屍食鬼の館
花散里の子供らの間で、奇妙な怪談話が囁かれている。
村で一番大きな桜の老木のそばに、まるまる家一件が収まるほどの空き地がある。なんでも、そこは誰も手入れしていないにもかかわらず、草一本生えないそうだ。
これだけなら怪談話どころか噂話にもならない。だが話には続きがある。
――時折、その空き地に二階建ての屋敷が出現するというのだ。
そこの屋敷の玄関の戸は少し開いていて、興味をそそられて中に入ってしまえば、二度と生きては戻れない。
・・・・・・『屍食鬼の館』と、呼ばれている。
さくりと土を踏む。ちょうちんの明かりを頼りにこそこそと歩く小さな影。
影の主は、まだ稚い男の子だ。
「ゆ、雪おねえちゃんっ。あいたいよぉ・・・!」
七つを迎えたばかりだろうか。ふわふわの猫毛をちょこんと結い、うるうる揺れる大きなたれ目が愛らしい。
真っ暗な夜道、自分の顔より大きなちょうちんは重く、寒風は骨身にしみる。肩上げされた粗末な綿の着物には隙間という隙間から熱が逃げていき、わらじを履いただけの素足はしもやけがひりひりと痛痒かった。
やがて男の子は、桜の老木が佇む空き地へたどり着いた。桜は咲く気配はなく、葉っぱを風にさらわれた枝々は哀れを誘う。
だが、男の子の視線は桜の隣の建物へ、静かに注がれていた。
「これが――、・・・屍食鬼の館・・・!」
少年――菫は、ぎゅっと小さな拳を握りしめた。
震える手で、こんこんと戸を叩く。
・・・・・・意外にも、相手はすんなり反応した。
かたん。
閂を外す音。
出てきたのは『鬼』というより『幽霊』のような男だった。
すっと通った鼻筋、桜色の薄い唇。
長い前髪の隙間からこちらを見下ろす瞳は、青々と光を放ち、豊かな白まつげは瞬くたび、白い蝶が舞うような気さえする。毛先にかけて灰色がかった長い白髪を耳の下で束ね、紺の着流しをゆるく着ていた。
菫は男の美貌に夢見心地になりながら、賢明にここへ来た目的を思い出した。
「あの、ゆきお姉ちゃんは、ここにいます、か・・・?」
「いる。でも、今は出られない」
「・・・・・・生きて、いますよね・・・?」
「殺していないよ」
――・・・しずかにしゃべるひとだなぁ。
菫はすこし警戒心がとけた。もっと筋肉隆々の、ごつい鬼を想像していたが、彼は真逆だ。
骨が浮き出るほど痩せている。覇気がなく、喧嘩すればそのへんの人間の男にあっさり負けてしまいそうだ。儚げな優男というところか。
「お、お見舞いはできますか・・・?」
菫にしては、踏み込んだ質問をした。
「・・・そうだね」
男は膝を折ると、ふわふわの頭を優しくなでた。
「君は、少々『訳あり』な子のようだね」
「えっ・・・?」
菫はぎょっとする。思わず三歩あとずさりした。
男はしばし、その様子を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「お行儀よくしているなら、入ってもいいよ」
――この敷居を一歩でもまたぐと、二度と現世へは戻れないかもしれない。
「でも君には、関係ないかな」
彼の背後には、真っ暗な廊下が続いている。この先に待ち受けるものは、いったいなんだろう。
(ゆきお姉ちゃんは、ぼくが護ってあげなきゃ・・・!)
誘われ、菫はごくりとつばを飲み下す。
うなずいた。
ちょうちんを男に預ける。
ゆっくり、片足を上げ。
――菫は『屍食鬼の館』の敷居をまたいだ。
なんとも不気味な屋敷だ。
菫は道の真ん中を歩く度胸もなく、壁際をそろり歩く。前を歩く男の背を、恐る恐る警戒しながら見上げた。
男は菫のちょうちんの火は消さず、そのまま灯りに使っていた。彼から一歩離れれば屋敷に立ち込めた闇や、濃い霧のようなものに飲み込まれる気がして、菫はつかず離れず歩く。
「あのっ・・・。鬼さん」
「りんどう」
「はい?」
菫が首を傾げると、男は立ち止まり、かがんでこちらと視線を合わせた。
「――龍胆。俺の名だ」
「りんどう、さん・・・」
「かつて人だった頃のなごりかな。『鬼』ではなく、名前で呼ばれたくてね」
「・・・しつれいしました」
男――龍胆は再び歩き始めた。ちょうちんの灯りに照らされた横顔はどこか悲しげで、菫はなぜか胸がきゅっと痛んだ。
屋敷の中は殺風景すぎた。
もっと死体やら人骨やら転がっていそうだったのに、この屋敷は死体どころか血の匂いすらしない。
延々と、物が一つもない座敷が廊下の両脇に続く。
(おひとりで、こんな広い屋敷に住んでいるの?)
菫は首を傾げた。
やがて、二人は急な階段にたどり着いた。
「二階で、雪は寝ている。・・・君が来てくれて、正直助かったよ。着替えさせてやりたかったんだ。枕元に置いているから、頼めるかい?」
「え。りんどうさんは?」
「俺は雪と君の夕食を作るよ。あとで配膳を手伝ってくれたまえ」
言うなり、龍胆はさっさと行ってしまった。ちょうちんは残してくれていたが、背の低い菫ではちょうちんを持ったまま急な階段を登るのは無理だ。
「うぅ」
仕方なく、ちょうちんから蝋燭だけを取り出した。廊下は月明かりが差し込み、青い闇色をしていたが、階段は真っ暗だ。
墨汁のような濃い闇が広がっている。
菫はきょろきょろと周囲を確認し、誰も居ないことを確かめると、両手を使って、よいしょと急な階段を登り始めた。
じっくりと両手が汗ばむ。震える素足を叱咤して、少年は大人でさえ身がすくむ階段に立ち向かう。
・・・・・・やがて、菫は階段のてっぺんまでたどり着いた。
二階の様子を、首を伸ばして探る。
「ゆきお姉ちゃ・・・、ああっ!! いたっ!」
菫は慌てて駆け寄った。