第7話 頭脳明晰な夏凛
「知っていると思うが、物体ってのは他の物体に引き寄せられる」
「夏凛とふゆ先生みたいに?」
「無限遠まで飛ばされてえのか」
「ひっどーい!」
てへっと舌を出す夏凛をよそに、ぱらぱらと参考書をめくった。今日は二回目の授業ということで、物理を教えている。相変わらず夏凛はジャージ姿だが、長い髪をポニーテールにまとめていた。本人曰く「勉強するのに楽だから」とのことである。髪を下ろしているよりこちらの方が似合っていると思うが、調子に乗りそうなので本人には伝えない。
「それを式にしたのが万有引力の法則だ。互いの引力は質量に比例して、距離の二乗に反比例する」
「そんなの知ってるよお」
「お前の基礎がなってないから一から教えてるんだろうが」
「だからー! 『お前』じゃなくて夏凛の名前は夏凛なんですー!」
「あ、悪い悪い」
「冬雪たんって呼びますよ!」
「やめろ!」
冬雪たんだけはやめてくれ! というか、授業がろくに進まん。現役生とは言っても、せめて電磁気学には入っておきたいところなのだが。まだ力学では受験本番までに間に合わない。とりあえず問題演習に進むか。
「じゃ、そこの問三を解いてみろ」
「はいっ!」
カチカチと音を立ててシャープペンシルの芯を出したあと、夏凛はじっと参考書の問題文を眺めた。さっきから観察してて思うのだが、コイツは妙な解き方をしている。問題文を数分見つめたあと、何かを書き写すようにペンを走らせるのだ。機械的に、まるで思考を停止しているかのように。
「……よしっ」
夏凛は小さく声を出すとペンを動かし始めた。やはり単に何かをコピーするかのように書いている。この現象は何だ? 不思議に思っているうち、あっという間に答案が出来上がってしまった。
「終わりまし……ふゆせんせー、何見てるんですかあ? えっちー」
「いちいち俺の動きに悪意を見出すんじゃない」
「ぶー。早く丸付けしてくださいよお」
「はいよ」
差し出されたノートには、乱雑な字で数式や文章が書き殴られていた。しかし読みにくいということはなく、答案の中身自体は理路整然としている。まるで夏凛の脳内をそのまま書き写したようで――そうか、なるほどな。俺はさっと赤ペンで丸を書き、ノートを夏凛に返す。コイツは思ったよりもずっと優秀なのかもしれない。
「よし、正解だ」
「ふっふーん、さすが夏凛!」
「ちょっと聞いてもいいか?」
「なあに、せんせー?」
「……もしかして、すべて『頭の中で解いてる』のか?」
「えっ? 変ですか?」
「ちょっと試させてくれ。問四、ノートに書かないで解いてみろ」
「はあい」
特に嫌がることもなく、夏凛はさっと参考書を手に取って問題文を眺めていた。そのまま軽く天井を見上げ、何かをぶつぶつと唱えている。問四は少し込み入った問題だが、特に混乱する様子もない。……まさか本当に解いているのか?
「解けました! 6.0×10の24乗キログラムです!」
「おお……正解だ」
「これくらい朝飯前ですよお」
……これは驚いた。夏凛は「解けて当然」といった感じだが、どう考えても普通ではない。紙に計算してみて、それを見て別の式を作って再び計算する。普通はその繰り返しで問題を解くのだが、夏凛は脳内で全て完結しているというのだ。どれだけのワーキングメモリと演算能力を誇っているのか底が知れない。こんなに頭が良い奴に会ったのはかなり久しぶりだ。
「ふゆ先生? 大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ。続けよう」
「はい!」
考え込んでいるのが伝わったのか、夏凛は怪訝そうな面持ちで俺の顔面を窺っていた。だんだん夏凛に勉強習慣がない理由が分かってきた気がする。天才型だとは思っていたが、これは予想以上だな。
「せんせー、ひとつ聞いていいですか?」
「どうした?」
「この第一宇宙速度って項目なんですけど」
夏凛は参考書の中の一項目を指さした。第一宇宙速度というのは(ものすごく大雑把に言えば)人工衛星に必要な最低限の速度だ。この速度を上回ることが出来れば、俺だって人工衛星になることが出来る。……理論上はな。
「これより速ければ落ちずに地球を一回転出来るんですよね?」
「そうだ」
「でも『宇宙ステーションが高度を補正した』っていうニュースを観たことがあるんですよお」
「うむ」
「どうしてですか? 第一宇宙速度を超えていれば落ちてこないはずなのに」
気になって仕方がない、そう言いたげに尋ねてくる夏凛。たしかに鋭い質問だ。理論と実際のズレというのは往々にして起こり得る。古典力学しか知らなければ夏凛がそう思うのにも無理はない。
「たしかに夏凛の言うとおりだ。人工衛星ってのは重力を向心力としてグルグル回り続ける」
「それは分かってまーす」
「でもな、あくまで理想的な条件での話だ。実際には空気との摩擦がある」
「空気? 宇宙ですよ?」
「ISS(国際宇宙ステーション)の高度は400キロメートルだ。薄いが空気はある」
「へえー……」
「だから力学的エネルギーが失われて自然に高度は落ちる。他にもデブリ(宇宙ゴミ)を回避するためにわざと高度を変えることもある」
「いろいろ知ってるんですね~!」
「別に、調べれば分かることだ」
別に複雑な理論を解説したわけでもなければ、正解の無い難問を解いたわけでもない。科学に詳しい人間なら割と常識レベルの話だとも思う。そう思って素っ気なく回答したが、夏凛はやけに満足そうな表情でニヤニヤしている。
「えへへ」
「どうした?」
「こういう話に付き合ってくれる人がいなくて。楽しいなあって」
「青葉二高ならいるんじゃないのか?」
「いないことはないですけど! ……夏凛、友達いないから」
「悪い、嫌なことを聞いたな」
「ふゆ先生も友達いないんでしょー? 別にいいですよお」
「おい」
唐突にディスられた気がするが、事実なので仕方がない。そもそも友達が少ないことを引け目に感じたこともないしな。少人数の気が合う友人と仲良くしていればそれでいい。ずっとそう思ってきた。
「じゃ、次のページにいくか」
「ふゆ先生」
「ん?」
「……先生は、友達が欲しいとは思わないんですか?」
夏凛は参考書に視線を落としたままだが、明らかに意識をこちらに向けていた。まるで俺のことを探るかのような質問。何が目的だ?
「別に、いらないよ」
「どうしてですか?」
「ろくな目に遭わないからだ」
「暗っ!!」
「お前が言うなよ」
「だから夏凛は夏凛ですーっ!」
「あ、ごめん」
ぷりぷりと怒る夏凛。ろくな目に遭わない、というのは実体験だ。変な噂を囁かれ、後ろ指をさされ、時にはひどい言葉を言われたこともある。他人とのコミュニケーションというのは本当に骨を折る行為なのだ。……むしろ、夏凛とこんなに小気味よく会話が出来ている自分に驚いている。
「夏凛こそ、友達はいらないのか?」
「いらないです!」
「お、言い切ったな」
「……でも、友達になってもいいかなって人はいます」
夏凛は再び参考書を見た。友達になってもいい人、とはな。夏凛様のお眼鏡にかなう人物とは誰なんだろう。コイツの世界についていくことが出来て、興味のある話題を提供出来る人間。……いるのか?
「まあ、夏凛の我儘に付き合うお友達は大変そうだな」
「わが……そんなに我儘じゃないですよっ!」
「お母さんから聞いたぞ、色々な家庭教師を追い返したらしいじゃないか」
「ぎく」
「そんな奴は我儘に決まってるわな」
「か、夏凛を満足させられないのが悪いんだもん!!」
「お前はお姫様かよ」
「何回言ったら分かるんですかー!」
「ほら、我儘だ」
「わ、罠だったんですか!?」
「いいから、さっさと授業するぞ」
「ちゃんと夏凛って呼んでくださいよー!」
「分かったよ、夏凛」
ご機嫌斜めのお姫様を宥めつつ、参考書のページをめくる。ああ、夏凛は面白いな。人と話していて「面白い」と思ったのは何年振りだろう。たまには、人と交流するのも悪くないかもしれないな――