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第七十八話 「嘉山茉凛・孤独」


『どうしてこんなこともできないの!?』


私の記憶は、いつもこの怒声から始まる。

閉じた瞼の裏に浮かぶのは、歪んだ母の顔。

私の小さな肩を掴んで、何かを投げ捨てるように声を張り上げる姿。


小さい頃の記憶なんて、本来はもっと暖かいものであるはずなのに。

お遊戯会の笑顔とか、初めて補助輪なしで自転車に乗れた日とか。

なのに私の記憶は、怒られることと、怯えることと、謝ることばかりで埋め尽くされている。


私は昔から不器用だった。

人より遅くて、何をするにもぎこちなくて。

上手くいかないことが当然で、上手くいったときの方が「奇跡」って呼ばれた。

たとえどんなに頑張っても、届かない。手を伸ばしても、誰も掴んでくれない。

だから私は、諦め方だけ上手くなった。


『——はすぐできたのに、なんであんたは……』


比べられる存在がいた。

五つ年上のお姉ちゃん。あらゆる意味で完璧だった。

成績は常に学年トップ。運動も、誰とでも笑顔で話せるところも。

私はその「優秀なお姉ちゃん」の後ろに、影のようにくっついていた。


「次はあんたの番よね」


そう言われたとき、私はもう答えを知っていた。

私にはできない。あのお姉ちゃんにはなれない。

でも、完璧な姉の妹故に期待だけは消えなかった。私を苦しめる鎖のように、ずっと首元に絡みついていた。


勉強も、運動も、なにひとつ人並みにできなかった。


『ねぇまりんちゃんまた宿題忘れたんだって〜』


『え〜ほんとやってるとこ見たことないよね!』


私は、小学校の教室の中でも浮いていた。

みんなに比べて反応が鈍くて、話すのも下手で。周囲と呼吸が合わない。会話の輪に入れない。

やがて私が口を開くたびに、誰かが小さく笑った。

“ズレてる”

その一言が、ずっと心に突き刺さって抜けない。

私は、自分でもどこが「おかしい」のかわからなかった。

でも、周囲にとってそれは明確だった。

私は、変な子だった。気持ち悪い子だった。


学校で息を殺し、家に帰っては姉と比べられる。

逃げ場なんて、最初からどこにもなかった。

安らぎ?

そんなもの、知らない。

だって——

私は誰からも、愛されたことがなかった。




『茉凛ちゃんおはよう!昨日言ってたアニメ見たよ!』


「ほ、ほんと?面白かったでしょ?」


その日、心の奥が少しだけ温かくなった。

小学5年生の私に、人生で初めてできた友達。

転校生の——ちゃん。

——ちゃんは私の話をちゃんと聞いてくれた。私にだけ「おはよう」と言ってくれた。

私とだけ目を合わせてくれた。

私は、その優しさにすがるようにして、生まれて初めて心を許した。

——ちゃんは私としか話さなかった。

だから、私だけのものだと思った。


……好きだった。


その日まで、ずっと好きだった。


でも、転校してきてから二週間が経った頃。


『——ちゃんって面白いんだね!』


初めて見る光景だった。

——ちゃんが、他の女の子たちと笑いながら話している。

なにそれ?どうして?

私とだけ一緒にいるはずだったのに。

私だけを見てくれてたはずなのに。


胸が苦しくて、息が止まりそうになった。


どうして——ちゃんが他の誰かを見てるの?

どうして、私以外と笑ってるの?


……許せない。


その日の帰り道。

私は、いつも通りに——ちゃんと帰ろうとした。

そうすれば、元に戻れると思った。

でも——


『茉凛ちゃん!今日は他の子達と帰るから先に帰ってて!』


「え……私も……」


喉が焼けるように痛かった。

それでも、絞り出すように声を出した。

私と——ちゃんの関係を取り戻すために。

せめて、「私たちは特別なんだ」って証明したくて。


『え…えーと、ごめんね!今日は先に帰ってて!じゃあね!』


その笑顔は、他の誰かに向けたような軽さだった。

私の言葉は届いていなかった。

——ちゃんは、私を置いて、走って行った。


私は、気づいたら後を追っていた。

絶対に、絶対に見たくなかったものを見ることになるとわかっていても、目をそらすことができなかった。私は他の子と帰る——ちゃんを後ろからこっそり見張った。


『ねぇ——ちゃんなんで茉凛なんかとつるんでんの?あんなのやめときなよー』


心臓が跳ねた。けれど私は心の中で反発した。

そんな言葉、気にする必要はない。

——ちゃんは私のことを好きでいてくれている。私だけは、独りじゃない。


『うーん、確かにそうかもね。茉凛ちゃん色々おかしなところがあるし』


その言葉は、まるで刃物だった。

小さな胸の奥に深く突き刺さって、抜けなかった。

血が出ていないのが不思議なくらいだった。


え……冗談だよね?

アイツらに合わせてるだけだよね?

本当は、私だけの——ちゃんだよね?

私を独りにしないって、約束してないけど、そう思ってたのに。


その夜、帰宅した私は真っ先にスマホを手に取った。

心が壊れそうだった。繋がっていたい。確認したい。

だから、何度も何度も——ちゃんにメッセージを送った。


「ねぇ——ちゃん、私のこと好きだよね?」


「ねぇ——ちゃん私のことどう思ってる?」


「ねぇ、」


「ねぇ、」


既読がつかない。

通話履歴には、何十件もの不在着信。

でも、どれも、応答されなかった。

スマホを握る手が震えていた。

画面の文字が滲んで、読めなくなった。


数時間後、やっと返事が届いた。


『なんなのこの不在着信の量……茉凛ちゃんおかしいよ。もう、私と関わらないで』


心臓が潰れるような音がした。

胸の奥がギリギリと軋むように痛んだ。

呼吸ができなくなった。

酸素が足りない。空気が、苦い。

吐いた。何も食べていないのに、胃がひっくり返った。


……私は、独りにされた。


世界が終わったみたいだった。


それからの日々は、生きている実感さえなかった。

どこへ行っても、誰の声を聞いても、あの言葉が耳にこびりついて離れなかった。

“おかしいよ”“関わらないで”

誰かが笑うたびに、自分のことだと思った。

どこにいても、胸が痛くて痛くて、息ができなかった。

唯一の安息はもう、どこにもなかった。


中学校に入学した私は、小学校の延長線にいた。

周囲にとけ込めないまま、いつも教室の片隅にいた。

声をかけられることもなければ、誰かと目が合うことすら稀だった。

それでも、誰かが笑えば、それは全部自分を嘲っているように思えた。

些細な仕草、視線、空気の流れ。全部が、私を否定している気がした。


手を挙げるとき、教科書を開くとき、椅子を引くとき。その一つ一つが、鉛をつけられたように重くて、息苦しかった。


家に帰れば、そこにも安らぎなんてなかった。


『あんたは……はあ、もういいわ。』


その言葉を聞いたとき、私は初めて、母に「諦められた」のだと気づいた。

胸の奥がチクリと痛んだけれど、不思議とホッとした部分もあった。

怒鳴られるよりはマシだ。責められないなら、まだ耐えられる。

そう思えるくらいには、私は感覚を麻痺させるのに慣れていた。


でも、それは「救い」なんかじゃなかった。

ただ、感情の死に慣れただけ。


そんなある日。

何の前触れもなく、日常の地平線に歪みが走った。


『嘉山さん!俺と付き合ってくれ!』


教室の真ん中で、突然声を張ったのは、見覚えのない男子生徒だった。

名前も、話したこともない。正直、顔すらよく知らない。

でも彼は、確かに私の名前を呼び、真正面から告白してきた。


教室が静まり返る。

注目されている。みんなが私を見ている。


怖かった。怖い。でも……知ってる。

これは「愛の告白」だ。少女漫画で何度も見たやつだ。

誰かが誰かを特別だと思って、その気持ちを伝えるやつだ。


私を一番に想ってるってことだ。


「う、うん……ちゃんと愛してね?」


私はそう答えていた。

本心なんて、もうどこにあるのかわからなかったけれど、答えは決まっていた。

だって、ずっと、ずっとそう願っていたから。

誰かに、心の底から「愛してる」と言ってもらいたかった。

私のことを特別だって言ってもらいたかった。

今度こそ、今回は絶対に。


……だって、向こうから告白してきたんだもん。

向こうから来たんだから、今度は見捨てられないよね?

勝手に離れたりしないよね?


「ふふ……」


ふと、鏡に映る自分を見て、思った。


——私は、顔が良い。


くりっとした目。小さな鼻。形のいい唇。

胸も、大きい。

どうりで、男の子からの視線を感じるわけだ。


私はその瞬間、すとんと腑に落ちた。


男の子は、可愛い女の子が好きなんだ。

柔らかくて、愛想がよくて、ちょっと抜けてて、それでいて優しい女の子。


「なぁんだ、簡単じゃん。」


愛される方法なんて、もう分かった。

私はその通りに振る舞えばいいだけ。

可愛い女の子を演じればいい。

ちゃんと毎日お化粧して、にこにこ笑って、ちょっとおどおどして、「ありがとう」と「ごめんね」を忘れずに。

誰かの理想の中に、自分の形を合わせれば、私は「愛される女の子」になれる。


やっと見つけた。

私を独りにしないための、たったひとつの方法。


愛されるためなら、私は自分を殺す。

嘉山茉凛の過去編は長編なのであと何話か続きます。

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