龍胆は職人のような眼をしていた。真剣に手入れをするつもりらしい。
無言で長い髪をとかし続ける。
(・・・こうして誰かに髪を触ってもらうのは気持ちがいい・・・。安心する)
不意に、雪は口を開いた。
「龍胆さまは、あたたかいです」
手が止まる。体は硬直し、動かない。
「・・・・・・なぜ、そう思う?」
かなり間が空いたが、龍胆は絞り出すように言った。
「体の体温の話をしているのではないですよ」
雪はのんびり言う。
龍胆は怪訝な顔で「では、なんだね?」と問うた。背後にいるため、雪の顔は見えない。
「あなたの雰囲気・・・。あなたの足音。そのお声」
「――」
「作ってくださる、あったかいご飯。あったかいお布団。すべてがあなたの温度です」
龍胆は息を呑んだ。
そっと、雪に気取られないように、片手で口を抑える。
「そう、かな・・・?」
「はい」
雪はすこしだけ後ろの男の様子をうかがう。
彼は顔に活を入れていた。いつもより険しい顔は、雪を誤解させる。
(怒られてしまうかな・・・)
きっと、優しい鬼さんは、こう言うのだろう。
『君は、人間の村へ帰れ』と。
花散里以外にも、集落はたくさんある。雪の居場所は、妖かしの側ではないと、きっと突き放すのだ。――でも・・・。
できることなら、ここにいたい。ずっと。
(そう言ってしまえば、あなたはどんな反応をしますか・・・?)
「龍胆さま」
「うん?」
彼は首を傾げる。雪はすこし頬を赤らめ、うつむいて言った。
「あなたに出会ってから、朝が来るのが楽しみになりました」
「・・・・・・!」
龍胆は目を見開く。
一言、彼は言った。
「そうか」
龍胆は雪に「茶を持ってくる」と言って中座した。
でもそれは口実。
本当は逃げ出したかったのだ。
「りんどうさん?」
たった今裏口から入ってきた菫の横をすり抜け、龍胆は――屍食鬼は裏庭へ向かう。
誰も追ってこないのを確認すると、桜の老木まで歩いていった。
ふわり、雪が舞う。
・・・まだ春は遠い。
「俺の桜は咲かないな」
そう、ひとりごちた。
雪を長く妖かしの側にとどめおけば、それだけ人里に戻れなくなる。
わかっていたつもりなのに。
――俺が鬼じゃなかったら。雪の側にいつまでもいられたのだろうか?
そんな問いが浮かぶ。
だが龍胆は自嘲とともにそれを打ち消した。
「俺は人間だったころから、その資格はなかった。――血の匂いがする道を歩んできた、地獄行き確定の俺には」
雪と出会えたのは、きっと。
御仏の救済なのだから。