第四十七話 「散る」
昼食を食べ終えたアウロナは、再びサラが現れるかもしれないという警戒心に満ちていた。奎の寝顔に向き合いながら、何か言葉をかけようとするたびに、ため息とともにその声は喉の奥に引っ込んだ。
「…………もうっ!なんであんなに足音がしないのよ!」
椅子に腰を下ろしたサラが、苛立ち紛れに小さな足で地面を打ち鳴らすように地団駄を踏んでいると——
ふいに、奎の口からうわごとのような声が漏れた。
「えっ?起きたの?」
アウロナは慌ててベッドへ駆け寄り、奎の顔を覗き込む。だがその瞼は固く閉ざされたままで、彼の表情は苦しげに歪んでいた。
「うぅ……アウロナぁ……ごめん……ごめん……」
うわ言は重く沈んだ罪の声だった。顔色は死人のように青白く、額からは脂汗が滲み、枕元を濡らしていた。
「……あたし?どういうこと?ねぇ……」
アウロナの表情に困惑と不安が混ざり、思わずその肩に手を伸ばしかけたが、以前のように彼が暴れ出す可能性を思い出して、指先は寸前で止まった。
その時だった。
太陽は天頂を過ぎ、空気は昼の最も穏やかなはずの時間帯に満ちていた。だが——
轟音
大気を切り裂く衝撃音と共に、建物全体が激しく揺れた。まるで天地が反転したかのような感覚。
それは、水野の手による、あの恐るべき“糸”——それが再び、鉄すら断ち切る斬撃の如き速度で襲いかかり、再び教会の構造を真っ二つに裂いた。
上部の屋根ごと切断された建物は崩れ、地響きを立てて崩壊し、塵と瓦礫が周囲に降り注ぐ。
「きゃっ!!!」
アウロナの肌を鋭く切り裂く風圧。その爆風の余波だけで、彼女は壁に叩きつけられるようにして吹き飛ばされ、腰から背中を激しく打った。
「……何が……起きたの。」
肺に砂を吸い込み咳き込みながら、アウロナは顔をしかめ、震える指先で額の土埃を拭う。
だがその直後——
轟音
第二波。今度は殺意が明確だった。
「ぎゃっっつ!!」
飛来した糸が、彼女の右肩の半分と、右耳を容赦なく切り飛ばした。
鮮血がまるで噴水のように弾け飛び、切断された肉と皮膚は生ぬるい音を立てて床に落ちた。
「っっ…!」
筋肉と神経が一気に断ち切られた右腕は、まるで他人の腕のようにぶら下がり、重力に引かれて垂れ下がっている。
右耳を失った部位からの出血はすさまじく、血が耳孔に流れ込み、三半規管を狂わせてバランス感覚が狂い世界がグラグラと揺れ、目が回る。
「だっ……誰よ!!出て来なさい!!」
痛みに顔を歪めながらも、アウロナは一歩も退かない。左手で腰のナイフを引き抜き、敵の気配がない空間に向かって構える。
だが、そこには“誰もいなかった”。
飛んでくるのは、姿の見えない死神の手——糸だけだ。
「誰もいないの……?あっ!」
視線を下ろした先に、崩れかけたベッドの中、瓦礫に半ば埋もれながらも意識が覚醒しない奎の姿。
「助けないと……」
アウロナは激痛に顔を歪めながらも、足に力を込めた。床を蹴り、躊躇なく最短距離を突っ切って彼の元へ駆け寄る。
だがその途中——
視界の隅に、“それ”が映った。
あの糸。自身の右の部位を奪った、悪夢のような斬撃。
先ほどまでは見えなかったが、今のアウロナには、それが確かに見えた。極限状態に達した身体が、脳の処理速度を引き上げていたのだ。
「(あっ……このままだと顔に………死……)」
糸が飛来する一瞬が、まるで永遠に思えるほどスローに感じられた。だが——肉体はその“遅さ”についていけなかった。
視認はできても、回避はできない。動こうとしても、身体はまるで水の中に沈んでいるかのように鈍重だった。
「あ………」
絶望のあまり、アウロナは目を閉じた。これ以上の未来など、見たくなかった。
——そして、糸は彼女の顔面へ。冷酷にも、狙いを微塵も逸らさず、直進する。
◇
糸はアウロナの顔を容赦なく真っ二つに切り裂いた。鼻梁から上、額、目、そして頭蓋の上部——全てが肉と骨ごと切り飛ばされ、飛散した。
地面に叩きつけられたのは血塗れの半頭。目玉は白濁し、切断面からは脳漿が露出していた。
「……あたし……死んじゃった?」
アウロナはそう呟いた。だが、それは意識の残滓だったのか、魂の反響だったのか——自分でも分からなかった。
そこにいるのは、昏睡する奎だけ。応答などあるはずもない。
——そう思っていた。
「死んでねぇよ。」
「え!?」
空間に響いた、聞き慣れた声。血と炎と死に包まれたこの状況の中で、唯一安心をくれる声。
包帯に包まれ、素顔さえ知らぬが、何よりも信じている——
「お兄ちゃん!!」
斬撃を真っ向から受け止めたのは、アウロナの兄、シダルタだった。
彼の手には鉄刀が握られている。
次の一瞬、刀が火花を散らして糸を弾き飛ばす。
殺人糸は斬られ、宙で散った。
崩れかけた世界に、絶対の存在が立つ。
——運命は、変わった。
アウロナの絶望に、焔が灯る。