第8話 ポンコツな夏凛
授業は一通り終わった。元々の進みが遅いのが心配だったが、夏凛の飲み込みが早くて安心した。元から成績は悪くないのだから、当然と言えば当然かもしれない。俺は荷物をまとめて帰ろうとしたのだが、夏凛に呼び止められた。
「授業はここまでだ。また来るから」
「あっ、ちょっと待ってください!」
「ん、どうした?」
「おやつがあるんです! お母さんが授業後に食べなさいって!」
「えっ、それは嬉しいな」
母親は留守だったのだが、その代わりに授業後のお楽しみを用意してくれていたらしい。よく気が回る人だ。上品そうな人だったけど、中身まできちんとした大人というわけか。そんな人からどうしてこんな――
「ふゆ先生、変なこと考えないでね?」
「わ、分かってるよ」
「ふふっ」
夏凛に何か悪いことを考えると伝わってしまうらしい。超能力でも持っているんじゃないだろうな。
「スプーン曲げられる?」
「何のことですか?」
「なんだ、曲げられないのか」
「勝手に失望された!?」
夏凛は何が何だか分からず呆然としていた。メスでも曲げられたら手術室で役に立つかもしれないんだけどな。しょうもないことを考えていると、夏凛が席を立った。どうやらおやつは下の階にあるらしい。
「ふゆ先生、こちらへどうぞ!」
「はいはい……って、いって!」
「大丈夫ですか!?」
「ちょっ、針踏んだ!」
「あーっ、ごめん先生!」
足元にあったのはホチキスの針。……またかよ! 靴下のおかげで防げたとは思うが、血が出てないといいな。夏凛こそ、こんな部屋で暮らしていて足裏が穴だらけにならないんだろうか。部屋の出口に向かって歩く夏凛の足元をじっと見てみる。
「……せんせー、足フェチなの?」
「ちげえわ」
「言っておきますけど臭くないですよ!」
「なんで気にするのがそこなんだよ!?」
「臭い方が良かったですか?」
「俺を変態みたいに言うんじゃない!」
夏凛はえへへと笑った。ポニーテールを揺らし、再び前を向いて歩き始める。今日で会って二回目のはずなんだけどな。不思議と夏凛とは波長が合う。もっとも、アイツの(表面上の)コミュニケーション能力が優れているだけなのかもしれないが。
「で、何で足を見てたんですか?」
「ホチキス針でレンコンみたいになってるかと思って」
「誰が大根足ですって!?」
「大根とレンコンを間違えるんじゃねえ!」
「似てるじゃないですか!」
「どこがだよ!?」
ああ、しょうもない。しょうもないが愉快だな……。
***
「ちょっと待っててくださーい」
「はいよ」
居間に通され、テーブルに向かって座る。夏凛は台所でお茶の用意をしてくれるらしい。すでに目の前には高そうなお茶菓子が並んでいる。うわ、これ高い店のどら焼きじゃないか。こっちも高級せんべいだ。たかだか家庭教師のためにここまでしてもらって、申し訳ない。……それとも、やっと来た「適任者」を逃すまいとしているのだろうか。失礼な勘繰りをしていると、夏凛が戻ってきて俺の向かいに腰かけた。
「お湯を沸かしてるからもうしばらく待っててくださいっ!」
「おっけー」
「あっ、どんどん食べちゃっていいですからね!」
「ありがとな。夏凛は食べないのか?」
「夏凛はこれしか食べないので!」
そう言って、どこからともなく銀紙のような物を取り出す夏凛。なんだこれ? アルミホイル?
「それ、なんだ?」
「チョコです! 夏凛の脳には糖分が必要なので!」
「へえー、そうか」
夏凛は銀紙から食べかけの板チョコを取り出し、バリンと音を立てて口に含んだ。糖分ばっか舐めてる頭脳キャラって、漫画みたいだな。○○ノートの持ち主でも追っているんじゃなかろうか。
「一人で一枚食べるとはすごいな」
「いえ! それじゃあ夏凛には足りませんよー!」
「はっ?」
「十枚は食べます!」
「はあっ!?」
またしてもボリンと板チョコをかじる夏凛。どう考えても一日に板チョコ十枚は過多である。明らかに脳味噌が必要な糖分量を上回っていそうだし、何より虫歯になってしまいそうだ。
「……流石に食べすぎじゃないか?」
「えーっ!? 夏凛はこれでも我慢しているんですよー!?」
「嘘だろ!? 歯全部溶かす気か!?」
「ちゃんと歯磨きしてますよー!」
「どれくらい?」
「……三日に一回?」
「汚っ」
「嘘嘘! 二日に一回です!!」
「変わんねえよ!!」
医者の不養生どころか医者の卵の不養生じゃねえか! いや、医学部志望だから「医者の卵の卵」か? 分からん! というか本気で虫歯が心配になるわ!
「……夏凛、まず歯磨きはちゃんとしろ。せめて一日一回は」
「えーっ、面倒ですよお!」
「虫歯になって痛い目に遭うのは夏凛なんだぞ」
「うっ……夏凛は虫歯になんかなりません!」
「どうして?」
「誰ともチューしたことがないから!」
「虫歯菌はキス以外でもうつるぞ」
「ええっ!?」
夏凛は手を口に当てて驚いていた。というか別にコイツのキス歴を把握するつもりはなかったのだが、図らずも知ることになってしまった。そんなことはどうでもよくて、今は虫歯のリスクを低減させることに集中させねば。
「とにかく、受験直前に歯医者通いなんてしたらシャレにならん。歯磨きだけは欠かすなよ」
「はあい……」
「そ~れ~か~ら~!」
「ふえっ?」
席を立ってダイニングテーブルの横から回り込み、夏凛のすぐそばに寄った。不思議そうな顔でこちらを見上げている夏凛。俺はその肩をがっちりと掴む。
「先生、やっぱり大胆……♡」
「ちげえよ」
「うわああっ!?」
俺は思い切り掴んだ肩を揺らした。絶叫する夏凛のポケットというポケットから板チョコが飛び出してきて、床に落ちてくる。呆気に取られている過激派甘党を横目にそれを拾い上げ、ポンと両手に抱える。
「板チョコ十枚は食い過ぎだ! せめて一、二枚にしろ!」
「や、やだやだー! 夏凛の偏差値を下げる気ですかー!?」
「それくらいじゃ下がんねえよ!」
「返してくださいよー!」
「駄目だ!」
「夏凛の糖分を返せー!」
「返さん!」
「鬼畜! 悪魔! 死神! ぼっち!!」
「ぼっちはお前もだろ!?」
やいのやいのと言い合う俺たち。夏凛は必死の形相で板チョコを奪還しようと試みている。このやる気を受験勉強に向けてほしいなあ……って、うん? なんだか焦げ臭い。
「チョコ泥棒ー! カカオ農家に謝れー!」
「謝ってどうすんだよ! ……じゃなくて、ちょっと待て」
「な、なんですか?」
「近所で火事でも起きてないか?」
「へっ?」
俺の言葉に、夏凛もクンクンと鼻を利かせていた。どこだ? この感じ、近いぞ。いったいどこが――
「ふゆ先生、うちですっ!」
「うえっ!?」
そう叫ぶや否や、夏凛は猛ダッシュで台所の方へと向かった。俺も板チョコをテーブルに置き、慌てて追いかける。火事だったらまずいな、家庭教師のつもりが消防隊をやりましたなんてシャレにならん。キッチンに着くと、そこに見えたのは――変な色の煙を吹き出している鍋だった。
「ど、どうしようふゆ先生!」
「空焚きだろ!? 早く消さないと!」
「そ、そうじゃないんです!」
「何がだよ!?」
右往左往する夏凛を飛び越え、コンロの火を止める。鍋の底は焦げ焦げになっており、五徳も少し傷んでしまったみたいだ。とはいえ、この大豪邸が燃えることがなくてよかったが。
「ふー、危なかったな」
「どうしよう……どうしよう……」
「おいおい、鍋くらいお母さんに謝れば済む話じゃないか」
「そうじゃなくて!! 空焚きするの今月で三個目なんです!!」
「ええーっ!?」
夏凛は軽く涙目になっており、顔を真っ赤にして叫んでいた。いくらおっちょこちょいでもなかなかそこまで燃やせないだろう。母親の苦労が窺えるというものである。
「ど、どうしよう先生……流石に怒られちゃう……」
「まあまあ、怪我しなくて良かったじゃないか」
「そうですけどお……」
よく見たら、冷蔵庫に「絶対にガスじゃなくて電気ケトルで沸かすこと! お母さんより」と書かれたメモ用紙が貼り付けてあった。夏凛が見落としたのか、それとも面倒くさくなってガスで沸かしてしまったのか。まあ、怒られるのは必至だな。こうなったら仕方ない、共犯になるとするか。
「……」
「なあ、夏凛」
「鍋を三つ焼いた夏凛を馬鹿にする気ですか!?」
「そんな卑屈になるなって!」
「じゃあ何が言いたいんですかあ……」
その場にうずくまる夏凛を横目に、俺はダイニングへと戻り、テーブルの上の板チョコを抱えた。再び台所に入るとそれを作業台に置き、一枚一枚銀紙を剥がしていく。
「ふゆ先生、何してるの……?」
「いいから、夏凛も手伝って」
「は、はい……」
怪訝そうな顔をしつつも、ぺりぺりと包装紙をはぎ取る夏凛。全てのチョコがあらわになったところで、俺は焦げ焦げになった鍋の底をふき取った。ふむ、ギリギリ一回くらいは使えそうな感じだな。
「ほれ、コンロに火つけてみろ」
「えっ……?」
「じゃ、溶かすぞ」
「ちょちょちょ、先生!?」
次の瞬間、チョコを鍋に放り込んだ。夏凛は目を丸くして驚いているが、こうしてしまえばこっちのもんだ。俺は近くにあったヘラを拝借し、夏凛に手渡す。
「夏凛、これを持て」
「せ、せんせーどうするの?」
「俺にお菓子でも作ろうとしたことにすればいいだろ? その過程で焦がしたことにすればいい」
「え、ええっ?」
「ほれ、本当に焦げるぞ」
「は、はいっ!」
夏凛は慌ててヘラを受け取り、チョコを溶かし始めた。まあ、母親も「家庭教師の先生にお菓子を作ろうとした」娘を怒ることは出来ないだろう。これで形式的にはなんとかなったかな。
「……せんせー?」
「ん、どうした?」
「ごめんなさい。夏凛のせいで……」
「いいっていいって。気にするな」
「そうじゃなくて。また先生に迷惑をかけると思うから、先に謝りたいんです」
「えっ?」
暗い表情で鍋の中を見つめたままの夏凛。これは取り繕ったうわべではなく、本心から来る態度だろう。やはりこれが本当の性格なんだろうな。俺は注意深く表情を窺いつつ、黙って話に耳を傾ける。
「夏凛、勉強以外は本当に苦手なんです。運動も出来ないし、家のお手伝いも出来ない」
「……」
「勉強が出来ない夏凛に存在価値なんてないんです。だから本当はもっと頑張らないとって」
「そんなことはないさ」
「本当なんです! 夏凛は勉強でしか皆に認められない!」
キッとした視線を送られ、思わずドキリとしてしまう。夏凛はヘラを手放すと、さらに大きな声で叫んだ。
「お父さんもお母さんも、夏凛のことは何度も褒めてくれました!」
「いいことじゃないか」
「でも勉強のことばっかり! それ以外で褒められたことなんてない!」
「……」
「分かってます! 我儘で自分勝手で自惚れてるってことくらい! でも今更そんな自分を直せないんです!」
「……そうか」
「先生、どうしたらいいですか……」
再びうずくまる夏凛。チリチリとチョコが焦げた音がしてきたので、夏凛の手放したヘラを代わりに掴み、優しく溶かすようにかき回す。皆に認められるには勉強しかない、か。夏凛はまだ高校生だし、これからいろいろなことを学んでいく段階だ。だからまだ物を見る視点が少なく、視野狭窄に陥っているのだろう。
「ひとついいか」
「えっ?」
「夏凛はたしかに不得意なことが多いかもしれない。それは事実だ」
「そんなの分かってますよ……」
「けどな、お前の頭脳は相当ずば抜けている。夏凛が考えている以上にな」
「えっ……?」
チョコを溶かしたまま、夏凛に言葉をかけてやった。「お前はダメじゃない」と言うのは簡単だ。だがそれでは納得してくれないだろう。欠点は欠点として自覚してもらい、それはそれとして長所を伸ばしてもらう方がいい。夏凛が誰の手も届かないほどに突き抜けることが出来れば、短所をあげつらう声など耳には入ってこないだろう。
夏凛の強みは一つ。その絶対的な頭脳だ。偏差値などという指標では測り得ない、他の人間よりもずっと優れた物を持っている。だから――いちいち落ち込んでいる時間などもったいないのだ。
「失敗は失敗だけど、同じことを繰り返さないように努力するのが肝要なんだ。それでまた失敗すれば仕方ないさ」
「で、でも……」
「大丈夫だ。夏凛は自分の強みを磨くことだけに集中すればいい」
「どうして、ふゆ先生はそんなことが言えるんですか……?」
心配そうにこちらを見上げる夏凛。きっと今のコイツは自信を失っているのだろう。恐らく、自らの存在価値の根拠が欲しいのだ。そもそも人間に存在価値などいらない。誰にだって生きていく権利はあるのだからな。けど――あえて、夏凛に言葉を掛けるなら。
「俺はな、惚れ込んだんだよ」
「えっ……?」
「夏凛の志に惚れ込んだんだ。全ての外科医を失職させる――なんて、思ったこともない。だからさ、すげえって思ったんだ」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ! しかも志に見合った才能がある。存在価値が無いなんて言うなよな」
思ったことを素直に吐き出した。……ちょっとキザだったかもしれないな、恥ずかしくなってきた。冷静に考えて女子高生に「惚れ込んだ」はヤバいかもしれん。ちょっと気まずく思っていると、横にいた夏凛がそっと立ち上がった。
「か、夏凛?」
「ふゆ先生。……ありがとう」
夏凛は作り笑いではなく、純粋な笑顔を見せてくれた。結局、焦がした鍋でチョコを溶かすのは無茶だったようで、俺たちは苦々しい茶色の塊を食べることになったのだが――それはまた別の話である。