第四十八話 「ゲームを始めよう」
糸の主の居場所がまったく見当つかないまま、シダルタはひたすらその糸に立ち向かっていた。
「ここはお兄ちゃんに任せて、アウロナは相棒を連れて逃げろ!!」
シダルタの声が叫びとなって響くが、アウロナは一瞬戸惑いの表情を浮かべ、足がすくんでしまう。
「えっ……お兄ちゃんは?」
不安そうなその瞳で見つめるアウロナに、シダルタは振り返らず、強い口調で言い放った。
「大丈夫だ。今頃サラが他の奴らを避難させてる。お前らもそれに着いてけ。」
シダルタの言葉は揺るがない。必死で信じようとするアウロナだったが、まだ胸の奥に残るためらいがあった。
「で、でも……」
言葉に詰まってその場に立ち尽くすアウロナに、シダルタは今度は怒号を放った。
「行け!!」
その声はこれまで聞いたことのない、荒々しく、圧倒的な迫力を伴っていた。アウロナは思わず気圧され、体の硬直がほぐれた。
「うっ…うん。」
固まっていた体を必死に動かし、奎を背負おうと試みるが、右腕が言うことを聞かない。
おぶられる側の協力なしに片手で成人男性ほどの体重を背負うなど、到底不可能だった。
「どうしよう……」
アウロナが心の中で迷いを抱えたその瞬間、背後から轟音が響き渡る。
「オラァッッ!!予知できるやつに飛び道具なんて当たらねぇよ!!」
シダルタが渾身の力で飛来する糸を次々に叩き斬っている。その剣戟の音が教会の古びた壁に反響する。
このままなら、しばらくは大丈夫だろう。
だが、限界が近いのはシダルタの体ではなく、今立っている建物だった。
もともと森の奥にひっそりと佇む廃教会。老朽化はかなり進んでおり、たとえシダルタが糸を受け止めても、その衝撃が少しずつ壁や梁に蓄積されている。
「崩れたら………もうっ!!」
最悪の事態が頭をよぎり、アウロナは恐怖で身震いしたが、すぐに頭を振ってその妄想を振り払った。
そして次の瞬間、
「ふぅううう!!!」
アウロナは、肩の筋肉の半分を切り取られ動かないとされていた右肩を、気迫で無理やり動かした。
もちろん気合いだけで動かせたわけではない。
アウロナの脳裏には、ある鮮明な記憶が蘇っていた。
――――――――――――――――――――――
それは、アウロナがアスフェリアに来る前の、ナフタリでのある日の光景。
目の前の机には湯気がゆらゆらと立つホットミルクの入ったコップが置かれ、その傍らで一人の女がそれをゆっくりと飲んでいた。
その女は、黒髪が艶やかに輝き、褐色の肌が映える完璧なメイド服を身にまとった、無詠唱治癒魔術を使いこなすメイド、サラ・ナーガだった。
「あちち……少々温めすぎましたね。」
猫舌らしい彼女は、ホットミルクに何度も息を吹きかけては舌先をつけ、すぐに手を離していた。
その様子を見て、アウロナは冷たいミルクを勢いよく飲み干しながら尋ねた。
「ねぇサラ。治癒魔術ってどうやってやるの?あたし炎以外も使えるようになりたいの!」
サラは息を吹きかけるのをやめ、穏やかな表情で答えた。
「そうですね……まず治癒魔術を習得する前に、患部に魔力を集中させる練習をしましょうか。それだけでも習得すれば、治ることはありませんが、神経が断たれていたりしても患部が動くようになったりするのですよ。まあ、数秒だけですが。」
「へぇ!すごいじゃない!切断されたりしても動くの!?」
アウロナは目を輝かせて尋ねる。
「いえ、それは流石に不可能に近いかと。ですが、お嬢様なら出来るかもしれないですね。」
そう言って、アウロナを落胆させないように優しく称賛を含めるサラ。
彼女は再びホットミルクのコップに手を伸ばそうとしたその瞬間、
「!!」
コップが忽然と消えた。
数秒後、どこからか声が聞こえる。
『あっっっつつっつ!!!!!ニャンコは猫舌なんだよ!?』
その声は女性のもの。
そしてそれを聞いたサラはため息混じりに呟いた。
「“泥棒猫”にはいい薬ですね。」
――――――――――――――――――――――
その記憶を胸に刻み、アウロナは集中し、右肩を動かすことに成功した。
「っっ!!」
激痛が肩を走ったが、彼女は奎を背に乗せると、左腕でしっかりと支え、ゆっくりと部屋の扉に向かった。
「お兄ちゃん!!絶対戻ってきてね!!」
声を振り絞り、アウロナは部屋を後にする。
返答はない。
代わりに轟音と共に新たな糸が飛んできた。
一瞬、後ろを振り返りそうになるが、
「当たり前だ!!」
シダルタの力強い声が聞こえ、アウロナは振り返るのをやめて、足早に走り出した。
奎を落とさないよう必死に支えながら、廊下を駆け抜け、階段を駆け下りる。
糸が飛び交う方向とは反対の裏口へと急ぐ。
「サラ!!いる!?」
裏口の扉を蹴り開け、声を張り上げる。
森の奥から返事が聞こえた。
「はい!ここに!」
それは、サラだった。
ナイフを片手に持ち、茂みから姿を現す。
「お嬢様、ケイ様の同郷の方々は見ませんでしたか?」
「え?サラが連れて行ったんじゃないの?」
二人は互いに首をかしげる。
「いえ……私がサイオンジ様たちの部屋に着いた時には、もう誰もいらっしゃいませんでした。」
「どういうこと…?」
二人が困惑し始めたその時、アウロナの右肩の傷と、欠損した右耳にサラが気づく。
「お嬢様…!!すぐに気づけず申し訳ありません!直ちに治します!」
すぐさま駆け寄り、無詠唱の治癒魔術をかけた。
すると、たちまち傷は癒え、肩の肉は再生し、欠けていた右耳は多少不完全ではあるが再生した。
「お嬢様……襲撃者の蛮行ですか?」
サラの声は低く、重みを帯びていた。
「そうよ。でもすごく硬い糸が飛んでくるだけで、誰が飛ばしているのかは分からないの。」
「なるほど。そのようなスキルを持った者が遠隔で操作しているのでしょうね。陰湿な……」
「でも大丈夫。お兄ちゃんが助けてくれたから。お兄ちゃんにここから逃げろって言われたから逃げるわよ。サラ、蛇を出して。」
「承知しました。」
アウロナの指示に、サラは即座に応じた。迷いはない。シダルタが負けるはずがないという確信が、そこにあった。
サラの身体が静かに光に包まれ始める。前回のように腕だけではなく、今度は全身がスキルの発動を受けて変化を始めていた。褐色の肌が次第に硬質化し、鱗が浮かび上がる。布地の悲鳴が短く響き、メイド服が裂け落ちていく。筋肉と鱗が隆起し、指先は鋭い鉤爪に、そしてその肢体は瞬く間に人の姿を捨てて、巨大な大蛇へと変貌を遂げた。
アウロナはその変化に一切動じることなく、慣れた様子で奎の身体をサラの背から降ろし、蛇の滑らかな鱗の上へと移した。奎をしっかりと乗せ、自身もまたその背に乗り込むと、バックハグの体勢で奎を包み込むようにして抱えた。まるで揺れる船の上にしがみつくように。
大蛇となったサラがしなやかな首を振り、背に乗った二人を確認する。そして次の瞬間、大口を開いて鳴り響くように言った。
「では、しっかりと捕まっていてくださいね!!」
その声はどこから発されたのかすら分からない。だが確かに大蛇の体から、森の静寂を切り裂いて響いた。
地面を這うようにして、だが足元だけを地面に擦らないよう巧みに浮かせながら、サラは疾走を開始した。木々の間をすり抜け、風を切る速度で森を駆け抜ける。
アウロナは奎を支えながら、その頬に一瞬視線をやる。
「……これでも起きないのね。ちょっとびっくり。」
今までの轟音、戦闘、揺れ——それでも目覚めない奎に、半ば呆れ、半ば安心したようにそう呟いた。
◇
廃教会からかなり離れた地点まで来た頃だった。森の密度が薄れ、光が射し始めた矢先。
「……!!」
サラが突如、動きを止める。
「っ!どうしたのサラ?」
急停止に驚き、アウロナが問いかけるが、返事はない。ただ鋭く光る蛇の瞳が、前方の霧を見据えている。
その視線を追ってアウロナも顔を上げると、目の前にはこれまでになかった濃い霧が森に立ち込めていた。そして、その中心に——人影があった。
「……人影?」
アウロナの言葉の通り、霧の中にぽつりと、まるで待ち構えていたかのように一つの人影が浮かんでいた。
人影は彼女たちに気づくと、のそのそと前に出てこようとする。が、サラがすぐさま低く唸った。
「それ以上近づけば命の保証はありません!!」
声帯のないはずのその大蛇のどこから発せられたのか分からないその警告は、森の中に深く響き、人影をぴたりと止めた。
そして、人影は両手を軽く上げながら、飄々とした口調で答える。
「オォ怖い怖い。異世界ってのは蛇が喋るんだな。」
それは男の声だった。アウロナが眉をひそめ、返す。
「……誰?」
男は霧の中からゆっくりとその姿を現す。
サラの瞳に映ったのは、黒のタンクトップと、奎の高校の体操服の長ズボンを履いた、異様な風貌の男だった。その顔には油断と不遜が混ざった、どこか胡散臭さの漂う笑み。
「……見たことのない服装……転移者……帝都からの刺客ですね。」
サラが静かに呟いた。
男はにやりと笑いながら、胸を張って名乗る。
「そうだぜ。俺の名前は野村煌……プロゲーマーだ。あんたらは?」
その言葉に、アウロナもサラも表情を崩さないまま答える。
「ディシウカトル所属,サラ・ナーガ」
「ディシウカトル所属,アウロナ」
「ヘェ!全く知らないな!」
軽口を叩く野村の態度に、アウロナの眉間が明らかに不機嫌そうに寄った。
「あんた邪魔。あたしたちはこの先に用があるからさっさとどいて。」
「……通りたいの?」
「はい。急いますゆえ。」
「俺は帝都の柊派だからあんたらからしたら敵だぜ?」
「私たちは強いですよ。」
サラは、敵の可能性を感じ取りながらも、今は戦いを避けたいと考えていた。だからこそ、短くも交渉に出た。
だが——
「それなら好都合。俺とちょい遊んでこうや」
その瞬間、空気が変わった。
視界の端が歪み始め、風が止み、空が水色に染まっていく。黒い立方体が空間の至るところから浮かび上がり、その縁を水色の光が縁取る。格子状の構造体が空間全体を覆い、まるでこの世界が一度「データ」に置き換えられたかのような異質な変化。
「これは……?」
「何よこれ?」
アウロナとサラはただ呆然とその異常事態を見つめる。彼女たちには到底理解できる領域ではなかった。
野村は、そんな異世界人たちを見下ろしながら、宙に浮かび上がった。
「サァ……俺とゲームしようや。」
その声は、この新たなルールで塗り替えられた世界の、開幕の合図だった。