眠る雪
『屍食鬼の館』では。
二階のがらんとした座敷の中央に、白い布団が敷かれていた。娘が横たえられている。
雪だ。
濡れ羽色の長い黒髪を枕に散らし、規則正しい寝息を立てていた。
燭台が例のごとく一つだけ置かれている。蝋燭の火はゆらゆら頼りなく揺れていた。
(子供の泣き声がする・・・)
雪はふと目を覚ました。
薄暗い室内。見渡せば、障子の向こうは白み、朝日が昇り始めている。
「おねえちゃんっ。よかったぁ、目が覚めたんだね!」
ぎゅうっと抱きついてくる小さなぬくもり。
「・・・すみれちゃん? どうしてここに?」
雪はまだ体が思うように動かない。首だけ動かし、頬を寄せる。菫のつぶらな瞳からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「お姉ちゃんがしんぱいできたの。ぼくにだまっていっちゃうんだもん。お姉ちゃんがいなかったら、ぼくは・・・」
この世に留まる意味がない。
そう言いかけて、菫はちいさな唇をきゅっと噛み締めた。
すると、ふと階段を登ってくる足音が聞こえた。
「感動の再会はすんだかい? ならば夕食・・・いや朝食の準備を手伝ってくれるとありがたいのだがね」
龍胆が、階段の手すりにもたれ、ほほ笑んでいた。
変わらず暗い室内でも輝く『青い瞳』。雪はぎょっとする。
「あの・・・。鬼さま」
「龍胆と呼びたまえ」
彼は鬼と呼ばれるのがよほど嫌なようだ。菫は苦笑し、「ぼくがついてるよ。雪おねえちゃん」と雪の頬をなでた。
雪はおずおず尋ねる。
「なぜ、わたしはまだ生きているのですか?」
「なぜ喰われなかったか、の間違いじゃないかい?」
龍胆は軽い調子で言うと、もたれていた手すりから身を起こし、おもむろに雪の横たわる布団へ歩み寄る。
雪はとっさに菫の頭を引き寄せた。得体の知れない妖かしものに、子供を近づけるわけにはいかない。
龍胆は承知していたようだ。こちらを驚かせないよう、音も立てず、ゆっくりと布団のそばで立ち止まり、腰を下ろした。あぐらをかく。
彼は紺の着流しの下に黒い徳利襟とステテコを履いていた。
(鬼がステテコをはいている・・・?)
雪は首をひねった。・・・いや、そんなことはどうでもよい。
やや警戒心がとけたが、油断なく男の相貌を眺めた。
こちらを見下ろす青い瞳はきらきらと星空のように輝き、うっかり見とれてしまいそう。
髪も肌も人間離れした白さ、透明感。ほんのり甘く色づいた桜色の唇。
とても死体を喰う化け物とは思えない。
龍胆は続けた。
「俺は人間の死体を喰ったことはない。喰うつもりもない。――今までも。この先も」
「なぜ、ですか?」
「・・・俺がもと人間だからさ。望んで鬼になったわけじゃない」
龍胆は言葉を選んでいるようだった。急に歯切れが悪くなる。
「だが、君のような不健康な人間が魅力的に見えるのは変わらない。屍食鬼は死体だけではなく、死にかけた人間を嗅ぎ分けるのが得意だ。・・・不本意だがね」
龍胆は急に、いたずらっぽくにやりと笑った。
ひょいと雪の顔のそばに手をつく。
彼は雪の耳元に唇を寄せた。脳みそまでとろけそうな甘い声をそそぎ込む。
「はやく元気になることだ。――君の唇は俺だけでなく、すべての鬼にとって魅力的だよ。気をつけたまえ」
雪はどきんと心臓がはねた。
(そういえばあのとき、唇を奪われて・・・!)
かっと頭に血がのぼる。
「は、初めて、だったのにっ・・・!!」
「光栄だね」
しゃあしゃあと言ってのける鬼。素早く反応したのは菫だった。
雪の枕元に置いた手を鷲掴みにすると、へし折らんばかりの勢いで、ぎりぎりと締め上げる。
「雪おねえちゃんはぼくと結婚するのに・・・。なにしてくれるんですか」
「う。このガキ・・・!!」
雪には見えない角度で、菫の顔が豹変する。
ちいさな唇から鋭い牙が除き、右目は青色にらんらんと輝いた。
しばしの無言の攻防戦。先に音を上げたのはもちろん龍胆である。
「・・・安心したまえ。坊や」
ぱっと腕を奪い返すと、ぶらぶらと振って顔をしかめた。
「結婚は承諾しかねるが、雪の身の回りの世話は君に任せるよ。――・・・せっかく作った朝食が冷めてしまう。ご相伴に預かりたければ、手伝うことだ」
鬼はそう言うと、すたこらと階段を降り、一階へ逃げていった。
「く、くちほどにもないですっ!」
菫は唇をとがらせる。すぐさま体を反転させると、雪に泣きついた。
「ろくでもない鬼さんですっ。お姉ちゃんは、ぼくのなのにぃ・・・!」
「なんだかわからないけれど。心強いわ、菫ちゃん」
雪は弱弱しく笑った。やはり体調は悪いようだ。村人の仕打ちのせいだ、と菫は唇を噛む。
「お姉ちゃんのごはんに、どくをもられないよう、ぼくがみはってきますっ!」
菫は目元をこしこしと拭う。ヤケになりながら鬼の配膳を手伝いに階段を降りていった。