第十峠 家庭教師 番(ばん)野(の)旅(りよ)
父の切なる願い、それはどれだけ歪んでもまっすぐ伸びて――、
僕と頭乃が出会った日は寸分一秒の狂いのないくらい同時だったらしい。偶然家が隣通しで、偶然それぞれの家の中で産声を上げ、偶然高いところが好きで、子供部屋である二階の窓の位置も丁度真正面。偶然続きが続く中、唯一二人の違いがあるとすれば、それは外で遊ぶのが好きか中で遊ぶのが好きかだ。僕の親は太陽の下で遊んでほしかったようで、よく頭乃と組んで僕を外へ連れ出し遊ばせた。最初はそれが嫌で5歳の頃、夏の暑い日の真っ昼間、三度目の外遊びの時に自室のドアノブを棒で開かないように固定して引きこもり作戦を実行した。子供部屋にもクーラーがあったが、今日に限って壊れていたから窓を開けて暑さを凌いでいた。
(暑い……頭がくらくらする……)
室内でクーラーもかけないで、しかも窓の中に入ってくる風が少ないと、僕の体はいつの間にか汗びっしょりで火照っていった。水を取りに行こうにもドアの向こうには母がスタンバイしていて捕まったら最後。どうしたらこの暑さから解放されるだろう……。あれ? 何か今足首が冷たくなっ――!?
「にぃ……、捕まえたぞ……撫島ァ……」
「う、うわーー!!!!?」
いつの間にか頭乃が部屋に入ったかと思えば、僕の足首を掴んで怖い顔で笑っていた。無理くり振り解こうとする僕に、頭乃は即座に僕の足をがっちりと両腕で締め上げ、両足で僕の頭をクロスして締め上げた。子供同士の格闘だと親は言うだろうが、子供の僕にとって生まれて初めて技をかけられ、生まれて初めて死を予感した瞬間だった。
「あ、やりすぎた?」
「う……」
「ごめんごめん今緩めるから……」
頭乃は小さく呻く僕の声を聴いて「やばい」と思ったらしく、足の力を弱めてくれた。これで息が……
「冷たっ!」
「ん? どした撫島?」
この時僕は頭乃の体のあまりの冷たさに思わず叫んでしまった。すると頭乃は心配そうに手足を固定したまま顔を覗き込む。
「いや……もうちょっとこのままでいて……(ひんやり気持ちぃ)」
「ふ~ん。この私を氷代わりにしようというのか撫島よ。えい! えい!」
頭乃はからかうように僕に向かって足を絡めたり、くっつけたりしていたが、今の僕にとって頭乃は救世主であり、頭乃の体が触れる度に僕の体はひんやり気持ちよかった。
そう――その最中、偶然頭乃の足を舐めてしまったくらいには、頭乃の冷たさは僕を救ってくれたのだった。
番野旅。27歳。職業:家庭教師(元中学校教師)。引きこもり・非行・薬物などの中毒患者・虐待被害者などの子供を中心とした家庭教師を始めて早6年。撫島くんが10人目の教え子となるのだが……、生徒の部屋の前である光景を目の当たりにしていた。
「何……してんの?」
漸く部屋を出るようになった頃合いを見計らってやってきた旅の目の前には、引きこもりの少年が息を荒げながら見知らぬ少女の足を甘噛みしていた姿であった。
全身黒い布に黒タイツを纏い、左足だけをむき出しの左足の頭乃は、旅が言葉を言い終わる前に、素早く懐に忍ばせた煙玉を放り投げた。煙玉は一瞬にして二階の部屋から外の廊下まで広がり、左足の頭は咄嗟に鼻と口を黒布で塞いだ。煙玉の中には眠りの効果のある花粉が含まれ、それを吸い込んだ旅と撫島隆明は地面に崩れ落ちた。
二人が完全に眠りに就いたことを確認した左足の頭乃は、素早く二階の窓から逃げていった。
「どうしたんだ……って、ええ!?」
旅が倒れた音に気が付いたプラモデルの頭乃はすぐさま二階に辿り着き、事の事大さに驚いていた。灰色の煙が垂れこめる中に廊下で旅が、室内には隆明が倒れている。二人の口に近づくと息がある。
「なんでこんなところで眠ってるの……?」
プラモ頭乃は頭に大きなクエスチョンマークを浮かばせながら、とりあえず下にいる撫島の母に助けを呼んだのだった。
窓の外に出た左足の頭乃は、窓から見えない壁面まで移動し、ホッと呼吸を整えた。まさか予定外の行動を自分から取るなんて……。やっぱり『撫島隆明』は頭乃にとってそれほどまでに大きな存在だったのだろう。それが何なのかは分からないんだけど……。
(もっと一緒に居たかった……かな)
今まで父の命令に従って生きてきた左足だった自分が、初めて生まれた欲望。撫島の感触を思い出すように感じていた。
すると、自分の近くに人の気配が……、瞬時に左の窓端を見て驚愕する左足頭乃。
「あらら……ばれちゃったかな?」
そこには二階の窓から見えないギリギリの位置で優雅に佇む少女……胴体の頭乃が不敵な笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいた。
所変わって廃病院では、頭乃の父・一徹が自室に籠り、分厚い椅子に座って、ノートパソコンを開いていた。パソコンの中には頭乃峠のデータが全て入っており、六人の峠の目に録画機能を搭載しているのだが、現在は五人のデータしか残っていない。ただ一人、胴体の峠のデータだけが忽然と消えたのだ。自我が芽生えてからずっと父に従順だった胴体の峠が何故、魂の峠が行方不明になったのと同時に行方を眩ませたのか……。
(今になって……あの娘の心が理解できていなかった……)
峠は峠だ。どれだけバラバラにされても――、
あの時、崖崩れに巻き込まれ。体がバラバラになった状態でも、体の一部一部は幽かに動き続けていた。まだ生きたいと抗うかのように必死に生きようとしていた。
父は目を閉じ、ただ一人の娘・峠の事を思い出す。あの笑顔が絶えなかった峠、母と仲良くピクニックに行っていた思い出、母が居なくなってから淋しそうに俺に縋りついて泣いていた峠。
座っていた椅子の肘掛けに力が入る。
(峠……お前まで失うわけにはいかない……神も仏もないこの世界で俺は……、俺は…………っ!)
あの時生まれた父・一徹の情念は今もまだ消えてはいない。娘の邪魔をするもの全てを消し去り、たった一人の娘の笑顔を永劫守り続ける父の孤独な戦いは、まだ続いている。
撫島家に戻ると、峠は一回の撫島母に助けを呼んだが、キッチンにもどこにも母はいなくなっていた。もしかして買い物だろうか……? つまり今は自分がどうにかしないといけない。とにかく眠りこけた幼馴染の隆明と先生の肩を軽く揺すっていた。
「起きてください先生! ほら撫島も起きろ!」
先生が撫島の部屋の前で突然寝るなんてあるのだろうか……撫島は先生が来るのを忘れて寝るって言うなら分かるけど……。と、峠は揺すりながら考察するが、とにかく明確のない今二人を起こして聞きだした方がいい。
「あんたたちがそうなら考えがある……」
そう判断するや五段飛びで二階を降りると、自分が入っていたプラモデルの箱から何かを取り出し、二階の方の戻ると、両肩にそれぞれもう箱から取り出した二本の腕を装着した。
「四本腕となった私は……無敵! こちょこちょ攻撃~!」
撫島と先生の脇を、四つの手で同時に擽りだすと、二人は瞬く間に笑い交じりの叫びを出し飛び上がった。撫島は「おぎぇえ!」と腹が捩れて死にかけ、番野先生は「ごぅっ!」と思い切り壁に体を強打し悲鳴を上げた。悲鳴の瞬間、視界が頭乃峠の方を向き、「四本……?」と呟いたのち、気絶した。
「あ……えっと――、……ごめん、なさい」
峠はやりすぎた。助けようと動いた結果、撫島と先生は重傷を負うこととなったのだった。
ゆっくりと時間をかけて書いていますのでご了承ください。番野旅-ばんのりよ-家庭教師が動き出しました。左足頭乃の姿はまだほんわか、旅もほんわかでもうちょいかかりそうですね。凄い速さで書けたらいいけど、今はとりあえず余裕を持っていきたいと思います。では次回。