恋とは、なんでございましょう?
(雪お姉ちゃん、どこぉ・・・?)
菫は露を背に乗せたまま、砂利の匂いを嗅いでいた。ふと、ふわり風に乗って無数の人間の匂いが鼻をくすぐった。
(この匂いは・・・、あのでっかい建物から?)
オペラハウスから、生きた人間の香りがする。
雪と龍胆の香りもしてきて、菫は(見つけた!)と駆け出した。
オペラハウスは、非難してきた城中のものが集まっているようだった。菫はポンッと音を立て変身を解き、子供の姿に戻る。露はと言うと、長い間菫の背中に乗っていたせいで目眩と吐き気に襲われていた。
「露お姉ちゃん。入ろう?」
「え、ええ・・・」
露は中に入ろうとして・・・躊躇した。
「どうしたの?」
「わたくしは一度は滅んだ身。皆様が、いい顔をされるとは思えません」
「だいじょうぶだよ」
菫はあっけらかんと言った。
「僕も雪お姉ちゃんも、露お姉ちゃんの味方だから、だいじょうぶ」
「すみれ、ちゃん・・・」
露は子どもの優しさに涙をほろりと流した。
意を決して、ドアに手をかける。――ところが、先にドアを開ける先客がいた。
「ええい、離せ! 露は余が探す!」
将軍が、まとわりつく家来たちを蹴りながら、城へ向かうところだった。
――!?
露は目を見開く。将軍も、眼前の妻を見つけ――目を見開いた。
そこに死人はいなかった。
姫の美しい黒髪はさらりと風に遊ばれる。色白の頬、柔らかな唇、漆黒の濡れた瞳――・・・。
出会ったばかりの頃よりずっと美しくなった露姫が、そこにいた。
「つゆ・・・?」
将軍は暴れるのをやめ、家来たちはあんぐりと口を開けた。つぎつぎに騒ぎ出す。
「御台様が、生きておられる・・・!」「死人ではなかったのか?」
将軍には家来たちの騒ぎは聞こえていない。おそるおそる姫の頬に手を伸ばし――・・・。
むにゅっと両手で頬をつまんだ。
「ひゃあっ」
露はいきなりの夫の狼藉に悲鳴を上げた。将軍は頬をつまみ、それから髪を撫で、耳朶を愛撫するようにすりすりと愛でる。
くすぐったさに身動ぎする露を見て、ようやく安堵したらしい。
腕を引き、無言でぎゅうっと抱きしめた。
「――っ」
「うえさま」
露は顔が真っ赤になった。皆が見ている。特に大奥の視線は冷たい。
それでも夫は手放してくれない。将軍は露の顎を、指先で上向かせると、熱い口づけをしてきた。
大奥から悲鳴が上がる。そこには将軍の母親――大御台所も含まれていた。
「上様っ! その死人から離れなさいませっ!」
家来たちをかき分け、きりりとした表情で睨みつける。
「おのれ、成仏できずに上様をたぶらかすとは・・・! 皆のもの、なにをしている。早う斬り捨てよ!」
家来たちは顔を見合わせる。口づけからようやく開放され、涙を流す露は、とても死人には見えなかった。
将軍は、はっきりと言い放った。
「大奥は一度、解体する」
「上様、なんとっ!?」
大御台所は腰を抜かした。将軍は片手で露を抱き寄せたまま、更に続ける。
「倹約令を出しているにもかかわらず、大奥は贅沢三昧。無用な女どもは排除しようとずっと考えていた。――特に母上、あなたが一番贅沢だ。一日に何度も着替え、一度袖を通した着物は二度と着ない」
将軍は母親へ近づくと、耳元で囁く。
「あなたが密かに役者のもとへ通っていること、余が気づかぬとでも?」
大御台所は真っ赤に顔を腫らした。怒りと羞恥で手がぶるぶると震えている。だがもう、言い返せない。
将軍はさらに口を開く。冷たい声色だった。
「あなたには田舎で隠居していただく。それが嫌なら、死人がはびこる城内に放り込みます。――どうなさいますか? ・・・母上」
「・・・!」
大御台所はカッと目を見開き、そのまま気絶するように倒れた。大奥の女たちは悲鳴を上げている。だがもう、知ったことではない。
将軍は露を抱き上げると、死装束を着替えさせろと露の付き人へ命じた。
「・・・上様、これで良かったのですか?」
「無論だ。このままでは時代の波に乗り損なう。大奥にも新しい風を取り入れなければな」
一方、菫は雪と再会し、ゴロニャンとその膝を陣取っていた。
「雪お姉ちゃん。僕がんばったよ。褒めて、ほめて」
「うん。いいこ、いいこ」
雪は菫のやわらかい髪を撫でてやる。――そっと胸をなでおろした。
雪は一部始終を見ていた。いざとなったら菫に大奥を怯えさせてやろうかとも考えたが、必要なかった。
将軍の愛が、勝ったのだ。
(龍胆さま――・・・)
雪は思う。屍食鬼の館で過ごすのも悪くないが、子どもたちの教育や、これからのことを思うと・・・。このままでいいのだろうか?
再びドアが開いた。雪は振り向く。
龍胆が、将軍と白木蓮の着替えを持ち、小梅の手を引いていた。
雪は袴姿の竜胆に目が釘付けになった。
(かっこいい・・・)
「ああっ! お母さんの膝枕っ!」
小梅は菫を指さして、わめいた。菫はひょうひょうと片手を上げた。
「おかえり、子猫ちゃん。ずいぶんと遅かったねぇ」
「どけっ! どら猫め、そこは僕のものだ!」
感動の再会はどこへやら。喧嘩する二人。すると菫と小梅はあっという間に首根っこをつまみ上げられた。
「愚かなガキども。雪の膝枕は今も昔も俺のものだ」
龍胆だ。ぎゃあぎゃあ喚き散らす子どもたちをペッと追い出すと、ドアを閉め、おもむろに雪の膝枕へ頭を乗せた。腹に手を回し、ぎゅうっと顔をうずめた。
「あの、龍胆さま?」
「ああ、これでようやく休憩できる」
雪は困ったわと眉をハの字にした。外では、小梅と菫の喧嘩する声が中まで聞こえてくる。
(前途多難だわ・・・)
雪は苦笑いを含んだため息を付き、自分も疲れたと、客席の背もたれに身を預けた。
天守閣の瓦屋根に立つ死神は、シャチホコに座ると、手提げ袋から好物のリンゴを取り出し、シャクシャクとかじった。
冷たい夜風が心地よい。風は長い耳飾りを揺らした。
「まだそんなもんつけてたのかい?」
聞き覚えのある声。死神は振り向きもせずに、食べかけのリンゴを投げつけた。おもむろに口を開く。
「久しぶりだねぇ。会うのは百年ぶりか? この国に逃れてさぞ好き勝手してたんだろう。今は『骸屋』で通ってたかな? ――悪魔よ」
「おいらは『悪魔』の名を捨てたのさ。今は人間の骸を売りさばく闇商人ってところだ」
骸屋は投げつけられた食べかけのりんごをガリッとかじる。艷やかな唇に汁が滴り落ちた。
異国の立襟の民族衣装の上から着流しを着ている。黄金の瞳は闇夜に浮かぶ月のよう。ざっくりと一括りにした髪。おくれ毛を風に遊ばせている。以前のような片眼鏡ではなく、色眼鏡をかけていた。
死神は溜息を付いた。
「なぜ悪魔であるはずのお前が、第六天魔王の眷属になった?」
「理由は簡単。雪が欲しいからさ」
骸屋は死神の隣に座る。死神の鎌は瓦屋根に無造作に置いてある。間合いに入っても、恐れることなくリンゴをかじり続けた。
骸屋は続ける。
「あのオペラハウスでぐーすか寝てる雪の寝顔。あれ見てるだけで飯が五杯は喰えるぜ。膝の上の鬼が邪魔だけどな」
「雪ちゃんに相当入れ込んでるんだねぇ?」
死神は冷ややかな笑みを浮かべる。
「雪ちゃんの旦那。あれは強い。私でさえ半殺しにされた。君は何度殺されたんだい?」
「七回ほどだ」
「それでも懲りないメンタルはあっぱれだよ」
「・・・いいや。さすがのおいらも、一人で太刀打ちできないことは充分わかった。だから人間みたく、雪の父親――魔王の『オヤジ殿』に雪と結婚させてくれって頼んだんだ」
「オヤジ殿はなんだって?」
「テストがあるらしい。今宵の鬼ごっこがそれさ」
骸屋はリンゴの芯を投げ捨てた。
「将軍――徳岡葵の首を取ってこいってよ。オヤジ殿は朝廷側についている。今のところは、だが。・・・人の世をひっくり返して遊ぶのが趣味なんだろ」
「・・・信用、できるのか?」
死神は新しくリンゴを袋から出す。骸屋はのんびり猫背を伸ばした。
「いいや。信用はしていない。どこかのタイミングで雪をかっさらうつもりだ」
死神はリンゴを頬張りながら、大鎌を握るとその刃を骸屋の首筋へ突きつける。
「君を見つけるのに苦労した。雪ちゃんとワルツまで踊ってね。ここで私に狩られてくれないかい?」
「やなこった」
骸屋はひょいと大鎌をかわすと、サッと身を翻し距離を取った。
「あの下手くそすぎるダンスでおいらをおびき寄せようなんて、相変わらずドジだね死神」
骸屋――悪魔は、ゆらり闇にとけてゆく。あっさりと身を引かれ、死神はヤケクソでむしゃむしゃとリンゴを頬張った。
「結界は外から城を丸ごと包み込むように張り巡らされております」
仮眠のあと、ステージの上に集合した男たちは作戦会議をしていた。龍胆は小梅を隣に座らせ、将軍と白木蓮、手練れの者たちの前で説明した。
「では、脱出用の井戸を使ってはどうか?」
「地面の下まで結界があります。外へ助けを求めるのは不可能でしょう」
「小僧。記憶がないというのは真であろうな?」
眼光鋭く家来に問われたが、小梅は臆することなく「申し訳ありません」と下を向いた。
「あれは僕であるようで僕ではない・・・。不思議な状態でした」
笛を握りしめ、小梅は静かに言う。
――お母さんの人生を滅茶苦茶にしたのはお前だ!
あれはなんだったのか。龍胆は密かに胸の中にしまった。
「余は城へ戻る」
将軍はきっぱりと言った。すかさず家来たちが引き止める。
「なりません、上様! お一人でどうなさるおつもりですかっ!?」
「どうもしない。夜が明けるまで、ただ城にいる。将軍がおらぬハリボテの城など、あやかしに牛耳られて当然。余は例え城が滅びようとも、逃げも隠れもせぬ」
「ご立派です。上様」
白木蓮がうなずく。龍胆と目配せしながら、
「俺と龍胆とで上様をお守りします」
龍胆も「はい」とうなずいた。家来たちはおろおろと、
「では、残りの女や年寄はどうなさるおつもりで?」
「このオペラ会場に置いてゆく。敵の狙いは余の首ぞ。共にいれば危険が伴う」
将軍は言いながら立ちあがった。
「他に連れてゆくものは、その小梅と、菫、雪と露だけだ」
「いいな? 龍胆」と問われ、龍胆はうなずいた。
「やむを得ません」
龍胆はため息まじりに言った。
「露姫様を人間に戻した雪の異能は、どこかで役立つやもしれませんし」
・・・不本意だが。龍胆はそっと毒づく。
「露姫様を連れてゆかれるのはなぜですか?」
白木蓮が問うた。
「あれがいなくなって初めて気づいた。余には露がいなければ駄目なのだと」
将軍は客席の露姫を見つめる。その瞳には情が滲んでいた。
「生きるも死ぬも共にする。・・・それだけだ」
「恋とは、なんでございましょう?」
いきなり問われ、雪は瞬いた。
露姫が、はにかんでたずねてきたのだ。
「こい・・・?」
「ええ。『恋』ですわ」
露姫は深く頷く。
「急にどうしたの・・・?」
「あの桃色の坊やが、『恋』とはなんだとたずねてきたの」
――お母さんは、絶対、龍胆さんの雛鳥の刷り込みですよ!
「わたくし、考えさせられましたわ。上様とは『恋』というより、『愛情』でつながっておりましたから」
雪はきょとんとした。
「恋って、愛情とは違うのかしら?」
「どうやら違うみたいですわね?」
二人で首を傾げる。菫は雪の膝をこっそり堪能しながら、興味ないとあくびした。
菫は猫だ。交尾のための繁殖行動はあるが、感情はない。・・・なによりこの二人、従姉妹同士なだけあって会話がぽやぽやしている。ふわっとした空気が眠気を誘った。
「恋している方なら、何度かお見かけしましたわ。正直羨ましかったです。わたくしは政略結婚すると生まれたときから決められておりましたから。でも嫁いだ先の方は――上様は、『恋』するに値するお方だと、わたくし先ほど思いましたの」
ほんのり頬を染め、「幸運ですわね」と露姫は言う。雪は遠い昔を思い出した。
「わたしは龍胆さまに拾われ、命を救われました。あの頃は、子どもながらに素敵な方だと思っていたけれど。刷り込みと言われると・・・、むずかしいものがあるわね・・・」
「え」
龍胆の声がした。雪と露姫は飛び上がる。いつの間にか作戦会議は終わり、小梅の手を引いた龍胆が立っていた。これでもかと目を丸くしている。
龍胆は呆然と立ちつくした。
「ゆき・・・。俺とは恋愛結婚じゃなかったのか・・・?」
龍胆の瞳は絶望している。雪は慌てた。
「愛しておりますよっ! 雪は龍胆さまなしでは生きられませんっ!」
「あ、りがとう・・・。嬉しいよ・・・」
なぜだろう。ちっとも嬉しそうじゃない。今度は雪が悲しい顔になった。
小梅と菫は睨み合う。
「余計なことを吹き込んだな? 子猫ちゃん」
「大事なことですよ、どら猫」
龍胆は「うそだろ・・・」と片手で両目を覆い、がっくりとうなだれる。雪はなぜ龍胆がここまで悲しむのかわからず、泣きそうになった。
露姫が必死に励ます。
「こ、これから『恋』すればよいでしょう? まだご結婚されたばかりですし、これからが大切ですわ!」
「ああ・・・」
龍胆はうなだれたまま、何度もうなずく。雪は龍胆を抱きしめながら、頭の中は疑問だらけだった。
――やがて、龍胆は顔を上げた。
「っ!」
雪はドキッとする。子兎を狙う狼のような、獰猛な瞳。おもわず後退る身体を、龍胆は片手であっさり捕まえた。腰を引き寄せる。
「ゆき。俺はどうやら、間違っていたらしい」
「は?」
「君への接し方だ。子供の頃と同じようにしていたのが、間違いだったようだね」
「あの。それはどういう・・・」
「俺は男だ。親ではない。男なんだよ」
龍胆はぐいっと顔を引き寄せた。互いの吐息が、甘く混ざり合う。
「君を手に入れるためなら、雛鳥の刷り込みだろうが監禁だろうがなんでもやってやる。――俺は君に、男として見られたい」
「は・・・い」
雪はあまりの近さに目を回しながらうなずいた。龍胆は更に続ける。
「これから俺は、それをわからせていく。――覚悟してくれ」
――恋とは、なんでございましょう?
甘酸っぱい問いかけは、雪の心に深く残った。




