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第三十九話 「来訪者」

食事を終えた奎は、器の乗った盆を丁寧にまとめて扉の前に置いた。何気なく振り返ったとき、部屋の中を照らしていた光がぐっと弱まっていることに気づき、ふと窓の方へと視線を向ける。


「俺が起きたのが夕方くらいだったのか?」


ぼそりと自問するように呟きながら、奎は重いまぶたを少しだけ持ち上げるようにして、窓辺へと歩み寄った。カーテンを指でそっとつまみ、隙間を作ると、そこから覗いた光景は一面の闇と影、鬱蒼と茂る森の輪郭が闇夜に沈んでいた。街の灯りも何もない。文明の気配も、暖かさもない。ただの「自然」という言葉では片付かない、荒々しく閉ざされた夜がそこに広がっている。


「…あんなこと言っといて部屋の外出れないしな…」


小さく吐き捨てるように呟きながら、奎は窓枠に手をかけ、指先で木の感触を確かめるように撫でた。節くれだった木材の表面が指にざらりと触れる。それはまるで、一日といえるのかは怪しいが、その中で起きた出来事の余韻をなぞるような行為だった。


自然と、思い出してしまう。


『奎君…久しぶりね。』


あの日――自分が連れ去られ、足元が崩れていくような絶望の中で、それをただ見ていたクラスメイトたちの姿が脳裏に蘇る。彼らは誰一人、手を伸ばさなかった。目を逸らし、見ないふりをし、助けようとすらしなかった。そんな者たちとの再会。


『奎君……今まですごく大変だったでしょう?……あの時、何も出来なくて……助けてあげられなくて、本当にごめんなさい。』


担任の西園寺を先頭に、口々に並べられた陳腐な謝罪。その場しのぎの言葉で、頭を下げて見せたあの皆の姿は、慰めではなく奎にとってただの偽善だった。


『やめろ……やめてくれ俺だけでも助けてくれ!!……俺は……俺はもう……』


あの瞬間、自らのスキル――“死に戻り”の存在を明かしかけた時に受けた、精神へのペナルティ。世界が凍りつき、停止して崩れ去った。


昨日起きたシダルタやアウロナとの口論も、解決はしたとはいえ、奎の心を確実に蝕んでいた。そして、そんな余裕のない心のまま、二度と会いたくなかった人間たちと再会し、さらなる”死に戻り”の負荷に襲われた。


「ははっ……もう一個なんかありでもしたらもう立ち直れないかもな。」


自嘲めいた笑い声が部屋の中に虚しく響く。けれど、その笑いの裏には、今にも崩れそうな心がしがみつく最後の強がりがあった。


それでも、完全には壊れていない。


「…寝るか。細かいことは明日考えよう。うん。明日だ明日。」


呟く言葉に、自分を言い聞かせるような響きがあった。まるで、自分がまだ人間であると証明するために。


「明日考える……アイツらのことも…死に戻りのことも………」


ベッドへと身を沈めた奎は、心と身体に重くのしかかる疲労に抗う間もなく、深い眠りに落ちていった。何もかもを一度遮断し、静寂へと逃げるように。



◇◇◇


奎が寝入ってから、どれほどの時間が経っただろうか。部屋の空気がわずかに揺れるような気配がした。それはまるで、夜の闇に混じって忍び込んだ黒い影のようだった。


その気配――否、実際に姿を現した影は、足音一つ立てぬよう慎重に、まるで忍びのような身のこなしで奎に近づいていく。


ベッドのすぐそばまで来ると、その人物は口元に片手を当てながら、静かに、だが確かに囁いた。


「ーーて…」


耳元に届いた声は、微かだが確かな存在感を持っていた。しかし熟睡中の奎の意識の深層には届かない。


「ーー君起ーて」


「ん……」


かすかな反応。眠りの中で奎の脳がわずかに反応を見せるが、そのまま再び意識の底へと沈んでいく。


影は一瞬ためらったが、次の手段に出る。奎の腰元にそっと手を当て、ゆっくりと、しかししっかりとした力で身体を揺すり始めた。肉体への刺激は、さすがに眠気を突き崩すだけの力を持っていたらしい。


「神代君起きて。」


「んあ?」


やがて、奎のまぶたが重たく持ち上がり始め、ようやく意識が覚醒に向かって進み出す。耳に届いたのは、澄んだ声――優しく、そしてどこか懐かしさすら感じさせる響き。


「あっ、起きた?」


「へ?……」


目の前に黒い人影があることに気づいた瞬間、奎の全身に緊張が走る。恐怖と混乱が一気に押し寄せ、思わず叫びそうになったその瞬間――


「うわぁ…っつ!!」


口が開きかけたところで、その叫びを遮るように影の手が奎の口元に伸び、力強く塞がれた。しかも、鼻の穴まで覆われる形になり、奎は呼吸すら許されなかった。


「ーーー!!ーーーー!」


声にならない悲鳴が、喉の奥で引き攣れる。慌てて手を離すその人物は、申し訳なさそうに呟いた。


「わっ!ごめんね。」


奎の呼吸がようやく戻ると、その目に徐々に夜の闇の中でも形を結ぶように、相手の姿が映り込む。


「こんな遅くに起こしちゃってごめんね?」


それは――制服姿の少女。どこか見覚えのある、高校の制服。だが、奎にとって、それが安心材料になるはずもなかった。目を見開き、口に当てられていた手を振り払うと、彼は思わずベッドの端まで後退る。


「……誰だ…お前。何の目的で…」


奎の目には、警戒と恐怖が色濃く宿っていた。少女は戸棚の方へ歩くと、そこからマッチのようなものを取り出し、蝋燭の火をともした。柔らかなオレンジ色の光がゆらゆらと揺れ、部屋の輪郭と少女の顔立ちを映し出す。


その顔は整っていて、編み込まれた三つ編みのハーフアップが、彼女の几帳面さと品の良さを表していた。


「暗い中じゃ怖かったよね。ごめんね。」


そして、少女は胸に手を当て、ゆっくりと名乗った。


「私の名前は円道寺陽菜(えんどうじ ひな)。神代君、私のこと覚えてる?」


「え……?」


奎の脳裏に、その名はすぐには浮かばなかった。殆ど不登校だった彼にとって、同級生の名前は記憶の奥に沈んでいる。円道寺は少しムッとしたように、感情を露わにする。


「覚えてないの?ほら!思い出して!一年生の最初の頃!!」


言葉に導かれるように、奎は意識の底に沈んだ記憶をたぐり寄せた――そして、ようやく一つの場面に行き着く。


『私は円道寺陽菜!よろしくね!』


今とは髪型も雰囲気も違うが、あのとき確かに隣の席になった少女がいた。


「思い出してくれた?」


彼女が顔をほころばせる。しかし、奎の表情は冷めたままだった。


「思い出したけど……何?俺みたいな異端者は見捨てるんじゃないのか?」


奎が若干自嘲気味に言い放つと、その言葉は空気に沈殿するように、重く、静かに部屋を支配した。円道寺はその言葉を真正面から受け止めるようにわずかに眉をひそめ、表情を曇らせた。


「……あの時は…ごめんなさい。私も異世界に来たばっかりで自分のことだけでいっぱいいっぱいで……って、こんな言い訳しても意味ないよね。」


声には苦しさと後悔が滲んでいた。あの日、自分が見て見ぬふりをしたことを、今さら悔やんでも意味がない――その事実を彼女は理解していた。


だが、奎は思いのほか穏やかな声で言った。


「いや、円道寺は正しいよ。異世界に勝手に飛ばされたんだから、誰だって案じるのは自分の身だよな。」


それは、奎の本心だった。

あの日、謁見室で彼は二度にわたり死に戻りを経験した。地獄のような恐怖に晒されながら、それでもなお、自分は誰かを助けるために動いたか?

そう自問すれば、答えは否だった。

結局、命を懸けて誰かのために立ち上がることすらできなかった自分に、他人を責める資格などあるはずがなかった。


円道寺は目を丸くしたあと、少し安堵したように、声を震わせながら呟いた。


「許してくれるの…?ありがとう…じゃあ、みんなとも仲良くしない?実は今……」


「それは無理だ。」


その言葉は、冷たい刃のように彼女の言葉を断ち切った。

奎の声には、怒りではなく、乾いた確信が込められていた。


「俺はお前たちを許す許さないじゃなくて、根本的に嫌いなんだよ。嫌いな奴らと一緒にいて楽しいわけがない。そもそも何で円道寺は俺の部屋に来たんだ。」


その瞳には、過去に裏切られた記憶が色濃く浮かんでいた。優しさの裏に潜む偽善――それがどれほど残酷なものかを、奎は嫌というほど味わってきた。


円道寺は、目を伏せながら言った。


「それは…神代君と仲直りしたかったから。加害者の私からこんなこと言われてもイラっとするだけかもしれないけど、私は神代君がクラスに戻ってきてほしかったから…」


まっすぐな言葉。けれど奎は、それをすぐには受け入れなかった。


「こんな夜遅くに?みんなにバレないためか?まあそうだろうな。俺みたいな異端と関わっちゃお前も異端扱いされるかもだもんな。」


その嘲笑めいた声は、まるで自分自身をも刺すような鋭さを持っていた。円道寺は、それでも逃げなかった。泣きそうな瞳を奎に向けて、言葉を搾り出す。


「そんなことない…なんて言えないね。そうなのかも。私自身、本当に意識はしてなかったけど……無意識に、そんな最低なこと、考えちゃってたのかも。」


彼女の声には、飾り気のない真実があった。それが余計に、奎の胸を締めつけた。


「そうかよ。分かったら帰ってくれ。」


静かに、だが拒絶の意志を込めて奎が言い放つと、円道寺は肩を震わせた。けれど、彼女はそのまま引き下がらなかった。


「待って!神代君に話しておかないといけないことがあるの!」


奎はわずかに動揺しつつも、声の調子を変えずに問い返す。


「……何?」


円道寺は一呼吸置いてから、慎重に口を開いた。


「私たちがなんでここにいるかは知ってるよね?」


問い返された奎は、少しだけ思案しながら答えた。


「確かシダルタが…帝都から逃げてきたって。」


「そう。私たちは逃げてきたの。」


声のトーンが、これまでと違う。そこには恐怖と、重大な決意が滲んでいた。


「…なんで?」


奎の問いは簡潔だった。けれど、答えは衝撃的なものだった。


「柊君たちが……帝国を乗っ取ったの。」


「は?」


その一言で、奎の思考は完全に止まった。口をぽかんと開けたまま、言葉が出てこない。


クラス内の暴君として知られ、あまりに暴力的な性格を持ち、一度鬼神・メイに殺されかけた柊翔。その彼が、帝国を乗っ取った?

それはただの悪夢か、それとも――。


室内には、蝋燭の火の揺らめきと、二人の呼吸音だけが残っていた。

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