第七十九話 「嘉山茉凛・狂愛」
「ねぇ、私のこと好き?」
小さな声で尋ねたその言葉は、まるで透明な糸のように、静かに空気の中に溶けていった。心の奥底にあった、長い間誰にも見せられなかった弱さと孤独が、ようやく誰かに届くかもしれないと期待した瞬間だった。
『うん。好きだよ愛してる。』
彼の声は柔らかく、暖かくて、冷え切った私の世界に差し込む一筋の光のようだった。言葉に込められた重みは、それまで灰色に染まっていた日々を一瞬で彩り変えた。孤独だった教室の隅が、少しだけ息を吹き返すような気がした。どんなに辛くても、どんなに傷ついても、この人だけは私を見捨てない。そう信じられたから。
幸せ、幸せ、幸せ。
それは私にとって奇跡のような、眩しすぎる感情だった。けれど、心の奥の片隅では、まだ確信できない不安がくすぶっていた。もしかして、これも夢なのかもしれない。現実じゃないのかもしれない。だけど、その瞬間はそんな考えも押し込めて、目の前の幸福にすがった。
灰色だった毎日に色が付いていた。孤独だった学校が孤独じゃなくなった。もう我慢しなきゃいけないのは家だけ。お母さんは私のことを諦めたけれど、お姉ちゃんはいつまで経っても私を馬鹿にした。でもいいの。もう、私の方が幸せだし。不幸者の妬みを受けてあげるくらいはしてあげる。
『なぁ、今日俺ん家来ない?』
彼からの誘いは突然で、でも待ち望んでいた光のようだった。心がざわめき、胸が高鳴った。何度も夢見た、彼の側にいるということが現実になるなんて。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「いいの!?行く!」
言葉がすぐに口をついて出た。疑う余地はなかった。彼は私を一番に愛してくれてるんだから、私もその気持ちに応えなきゃ。
でも——
「ね、ねぇ……私のこと愛してる?」
初めて彼の家に足を踏み入れたあの日。緊張と期待で胸が押しつぶされそうだった。けれど、その瞬間、彼の瞳は私だけを見つめていて、確かな愛を伝えてくれた。
襲われた、とは言ってしまうけれど、それは痛みとともに刻まれた愛の証でもあった。痛みが愛に変わる不思議な感覚。彼の体温、彼の息遣いが私のすべてを満たした。
『ん?あぁ愛してる愛してる。』
行為が終わった後、彼は急に冷たくなった。まるで何かを忘れたかのように、そっけなくなった。
疲れちゃったのかな。
そう思うしかなかった。私はまだ彼のことを信じていたから。彼の愛がまだそこにあると、ずっと信じたかったから。
「ねぇ、私のこと好き?」
何度も問いかけたくなる。彼の心が私から遠ざかっていくのがわかったから。
『ああ。』
付き合い始めて2週間。時間が経つごとに、彼の言葉は短く冷たくなった。
学校で顔を合わせても、以前のような優しさは消えて、彼は私に背を向けているようだった。
家に呼ばれて行ってみれば、ただの行為だけが繰り返される。愛されているはずの私は、まるで道具のように扱われているのかもしれない。そんな疑念が胸を締めつける。
でも、私は信じていた。彼は私を一番に思ってて愛している。そう、そうでなきゃいけない。
だけど、私は限界が来た。
愛が足りなくなってきた。確かめたくなった。
それで、必死に電話をかけた。でも、彼は出てくれなかった。何度も何度も、絶望に近い気持ちで電話をかけ続けた。
やっと2時間後、彼が電話に出てくれた。
「あっ…やっと出てくれた!ねぇねぇ!私のこと好きだよね?愛してるよね?」
声が震えていた。もう声も届かないかもしれないと、涙を堪えていた。心が壊れそうだった。
でも——
『なんだよこの通知量!お前うるせぇんだよ!もう別れるわ!毎日毎日バカみたいに電話かけてくんじゃねぇよ!』
その言葉が胸に突き刺さった。凍り付いた。震えが止まらなかった。彼から放たれた言葉は、まるでナイフのように私の心を切り裂いた。
え……なんで?なんで?なんで?あなたから私に愛してるって言ってくれたのに。昨日まで愛してるって言ってくれたのに。
なぜ、こんなにも急に壊れてしまったの?
私を一番に愛してるなら、毎日電話なんて当然だよね?だって私を一番に考えてるんだから。
なんで別れるの?
「また……独りなの?」
その言葉は、喉の奥に引っかかった小さな石のように、胸の奥に重く残った。
『ああそうだよ!お前みたいなメンヘラは一人で死ね!!』
その冷たさ。最後の言葉は、私の存在そのものを否定するようで、胸の奥が引き裂かれるようだった。
電話はそこで切れた。
「……痛い。」
その一言が、全てを物語っていた。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
ただひたすらに痛い。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
心が千々に乱れ、割れそうだった。
なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?
愛してるって言ったでしょ?
私を独りにしないで。
やめて、帰ってきて、なんでもするからお願い。
心は叫び、震え、崩れ落ちていく。
その後、彼は私が何度メッセージを送っても、返事をくれなかった。
私はまた独りになった。
孤独が私の全てを飲み込み、心が壊れていくのを止められなかった。
人生が終わったのだと錯覚した。
泣いた。吐いた。
心が痛くてたまらなかった。
「こんな気持ちやだ……」
その言葉は、閉じ込めていた全ての感情の爆発だった。
もう誰も何も信じられなかった。
ねぇ、私のこと好き?
『うん。愛してるよ陽菜。』
……ああ。
その言葉、ずっと、ずっと待ってたんだよ。
心の中で何百回も、想像してたんだ。
その一言で、全部、救われた気がしたの。
あんな男と別れてよかった。
本当に。
……あの男と別れた後、また私はひとりだった。
空っぽの部屋で、真っ暗な天井を見上げながら、「どうしてこんなに誰にも必要とされないんだろう」って、ただそれだけを思ってた。
『アイツ今日は行かないのかな?』
『なんか嘉山さんってすっごくメンヘラらしくて別れたらしいよー?』
『あはは、勉強も運動もできないしメンヘラとか最悪じゃん!ほんとアイツ顔だけだよねー。ムカつく。』
彼という盾が無くなったからか、私は後ろ指を指されて聞こえるように陰口を言われる毎日。
死んでもいいと思った。
むしろ、誰かに消されてしまいたいと願った。
でも……そのとき、あなたが、王様様が、私の世界に降ってきてくれた。
放課後の教室。
陽が落ちかけて、窓ガラスが冷たくて。
私はただ、自分の存在が誰にも見えないことに安堵していた。
家に帰っても、またお姉ちゃんに馬鹿にされる。
完璧なお姉ちゃん。優等生のお姉ちゃん。みんなが羨むお姉ちゃん。
その横に立ってる私は、きっと“失敗作”だった。
だから、泣いてた。
静かに、声を殺して、机に顔を埋めて。
「誰か……」って心の中で叫んでた。
その時。
『嘉山さん、良かったら話聞くよ…?』
彼が、私の世界を救ってくれたの。
再び灰色に戻った風景に、あなたの声が色を戻してくれた。
◇
『愛してるよ茉凛……』
その言葉で、私の中の止まった時計が動き出したの。
もう一度、愛してもらえた。一番に、私を思ってくれる人が現れた。
今度こそ、絶対に失わない。
どんなことがあっても、離さない。
「ねぇ、私のこと好きだよね?」
『うん。当たり前じゃん』
◇
「私のこと一生独りにしないよね?」
『うん……』
◇
「ねぇ、なんで最近会ってくれないの?」
「ねえ」
「ねえ」
『ごめん』
「そんな一言じゃ分からないよ……一番愛してるって言って?ねぇ!!」
言葉が、刃物みたいに胸を裂く。
“ごめん”。そんな言葉ひとつで、私の全てを説明しようとするなんて。
私は、あなたのために生きてるのに。
愛してるって、言ってくれたでしょ?
付き合い始めて、たった2週間。
あんなに近くに感じてたあなたは、だんだん遠くなった。
メッセージを送っても、返ってくるのは翌日。
電話なんて……もう、繋がらない。
私、また独りになるの……?
いやだ。
そんなの……いや。
愛されたい。
ちゃんと、愛されてるって分かりたい。
そうだ、彼の家に行こう。
まだ、ちゃんと繋がれてない。
私が“シてあげれば”、彼は思い出してくれるはず。
私は、ちゃんと彼を癒せるんだから。
ちゃんと、ご奉仕できるんだから。
『重いんだよなあ……ほんと茉凛のやつ顔だけだよ。』
『えー!その子最悪だねぇ……私ならそんな思いさせないよー?』
『マジ?なら別れようかな』
——え?
耳を疑った。
信じられなかった。
けど、その声は、間違いなく、彼のものだった。
私は彼の家に入った。
合鍵は前に、勝手に作っておいた。
だって、サプライズしようと思ったから。
彼には伝えてなかったけど、きっと、喜んでくれると思ってた。
でも、そこにいたのは…知らない女。
下品な服。育ちの悪そうな仕草。
何よりも、彼の隣にいる、その姿が、私を焼き尽くす。
別れる?
なにそれ。
聞いてない。
そんなの……認められるわけがない。
私の方が可愛いし、胸も大きいし、あなたのこと、ずっとずっと愛してるのに。
『うっわ!久々に見たらアイツからの通知エグいんだけどまぁ、これで良し!』
その瞬間私のスマホが鳴った。
画面に表示されたのは、彼の名前と、たったひと言。
『別れる。お前もう無理』
「は……?」
崩れ落ちそうだった。
頭の中が、真っ白で、でも真っ黒で、混沌で……
でも、わかった。
原因は、あの女。
あの女が、彼を脅してるんだ。
奪おうとしてるんだ。
——許せない。
渦巻く憎しみが、私の心を支配した。
これは仕方のないこと。
だって、人のものを盗るのは、犯罪なんだから。
殺意
「殺してやる……」
私は迷いなく、彼の家のキッチンから包丁を手に取った。
彼と女がいる部屋に飛び込んだとき、彼の顔は驚愕に染まった。
怖かったの?
大丈夫。
今、その女から助けてあげるから。
『え!?ねぇあれアンタの元カノじゃないの?』
元カノ?
……は?何を言ってるの、この女。
その口、もう使わなくていい。
「今……助けてあげるからね。」
私は走った。
女の腹に、包丁を突き立てた。
ぬるりと、何かが裂ける感触。
赤い液体が、じわりとソファーを染めていく。
『え……あ……嘘?』
力任せに振り抜いた直後、手応えがあった。
柔らかくも抵抗する肉の感触、内臓を突き破る感覚、そして、溢れ出す生の温度。
女の口が、金魚のようにパクパクと動いていたけど、もう意味なんてない。
倒れた女は、何かを呟いていた。
『なんで……私…?』
答える価値もない。
だって、理性も情緒もない“犯罪者”だもの。
そう、だから私は…
「私のモノを盗ろうとするからだよ。」
足を振り上げて、その脳天に叩きつけた。
鈍い音。
そして、その女は、もう動かなくなった。
人を、殺した。
けど、怖くなかった。
だって、私には彼がいるから。
「ふう……もう大丈夫だよ。怖かったでしょ?これからは変な虫が付いても私が守ってあげるから安心してね?」
包丁を握りしめたまま、血に濡れた靴で、彼女の頭を踏みつけた。
そして、彼に笑いかけた。
でも——
『お、おま、お前!何してんだ!ふざけんな!死ね犯罪者!人殺し!おいっ!こっちくんな!』
——え?
なんで、そんな顔をするの?
私を、そんなものを見る目で見るの?
どうして?
私はあなたのために——
『お前マジ死ね!死ね!クソ女!お前なんかと付き合ったのが間違いだった!!』
「………」
あぁ………………………………………………
『……は?』
「え……?」
気づけば私の持つ包丁が、彼の胸を貫いていた。
温かい液体が、私の手のひらを濡らす。
彼の瞳が、私を映す。その瞳の奥にあったのは、愛じゃなかった。
恐怖、絶望、そして——死。
彼は、崩れるように倒れた。
静かだった。
とても、とても静かで、
もう何も聞こえなかった。
——また、私は独りに戻った。