飴玉
微ホラーです。苦手な方はご遠慮ください。
「雪・・・。この子にどんなしつけをしたんだい?」
階段をのろのろ上がってきた二人組を見て、雪は目をむいた。龍胆の体中に小さな歯型があちらこちらについていた。
菫は、まだたりないと龍胆の頭に噛みついたままだ。
泣きながら、ガジガジ、かじりついている。
「ごめんなさい・・・?」
「疑問形にするな。はやくこの妖怪を外してくれ」
はずせと言われても。――雪は瞬く。こんな菫を始めてみたのだ。
菫は普段はとてもいい子。雪を困らせたことは一度もない。
こんなにあるがまま大泣きすることも。
ましてや人に噛みつくことなどあり得なかった。
(それだけ、鬼さんのことが気に入ったのかしら)
だとすれば喜ばしい。
ほほえんで見守る雪。龍胆は「なぜ嬉しそうなのだね!?」と困惑した。
・・・・・・・・・やがて、噛みつき妖怪(菫)は力尽きて寝た。
寒空の下、雪を探して疲れたのだろう。龍胆はやむなく、押し入れをこじ開け、布団を引っ張り出して隙間を作ると、菫を寝かせ、ピシャリと閉めた。
「なにゆえ押入れに・・・?」
「子供部屋だ。こうでもしなければ、君と二人きりになれない」
龍胆は腰に手を当て、「ようやく開放された!」と伸びをした。そして次に顔を上げたときには、余裕を取り戻していた。
「さて。邪魔者はいなくなった。俺の愛情たっぷりの粥を食べてくれ」
「おかゆを食べるだけなのに、菫ちゃんは邪魔なの?」
雪は警戒し、ちょっと体を丸める。思うように動けないのがなんとも腹立たしい。
「深い意味はない。・・・十年ぶりの再会なんだ。独り占めしたいのは当たり前だろ?」
「わたしは、あなたとお会いしたことはありません」
雪はピシャリと言った。
よくよく考えれば、彼は出会ったときから『雪』と呼んでいた。名前を知っていたのだ。
(他にも、妙に私のことに詳しいわ・・・)
ここに連れてこられたとき。彼は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
『枕はそばがらが好きだったね』
そう言いながら布団を敷いたのだ。
そんな私生活の、家族しか知らないようなことまで、彼は熟知している。
・・・若干、不気味に思えてくる。
でもこちらを見下ろす青い瞳は美しく、まっすぐだ。
はっきりと敵意をぶつけるのはためらわれた。
龍胆は、ぽつりと言う。
「憶えていないだけさ」
――・・・もっとも、俺にとって、人生最大の幸福な時間であり、『生』を失った出逢いでもあるが。
そっと唇を噛み、龍胆は言葉を飲み込む。
思い出したところで誰も幸せにならない記憶に、価値はない。
(だが、思いのほか寂しいな・・・)
――俺だけが憶えている時間。
龍胆は、はにかんだ。
雪は目を見開く。
(どうして・・・?)
無垢な笑顔。
鬼にはとても似つかわしくない、思いやりのにじむ瞳。
龍胆はさっさと切り替え、雪に食べさせる準備を始めたが、雪は熱に浮かされたように、ぼうっと鬼の横顔を眺めた。
――さっきの笑顔の理由が、わからなかった。
体を起こされ、膝に抱き上げられても、雪は抵抗しなかった。
笑顔の理由ばかり考える。
粥をレンゲですくい、口元に持っていく。雪はなんの疑いもなくそれを食べた。
ひとくち。
ふたくち・・・。
「――」
「どうしたのだね?」
龍胆は慌てた。
雪は、涙を流していた。ぽろぽろと。大粒の涙は次から次にあふれてとまらない。
「・・・・・・あたたかい」
龍胆はギクッと体を強張らせた。
やがて、それが粥のことを指していると気づくと、ほっと力を抜く。
「作りたてだからね」
「あたたかい料理を口にしたのは久しぶりで・・・っ」
これまで、食事を運んでくれたのは菫だった。
ちょっと干からびたおにぎり。いりこ。飴やお酒まで。
雪が餓死せずにすんだのは、菫のおかげなのだ。
だがこの粥も、忘れられない味となった。少ししょっぱく感じるのは、涙のせいかもしれない。
「おいしい・・・っ」
泣きながら雪は咀嚼する。龍胆はあやすように雪の肩を抱き、火傷しないよう、ふぅと手ずからレンゲの熱を冷ました。
――やがて、鍋が空になった。
ゆっくりな食事だったにも関わらず、龍胆は付き合ってくれた。
久しぶりに満腹だ。
あたたかさに、お腹が満たされたからかもしれない。ふわりと眠くなる。
龍胆はそっと雪を布団に横たえる。無理をさせて、体にさわったら本末転倒だ。
健やかな寝顔。・・・ほっと、安心した。
(血色が良くなってきている。・・・仏花のユリが効いてきたか)
爪の色や頬。唇の色が戻りつつある。
「だが、目的はこれからだ」
龍胆は息を吐くと、銀の懐中時計を取り出した。秒針はかすかな音を立て、着実に時を刻む。
目を閉じた。
部屋をしん、と痛いほどの静寂が包む。
(・・・頃合いだな)
ゆっくり、ゆっくりとまぶたを開く。
ぞっとするほど青い、鬼の眼をしていた。
彼は黒い手袋にするり五指を通す。そのまま、右手を雪の肺にかざした。
「出てこい。――お前たちの欲するものは消えた。食事がしたいのだろう? 俺がいくらでも与えてやるぞ!!」
刹那、ボワッっと雪の体から無数の青い光の粒が飛び出してきた。
蛍火に似ているが、一回り大きい。縦横無尽に部屋中を飛び回っている。
そのうちの一粒が、龍胆のそばに落ちてきた。
「――」
龍胆は、忌まわしいものを見るように、すっと表情を消す。
視線の先の光は、手のひらほどの小さい『人間』だった。
頭は禿げ、目玉はぎょろりとしている。
剥き出した前歯。
体は枯れ枝のように痩せている。
飢餓特有の症状か。腹だけがでっぷりと飛び出していた。
餓鬼の群れだ。
それらは畳の上を覆うほどの数だった。雪の体から水が吹き出すように次から次へと湧いてくる。
龍胆は想像以上の光景に虫唾が走った。
(あの男・・・!! 幼い雪になんてものを喰わせたんだ!!)
あどけない唇に、『飴玉だよ』といって青いそれをねじ込んだ男。
あの男は当然、すべてを知っていた。
餓鬼に取り憑かれた人間は、記憶がおぼろげになり、栄養もすべて奪い取られる。衰弱し、常に飢え、共食いさえ構わず、なんでも食べようとするのだ。
雪が十九歳まで生き延びたのは奇跡だろう。
(大方、美しさを損なわぬよう、加減してのことだろうが・・・)
龍胆の青い瞳には、凄まじい殺気がみなぎっていた。
手始めに、雪のそばにいた餓鬼の頭を鷲掴み、宙吊りにする。
「一匹残らず、潰してやる・・・!!」
餓鬼の頭が弾けた。