骸屋(むくろや)
青い夜の闇を、雪、龍胆、菫の三人は歩く。
たどたどしい歩みだ。深手を負った二人を雪ひとりで連れ帰ることは難しい。雪は龍胆を肩で支え、片手で菫と手を繋いでいた。
夜空の月は雲が隠してしまっている。月明かりもない夜道はどこまでも続いているようで、雪は肩に回された龍胆の腕をぎゅっと握る。
「・・・ゆき?」
龍胆は怪訝な顔をした。荒い呼吸が入り混じった声だ。
「・・・なんでも、ありません」
雪ははにかんだ。
「――・・・」
龍胆は静かに目を見開く。
不意に、龍胆は立ち止まった。
「龍胆さま・・・?」
「――すまない。着物、せっかく純白で綺麗だったのに。・・・俺が用意したのに、俺が汚してしまった」
雪は最初、なんのことか分からなかったが、はっとして自分の体を見下ろす。
彼の言う通り、純白の振り袖は赤黒い血がべったりと付着していた。
龍胆は絞り出すように言う。
「俺の行く先々、血がつきまとう」
空からはふわり、白いわた雪が舞いはじめた。
凍える心にふたをするように。ふわりふわりと、踊りながら。
雪は首を振った。
「そんなことは、――・・・あっ」
龍胆は雪の手から、眠りこけた菫を抱き上げた。――まるで引きはがすようだ。
「俺たちは、ここで別れる。――鬼は鬼らしく、闇を選ぶよ」
そう言って、龍胆は微笑む。それは、雪を村人に預けたあの日と重なった。
龍胆さま、と名を呼ぶ雪を遮って、彼は続ける。
「俺と出会いさえしなければ、君はあんな恐ろしい目に合わずにすんだ。
・・・でもまだ、間に合う。太陽にはひなたが、鬼には夜が。あるべき場所へ帰ろう」
雪は肺の奥から凍っていくような、嫌な感覚に襲われた。
いま、ここで彼を引き止めなければ。
ここでちゃんと伝えなければ。
本当にもう、二度と逢えない気がした。そしてそれは、当たっている。
龍胆の白い髪は輪をかけて白い。向こう側が透けて見えるようにさえ思えた。
鬼は幽霊のように消えることはない。だが――・・・・・・。
心が、死にかけている。
雪はぎゅっと、拳を握った。
「――――・・・・・・龍胆さまは、太陽にはなれなくても、あたたかい人だと、わたしは思います」
一緒にいると、心がぽかぽかして、まるでひだまりの中にいるみたいで。
龍胆ははっと思い出した。
『龍胆さまは、あたたかいです』
耳をほんのり甘く染めて言った彼女の声が、今頃になって脳裏に響く。
雪はふわりと、はにかんだ。
「あなたに逢うまでは、いつ死んでもいいとさえ思っていましたが。――あなたに出逢ってからは、もっと、生きてみたいと思うようになりました」
「・・・・・・っ」
龍胆は片手で口を抑えた。そうでもしなければ、込み上げてくるこのみっともない感情を、隠しきれなかった。
「このお着物だって、汚れたなんて思いません。・・・思うわけ、ないじゃないですか。あなたの、血なのに」
雪は、龍胆の手をとる。額に、すがるように押し当てた。
「もう、いなくならないで」
龍胆は無言で掻き抱く。
ぎゅっと、自分の一部にするように。
――必要とされている。必要と、してくれている。
この世界が全員、俺を断罪しても。雪は。
俺を許してくれる。
ここが、俺の居場所だ。
そう、思っていいんだろう?
訪ね返す勇気はなかったが、きっと、彼女はうなずいてくれる気がして。
「わかった。・・・もう、いなくならないから」
鬼は再び、帰路についた。
闇ではない。彼女と過ごす、我が家へ。
動かなくなったあやめの骸の上に、雪がつもっていく。
純白の雪に包まれ、頭上から椿がぽとりと落ちた。あやめは、残った片目をゆるゆると開けた。
「雪に包まれるというのも、存外幸福なものだ・・・」
このまま、埋もれてしまうのも悪くない。――死ぬことが、できるのならば。
胴を真っ二つにされても、あやめは死ななかった。いや、死ねなかった。
それは『呪い』か。
いつからだった? 死を渇望するようになったのは。
いつからだった? 寒さに体を丸めて、人肌に焦がれるようになったのは。
いつから、僕は――・・・・・・。
『さみしい』と、思うようになった?
ふと、こんな時に一番聞きたくない男の声が響いた。
「おいらにも、兄さんにとっても、『愛』なんて毒でしかない。百年も生きて、そんなことも学ばなかったのかい?」
三十代ほどの男が、足音もたてずふらっと立っていた。ひょいと腰を曲げて、あやめの顔を見下ろす。金の猫目はねっとりと濡れている。こぼれた後れ毛。片眼鏡の金鎖と、宝石のついた耳飾りはしゃらり揺れ、男のあやしい相貌を際立たせる。
立て襟が特徴の、隣国の青い民族衣装。その上から、漆黒の着流しをゆるく来ていた。
「よお、あやめの兄さん」
モノクル(片眼鏡)をキラリと光らせ、男はにやりと笑った。
「ずいぶんと派手にやられたみてぇだなあ。泣き別れになったその足、おいらがくっつけてやろうか? くくく」
男の小憎らしい顔を見上げ、あやめは顔をしかめた。
「・・・ついに僕の骸まで売りさばく気かい、『骸屋』め」
通り名を聞くと、男は艷やかな唇を楽しそうに歪めた。
「あんたの亡骸も結構な額になるがね、あいにく、おいらが取り扱ってんのは美女だけだ」
「では、何しに来た? 君のことだ、親切だけで僕(常連)のもとに来るはずがない。のぞみを言え」
「あんたを真っ二つにした鬼の連れのお嬢さん。あの娘をおいらに売ってくれないかい?」
単刀直入な申し出。思わぬ名に、あやめの瞳はカッと開く。
腕を使って、自力でがばりと起き上がった。「うわっ。怖っ!」と骸屋はのけぞった。
あやめはそのまま真っ二つに切り離されていた下半身をくっつける。ざわざわと細胞は動き出し、みるみる間に傷口は塞がっていく。
勢いもそのままに、あやめはゆらりと立ち上がった。
「僕の雪に、つばでもつけようと? 穢らわしい!!」
あやめは大男だ。すっぽりと包み込むように、骸屋の上に影を落とす。
骸屋は縮み上がった。両手を上げて降参する。
「落ち着きなよ、旦那。おいらは何も、あんたから取ろうってんじゃないよ。あの娘がほしいんでしょ。対価を払ってくれれば、おいらがさらってくるよ」
可愛かったのは事実だけどね、と骸屋は付け足す。そろりと視線を鬼からそらし、雪の可憐な後ろ姿を思い浮かべた。
美しい黒髪はくるぶしほど長く、純白の振り袖によく似合っていた。濡れた漆黒の瞳も、ほのかに赤い唇も、この世のすべての鬼を魅了する。
(あの女・・・。さぞ死装束が似合うだろうなあ)
骸屋は舌なめずりする。数々の美女の死体を扱ってきた自分が、わずかな想像をするだけでゾクゾクする。こんな女は初めてだ。ここまでそそる獲物が、この世にいたとは。
「なあ、旦那。さらってあげるからさ、ちょいと、おいらにもつまみ食いさせておくれ」
「っ!」
あやめは目を見開く。
骸屋はよだれの滴る飢えた獣のような顔をしていた。ちろりと覗く舌先は、雪の血の味を確かめたいと、ぬるり、うごめく。
骸屋の取引相手は、様々だ。基本的には、あやかし者だが、時折、人間も含まれる。
本人の正体も、あやめと同じくあやふやだ。
人でもなければ鬼でもない。――どちらにもなれない、穢れた存在。
元は人間だったのかもしれないが、それは本人しか知らない情報だ。
得体がしれない。
(こいつに頼んでいいものか・・・)
あやめは復活してすぐだ。龍胆は負傷しているとはいえ、まだ戦える状態ではない。
なにより、潰された片目が回復しないのだ。
(ふ、僕もいよいよ、臨終か)
目を片手で覆い、あやめは口を歪めた。竜胆の手にかかり、すでに二度死んだ。この肉体の謎はまだ多い。あと何度黄泉帰られるのか、わからない。
しぶしぶ、あやめは口を開いた。腰に手を当て、深々とため息をつく。
「背に腹はかえられん。――なにが望みだ? もっとも、雪のつまみ食いは厳禁だ。代わりになるものを言え」
「代わりになるもの、ねえ・・・?」
骸屋はころりともとの表情に戻った。コテンと首を傾げる。猫をかぶるのも得意なようだ。
「そんなこと言っても、兄さんは文無しでしょ」
「――・・・ひとつ、ある。『僕』自身だ」
あやめはとん、と自分を指さした。その顔は、覚悟を決めている。
「僕の骸をくれてやる。・・・もう長くない。雪を道連れに、地獄へ行く」
骸屋は瞬いた。――やがて、うやうやしく胸に手を添え、深々と腰を折る。
男の背後から、地獄から連れてきた魑魅魍魎が姿を現した。
牽引する牛のいない牛車。じゃらり、鎖を束ねた小鬼が、ひしめき合っている。
「まいど。ご愁傷様です」
決まり文句を述べると、骸屋は顔を上げ、ニヤリと笑った。




