桔梗
――鬼の慟哭が桜の花に吸い込まれてゆく。
龍胆は雪を抱きしめたまま、膝をつく。どんどん冷たくなっていく身体、わずかに残った雪の香りを吸い込んでは、涙が溢れた。
名前を呼んでは、声がしゃがれた。
息ができない。
菫も、小梅も、顔面蒼白だった。
白木蓮は、龍胆の背中を見ながら、亡き妻に密かに願った。
(雫。まだそっちに連れて行かないでやってくれ)
風は止まない。
桜の枝を揺らし、花びらは、はらはらと散り続ける。
カラン・・・。
軋みの爽やかな下駄の音がした。
白衣の袖は風に舞う。
見知らぬ男の匂いがして、菫は振り向いた。つぶらな瞳をこれでもかと見開いた。
龍胆と髪も瞳の青も、年格好もそっくりな男が、そこに立っていた。
白髪を短い三つ編みにしている。龍胆の髪は灰色がかっているが、この男は真っ白だ。白い蝶の刎のように長いまつげ。瞳の青も、宝石の如き光を放ち、龍胆より濃い色をしている。
呼吸すら忘れてしまう美貌。
白衣の下には、藍染の着流しをゆるく来ていた。
男は雪を抱いて離さない龍胆の前に来ると、手に抱えていたつづらを置く。
何をするのかと、小梅と菫は見ていた。白木蓮は一度、露姫を治療するのを見たことがある。静観することにした。
「おい」
男はおもむろに呼びかけた。ガラが悪い男だ。どこかささくれた気配を感じる。
龍胆は返事をしない。顔すら上げなかった。
「・・・チッ!」
男は舌打ちすると、豪快に拳を振り上げ、龍胆の頭をゴンと殴った。
げんこつをくらい、さすがの龍胆も顔を上げる。そして目を見開いた。
「し、師匠・・・・・・」
「患者を前に何もせず泣き崩れるなんざ、情けねぇ男になったもんだな。さっさと顔上げろ。応急処置するぞ」
男はつづらを地面に置く。いつまでも雪を手放さない龍胆から雪をひったくった。
その拍子に、龍胆も負傷しているのを見つけ、男はまた龍胆を殴った。
「バカ野郎っ! テメーも患者じゃねぇか!」
「なぜ殴る」
龍胆は呻く。男はまた舌打ちした。
「俺の弟子ともあろうものが、怪我させられてどうすんだ!」
・・・理不尽だ。菫は目を平べったくして見ていたが、『弟子』という言葉が引っかかった。
「龍胆さんのお師匠さまなのですか?」
「おうよ。こいつはこの『桔梗先生』の弟子だ。――それより、おいガキども。べそべそしてないで、この別嬪さんの手当を手伝え」
希望が見えてきた。
小梅の霞んだ瞳に光が戻ってくる。慌てて桔梗と名乗る男へ駆け寄った。
菫は、くんくんと匂いを嗅いだ。
「白木蓮さん。追手が来ます」
「早いな。ならば俺達が相手をしよう」
「その必要はねぇ。もう血は止まった」
「え。はや・・・!」
菫は目を剥く。桔梗は雪を抱くと、使い物にならない龍胆の首根っこを掴み、全員にそばに寄るように言った。
「花散里まで一気に行く。振り落とされんなよ?」
ごおっと凄まじい暴風が吹いた。花びらを巻き込み、ものすごい速度で移動する。
追手が来たときには、誰もいなかった。
追手の男が舌打ちする。
血の跡がない。居場所を掴むのは不可能になった。
花散里は、満開の桜の花霞が村中咲き誇っていた。
龍胆の結界が張られた屍食鬼の館をあっさり見つけると、桔梗は結界の中に降り立った。
「おら! ガキどもとそこのデクノボウ。さっさと玄関、開けやがれ!」
桔梗は腕に雪を抱き、器用に龍胆の首根っこを掴んでいる。デクノボウ呼ばわりされた白木蓮はイラッとしたが、このままでは桔梗が玄関の戸を蹴り飛ばす勢いだったので黙って従った。
家の中はひどい状態だった。家具はなぎ倒され、壁も床も大きな熊が暴れたあとのように引っかき傷がついている。
「死神がメチャクチャにしていったんですよ」
菫が頬を膨らませて桔梗の袖をひいた。
二階の雪の部屋へ案内すると、子どもたちで布団を二枚引いた。龍胆と雪のものだ。
二人を寝かせる。
桔梗の荷物を預かっていた白木蓮は、つづらを置くと、「助かりそうか?」と問う。
桔梗は白衣に袖を通すと、「俺に直せねぇ病はねぇよ」と得意げに言った。
「まったく。このバカ弟子、テメーの女一人ろくに守れないのかね?」
「・・・」
龍胆は全く聞いていないようだった。ただ、霞んだ瞳で雪の手を握っている。
医者は「邪魔だ」と容赦なくその手を無理やり引き剥がすと、自身の顔に白い布を巻いた。飛沫や汗を防ぐためだ。
「おい、そこのお前」
「白木蓮だ」
「今から別嬪さんの肩の弾丸を切除する。刺激が強いから、ガキども連れて、下に降りてろ。湯でも沸かしな」
「・・・わかった」
「嫌だ、一緒にいます!」
「ぼくも、いたいです」
小梅が叫ぶ。菫は雪の血の匂いでくらくらしていたが悟られないようにしていた。
「駄目だ。行くぞ」
白木蓮は雪から離れない小梅と菫を両脇に抱え、強引に下まで降りていった。
階段の下から子どもたちの泣き声が聞こえてくる。
子供のいなくなった部屋は急にがらんとした。部屋にいるのは龍胆と雪、桔梗だけだ。
桔梗はたらいで両手をすすぐと、
「さて。始めますかね」
と瞳をギラリと光らせ、雪を見下ろした。
「ぐすっ。お母さん・・・」
小梅は膝に顔をくっつけて泣いていた。菫は呆然としている。
(僕はまた、飼い主を失うの・・・?)
白木蓮はかまどで湯を沸かしながら、深々と溜息をついていた。
(雫・・・)
亡き妻のことが、どうしても頭をよぎる。そして、あれほど人の生死に強かった龍胆の弱りきった背中が、目に焼き付いて離れなかった。
すると、階段をどすどすと降りてくる足音が響いた。
「おい、湯は沸かしたか?」
桔梗が、血まみれの手でのれんをかき分け、厨へ顔を出していた。
「まさか、もう終わったのか?」
白木蓮が目を剥く。
小梅と菫は慌てて医者に駆け寄った。
「お母さんは!? 助かりましたか!?」
「お姉ちゃんは・・・!?」
桔梗はニコッと笑った。ぐっと親指を立てる。
「ああ、無事だ。この家に着くまでに出血が多かったのが響いたのか、意識は戻らねぇが、命の危機は脱したぜ」
子どもたちから歓声が上がる。誰ひとり、龍胆を心配していないようなので、白木蓮は手を上げた。
「龍胆さんは?」
途端に、桔梗の機嫌が悪くなった。
「バカ弟子ならたっぷり説教して反省させたとこだ。――まったく。あいつは出会った頃から斬ることしか脳がねぇ」
白木蓮は元上司が叱られるところなど想像できない。
そんなことより、気になることがある。
刀にさり気なく手をかけ、白木蓮は問うた。
「あんた、ひょっとして屍食鬼か?」
桔梗はきょとんとした。小梅は「え!?」とさっと距離を取り、うすうす感づいていた菫は驚きもせず見上げる。
桔梗はうつむいた。
「――フッ」
クククッと地を這うような鬼の笑い声が喉から漏れ、空気が震える。
「正解。俺は龍胆のような半妖じゃねぇ。――本物の屍食鬼だ」
――極上の血だ。
そう言って顔を上げた男は、獰猛な笑みを顔に貼り付け、赤い舌で手に付着した雪の血をベロリと舐めた。




