第八十話 「嘉山茉凛・逃避」
「なんで……私は悪く無いのにっ!」
ひび割れたアスファルトが素足を裂く。尖った砂利が、かかとから指の間にまで突き刺さって、皮膚を破り、血を吸い上げる。
それでも走り続けなければならなかった。背後から響くストーカーたちの叫び。それはまるで、私の中の“罪”を告発する警鐘のように、鋭く、耳の奥を突き破ってきた。
空は壊れた蛇口みたいに、雨を吐き出していた。冷たい。冷たすぎる。けれど、むしろそれがありがたかった。大雨は私の涙を、私という存在そのものを流してくれるかもしれない。——そんな希望が、まだ心のどこかに残っていた。
ストーカーたちの声がする。追ってくる、這い寄ってくる。正義という皮を被って、私を踏みにじる悪魔たちの声だ。
アイツを殺した直後、私はまだ鼓動の音を聞いていた。刃が肉を割く感触、骨が折れる感触、血の生温かさ、全部まだ手に残っていた。けれど、次の瞬間、サイレンが鳴った。
まさかと思った。
「っつ!」
——スマホが、あった。死体の手の中。あの女の。
その画面には、通話履歴。警察との通話。たった数秒。されど、その数秒が、私の未来を焼却するのには十分だった。
「コイツ……最後の最後までっ!私に迷惑ばっかり!!」
息が荒い。手が震えていた。逃げなきゃ。この罪を、私のせいにされる前に。
だって、私は悪くなんかない。
アイツが悪い。浮気して、私を裏切って、愛してくれなかった。
それに、檻の中に閉じ込められるなんて絶対に嫌だ。
誰にも愛されないまま、孤独に朽ちていくなんて、私には耐えられない。
「……逃げなきゃ。」
◇
もう家の前まで警察が来ていた。私は窓を開けて、夜の中へ飛び出した。すると、私を逃すまいと雨は急激に容赦なく降り注ぎ、地面はぬかるみ、冷え切った空気が肺を削っていく。
裸足だった。足の裏から伝わるアスファルトの感触は、氷のように硬く、そして棘のように痛い。それでも、私は走る。
走らなくちゃいけない。私を“悪者”にした全てから逃げなくちゃいけない。
「きゃっ……」
転倒。瞬間、膝の皮が裂けて、赤い血が雨と混じって流れ落ちた。けれど、痛みは優しかった。
むしろ心地良かった。
私は今、生きている。
誰にも愛されていないのに、こんなに苦しんでるのに、それでも生きてる。その事実が、逆にたまらなかった。死にたくない。けれど、死んでしまった方がずっと楽かもしれない。
ストーカーたちの足音が近づいてきた。
足は重く、まるで見えない鎖に絡め取られているようだった。息が苦しい。喉が焼ける。視界が歪む。
「ハァッ………ハァ……」
自分が発しているとは思えないような音。女の子らしくない、濁った、獣じみた呼吸。嫌だ。誰かに見られたら、私、また嫌われちゃう。
「ハッ……ふっうぅぅ……」
ごまかすように、静かに、上品に呼吸しようとする。だけど、苦しい。酸素が足りない。肺が悲鳴を上げる。
身体は限界を超えているのに、私は「可愛い子」のルールを捨てられない。私は“可愛い”という一点でしか、この世界に存在できないのだから。
「ふっうぅ……あぁぁ…………」
意識が欠けていく。頭がぼんやりして、景色が霞んで、最後には倒れた。道の真ん中で、雨の中で、誰にも愛されないまま、私は世界から剥がれ落ちた。
――――――――――――――――――――――
「んっ……」
痛い。頭が割れるように痛い。意識の淵に残っていたのは、断片的な記憶。
殺した。
逃げた。
だけど、ここはどこ……?
手も足も動かない。口も開かない。声も出ない。視界もおかしい。まるで体全体が、誰かに封印されてしまったみたいだった。
え?
死んだの?
そんなの、そんなのありえない。
まだ一人も、私のことを「本当に」愛してくれた人に出会っていないのに――。
そのとき、音がした。声がした。
『ふぉっ!?お、お、起きたのぉ?』
腐ったような臭気。混じり合った加齢臭と体臭と部屋に染み付いたカビ臭。それが一気に鼻腔を犯してくる。
ベリッ!
口の上に貼られていたガムテープが無理やり剥がされた。
視界が戻った。
目の前にいたのは、圧倒的に“無理”な存在だった。
『あっ、あっ!ごめんね?苦しかったよね?』
そう言うと、男は私の口に貼りついていたガムテープを剥がした。粘着が皮膚を引き剝がすように離れ、乾いた裂け目が唇に走る。ちっ、と舌打ちが喉の奥でこぼれた。
痛った……肌荒れちゃったらどうするのよ。私が完璧美少女失格しちゃったらどうするのよ……
でもそれよりも……目の前のコイツ。
よく見ると……いや、見たくなかったのに、見ちゃった。
毛穴が開ききって、顔面はテカテカの脂と垢の膜に覆われていた。鼻の横には黒ずみが集まり、吹き出物が弾けそうに盛り上がっている。歯は黄ばんでるどころか茶色くて、歪な並びで唇からこぼれてる。目が、目が細すぎて、喜怒哀楽すら読めない。ただ、ぬめつく笑みを浮かべて、薄気味悪い温度のない熱で私を舐め回していた。
キモい。存在ごと、遺伝子からしてキモい。
「キモ……」
『はっはっ!?はっ!?キモい!?助けてあげた人になんて言い方なんだ君は!!』
なにこの豚。喘ぎながら怒ってるの、滑稽すぎて笑える。鼻息を荒げるたびに、豚特有の脂肪の層が顔の中で揺れてるし、その度に臭い唾がこっちに飛んでくる。
はっ……!ダメだ。こんな存在価値の欠片も無さそうなカスにも価値を与えてあげるのが、完璧美少女の私の仕事。
「ちっ違うよ?私そんなこと言ってない。助けてくれてありがとう。」
「ほひゅっ!ほひゅっ!そ、そ、そうだろう?」
笑っただけでこの反応。ちょっと口角を上げただけで、こっちは何もしてないのに。この程度で癒されたとか、救われたとか思ってるのが気持ち悪い。
まるで死体に湧いた蛆虫に微笑みかけたら、恋人面して擦り寄ってきたような不快感。いや、蛆虫のほうがまだ純粋かも。
……まあいいや、早く縄を解かせて出ていこう。新しい彼を見つけなきゃいけない……
愛が、足りてないの。ずっとずっと、足りてないの。枯れた心に水を求めるみたいに、誰かに満たされたいのに、こんな豚じゃ……。
「ねぇ……私早く家に帰らないとだからこの縄解いて?」
ちょっとだけ声を震わせて、涙を滲ませて、少女っぽさを出してあげた。どうせすぐ解くでしょ?
「そ、そ、それはぁダメだよぉ?きき君、この人でしょ?」
は?と喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。奴が見せてきたスマホの画面は、見覚えのあるデザイン。
某掲示板。匿名の、憎悪と悪意が交差する毒の海。
そしてそこに、私の名前が。
――――――――――――――――――――――
【拡散希望】今逃亡中の殺人女地元の中学にいたww これマジでストーカーだったから気をつけろwww
↓コレ顔な?w
https://x-archive.net/img//kayama-marin_1.jpg
『マジでこいつキモすぎ』
『目イッてんじゃん』
『“嘉山茉凛”ってやつでしょ?地元じゃ有名なメンヘラだよ』
『メンヘラとか終わってて草』
『#リアルヤンデレ #ガチで通報案件』
――――――――――――――――――――――
「え……なんで。私……」
現実が歪んだ。心臓が内側から千切られるように早鐘を打つ。視界が揺れて、耳鳴りが始まった。
「でゅふっ!ほら!君の顔も!!」
リンクが押された。画面が切り替わる。
映っていたのは——
彼の家の前、雨の中で立ち尽くす、制服姿の私だった。びしょ濡れで、髪が顔に張り付いていて、口元は引きつって、目が空っぽだった。
見られたくなかった、誰にも、誰にも見られたくなかった私。
――――――――――――――――――――――
『うわ、ガチでやばいやつじゃんw』
『これ男の家の前ってマジかwwww』
『“茉凛”って名前からして病んでそう』
『#中学生ストーカー #本名特定済』
――――――――――――――――――――――
誹謗中傷の嵐。悪意の洪水。言葉の刃で心が千切れていく。私は、みんなの悪意の便器になってる。吐き出されて、嘲笑されて、汚されて。殺されるよりもひどい。
でも。
その中でも私は、探してた。希望を。たった一言でいい。
「この子、可愛い」って。
でも——
『こいつブスいな。こんなブスがメンヘラとか救えなすぎwww』
「え……あ……」
何かが、ぷつん、と切れた。感情の根元が、音もなく裂けた。唯一無二だった私のアイデンティティ、「可愛い」が、嘲笑と共に否定された。私という存在が、崩れ落ちていった。
『でゅふっ…こ、この人っ酷いねっ?茉凜ちゃんはっ、かっかっかわいいっのに!』
「ほ、ほんと?」
——もう、こいつでもいいや。
世界中が私を殺した中で、こいつだけが「可愛い」って言ってくれた。こいつでもいい。愛してくれるなら、誰でも。誰でも……。
「ちゃんと愛してくれる……?」
『あっあったりまえ!ダヨ!?』
「ふふっ……」
薄汚れた部屋に差し込む曇った光の中で、私の中にあった拒絶が剥がれていく。
あれ?コイツ、こんなにイケメンだったっけ?たぶん私、見間違えてたんだ。世界でただ一人、私を「美しい」と言ってくれた王子様。だからこれは恋、歪んでも腐っても、私だけを見てくれるなら、それでいい。
もう絶対に、離さない……。
◇
『ケポ……』
何してるの?泡なんて吹いちゃって、首に縄なんて巻いて……。あれ、昨日お風呂入ってなかったの?腐った臭いがするよ?
「ねえ、起きてよ。今日は一緒にアニメ観るんでしょ?あっ、ラブコメは禁止、絶対ね。」
ねえ、なんで起きないの?目は開いてるのに、まるで人形みたい。肌は青白くて、冷たそう。
もー仕方ないなぁ。ソファまで連れて行ってあげるから。彼女にお姫様抱っこされるなんて可愛いね。
「んしょっ……あ、あれ?」
何この重たさ。あなたこんなに重たくないでしょ?それに痩せてるし………あれ?
「誰?」
そこにいたのは、ただの豚だった。私の愛した彼じゃない。私が微笑んだ相手でもない。
こんなブサイク知らない。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
……触っちゃった。最悪。
そして見つけた一枚の手紙。折り目は丁寧で、文字は震えていた。
――――――――――――――――――――――
茉凛ちゃんへ
僕はあなたに耐えられるほどの器ではありませんでした。
僕は先に行きます。
茉凛ちゃんはお迎えを呼んでおいたから後のことはその人たちに任せて大丈夫だよ。
――――――――――――――――――――――
「ふぅん……」
お迎えってことは、お母さんかな? 嫌だな。ねえ、彼は……あれ?私の彼氏って誰だっけ。思い出せない。でも、まあいいか!私を愛してくれる王子様が、きっとすぐ来る。
◇
数分後、インターホンが鳴った。私は玄関へ向かう。ここはもう腐ってる。息をするのも気持ち悪い。でも……扉を開けたその先にいたのは、白馬の王子様じゃなかった。
警察だった。青い制服の、現実の象徴。
『嘉山茉凛を匿っているってうっ!何だこの匂いは!!って……』
「臭いですよね……」
『はっ!?お前嘉山茉凛か!連行する!』
何?連行って……私何か悪いことしたの?むしろこんな豚男の隣に置かれていた事実がある私が被害者なのに…!!