第4話 目指す先は
まず授業に入る前に、夏凛の成績と志望校を確認しなければならない。受験勉強というのは今の実力と合格ラインの差を埋める作業なのだ。そこをはっきりと把握せずにむやみやたらと勉強するだけでは、春を迎えることは出来ない。
「さて、改めて志望校を聞こうか」
「えー、いきなりそんなことまで聞いちゃうのお……?」
「色っぽく言っても駄目だ」
「むー」
むくれる夏凛をよそに、ぺらぺらと手元の資料をめくる。志望校の確認と言っても、事前資料で把握してあるので、形式的に確かめるだけなのだが。
「青葉大学医学部医学科……でいいんだな?」
「はい! ふゆ先生と同じとこです!」
「そうか……」
在学生の自分が言うのも変だが、青葉大学の医学部は結構な難関だ。誰でも簡単に入れるものではない。俺の同級生も何人か受験していたが、涙を呑んで浪人したりすべり止めに進学したりする者も多かった。だからこそ、夏凛には一つ聞きたいことがあった。……医学部を志望する理由は何か、と。
「なあ、夏凛」
「何ですか?」
「どうして医学部志望なんだ?」
「……」
夏凛は少し目を見開いた。事前資料を見る限り、コイツの偏差値は高い方だ。だがそれでも合格ラインにはまだ遠い。これから受験当日までは頑張って勉強しなければならないだろう。そのためには強い動機が必要だ。人を救いたいでも金が欲しいでも何でもいい。だが――生半可な動機では、いつか途中でガス欠してしまう。
「その前に、ふゆ先生はどうして医学部に入ったんですかー?」
「え、俺?」
「夏凛に聞く前に自分の話をしてくださいよー!」
目をキラキラさせてこちらを見る夏凛。俺の話か。話せば長くなるし、嫌なことも思い出してしまう。端的に話すことにしよう。
「……俺は救急医になりたかったんだ」
「救急医?」
「そうだ。道端、職場、学校。人はどこででも病気になるし、怪我もする。そういう人たちを助けたかった」
「へえ……」
「それは今も変わってない。ずっと俺の志望科は救急だ」
「そう……なんですね」
さっきとは打って変わって、夏凛は神妙な面持ちをしている。納得してくれたようで何よりだ。昔から自分の話をするのは得意ではない。話したところで誰も理解してくれないし、ただただ空しくなるだけ。だったら話さない方が良いだろう。
「それで、おま……夏凛はどうして医学部に行きたいんだ?」
「えー、そんなの聞いちゃいやーん」
「古いんだよ、今どきのJKがそんな言葉使ってどうすんだ」
「今どきのJKになった覚えはありませーん!」
「じゃあ何なんだよ」
「色気ムンムンのお姉さん……かしら?」
「髪型ボサボサのお寝坊さんだろ」
「ひっどー! 今日はお昼には起きたんですけどー!」
「ライフスタイルだけ夜のお姉さんじゃねえか」
いくら夏休みだからって怠けすぎだろう。それにそろそろ授業が再開されるはず。そんなんでちゃんと登校出来るのかねえ。いくら青葉二高の校則が緩いからって、あんまり遅刻してたら卒業できないぞ。
「で、肝心の志望動機は何なんだよ」
「まだ聞くんですかあ? もうよくないですか?」
「よくない。ちゃんと言え」
「だって言いたくないんだもん」
「どうして?」
「……笑われるから」
夏凛はそっぽを向いてしまった。さっきからテンションの浮き沈みが大きいな。こっちの質問をはぐらかすために陽気にしゃべっているようにも見える。それにしても「笑われるから」とはどういうことだろう?
「だけどな、言ってもらわないと困るんだ。生徒の現状を知るのは家庭教師の仕事、なんだろ?」
「それ、さっき夏凛が言ったことじゃん!」
「おっ、元気が出てきたな。いいから言ってみな」
「嫌です」
「強情だな!」
「恥ずかしいんですー! ……絶対に無理だって言われるから」
「……」
コイツは気丈に振る舞ってはいるが、さっきから影のようなものも見え隠れしている。こんな薄暗い部屋にずっといて、そのうえ友人もいないと言っていたからな。元は暗い人間なのかもしれない。他人と表面的に楽しく話すことは出来ても、自分の本心を他人に明かすことはしない。そういう点で見ても、やはり夏凛と俺は近いような気がする。
「なあ、夏凛」
「何ですかー?」
「別に笑ったりしない。だから教えてくれないか」
「えー、本当?」
「実はな、俺だって自分の志望動機を人に話したことなんてなかった」
「えっ?」
「あんまり自分のことを話したくないんだ。誰も分かってくれないってな」
「先生も……?」
「夏凛とは理由が違いそうだけどな。だけど気持ちはよく分かる」
「……」
夏凛は黙り込んでしまった。コミュニケーションで特に重要なことは、相手からの信頼を得ることだ。今の俺は、まだ夏凛から本心を明かすに足る信頼を得ることが出来ていない。だからこそ。自分の心を明かし、夏凛の心を開くことが必要なんだ。
「……あのね、ふゆ先生」
「ん?」
「夏凛のお父さん、外科医なんです。いっつも仕事してて、すっごく忙しそうで」
「……それで?」
静かに口を開き、語り始める夏凛。目には少しの涙を浮かべている。パンツを被っていたときとはえらい違いだな。
「夏凛はお父さんともっと一緒に遊びたかったんです。でも土日も仕事だーって出かけちゃうし」
「そうか」
「だから一度、文句を言ったことがあるんです。『どうしてそんなにお仕事ばかりしてるの?』って」
夏凛は滔滔と語り続ける。頬を流れ落ちそうになる涙をそっと拭ってやりつつ、文句を言う先がいることに羨ましさを覚えた。
「そしたら、お父さんはこう言ったんです。『お父さんはがんの患者さんをたくさん手術してるんだ。そのためには、休みの日もお仕事しないといけないんだ』って」
「……」
「だから、夏凛はお父さんを尊敬してるんです。でも、どうして家族を放り出すんだーとも思ってました」
「それがどうして医学部を志望することになるんだ?」
「えへへ、本当に恥ずかしいんですけど……」
照れ隠しのつもりなのか、夏凛は可愛らしくはにかんだ。きっとこれがコイツの素なんだろう。なんだか微笑ましく思っていたのだが――次の瞬間、想像以上の志望動機に驚かされることになる。
「夏凛の夢は、世界中の外科医を失職させることなんです!!」
「……えっ?」
ガタンと大きな音がしたかと思えば、夏凛は椅子の上に立ち上がって人差し指を突き立てていた。突然の行動にあんぐり口を開けている俺を横目に、さらに大声で叫ぶ。
「そもそも病気にならなければ手術なんていらない!」
「そ、そりゃそうだけど」
「だから夏凛は研究医になるんです!」
「!」
「自分が病気になる前にあらかじめ教えてくれる、そんな手段が欲しいんです!」
夏凛は堂々と自らの夢をぶち上げた。それと同時に、心の中に秘めた志の大きさに驚かされた自分がいた。この雑多な部屋といい、適当な受け答えといい、どこか夏凛のことを胡乱な人間だと思っていた。だがコイツは違った。それどころか、どの医学部志望者にも負けないような強い志望動機を持っていた。
「……ダメ、ですか?」
俺が何も言わないでいるのを変に思ったのか、夏凛が不安そうな目でこちらを見てきた。きっと同じことを言って、たくさんの人に笑われてきたのだろう。世界中の外科医を失職させる。たしかに、現実的な目標ではないかもしれない。だが――気に入った!
「いいぞ!!」
「えっ?」
「世界中の外科医をクビ! 痛快でいいじゃねえか!」
「ほ、本当ですか?」
「ああ! 親父さんのこともクビにしちまえ!」
「は、はいっ!」
みるみる夏凛の表情が明るくなっていく。俺は他人と交流するのは苦手だ。誰も自分のことを受け入れてくれないし、理解もしてくれない。だが――夏凛だけは別かもしれない。自らと同種の人間のうえ、医学への強い志を持っている。俺の心に、ふつふつと「夏凛を合格させてやりたい」という気持ちが湧きあがってきた。
「よし、夏凛! 絶対に受かるぞ!」
「えっ、ええっ?」
「お前を受からせないと駄目な気がしてきたんだ! さ、机に座れ!」
「あー、また『お前』って言ったー!」
「あれ、そうだったか?」
「ちゃんと夏凛って呼んでよー!」
「分かったよ、早く座ってくれおまえさん」
「そうじゃないってばー!」
ぶつぶつと文句を垂れつつも、夏凛はなんだか嬉しそうな表情を見せていた。最初は乗り気でなかったが、家庭教師というのも案外面白いかもしれないな。不思議と乗り気になった自分に少し驚きつつ、事前資料を開く。
「じゃ、まずは数学の成績から確認するぞ」
「はあい」
それにしても、随分と意外な志望動機だった。外科医の親父さんを見て研究医を目指すとはな。やはり人は見かけで判断してはいけないな。頑張れよ、夏凛。必ず合格させてやるからな――