第5話 気難しい生徒
俺たちは夏凛の模試の成績表を見て、改めて現在の立ち位置を確認した。どの科目も偏差値は高く、特に理系科目に関しては70近い。
「ふむ、なかなかいい点数が取れているみたいだな」
「でしょーっ!? 夏凛は成績だけは自信がありますから!」
ふふんと自信ありげな夏凛。別に悪くはない。数字だけ見れば青葉大学医学部を目指すのには十分だ。だが……中身が伴っていない。
「なあ、夏凛」
「なんですか? 夏凛の優秀な頭脳に怖気づきましたか?」
「そうじゃねえ。あのなあ、このままだと受からんぞ」
「えー? どうしてそんなこと――」
「勉強してないだろ、夏凛?」
「そそそ、そんなことないですよ!?」
図星だったのか、夏凛は目を泳がせる。やはりだ。たしかに悪い成績ではない。英語や数学の偏差値は70近いし、現役生が苦手とする物理と化学もそれなりの点数が取れている。だが、その点の取り方が問題なのだ。
「設問ごとの点数を見るとな、難しい問題は当たっているのに易しい問題を落としているんだよ。頭の良さで何とか出来ているだけで、基本的な知識は身に付いていない」
「ぎく」
口で効果音を出すな!
「特に化学なんかは知識問題をだいぶ間違えている。医学部受験生がこれではまずい」
「えー、そうですけどお……」
「このスタイルだと点数は安定しない。本番で下振れしたらアウトだ」
「で、でも!」
「駄目だ。外科医を失職させる前にお前が医者にならなきゃ話にならん」
「……はい」
「とにかく、医学部に行きたきゃ勉強してくれ」
「……」
むっとしてこちらの目を見る夏凛。
「不満か?」
「だってえ、嫌いなことは勉強したくないんだもーん!」
「えっ?」
「夏凛は勉強が嫌なんじゃないんですう! めんどくさいことをやりたくないんですう!」
「堂々と言うなよ!」
「嫌だ! 枕に参考書を仕込むだけで知識が頭に入ればいいのに!」
「そんな機序は医学部で習ってないぞ」
「やだやだー!」
駄々をこねる女子高生を前にして、どうしたもんかと呆然とする。部屋を見渡してみると、付箋が貼られた生命科学の本が散らばっていた。勉強自体が嫌いというより、好きな科目しか勉強できないタイプというわけか。きっと今から大学レベルの知識を身につけようとしているのだろう。
だが、それを生かすのも医学部に入ってこそだ。夏凛には悪いが、我慢して受験勉強に身を投じてもらうしかない。そもそもそれが俺の仕事だしな。俺は駄々をこねる夏凛の肩を掴み、落ち着かせる。
「おい、話を聞け」
「やだ、ふゆ先生ったら大胆♡」
「気持ち悪いことを言うな」
「きもっ……花の女子高生になんてことを言うんですかー!」
「花の女子高生はパンツ被らねえんだよ」
「じゃあ今度からブラジャーにします!」
「そうじゃねえよ!」
頭を引っ叩きたくなるのを辛うじて堪えた。なんというか、本当に平均的な女子高生とは外れているみたいだな。言いづらいけど、まるで若い男にセクハラする種類のおばさんみたいな――
「ふゆ先生、夏凛に悪いこと考えたでしょ」
「いや? そんなことないけど?」
「ふーん」
夏凛の低い声に肝を冷やした。こんな漫才をしている場合じゃなくて、ちゃんと聞くべきことを聞かないと。
「夏凛、そもそも夏休み中に勉強してたのか?」
「えっ?」
「だってよ、机もこんなに散らかってるし」
「……」
都合が悪くなったのか、目を逸らす夏凛。……コイツは恐らく天才型の受験生だろう。人よりも勉強しなくても点数が取れる、そういうタイプだ。そもそも机上のノートを開いた痕跡が全く見られないからな。
「分かった、勉強してなかったんだな」
「ちょっ、まだ何も言ってないんですけど!」
「逆に夏休みは何してたんだ?」
「……ゲームして、甲子園観てました」
「大学生かよ」
「花の女子高生です!」
「そうじゃねえ」
やはり地頭は良いが勉強しないタイプか。こういう受験生はある意味難しい。なまじ成績が良い分、こちらから強く指導できないのだが、受験本番でこけることも多い。確実に合格してもらうにはやはり勉強習慣を身に付けてもらわないとな。だけど単に言うだけでは駄目だろうしなあ……。
「なあ、どんなゲームが好きなんだ?」
「えー? パズルゲームとかですよ」
なるほど、やっぱり頭を使うゲームが好きみたいだな。ここは夏凛にひとつ敗北経験を与えて、受験生モードに頭を切り替えてもらうしかない。
「試しにゲームでもしてみるか?」
「えっ、いいんですか?」
「どーせ勉強は嫌いなんだろ」
「はい、体育のあとの靴下と同じくらい嫌いですっ!」
「花の女子高生じゃなかったのかよ」
「別にいいじゃないですか!!」
プリプリと怒りつつも、夏凛はいそいそとゲームの準備をしていた。床に散らばる本なんかを寄せて二人分の座布団を敷き、ゲーム機のケーブルをテレビにつなぎ、チャンネルを切り替えている。ちょっとレトロめのゲームみたいだな。
人の家でゲームをするなんて初めてかもしれない。昔から、同級生が友達の家でゲームをした話を聞くことしか出来なかった。俺は実家の物置にあった古い携帯ゲーム機をピコピコといじっていただけ。そんな古い記憶を思い出していると、夏凛が楽し気にコントローラを渡してきた。
「わーい、対戦なんて久しぶりです!」
「えっ?」
「だって両親はゲームしないし、友達もいないんですもん!」
「……やっぱり、俺と同じだな」
「何がですかあ?」
「靴下の匂い」
「夏凛いま裸足なんですけど!」
怒るとこはそこじゃねえだろ、と思いつつもコントローラを受け取る。夏凛は「負ける気がしない」と言わんばかりに腕をまくった。といっても、元が半袖のジャージだからノースリーブになるだけなのだが。
「じゃあ、スタートですよ!」
「おう」
夏凛が「START」のボタンを押すと、ピロンと音が鳴ってゲームが始まった。積み上げ系のゲームみたいだな、ルールだけは知っているが戦略なんかはあまり知らない。
「ふんふ~ん♪」
鼻歌を歌って快調に積み上げていく夏凛。それとは対照的に、俺の画面はどんどん苦しい局面へと変わっていった。あっという間に夏凛が勝利して、陽気な効果音が流れる。
「やったー!」
「あー、負けたか」
「頭脳明晰な夏凛に勝てるわけないよ!」
「よし、もっかいやろう」
「えー、好きなんだからあ」
とは言いつつも夏凛はご機嫌らしく、再び「START」のボタンを押していた。今度も夏凛は同様に積み上げていく。たしかに腕は悪くない。けど半分は勘でやっているようにも思えるし、これなら勝てそうだな。俺は夏凛の手順を参考にしつつ、自分なりに盤面を作り上げていく。
「……」
「あれ、ふゆ先生上手くなってないですか?」
「ん、まあな」
「んー……」
さっきよりも夏凛の表情が曇った。俺は俺で必死に画面と向き合っている。だんだん勝ち筋は見えてきたが、操作に不慣れなこともあってうまくいかない。結局は夏凛に僅差で逃げ切られる格好になり、この試合も負けてしまった。
「くっそー、今度も負けか」
「うん……そうですね」
「もっかいやるぞ!」
「もうやめましょ? 夏凛と一緒に勉強しましょ?」
「ずっと甲子園観てた奴に言われたかないぞ。ほれ」
「あっ、ずるい!」
夏凛が嫌だ嫌だと言っているうちに、こっちのコントローラで「START」を押してしまった。上機嫌なBGMが流れて盤面が現れる。この調子でいけば俺が勝てるだろう。今までの二戦でコツは掴んだし、あとは迷わない。
「ちょっと、ふゆせんせー?」
「なんだ?」
「なんで夏凛より上手くなってるんですか……?」
「さあ、なんでだろうな」
さらに暗い表情を見せる夏凛。悪いがお前には負けたという体験が必要なんだ。たしかに夏凛の頭脳は凄いのかもしれない。だが――それだけで乗り切れるほど大学受験は甘くない。
「あれ、あれ……?」
「そろそろ勝つぞ」
「ちょっ、待ってください!」
「待たん」
「やっ、やだあっ……!」
夏凛が悲痛な叫びをあげた瞬間、俺の盤面に「WIN」の文字が現れた。コイツは何も考えずに天性の勘でプレーしていたのだろうが、きちんと戦略を練って勉強した人間にはすぐに追い抜かれてしまう。
「俺の言いたいこと、分かるだろ?」
「……」
すっかり黙り込んでしまったな。おっと、そろそろ終わりの時間じゃないか。やれやれ、結局大して勉強を教えないまま終わってしまったな。
「夏凛、そろそろ授業は終わりだ。次はちゃんと勉強するからな」
「……ふゆ先生」
「なんだ?」
「次も、お願いします」
「? あ、ああ。じゃあ、今日は帰るから」
妙に真剣な表情をしている夏凛を横目に、帰宅の準備を始める。荷物を持って立ち上がると、夏凛は座ったままじっとこちらを見た。
「どうした?」
「……ふゆ先生、頑張るからね」
「?」
ローテンションな決意表明に見送られ、夏凛の部屋を出た。居間にいた母親と会話をしようかと思ったが、ちょうど晩飯の支度か何かで忙しいようで、軽く挨拶するだけにしておいた。玄関から家を出て、自宅の方に向かって歩き出す。
……そういえば、結局「気難しい」って何だったんだ? 基本的には明るい性格だし、会話にも問題がなかった。元の性格は暗そうだが、それも「気難しい」とはほど遠いよなあ。まあ、いいか。次の授業に備えるとしよう――