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家庭教師先の天才少女は俺にだけ心を開いているらしい  作者: 古野ジョン


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第10話 味噌ラーメン大盛り

「ありがとうございましたー!」


 ペコリと頭を下げて最後の客が店から出ていくのを見送った。ここはバイト先の一つ、ラーメン店「うめや」である。とにかく金が必要なのでいろいろなバイトを掛け持ちしているのだ。新たに家庭教師を始めたとはいえ、この「うめや」のバイトを辞めるわけにはいかない。


「高梨くーん、そろそろあがっていいよー!」

「了解でーす」

「まかない作ってあげるから、ちょっと待ってね!」

「ありがとうございますー!」


 もう閉店時間なので、エプロンを脱いでカウンター席に腰掛けた。片付けもほとんど終わっているし、あとはラーメンを食べて帰るだけ。今日もよく働いたなあ。


「味噌ラーメン大盛りでいいよねー?」

「お願いしまーす」


 ここの店長は良い人で、俺の普段の食生活が大変貧しいことをよく理解してくれている。正直、この人が上司でなければ飲食店のバイトなんてする気が起きない。接客業はコミュニケーション能力があってなんぼだからな。ここで働いてる時はずっと心を無にしている。高梨冬雪ではなく、賃金を燃料にしているラーメン運搬ロボットとして労働しているのだ。なんてことを考えているうち、店長が盛り盛りのラーメンを厨房から運んできた。


「はいよ、お待ち!」

「すいません、いつもありがとうございます」

「いいっていいって! こちとら人手不足だからね、バイトは大事にしないと」


 店長はけらけらと笑った。この人はいつも快活に接客しているが、その目元にはクマが見えている。まだ二十代後半だというのに顔色も冴えない。人手不足というのは本当みたいで、馬車馬のごとく働いているのがなんとなく伝わってくるのだ。


 俺は目の前に置かれた丼をカウンターへと下ろす。熱々の野菜が盛られており、湯気がもうもうと立ち上っている。やっぱり暑い夏こそ熱いラーメンだよな。冷やし中華(仙台発祥らしい)もあるけど、俺はこっちの方が好きだ。


「いただきます」


 パキンと割り箸を割って、野菜の下に隠れた太麺を手繰り寄せた。ふーふーと軽く冷ましてから、ずるずると音を立てて啜る。うん、相変わらず美味い。小麦の香りを感じる麺に、芳醇な味噌の味わいがマッチしてベリーグッドだ。ラーメンを食っていると語彙力が三、四割落ちる気がするが、それはともかく。


 人が作った飯を食べる、という経験には飢えている。()()では滅多になかったことだ。一人暮らしになってから自炊をすることはあるが、それも大抵は安物のレトルト食品。他人と外食、なんてこともないし。メイとは……サシ飲みしようって感じでもないしな。


「高梨くん、美味しい?」

「はい、美味しいです!」

「それはよかった。腹いっぱい食べてね、痩せてて心配だからさ」

「あはは、すいません」


 痩せてるのは店長もじゃないですか、という言葉を飲み込んだ。俺たちの日常生活が薄氷のような労働力に支えられていることを強く実感する。誰かが病気になったら、誰かがけがをしたら。……その先はドミノ倒しだ。


 他人などと関わりたくない、と思っていても現実には誰かの支えが無ければ生きられない。それは俺も例外じゃないみたい。もっとも、支えられる側であったこともあれば、支える側だったこともある。自分のことを支えてくれている人間はすぐに思いつく。だが、俺は誰を支えることが出来ているのだろうか。直近で言えば――


「高梨くん、最近ちょっと変わったよね」

「えっ?」


 不意を突くようにして、店長がこちらに話題を振ってきた。何が変わったのだろうか、などと思考を巡らせていると、店長は詳細を説明し始めた。


「なんだか明るくなったよ。いや、前は根暗だったとか言いたいわけじゃないんだよ?」

「は、はあ」

「もちろん前から仕事は真面目にこなしてくれていたけど。……なんていうか、血が通っていない感じがしたんだよね」

「血、ですか」

「そう! だけど今日なんかさ、ちゃんと心を込めてお客さんに挨拶しているのがよく分かったよ」

「分かるものなんですか?」

「なんとなくね。彼女でも出来た? あはは」


 別に何かを変えたつもりはないし、ガールフレンドを得たわけでもない。社会で挨拶とされている言葉をなぞるだけ。バイトを始めてからずっとそうだったし、今日もそうしたはず。何が俺を変えたのだろう?


 最近にあった出来事を想起してみる。晩酌のビールを安い銘柄に変えた。メイが新商品のアイスクリームに文句を言っていた。大学の教務から早く書類を出せと催促のメールが来た。――家庭教師を始めた。


 ふと、思う。夏凛との出会いは鮮烈だった。別にパンツの山がという話ではなく、あのとてつもない目標と頭脳が鮮烈だったと言いたいのだ。そして――アイツの心が、誰にも照らされていないことも知った。


 そう意図したわけではないが、俺は夏凛の本心を引き出してしまったのかもしれない。それだけでなく、ひょっとして俺の方もいつの間にか自らをさらけ出していたのかもしれない。……他人に閉じていた心が、少しずつ開き始めたのかもしれないな。俺はラーメンを完食し、空になった丼を持った。


「ごちそうさまでした。自分で片付けますね」

「いいよいいよ! 僕に任せて今日はもう帰りな」

「いいんですか?」

「構わないよ。それより、次もよろしく」

「は、はい! 失礼します」

「うん、おやすみ〜」


 店長に別れを告げて、荷物を持って店の扉を開ける。外はいくらか涼しいが、まだまだ夏特有の熱気も感じられる。


「……帰るか」


 自宅の方向へと足を踏み出す。腹に溜まったラーメンのことを想いつつ、ゆっくりと帰路に就いた。ああ、明日のバイトは夏凛の家庭教師だ。今日はもう、家に帰って寝よう――

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