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「天才」 第二部 奮闘  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第26章~第33章




第二十六章



ここで明らかになった状況は、そういう優雅で寛大な展開にはならなかった。アンジェラは、注意深く、義務にこだわりがある人で、正しい行動と、才能ある芸術家の妻のものになる特権と機会と報酬のことばかり考えていた。彼が一時的に能力を失ったのは事実だが、将来有望なのは確実だった。おそらく最近の逆境の経験が、ユージンの実務的な本能を鍛えて研ぎ澄まし、自分のことを自分でやる必要性に無関心ではいられなくし、自衛本能と節約志向を高めたのではないか、と思い違いをしていた。ユージンはわずかなお金で生活するために随分うまくやってきたものだ、と思った。しかしこれからは二人でもっと上手にやるつもりだった……貯金をするつもりだった。豪華なアトリエや大勢の友人を持つのを楽しみにしていた愚かな夢をあきらめて、今は稼いだものの一部を、どれだけ少額でもいいから、たとえ一週間に十セントだけでも貯金をすることから始めるつもりだった。ユージンが毎日働いて週に九ドルしか稼げなくても、それで生活するつもりだった。持ち出した百ドルのうち九十七ドルはまだ手元にあり、これは銀行に預けてあるとユージンはアンジェラに伝えていた。絵の一枚が売れてその後その売り上げを使ってしまったことは話さなかった。ユージンが立ち直るまで、その後の売上金も銀行に入れておくつもりだった。そのうち、そこそこお金が儲かったら、家賃を払わずに住める家をどこかで買うつもりだった。最悪の場合は銀行に預けているお金の一部、そのごく一部を衣服に使うかもしれないが、どうしても必要なとき以外は手をつけないつもりだった。今アンジェラは服が必要だったが、そんなことは言っていられなかった。ユージンの九十七ドルにアンジェラが持参した二百二十八ドルが加えられて、この合計の三百二十五ドルはすぐにリバーウッドの銀行に預けられた。


アンジェラは自分の行動力と説明力に物を言わせて家具職人の家で四つの部屋を見つけた。娘が嫁に出たせいで空き部屋になったものなので、先方は事実上ただ同然で喜んで芸術家夫婦に貸してくれた。ここは美しい芝生の中にある個人の家だった。家賃は月十二ドルで、家具職人の妻デセナス夫人の目にウィトラ夫人はとても魅力的に見えた。浴室の隣りの二階の小さな寝室が、わざわざ彼女のために小さなガスストーブつきのキッチンに改装された。さっそくアンジェラは二人の収入が許すぎりぎりの水準で家事を始めた。部屋は家具が完全にそろっていたわけではなかったので、いくつか確保しなければならなかった。しかしアンジェラは、ニューヨークの中古品店に足繁く通い、すべてのデパートをくまなく見て回り、個人主催のセールを訪れたりして、安く買えて、すでにある化粧台、書斎用テーブル、ダイニングテーブル、ベッドにも合うものを少し見つけた。浴室とキッチンの窓に必要なカーテンは自分で裁断して、飾り付けをして、掛けた。ユージンの絵の売れずに展示もされていない分が保管されている倉庫まで行って、七枚持ち帰り、大広間とダイニングに飾った。すべてのユージンの服、特に下着と靴下がさっそくアンジェラの手にかかって、彼のかなり着古した衣類がすぐにいい状態になった。地元の市場で新鮮な野菜と少し肉を買って、美味しいシチュー、煮物、卵とフランス風の味わい深いミートジュースの組み合わせを作った。アンジェラのすべての家政の技術がフル活用されて、すべてを清潔に整然と見せ、食卓にさまざまな食べ物をふんだんに供給しつつ費用を抑えて、二人が週九ドルで生活できるだけでなくそのうちの一ドル以上をアンジェラの言う我が家の銀行口座に蓄えることができた。アンジェラは小銭が十五ドル入って、いっぱいになれば開けられる、小さな中空の茶色い水差しを持っていて、意識的に努力して何度もいっぱいした。アンジェラの唯一の願いは夫を回復させて世間の注目を集めることだった……今度は踏みとどまることだった……アンジェラはこれをやることに決めていた。


また、よく考え、いろいろな人と話をしてみて、ユージンを激しい情欲に駆り立てるのはユージンにとってもアンジェラにとってもよくないことだとわかった。ブラックウッドのある女性が、自制心の欠如に起因する運動失調症の症例を指摘してくれたおかげで、他の多くの神経系障害も同じ原因で発生すると信じられていることを学んだ。おそらくユージンはそれだった。アンジェラはユージンを彼自身から守ろうと決めていたものの、自分が傷つけられるとは思わなかった。それにしてもユージンはとても影響を受けやすく、とても感情に流されやすかった。


この状況が悩ましいのは、最近の自由で、ユージンにとって楽しかった生活様式からの急激な変化が、ほとんど苦痛であることだった。どうやらアンジェラはすべてのことに満足しているらしく、ユージンのすべての日々が品行方正で勤勉に満ちていたと思っているのが、ユージンには見て取れた。背後にいるカルロッタの存在は疑われなかった。アンジェラの考えは、二人はこれから一緒に懸命に働いて、一つの目的のために……ユージンの、もちろん回り回って彼女の成功のために……単純で理想主義的な方針に沿って進むことだった。


ユージンはその良さを十分に理解したが、あくまで他人にとってふさわしいものとして理解したに過ぎなかった。彼は芸術家だった。生活に関係する普通の法則が、芸術家にまともに当てはまるはずがなかった。芸術家には知的自由と、好きな場所に行き、好きな人と付き合う特権があるべきだった。この結婚というものは、楽しむための合理的な機会をすべて断ち切ってしまう忌々しい(くびき)であり、ユージンは束の間の自由を得た後で、今またその軛をしっかりと首にかけられた。つい最近まで現実だった喜びと幸福に満ちたすばらしい夢が……カルロッタと一緒に暮らしたいという願いが……カルロッタがいる上流社会に入って、気楽で自然な形で彼女と付き合いたいという願いが……すべて消えてしまった。毎日働いて週に九ドルもしくはその月額相当分を家に入れるべきだとアンジェラが主張したため、ユージンは休んで生じる不足分を補填するために、残金三百ドルから除外しておいたわずかなお金をしっかり管理する必要に迫られた。今はもうカルロッタに夜会うチャンスはなかったので、会うためには毎週午後か午前中に定期的に休みを取る必要があった。ユージンは遠出しても平気な服装でいつものように朝七時十五分前に小さなアパートを出た。いざという時のために、こうするのが自分の習慣だとアンジェラには告げてあった。工場に行くときもあれば、行かないときもあった。待ち合わせ場所まで市内を疾走して彼を運ぶ路線があり、状況に応じてそれに乗ることもあれば彼女と一緒に歩くこともあった。ユージンもカルロッタも、伴うリスクを常に考えはしたが、それでも関係を継続した。幸か不幸か、ノーマン・ウィルソンがシカゴから戻って来た。そのためカルロッタの行動は慎重を期さねばならなかったが、彼女は気にしなかった。カルロッタは、手頃な修理工場で借りられて、見られたり気づかれたりする場所からすばやく二人を遠ざけてくれる自動車というものを最も頼りにしていた。


これは困難と危険がつきまとう、ややこしい人生だった。欺瞞には平穏も幸福もないのだから、そこに平穏はまったくなかった。ひと時の燃えるような喜びの後に、必ず心をかき乱す後悔が続いた。絶えず良心の呵責があるのは言うまでもないが、カルロッタの母親、ノーマン・ウィルソン、アンジェラといった警戒すべき相手までいた。


これが長続きしないのは、こういう状況のわかりきった結論である。破滅の種はそれ自体の中にあるのだ。私たちは、人の目に見られていないときの自分たちの行動は、ないも同然だと考えがちだが、これは事実ではない。そういうものは漠然と本人の中に織り込まれて、どう取り繕おうが最終的に本当の自分としてはっきり表に出てしまう。人は、我々がすべてを暗闇と妄想するところで、見えて、見られもする精神体を説くバラモン教の教義を受け入れているのかもしれない。直感の事実を説明しようにもその他に仮説がないのだ。とても大勢の人が直感を持っている。そういう人たちは、どうして自分が知っているのか知らないのに、とてもよく知っているのである。


アンジェラはユージンのことになるとこの直感が働いた。ユージンを愛する気持ちが大きかったため、ユージンに関する多くのことを、それが起こるずっと前に予知したり察知したりした。アンジェラはユージンと離れている間はずっと、彼と一緒にいるべきだという考えに取り憑かれていた。ここにいて、出会いと調整の最初の興奮が終わった今は、何かを意識し始めていた。ユージンは別れる少し前の彼と同じではなかった。彼の態度は愛情を優しく見せはしたが、よそよそしくて上の空だった。ユージンには隠し事をする力がまったくなかった。ユージンは時々……彼女と一緒にいるときはほとんど……考え事という霧の中で途方に暮れているように見えた。家庭の事情でカルロッタがあまり彼に会うことができなかったから、ユージンは寂しくて少し恋煩いにかかっていた。同時に、秋が近づいていたこの時期、ユージンはスペオンクの工場にも飽き始めていた。灰色の日々と時々大地に降りるちょっとした寒気のせいで、工場の窓が閉ざされて、彼が初めてここに来たときここの特徴だったあのロマンチックな雰囲気が作業場から奪われた。夕暮れ時に川のほとり沿いを進んでカルロッタに抱かれに行くことができなかった。ビッグ・ジョン、ジョセフ・ミューズ、マラキ・デンプシー、リトル・サッズの物珍しさが薄れてしまった。所詮、彼らはただの労働者に過ぎず、時給にして十五から十七セント半も稼いでいないことに悩み続け、お互いや上司に嫉妬し、人類が継承するすべての短所と弱点だらけなことが、近頃わかり始めてもいた。


ユージンはとても変わっていたから彼が来たことは、彼らにとってもちょっとした息抜きになった。しかし彼の奇妙さはもう珍しくなかった。ユージンを割と普通の人間として見るようになり始めてもいた。彼は確かに芸術家だったが、その行動や腹の中は他の人間のものとそれほど大きく違わなかった。


この種の工場は、いろいろな条件が重なって人々が一緒に働くことを強いられる他のどの施設とも同じで、天候の良し悪し、気分の浮き沈みに関係なく、簡単に本物の地獄になりかねず、そうなることが多かった。人間の本性は、微妙で、怒りっぽく、理屈に合わないものである。それは道徳の原則や合意の条件ではなく、気分や気質によって支配されている。こういう人たちは家庭の問題や秘密の病気だか悲しみの霧のようなものに包まれてここまでたどり着いたものの、自分たちのすべての災いの原因が、どういうわけか自分たちの心の状態ではなく自分たちの周囲のせいだと信じていることを、ユージンは哲学者であるだけに容易に理解できた。仏頂面をすれば仏頂面が返ってくる。ぶっきらぼうな質問をすればぶっきらぼうな答えが返ってくる。過去に一度言った文句が原因で、ある男とある男の間には長年のわだかまりがあった。ユージンは陽気さと、たとえ作り物でも絶えない愛想のよさを取り入れることで、いろいろな問題を回避したり乗り越えることに役立っていると思ったが、これはあくまで相対的に見て事実であるだけだった。ユージンの陽気さは、彼が時々戦わざるをえなかった気難しいつっけんどんと同じくらい、陽気な精神をなくした人たちをひどくうんざりさせかねなかった。この状態がそうやすやすと改善しないことは簡単にわかったので、元気になってここから出て行くか、せめて仕事の形態だけでも変えたいと思った。彼の存在は当たり前のものになった。人を楽しませ魅了する彼の力はほとんどなくなっていた。


この状況は、アンジェラの誠実な保守主義の精神と結びついて悪かったが、さらに悪化する運命だった。ユージンを見守って彼の気分を読み解こうと努力しているうちに、アンジェラは何かを疑うようになった……それが何かはわからなかった。ユージンはかつての彼ほどアンジェラを愛してはいなかった。彼の愛撫には、彼女のもとを離れたときにはなかった冷たさがあった。一体何があったのだろう、とアンジェラは自問した。ただその気がなかっただけなのか、さもなければ何だろう? ある日、ユージンがカルロッタとの午後の外出から戻ってきて、挨拶がてら抱きしめたときに、アンジェラは大真面目で尋ねた。


「私のこと愛してるの、あなた?」


「僕が愛してることはわかってるだろ」ユージンは断言したが、勢いがなかった。昔最初にアンジェラに抱いた感情を取り戻すことはできなかった。そんなものは微塵もなく、あるのは同情と哀れみだけで、散々苦労をかけておきながら彼女があまりにもひどい扱いをされていることを一応は気の毒だと思っていた。


「いいえ、愛してないわ」相手の言葉の虚ろな響きに気づきながらアンジェラは答えた。声は悲しげで、目はあの切なげな絶望の痕跡を見せた。彼女は時々いとも簡単にこの絶望の中に沈み込むことができた。


「愛してるに決まってるだろ、エンジェルフェイス」ユージンは言い張った。「どうしてそんなことを聞くんだい? 何があったんだい?」ユージンは、アンジェラが何かを見たか聞いたかして、この探りを入れた質問の陰に知っていることを隠しているのだろうか、と訝っていた。


「何もないわよ」アンジェラは答えた。「ただあなたは私を愛していないわ。事情はわからないけど。理由もわからないけど。でもね、私はそれをここで感じ取ることができるのよ」アンジェラは手を胸に当てた。


この行動は本心から出たもので計算されたものではなかった。幼子の振る舞いと同じだったので、ユージンは胸を痛めた。


「なあ、やめろよ! そんなことを言わないでくれ」ユージンは訴えた。「僕が愛していることはわかってるだろう。そんな暗い顔しないで。愛してるって……そんなこともわからないのかい?」そしてユージンはアンジェラにキスをした。


「いいえ、愛してないわ!」アンジェラは言った。「わかってるんだから! あなたは愛してないわよ。ああ、あなた! 私、気分が悪いわ!」


ユージンはいつものヒステリーがまた始まるのかと恐れていたが始まらなかった。疑いに確たる根拠がなかったのでアンジェラは機嫌を直してユージンの夕食の支度に取りかかった。しかしアンジェラは落ち込み、ユージンは気が気ではなかった。もしアンジェラがつきとめたら、どうなるのだろう! 


さらに数日が経った。カルロッタは時々工場に電話をかけてユージンを呼び出した。ユージンの住んでいるところに電話がなかったからだが、もしあったとしてもカルロッタはそんな危険を冒さなかっただろう。カルロッタは、ヘンリー・キングスランドに宛てて署名が必要とされる書留をスぺオンクの郵便局付で送った。そこでならユージンはウィトラとして知られていなかったので、こういう手紙を簡単に受け取ることができた。いつもとても慎重な表現で落ち合う方法が記されていた……この上なく曖昧で謎めいた指示だったが、ユージンには理解できた。二人は落ち合い方を大ざっぱに決めた。「木曜の二時がダメなら金曜の二時、それでもダメなら土曜。何かあれば速達書留を送る」という具合で続いた。


ある日の正午、ユージンは手紙を受け取りにスペオンクの小さな郵便局まで行った。カルロッタが前日会えなかったので代わりに翌日手紙を書くと電話をくれたからだった。無事に手紙を見つけ、一瞥してから……ほんの数文字しかなかった……いつもどおりバラバラに破って投げ捨てることにした。しかしカルロッタが自分を表すときに時々使う「バラの灰」という表現と、「ねえ、ジーニー!」の出だしは、これをユージンにとって何とも言えない大切なものにした。ほんのいっとき……もう二、三時間……手もとにおいておこうと考えた。たとえ見つかったとしても、自分以外の者にはわからないと考えた。「橋、二、水曜」ここでいう橋とはモリス台地のハーレムに架かる橋だった。ユージンはその日、要望どおりに約束を守った。しかし何かの運命のいたずらで、自宅のドアを入るまで手紙のことを忘れていた。それから手紙を取り出し、すばやく四、五枚に破って、ベストのポケットにしまい、チャンスがあり次第処分するつもりで二階にあがった。


その一方でアンジェラは、二人がリバーウッドで暮らすようになってから初めて、六時頃工場の方へ散歩に出かけ、帰宅するユージンを出迎えることにした。この川の美しさと、朝夕その川岸を歩くのがどんなに楽しいかをユージンが語るのを聞いていた。彼は穏やかな水面と張り出している葉っぱが大好きだった。アンジェラはすでに何度か日曜日にユージンと一緒にそこを散歩したことがあった。夕方、出かけるとき、ユージンがこれをどんなに喜んで驚くだろうと考えた。二人が家についたときに夕食が遅れないように、アンジェラは出かける時点で支度をすべて済ませてあった。工場に近づくと笛が鳴るのが聞こえた。川の向こう岸の灌木の茂みの陰に立って、かわいらしく「ワッ!」と言ってユージンに飛びかかろうと待っていたのに、相手は一向に現れなかった。


ここで働く四、五十人の男たちが黒い蟻の小さな行列のようにぞろぞろ出てきた。それでもユージンが現れないので、アンジェラは笛が鳴り終わってから、正式な門番になったジョセフ・ミューズが閉めにかかっている門へと向かった。


「ウィトラはここにいるかしら?」アンジェラは鉄格子越しにのぞき込みながら尋ねた。ユージンはとても正確にジョセフの特徴を伝えていたので、アンジェラはひと目で彼だとわかった。


「いいや、奥さん」美しい女性が工場の門前にいることは普通はないので、ジョセフはこの魅力的な客人に当てられて気を取り直して答えた。「四、五時間前に帰りましたよ。記憶が正しければ、一時に帰ったと思います。今日はうちらと一緒の仕事じゃなかったもんでね。旦那さんは作業場で働いてたんですよ」


「どこへ行ったのか知りませんか?」アンジェラはこの新しい情報に驚いて尋ねた。ユージンはどこかへ行くようなことを何も言っていなかった。どこに行ったのだろう? 


「さあ、わかりませんね」ジョセフはべらべらとよく喋った。「時々こんなふうに帰っちゃうんです……ちょいちょいですよ、奥さん。奥さんから電話があって……あれ……あなた、奥さんですよね」


「そうよ」とは言ったものの、アンジェラは自分が何を言っているのか、もはや考えておらず、言葉がすぐに機械的になっていった。ユージンは頻繁に早退するのだろうか? アンジェラには何も言っていなかった! 奥さんから電話がある! また女ができたのかしら! すぐに昔の疑心、嫉妬、恐怖が一斉に目覚めた。どうして今までこの事実に気づかなかったのか不思議なくらいだった。もちろん、これでユージンの気のない態度が説明できた。彼が上の空でいることも説明がついた。ユージンは、アンジェラ、あの惨めな生き物のことなど考えてはいなかった! 誰か他の人のことを考えていた。しかし証拠がないので、アンジェラは確信が持てなかった。二つの巧みな質問をして、工場の誰も彼の妻を見たことがない事実を引き出した。ユージンはちょうど帰ったところだった。しかも女が電話で呼び出していた。


憶測の炎が渦巻く中、アンジェラは家路についた。帰宅してもユージンの姿はまだそこになかった。彼は時々帰りが遅くなることがあった。彼の言い方だと川を眺めるためにぶらぶらしているからだった。これは芸術家なら自然だった。アンジェラは二階に行き、かぶっていたツバ広の麦わら帽子をクローゼットにしまい、キッチンに行って彼の帰りを待った。ユージンとの経験と彼女自身の気質が、アンジェラに微妙な役回りを演じる決心をさせた。アンジェラは出かけなかったふりをして、ユージンが話すまで待つつもりだった。大変な一日だったかどうかを尋ねて、工場にいなかった事実をユージンが明かすかどうかを確かめるつもりだった。そうすれば、ユージンが何をしているのか、意図的に彼女を騙しているのか、がアンジェラにはっきりとわかるだろう。


ユージンが階段を上がってきた。十分陽気な態度だったが、見からないところへ紙切れを隠そうと気をもんでいた。アンジェラには彼に挨拶する時間もなかった。


「あなた、今日はお仕事大変だったの?」ユージンが自分から先に早退したことを切り出さないと見るやアンジェラは尋ねた。


「それほど大変じゃなかったよ」ユージンは答えた。「疲れているようには見えないだろ?」


「そうね」と苦々しく言ったが感情を隠していた。アンジェラはユージンがどのくらい徹底して意図的に嘘をつくのか見極めたかった。「でも、お疲れかもしれないって思ったの。今夜も立ち止まって川を眺めてたのかしら?」


「そうだよ」ユージンはさらりと言ってのけた。「あそこはとてもすてきだからね。全然飽きないよ。最近黄色くなりだした葉っぱに降り注ぐ日差しがとても美しくてね。一定の角度からだと、少しステンドグラスっぽく見えるんだ」


アンジェラの気性は激しくて、時にはほどんど制御できなくなるほどだったから、これを聞いた後は真っ先に「どうして私に嘘をつくの、ユージン」と叫びたかったが、自分を抑えた。アンジェラはもっと突き止めたかった……やり方がわからなかった。しかし少し待つことさえできれば、時間が力になってくれるだろう。ユージンはあっけなく難を逃れた幸運を祝いながら風呂に行った。あまり質問攻めにされなかったので気がゆるんでいた。しかしこの束の間の喜び気分の中で、ベストのポケットにある紙くずを忘れた……しかし長時間ではなかった。コートとベストをフックに掛け、新しいカラーとネクタイをとりに寝室に入った。ユージンが寝室にいるうちに、アンジェラは浴室のドアを通り抜けた。アンジェラはいつもユージンの服装を、その痛み具合を、気にしていたが、今夜は他のことを考えていた。取り急ぎ、直感で、ポケットをまさぐり、破れた紙切れを見つけた。それから言い訳できるようにコートとベストをおろして、いくらか汚れをとった。同じときに、ユージンは手紙を思い出した。手紙というか紙切れを回収しに急いで駆けつけたが、アンジェラがすでに持っていて、じろじろ見ていた。


「これは何だったの?」アンジェラは尋ねた。 警戒していた彼女の疑り深い性格が総出でさらなる証明を求めた。どうしてユージンは破れた手紙の切れ端をポケットに入れておかねばならなかったのだろう? アンジェラは何日もの間、何かが起こりそうな予感がしていた。ユージンのすべてが妙に調査を必要としているように思えた。今、すべてが明らかになりかけていた。


「何でもないよ」ユージンはそわそわしながら言った。「ただのメモさ。ゴミ箱に捨ててくれ」


アンジェラはユージンの声と態度がおかしいことに気づいた。彼の後ろめたそうな目つきが気になった。何かが変だった。この紙切れに関係があるのだ。おそらくこの中にユージンの行動の謎を読み解く鍵があるのだろう。ここに女の名前が書いてあるのかもしれない。この断片をつなぎ合わせればいいとぱっとひらめいたが、同じくらいの早さで無関心を装えと促す別の考えも浮かんだ。そっちの方が有効かもしれない。今、無関心を装えば、後で知ることも増えるだろう。手が空いたときにつなぎ合わせようと思いながら、紙切れをゴミ箱に放り込んだ。ユージンはアンジェラのためらいと疑心に気がついた。彼女が何かをするのを恐れたが、それが何なのかは想像できなかった。紙切れがほとんど空のゴミ箱の中に舞い落ちると、呼吸は楽になったが緊張は続いた。燃えてしまえばいいんだ! アンジェラが紙切れをつなぎ合わせようとするとは思わなかったが、ユージンは気が気ではなかった。浮かれた気分でこの罠にはまらなかったら、彼は何だってしていただろう。





第二十七章



アンジェラはすみやかに自分の考えを実行に移した。ユージンが風呂に入るが早いか、さっきの紙切れをかき集め、似たような他の紙切れはもとの場所へ放り投げ、自分が今いるアイロン台の上でそれらをすばやくつなぎ合わせようとした。難しい作業ではなかった。紙切れが小さくなかったからだ。三角形の紙切れには「ねえ、ジーニー!」の文字があり、その後にコロンがあった。別の紙切れには「橋」の文字、また別の紙切れには「バラ」とあった。とりあえず調べてみたが、これがラブレターであることに疑いの余地はなかった。この恐ろしい意味に、彼女の体の全神経がぴりぴりした。これは本当のことだろうか? ユージンは他の相手を見つけたのだろうか? ユージンの冷淡な態度も、偽善的な愛しているふりも……そしてアンジェラを彼のところに来させたがらなかったのも、これが原因だったのだろうか? ああ、神さま! 彼女の苦しみは絶対に終わらないのだろうか! 顔面蒼白で、動かぬ証拠の紙切れを手に握りしめて、アンジェラは居間に駆け込んで、そこで自分の仕事を完成するために作業を始めた。大して時間はかからなかった。ものの四分ですべてがまとまり、そのときにすべてがわかった。ラブレターだ! どこかの性悪女からのものだ。それだけは間違いない! 陰に誰か謎の女がいる。「バラの灰!」妖婦、泥棒猫、たぶらかす蛇、見境なく男に色目を使う女に天罰を。そしてユージンにも! 犬! ろくでなし! 卑劣な卑怯者! 裏切り者! ユージンの魂には良識、道徳、優しさ、感謝の気持ちがないのだろうか? アンジェラに散々、忍耐、苦しみ、孤独、貧困を味わわせておきながら、こんな仕打ちをするなんて! 病気だの、孤独だの、アンジェラとは一緒にいられない、と書きつづっておきながら、同時に見知らぬ女と遊び回っていたのだ。「バラの灰!」ああ、この女の娼婦の心と頭に呪いあれ! 他人の神聖なものを横取りする、ひねくれものの野蛮な女を、神さまが打ち殺してくださいますように。アンジェラは必死に手を握りしめた。


アンジェラはすっかり我を忘れた。怒り、憎しみ、嫉妬、悲しみ、自己憐憫、残忍な復讐願望が、激流となってアンジェラの可憐な小さな頭の中を通り抜けた。せめてこの女にたどり着けたらいいのだが! せめて今、面と向かってユージンを糾弾できたらいいのだが! せめて二人一緒の現場をおさえて殺せたらいいのだが! どれほど相手の口を殴りつけてやりたいか! どれほど相手の髪をむしり、目をくり抜いてやりたいか! 相手の女のことを考える間、アンジェラのきらめく目の中でフォレストキャットの残酷な怒りに似たものが輝いた。もしカルロッタひとりをここに連れ出すことができたら、アンジェラは焼きごてで拷問し、舌と歯を根元から引き抜き、ぶん殴って意識を失わせ、見分けのつかない塊にしていただろう。もはや本物の雌のトラで、目がぎらつき、真っ赤な唇が濡れていた。アンジェラは相手を殺すつもりだった! 殺す! 殺してやる! もしも相手を見つけたら、神が裁くように相手を殺して、ユージンと自らの命を絶つつもりだった。そう、本気でそうするつもりだった。こうしてもだえ苦しむくらいなら、死んだ方がましだった。こんな風に苦しむくらいなら、この獣のような女を道づれにしてユージンもろとも死んだ方がはるかによかった。アンジェラはこんな目に遭わされるいわれはなかった。神さまはどうしてこんなに彼女を苦しめるのだろう? こんなに献身的に愛しているのに、どうしてアンジェラは歩むたびに血を流すはめになるのだろう? 彼女はいい妻ではなかったのだろうか? 優しさ、忍耐、滅私奉公、自己犠牲、純潔というありとあらゆる貢ぎ物を愛の祭壇に捧げなかっただろうか? 神はこれ以上何を求めるのだろう? 人はこれ以上何を求めるのだろう? 病めるときも健やかなるときもアンジェラはユージンに奉仕し続けたのではなかっただろうか? ユージンがここで愛欲と背徳に自分の健康と時間を浪費していた七か月の間、アンジェラは服もなく、友だちもなく、ブラックウッドに身を潜めて過ごしていた。彼女の報酬は何だったのだろう? シカゴでも、テネシーでも、ミシシッピでも、アンジェラはユージンに奉仕し、幾晩も徹夜で付き添い、彼が不安がるときは一緒に床を歩き、貧困や破滅の恐怖におびえる彼を慰めたのではなかったか。そして七か月も辛抱強く待ち続け、見守り続け……悲痛な思いを続けた末に……今ここで捨てられてしまった。ああ、人間の心にこれほど想像を絶する非人間性があったとは! これほど卑劣で、これほど下劣で、これほど不親切で、これほど残酷な人間がいただろうか! あの黒い目の、柔らかい髪をした、笑顔のユージンが、こんなにも信用できない、こんなにも狡猾な、こんなにも卑劣な人間だったなんて! ユージンは本当にこのメモが証明するとおりの卑劣な人なのだろうか? 野蛮で、身勝手なのだろうか? アンジェラは起きているのか、それとも眠っていたのだろうか? これは夢だろうか? ああ、神さま! いや、違う、これは夢ではなかった。冷たくて、つらい、悩ましい現実だった。そしてすべての苦悩の元凶は、今、浴室の中で髭を剃っていた。


一瞬、アンジェラは彼が立っているところまで行ってひっぱたいてやろうかと思った。心臓をえぐり出し、切り刻んでやれたらいいと思ったが、突如ユージンが血を流して死ぬ姿が浮かんだので、すくんでしまった。だめだ、だめだ、そんなこと自分にはできない! ああ、だめだ、ユージンにそんなことをするなんて……それにしても、それにしても……


「ああ、神さま、この手を相手の女にとどかせたまえ!」アンジェラは思わずつぶやいた。「この手を女にとどかせたまえ。殺してやる、殺してやる! 殺してやる!」


浴室のドアノブの物音がして、ユージンが出て来ても、この怒りと自己憐憫の激流はまだ心の中で荒れ狂っていた。ユージンはアンダーシャツとズボンの姿で靴を履き、清潔な白いシャツを探していた。バラバラの状態でゴミ箱に投げ込まれたメモのことが気になって仕方がなかった。しかしキッチンをのぞき込んで、そこにまだ切れ端があるのを見て少し安心した。アンジェラはそこにはいなかった。彼女の居場所を突き止めたら、戻って回収すればいいのだ。ユージンは途中で表に面した居間をのぞきながら、寝室に入った。アンジェラは窓際で彼を待っているようだった。結局ユージンが思ったほどアンジェラは疑ってはいないのかもしれなかった。彼の思い過ごしに過ぎなかったのだ。ユージンはあまりにも神経質で敏感すぎた。できることなら、今すぐあの紙切れを回収して窓から捨てるつもりだった。アンジェラが調べたくなっても、そのチャンスを与えるべきではなかった。ユージンはキッチンに忍び込んで、すばやく小さなゴミの山をつかみ、紙切れを飛ばしてしまった。すると一気に気分がよくなった。ユージンはもう誰からの手紙も絶対に持ち帰るつもりはなかった。これは確かだった。運命はユージンをかなり目の敵にしていた。


浴室のドアノブの音で少し正気に戻ったのか、少ししてからアンジェラが出てきた。逆上して脈が乱れ、全身は足もとまで震えていたが、それでも彼女は自分には考える時間が必要だとわかっていた。まずはこの女の正体を突きとめねばならなかった。女を見つけ出す時間を稼がなくてはならなかった。ユージンに知られてはならなかった。女は今どこにいるのだろう? この橋はどこだろう? 二人はどこで会ったのだろう? 女はどこに住んでいるのだろう? どうして私はすべてを考え出すことができないのだろう、どうしてこれは瞬時に思いついてはっきりしないのだろう、と悩んだ。知ることだけでもできればいいのだが! 


数分後にユージンが、きれいに髭を剃り、笑顔で、落ち着きと心の平穏をかなり取り戻して現れた。手紙は処分された。アンジェラはもう知ることができなくなった。疑っていたかもしれないが、この嫉妬の爆発する可能性はつぼみのうちに摘み取られた。ユージンは腕を回そうとしてアンジェラに近寄ったが、彼女は砂糖を取りに行くふりをして彼からすり抜けた。ユージンは仲睦まじい雰囲気を作る努力……行為の意志表示……をやめて、魅力的な料理が並べられた雪のように白い小さなテーブルに座って、給仕されるのを待った。その日は十月初旬のとても気持ちのいい日だった。ユージンは名残惜しそうな最後の一筋の光が赤や黄色の葉に落ちるのを見て喜んだ。ここの庭はとても美しかった。この小さなアパートは、貧乏ったらしい割にとても魅力的だった。アンジェラは茶色と緑が入り混じった上品なホームドレスを清楚に着飾っていた。ダークブルーのエプロンが胸とスカートを覆っていた。アンジェラはとても真っ青で取り乱している様子だったが、ユージンはしばらくの間それにほとんど気づかなかった……彼は安心しきっていた。


「ひどく疲れているのかい、アンジェラ?」ユージンはようやく気遣うように尋ねた。


「ええ、今日はあまり気分がよくないのよ」アンジェラは答えた。


「何をしていたんだい、アイロンかけかい?」


「ええ、そうよ、あとはお掃除ね。戸棚も片付けたわ」


「あまり根を詰めるのはよくないよ」ユージンは明るく言った。「きみはあまり丈夫じゃないんだ。自分を小さな馬だと思っているかもしれないけど、ただの子馬なんだ。のんびりやった方がいいんじゃないかい?」


「自分に合うようにすべてを整えてから、そうするわ」アンジェラは答えた。


アンジェラは自分の本当の気持ちを隠そうと必死になっていた。これまでに一度も、このような試練を経験したことがなかった。昔のアパートであの二通の手紙を見つけたとき、アンジェラは自分が苦しんでいると思った……しかし、これに比べたらあれは何だったのだろう? フリーダに抱いた疑惑は何だったのだろう? 家で孤独に恋しい思いをしていたのは、彼の病気を嘆き心配していたのは、何だったのだろう? 全然何でもなかったのだ! 現に今、ユージンはアンジェラを裏切っていた。今やアンジェラは証拠を手に入れた。ここに女がいた。女はすぐ近くのどこか目のとどかないところにいた。結婚して親密な間柄になって何年もたつというのに、ユージンはアンジェラをだましていた。今日も、昨日も、その前の日も、この女と一緒にいたかもしれないのだ。手紙には日付がなかった。女がヒバーデル夫人の身内ということはありえるだろうか? ユージンは、結婚した娘がいると言っていたが、同居しているとは言わなかった。もし娘がそこにいたのなら、どうしてユージンは引っ越さなければならなかったのだろう? ユージンならしなかっただろうに。相手は彼が最後に一緒に住んでいた男性の妻だろうか? 違う、あの女は地味過ぎた。アンジェラはその女を見たことがあった。ユージンならあの女とは付き合わないだろう。知ることだけでもできればいいのだが! 「バラの灰!」目の前で世界が赤くなった。しかし、今、事を荒立てても無駄だった。冷静でいられれば、事態はよくなるだろう。せめて話相手がいれば……牧師か親友でもいればよかったのだが! 興信所に行くのもいいかもしれない。興信所なら力になってくれるかもしれない。探偵ならこの女とユージンの跡を追えるだろう。アンジェラはこんなことをやりたかったのだろうか? これには金がかかる。今はとても貧乏なのだ。ああ! なぜアンジェラが二人の貧困や、自分の服の仕立て直しや、帽子のない生活や、まともな靴も履けない暮らしを心配しなければならないのだろう。ユージンは自分の時間を無駄に使って、どこかの恥知らずな売女と楽しくやっているというのに! もし彼にお金があったらその女に使うだろう。しかしユージンは東部に持ってきたお金のほぼ全額をそのままアンジェラに渡していた。これはどういうことだろう? 


ユージンはずっとアンジェラの向かいの席でもりもりと食事をしていた。手紙の問題がうまく片付かなかったら食欲もわかなかっただろうが、今は気楽なものだった。アンジェラはお腹が空いていないから食べられないと言った。アンジェラがパン、バター、ハッシュドポテト、お茶を出すと、ユージンはおいしそうに食べた。


「あの工場をやめようと思うんだ」ユージンは明るく切り出した。


「どうしてよ?」アンジェラは機械的に尋ねた。


「あそこに飽きたのさ。もうあそこの連中にはあまり興味がわかなくてね。あいつらに飽きたんだ。ハヴァーフォードさんに手紙を書けば異動させてくれると思う。そう言ってたからね。できれば保線区の作業チームみたいなのと一緒になって外に出たいんだ。工場って閉め切ってしまうと、かなりわびしくなるからね」


「まあ、あなたが飽きたのならそうした方がいいわ」アンジェラは答えた。「あなたには気分転換が必要なんですもの、わかるわ。ハヴァーフォードさんに手紙を書いたらいいじゃない?」


「そうするよ」とは言ったものの、すぐには書かなかった。ユージンは表に面した居間に行き、終いにはガスに火をつけて、新聞を読み、それから本を読み、それからだるそうにあくびをした。しばらくするとアンジェラが入ってきて、青ざめた疲れた様子で腰を下ろした。まだ繕っていない靴下やその他の半端なものが入っている小さな裁縫箱を取りに行って、作業を始めたが、ユージンのために何かをしていると考えると嫌気がさしたので、それを片付けて作りかけの自分のスカートを取り出した。ユージンは審美眼を使ってアンジェラの顔のさまざまな寸法を測りながら、しばらくの間ぼんやりと眺め、バランスのとれた顔をしている、と最後に結論づけた。髪に当たる光の効果……光が髪に及ぼす独特の色合い……に注目し、それを油絵で表現できないか考えた。夜の風景は日差しの豊富な昼の風景よりも難しかった。影がやたらと信頼を裏切るからだった。ユージンはようやく立ち上がった。


「じゃ、僕は寝るね」と言った。「疲れたよ。六時に起きないといけないんだ。ああ、この忌々しい日雇い労働ってやつはこたえるよ。もう終わりにしたいな」


アンジェラは話せるか自信がなかった。つらさと絶望でいっぱいだから、話をすれば泣いてしまうと思った。ユージンが立ち去り際に「すぐ来るのかい?」と言うとアンジェラはうなずいた。ユージンがいなくなると嵐が勃発した。アンジェラは目が見えなくなるほどの大量の涙を流した。悲しみだけではなく怒りと無力感の涙だった。アンジェラはそこにあった小さなバルコニーに出て、ひとりで泣いた。夜の光が物悲しげに輝いていた。最初の嵐がおさまると、再び緊張して涙をふき始めた。怒ったアンジェラがなすすべもなく泣くのは異例のことだった。涙をふくと、さっきのように顔面は真っ青になり、自暴自棄になった。


犬、ろくでなし、けだもの、卑怯者! そんなことばかり考えた。よくこれまで彼を愛してこられたものだ。どうすれば今の彼を愛することができるのだろう? ああ、生きるのが恐ろしい、この不当な仕打ちが、この残酷さが、この情けなさが! こんな男と一緒に泥沼に引きずりこまれるとは。ああ、情けない! 恥ずかしい! これが芸術ならそんなものは滅んでしまえ! アンジェラはこの忌まわしい男をたぶらかす「バラの灰」の署名の主を憎んだようにユージンを憎んだかもしれないが、それでも、彼を愛してもいた。アンジェラはどうすることもできなかった。自分がユージンを愛していることを知っていたからだ。ああ、こんなふうに二つの情熱がすれ違うなんて! いっそ死んでしまおうか? 今すぐにでも死んでしまおうか? 





第二十八章



愛の地獄はつらくてまさに地獄そのものだった。その後、アンジェラがユージンを監視し、家から水辺まですてきな小道を尾行したときのこと、八百フィートも行かないうちに彼がいきなりすり抜けるようにいなくなる日々があった。ユージンと愛人がそこで落ち合うかもしれないと予想して、一時と六時にリバーウッドの橋を見張った。たまたまそのときカルロッタが十日間夫と町を離れざるを得なかったので、ユージンは事なきを得た。ユージンは二度ダウンタウンに行った……彼を魅了してやまない昔の生活の息吹を感じたくて大都会の中心部に行った。アンジェラは彼を尾行したがすぐに見失った。しかしユージンは何も悪いことをせず、ミリアム・フィンチやクリスティーナ・チャニング、ノルマ・ホイットモアは今ごろ何をしているだろう、自分の長い音信不通をどう思っているだろう、と考えながらただ歩くだけだった。彼が知っていた人の中では、ノーマ・ホイットモアに一度会っただけだった。それも彼がニューヨークに戻って間もない頃だった。病気について要領を得ない説明を彼女にして、そろそろ仕事をするつもりだと述べて、会いに行くとは言ってあった。しかし一向に絵が描きあがらない理由を説明するのが嫌だったから、発言をしないですむ一番いい方法をとった。ミリアム・フィンチにはひどい扱いをしたことがあったので、彼女はユージンの不調を喜んでいるといってよかった。すぐにわかったことだが、クリスティーナ・チャニングはオペラに出演中だった。ユージンは次の十一月のある日、彼女の名前が新聞に掲載されたのを見た。彼女はその才能に大きな期待が寄せられるスターであり、もっぱら自分のキャリアにしか興味がなかった。「ラ・ボエーム」と「リゴレット」で歌うことになっていた。


もうひとつ、この時ユージンにとって幸運だったのは、彼が仕事を変えたことだった。ある日、工場にアイルランド人の現場監督、ティモシー・ディーガンがやって来た。自分の下で働くイタリア人の日雇労働者を「ギニア」と呼んで二十人もかかえた親方で、ユージンは彼をえらく気に入った。背丈は中くらい、身体と首が太く、明るくて健康的な赤ら顔、目は鋭くキラキラした灰色で、硬くてきちんと刈り込まれた白髪と口髭があった。ディーガンはスぺオンクの動力室に、夜間の作業時に工場に明かりを供給することになる小型発電機の土台を設置しに来ていた。彼の車は、板、手押し車、モルタルボード、つるはし、シャベルなどが満載された工具車で、バックで入れてあった。ユージンは、ディーガンの言い出したらきかない反抗的態度と、部下に指示を出すときのてきぱきとした態度を面白がったり驚いたりした。


「マット、来い! ジミーも来い! さあ、シャベルをもて! つるはしをとれ!」ユージンはディーガンが叫ぶのを聞いた。「砂をここに持って来い! 石を持ってこい! セメントはどこだ? セメントはどこにあるんだよ? 何てこった! セメントが要るんだってばよ。お前らみんな何してやがるんだ? ほら、行った、行った! セメントを持って来やがれ」


「うーん、あの人は指示の出し方を心得てますね」ユージンは近くに立っていたビッグ・ジョンに言った。「確かにそうだな」ビッグ・ジョンは答えた。


ユージンは最初、掛け声しか聞かなかったので「アイルランドの野蛮人め」と腹の中で思ったが、後になって、不敵にあたりを見回しながらドアのところに堂々と立つディーガンの目に得体の知れないきらめきを発見した。そこに野蛮さは全然なく、自信と、時間厳守へのこだわりを持つアイルランド人の心意気があるだけだった。


「あなたは男の中の男だ!」やがてユージンは豪語して笑った。


「はっ! はっ! はっ!」ディーガンはあざ笑って返した。「お前だってこいつらみたいな重労働をしなきゃならなくなったら、笑っちゃいられんぞ」


「僕はあの人たちを笑ってるんじゃない。あなたを笑ってるんです」ユージンは説明した。


「笑えばいいさ」ディーガンは言った。「お前からすれば俺はおかしいだろうが、俺からすればお前がおかしいんだ」


ユージンは再び笑った。アイルランド人は、我ながらうまいことを言ったと納得して自分も笑った。ユージンが両手で軽く相手の大きなごつごつした肩を叩くと、二人はすぐ友だちになった。ユージンはなぜここにいて、何をしているのか、をディーガンがビッグ・ジョンから聞き出すまでに長い時間はかからなかった。


「芸術家だって!」ディーガンは言った。「あいつは中よりも外の方がいいと思うがな。ああいう奴はどうせ梱包か、鉋をかけるか、俺を笑ってるだけだろうが」


ビッグ・ジョンは微笑んだ。


「あいつは外に出たがってると思うね」と言った。


「そんじゃ、俺んとこへ来るかな? あいつならギニアどもとだって立派に仕事していけらぁ。きっと一人前の男になれるって……ものの二、三か月でな」……そして泥をシャベルですくっているアンジェロ・エスポージトに矛先を向けた。


これはユージンの耳に入れてやったほうがいいとビッグ・ジョンは考えた。ユージンがギニアたちと一緒に働きたがるとは思わなかったが、ディーガンとは一緒にいたがるかもしれない。ユージンはチャンスだと思った。ディーガンを好きだったからだ。


「リハビリ中の芸術家を招いてあなたの下で働かせたくないですか、ディーガン?」ユージンはやんわりと探ってみた。ディーガンは断るかもしれないと思ったが、それは問題ではなかった。試してみる価値はあった。


「ああ、来いよ!」ディーガンは答えた。


「僕はイタリア人と一緒に働かなくちゃならなくなるんですか?」


「やりたければ話は別だが、つるはしやシャベルを手にしなくても、やる仕事はいくらだってあるんだ。あんなものは白人がやる仕事じゃない」


「じゃあ、あいつらを何と呼ぶんですか、ディーガン? あいつらは白人じゃないんですか?」


「白人じゃねえのは確かだな」


「じゃ、何なんですか? 黒人じゃありませんよね」


「黒人だってばよ」


「でも、黒人じゃありませんよ」


「だからって、白人とは限るめえ。誰だって見りゃわかるって」


ユージンは微笑んだ。こういう本音の結論を導き出せる生粋のアイルランド人気質をすぐに理解した。そこには悪意はなかった。ディーガンはこのイタリア人たちを見くびっているわけではなかった。部下のことは好きだったが部下は白人ではなかった。彼らが何者なのかを正確には知らなかったが、白人ではなかった。ディーガンは次の瞬間には部下の上に立って叫んでいた。「ほら、上げろ! 上げるんだ! 下ろせ! 下ろせってば!」まるで彼のすべての魂が、このかわいそうな部下たちから最後の力まで搾り取ってこき使おうとしているかのようだったが、そんなときでも実際のところ、部下たちはあまり一生懸命に働いてはいなかった。ディーガンが叫ぶとき、その視線はざっと全体を見渡していたが、部下たちはそんな彼にほとんど注意を払わなかった。たまに「来いよ、マット!」と、もっと穏やかな調子を挟むことがあったが、その口調はあまりにも穏やかで、彼の他の声とは似ても似つかなかった。ユージンはそのすべてをはっきりと見てディーガンを理解した。


「あなたが受け入れてくれるのなら、ハヴァーフォードさんに頼んでそちらへ配置換えをしてもらおうと思います」その日のあがりに、ディーガンがオーバーオールを脱ぎ、彼の言う「イタ公ども」が車に道具を戻す頃に、ユージンは言った。


「いいぜ!」ハヴァーフォードという大物の名前に驚いてディーガンは言った。こういう手の届かないところいる超大物を通してそんなことができるのなら、ユージン自身も非凡な人物に違いない。「来いや。喜んで迎えるぜ。合否の記入と、報告書の作成と、たまに俺が不在の時間帯の見張りなんかができりゃいいんだ……まあ……何やかんやで、手間暇空かねえがな」


ユージンは微笑んだ。これは幸先がよかった。朝のうちにビッグ・ジョンは、ディーガンが本線のピークスキルから、ミッドランド管区のチャタム、第三支線のマウント・キスコを経由してニューヨークまで往復することを彼に伝えていた。縦穴、暗渠(あんきょ)、石炭庫、建物の控え壁……小さなレンガ造りの建造物……要するに有能な石工の親方ならつくれて当然のものをディーガンはすべて作った。さらに、彼は自分の仕事にかなり満足していて幸せだった。ユージンにはそれがわかった。この男の雰囲気は健全だった。まるで強壮剤だった……この病弱で張りつめた感傷家に活を入れる発電機だった。


その夜、ユージンは自分の新しい状況にすっかりご機嫌でわくわくする気持ちでアンジェラの待つ家に帰った。ユージンは考えていて楽しかった。アンジェラにディーガンの話をしたかった……笑わせたかったのだ。残念ながらユージンは別の種類の迎え方をされる運命だった。


この時までにアンジェラは、自分が発見したものの苦しみに耐えて限界点に達していた。嘘だと知りながら、これ以上我慢できなくなるまで、ユージンの作り話に耳を傾けてきた。彼を尾行しても何も発見できなかった。仕事が変われば追跡は一層難しくなるだろう。当の本人でさえ自分の日々の所在を知らなかったので、彼の尾行は誰にもできなかった。ここかと思えばあちらであり、神出鬼没なのだ。安全を確保したいのと自分が不公平な扱いをされている実感が、重要でもないことにも几帳面でいようと彼を神経質にした。いざ考えると、ユージンは自分がしていることを恥じていた……全面的に恥じていた。酔っぱらいと同じで、彼は自分の弱さに支配されているようだった。彼の態度の心理状態はとてもわかりやすかった。ユージンは、アンジェラのやつれた疲労の表情を見て彼女が何かの病気になりかけていると思ったので、優しく撫でた。彼にはアンジェラが、彼に対する心配、過労、あるいは病気になりかけていて、苦しんでいるように見た。


ユージンは誠実ではなかったが、アンジェラに同情を惜しまなかった。彼はアンジェラの長所を高く評価した……彼女は誠実であり、倹約家で、彼のことになるとすべてに献身的で自分を犠牲にすることをいとわなかった。ユージンは自分自身の自由への憧れが、自分に馬鹿げた献身を求めるアンジェラの願いとすれ違うことが残念だった。ユージンは自分がアンジェラが求めるような形で彼女を愛することはできないのがわかっていた。それでいて時々それをとても残念に思うことがあった。ユージンは、アンジェラが自分を見ていないときに彼女を見て、その勤勉さ、忍耐強さ、美しい容姿、数々の困難に直面してもめげずに穏やかでいることを称賛し、アンジェラには自分と出会って結婚するよりももっと良い運命があったのではないかと思った。


ユージンはアンジェラにこういう感情を抱いていたから、彼女が苦しむ様子を見るのが耐えられなかった。アンジェラが病気に見えるときは、そばに近づいて、どんな様子かを知りたがって、彼女にとって効果が絶大だとわかっているあの同情的で感情豊かな態度を見せつけて、元気づけようと努力せずにはいられなかった。他ならぬこの晩も、ユージンはアンジェラの一向におさまらないやつれた苦悶の表情に気がつくと一言言いたくなった。「ここのところ、どうしたんだい、エンジェルフェイス? とても疲れているように見えるだけど。きみはまともじゃないよ。何があったんだい?」


「あら、何もないわよ」アンジェラは疲れた様子で答えた。


「いや、あるってば」ユージンは答えた。「元気が出ないんだろ。何に悩んでるんだい? ちっともきみらしくないからね。僕に話してごらんよ、ねえ? 何があったんだい?」


アンジェラが何も言わなかったので、きっと本当に体調が悪いに違いないとユージンは考え始めていた。感情的な不満ならすぐに消えたからだった。


「どうしてあなたが気にするのよ?」アンジェラは自分に課した沈黙の誓いを破って慎重に尋ねた。ユージンと、誰であれこの女は、私を打ち負かそうとたくらみ、しかも成功しつつある、とアンジェラは考えていた。彼女の声は、疲れたあきらめの声から不満と怒りが微妙に見え隠れするものに変わり、ユージンはそれに気がついた。アンジェラがその先を言う前に、ユージンが言っていた。「どうして僕が心配しちゃいけないんだい? 全く、何て言い草だい! 一体どうしちゃったんだよ?」


アンジェラは本当は話を続けるつもりはなかった。ユージンの明らかな同情によって、質問が引き出されてしまったのだ。ユージンはアンジェラに一応はすまないと思っていた。これはアンジェラの苦しみと怒りを一段と大きくした。そしてユージンのさらなる質問はアンジェラをさらに苛立たせた。


「どうしてあなたが心配するのよ?」アンジェラは泣きながら尋ねた。「私のことなんかいらないくせに。好きでもないくせに。私が少し具合悪そうに見えるときは同情するふりをするけど、それだけ。でもあなたは私のことなんか気にかけていないわ。追い出せるものなら、追い出す気でいるくせに。見え透いてるわよ」


「ねえ、何の話をしてるんだい?」ユージンは驚いて尋ねた。アンジェラは何かを見つけ出したのだろうか? 紙くずの一件は本当に片付いたのだろうか? 誰かがアンジェラにカルロッタのことで何かを話したのだろうか? たちまち、ユージンはわけがわからなくなった。それでもユージンはしらを切り通さねばならなかった。


「僕が気にかけていることは知ってるだろ」ユージンは言った。「どうしてそんなことが言えるんだい?」


「気にかけていないからよ。自分が気にかけていないことは自分が知ってるでしょ!」アンジェラは突然怒り出した。「どうして嘘をつくのよ? 気にかけていないくせに。私に触らないでよ。そばに来ないでよ。あなたの偽善的な態度にはうんざりよ! そしてアンジェラは爪を手のひらに食い込ませながら姿勢を正した。


最初の不信の表情がアンジェラに浮かんだときに、ユージンはなだめるように彼女の腕に手を添えていた。だからアンジェラはユージンから飛び退いたのだった。今度はユージンが、途方に暮れて、ぴりぴりし、少し喧嘩腰になって後ずさりした。悲しみよりも怒りと戦う方が簡単だったが、どちらとも戦いたくはなかった。


「どうしたんだい?」ユージンは、うろたえた何も知らない表情を装って尋ねた。「僕が何をしたっていうんだい?」


「自分がしなかったことを聞いた方がいいわ。あなたは犬よ! この卑怯者!」アンジェラは激怒した。「私をウィスコンシンに置き去りにしておいて、あなたは恥知らずな女と遊び回っていたくせに。否定しないでよね! 否定しないでったら!」……これはユージンの頭の反論の動きに向けたものだった……「私は全部知ってるんだから! 私は知りたくないことまで知ってるんだから。あなたがどんな役を演じてきたのかを知ってるわ。あなたが何をしてきたのかを知ってるわ。あなたがどうやって私に嘘をついてきたのかを知ってるわ。私がブラックウッドでじっとして悲しみに暮れている間、あなたは最低の性悪女と遊び回っていたのよ。それがあなたのしてきたことだわ。いとしのアンジェラ! いとしのエンジェルフェイス! いとしのマドンナ・ドロローソ! ふん! あなたがそう呼んでいる相手は、あなたを嘘つきで偽善者の卑怯者って呼んでるわ! その相手からすればあなたの名前は、偽善者! 野蛮人! 嘘つき! よ。私はあなたが何をしてきたのかを知ってるわ。ああ、私って物知りね! どうして私は生まれたの?……ああ、どうして、どうしてかしら?」


アンジェラの声は苦悶の泣き声の中に消えた。ユージンは驚いてその場に立ち尽くし何もできなかった。とるべき行動も、かけるべき言葉も、一つとして思いつかなかった。アンジェラが何を根拠にして不満を訴えたのか、ユージンには思い当たるものがまったくなかった。自分が破り捨てたあの小さなメモの内容よりもはるかに大きなものがあるに違いない、と思った。アンジェラは内容までは見ていなかった……ユージンはてっきりそうだと信じていた……果たして信じていただろうか? 彼が風呂に入っている間にアンジェラがそれをゴミ箱から取り出して、またもとに戻しておくことはできただろうか? この線が濃厚に思えた。あの夜アンジェラはとても機嫌が悪そうだった。どのくらい知っているのだろう? この情報はどこで手に入れたのだろう? ヒバーデル夫人か? カルロッタか? 違うな! アンジェラが相手の女を目撃したのだろうか? どこで? いつだろう? 


「きみは随分と無茶苦茶なことを言うね」ユージンは時間を稼ぐために目的もなく喋りまくった。「きみはどうかしてるよ! とにかく、どうしてそんなことを思いついたのかな? 僕はそんなことをしたことはないんだが」


「まあ、したことがないですって!」アンジェラはあざ笑った。「橋やロードハウスや路面鉄道で女と会ってはいなかったの? この嘘つき! 相手の女を『バラの灰』とか『川の精』とか『天使の少女』と呼んではいなかったのかしら」アンジェラは当てずっぽうで名前と場所を作り出していた。「どうせクリスティーナ・チャニングにつけた愛称をその女にも使ったんでしょ? 下品な売春婦っていうのは、そういうのが好きなんでしょ! そして、あなたは、あなたみたいな犬は、そうやって私をごまかすのよ……同情してるふりをして、孤独なふりをして、私がここにいられないのを残念がるふりをするのよ! 私がしていることや、考えていることや、苦しんでいることに、散々気遣っておきながらね。ああ、あなたなんか大嫌い、このおぞましい卑怯者! その女も嫌いよ! あなたたちがひどい目に遭うことを願うわ。もし今、その女を突き止めることができたら、女もあなたも殺してやる……そして私も死ぬわ。死んでやる! 死ねたら本望よ! 死ねたら本望だわ!」


ユージンはアンジェラが語る間に自分の罪の大きさを理解し始めていた。今ようやく自分がどれほど残酷に彼女を傷つけたのかがわかった。今ようやく自分のしていることがどれほど卑劣に彼女の目に映っているのかがわかった。これは悪いことだった……よその女と遊び歩いていたのだから……それについては疑いの余地がなかった。これはいつもこうやって終わった……まともに返事ができないひどい名前で呼ばれるのを、そこに座って聞くしかない凄まじい嵐。ユージンは他人事としてこういう話を聞いたことはあったが、それが我が身に降るかかると考えたことはなかった。しかも最悪なのは、自分に非があり、そうなっても仕方がないことだった。そこに疑問の余地はなかった。このことは彼の自己評価を低下させた。アンジェラはこうやって戦わねばならなかったので、彼の評価でも彼女の評価でもアンジェラの価値を低下させた。どうしてユージンはこんなことをしたのだろう? どうしてユージンはアンジェラをこんな状況に引きずり込んだのだろう? これは、世間の目を前にした男性が持つ唯一の支えとなる、自分へのプライドを打ち砕いていた。どうしてユージンはこんな状況に陥ったのだろう? 彼は本当にカルロッタを愛していたのだろうか? こういう口汚いののしりでも我慢できるほどの快楽が欲しかったのだろうか? これは修羅場だった。どこで終わるのだろう? ユージンの神経はうずき続け、頭痛がひどくなっていた。彼が別のタイプを求める欲望に打ち勝って、誠実でいられさえすればよかったのだが、それはそれでひどいことに思えた! アンジェラのことしか考えないようにするなんて! それはできなかった。ユージンはそこに立って嵐の猛攻に耐えながら、こういうことを考えていた。これは恐ろしい神明裁判だったが、それでさえ必ずしも更生には結びつかなかった。


「そうやって泣きわめいて何になるんだ、アンジェラ?」ユージンはこの話をすべて聞き終えてから険しい顔で言った。「これはきみが考えるような悪いことじゃないんだよ。僕は嘘つきでもなければ犬でもない! きみはきっと、僕がゴミ箱に捨てたあのメモをつなぎ合わせて読んだんだね。いつそんなことをしたんだい?」


ユージンはこれと、相手がどこまで知っているのか、に関心があった。アンジェラはユージンをどうしたいのだろう? カルロッタをどうしたいのだろう? 次は何をするつもりだろう? 


「私がいつそんなことをしたかですって?」アンジェラは繰り返した。「私がいつそんなことをしたのか? それが何だっていうのよ? あなたは何の権利があって聞くのかしら? この女はどこにいるのよ? 私が知りたいのはそれだわ。私はその女を見つけたいのよ。毅然と立ち向かいたいのよ。その女に何て哀れな獣なのって言ってやりたいのよ。その女に別の女の亭主を盗みに行く方法を教えてやるわ。そいつを殺してやる。そいつを殺してあなたも殺してやる。聞いてる? あなたを殺すから!」そしてアンジェラは大胆不敵に猛然とユージンに迫った。


ユージンは肝をつぶした。女性がこんなに怒るのを見たことがなかった。実にすばらしい、魅力的な、凄まじい稲妻が天を切り裂く嵐のようだった。アンジェラには怒りの雷を落とす能力があった。ユージンはそれを知らなかった。このことは彼のアンジェラの評価を高めた……確かに、彼女はそうでなくても魅力的だったがそれ以上にアンジェラを魅力的にした。どんな形で発揮しようが、力は魅力的だった。アンジェラはとても小さくて、とても厳格で、とても決心が固かった! これはある意味で、大きな能力の検査だった。アンジェラの悪態は腹に据えかねたが、ユージンはアンジェラのそういうところは好きだった。


「やめてくれよ、アンジェラ」ユージンは同情的に、アンジェラの悲しみを和らげたい一心で言った。「きみはそういうことをする人じゃない。きみにできるはずがない!」


「やるわよ! やってやる!」アンジェラは断言した。「女もろともあなたも殺してやる!」


そして、この最高潮に達したとたん、アンジェラはいきなり崩れ落ちた。ユージンが大きな同情心を持って諭しにかかれば、アンジェラは結局かなわなかった。アンジェラの怒りの真っ只中でも熟慮を続けられる彼の辛抱強さ、自分にはどうすることもできないしするつもりもないと端から嘆いていること(これは顔全体に書かれていた)、これだけのことがあってもアンジェラが愛してくれるのはわかっていると自らの態度でその事実をとてもはっきりと見せているのだから、彼女にはたまらなかった。手で石を殴るようなものだった。この女が誰であろうと、アンジェラはユージンと女を殺しかねなかったが、女に対するユージンの態度を変えることはできなかっただろう。それこそがアンジェラがやりたいことだった。心臓が張り裂けそうなすごい嗚咽がアンジェラからわき起こって、全身を葦のように震わせた。アンジェラはひざまずくように崩れ落ちながら、キッチンのテーブルの上に両腕と頭を投げ出すと、泣き続けた。ユージンは、自分がアンジェラの夢を壊してしまったことを思いながらそこに立ち尽くした。確かに地獄だと心で思った。確かにその通りだった。アンジェラの言うとおり、ユージンは嘘つきで、犬で、ろくでなしだった。かわいそうなアンジェラ! さぞかし辛かっただろう。今、ユージンに何ができるだろう? 何かあるだろうか? もちろんない。ひとつもなかった。アンジェラは傷ついた……心が折れてしまった。この世にそれを治すものはなかった。破られた戒律には司祭が罪の赦しを与えればいいかもしれないが、折れた心にはどんな治療法があるのだろう? 


「アンジェラ!」ユージンは優しく呼びかけた。「アンジェラ! ごめんよ! 泣かないでくれよ! アンジェラってば! 泣くのをやめてくれよ!」


しかし、アンジェラには彼の声が聞こえなかった。何も聞こえなかった。自分の置かれた状況がつらくてどうしていいかわからなくなり、そのかわいらしい小さな体が粉々になるのではないかと思えるほど、震えながらすすり泣くことしかできなかった。





第二十九章



このときのユージンの同情はかなり長く続いた。こういう状況だと、いつでもひどい目に遭った犠牲者を抱きしめられるし、少しくらい同情や後悔の言葉をかけられる。改心の中に実在するこの優しさと後悔はまた別物である。そのため、悪を見ることができないほど純粋な目で見なければならない。誰かが一時間、あるいは何時間苦しんだところでユージンが生まれ変わることはなかった。彼の同情的な関心があれば、アンジェラは満足だった。ユージンはアンジェラと一緒にとても苦しんだが、彼が美しさを楽しむ精神的権利だと考える強い欲望を、振り切るとか打ち消すほどではなかった。カルロッタ、あるいは自分を魅了したり反対に自分に魅了された他の女性と、自分が密かに熱い視線や感情を交換したとして、それが何の害になるんだ、とユージンは自問しただろう。この性格の親しみやすさまでが本当に悪と呼ばれてしまっていいのだろうか? ユージンは、アンジェラが持つべきお金を全然、もしくはほんの少ししか渡していなかった。ユージンは相手の女性と結婚したいわけではなかった……それに、相手の女性も実際は自分との結婚を望んでいるわけではないとユージンは考えた……いずれにしても、そんなことはありえなかった。ユージンは女性と交際がしたかった。それがアンジェラにどんな害を及ぼすのだろう? アンジェラが知らなければ何の害も及ばない。当然、アンジェラが知れば、彼女にとっても彼にとっても大きな不幸だった。しかし、もし立場が反対で、自分が今やっているようなことをアンジェラがやっていたとしても自分は気にしないだろう、とユージンは考えた。そして、もし彼が気にしないとすれば、それは彼が愛していないからであり、アンジェラは愛しているからだ、と付け加えることを忘れた。こういう推論は堂々巡りになる。ただ、これは推論ではない。感傷的で感情的な無秩序である。その中には先へ進もうという意志はない。


アンジェラが怒りと悲しみの最初の爆発から立ち直ったとき、事態はまったく同じというわけにはいかなかったが、ただ先にだけは進み続けた。どの方面で頑張ってもピークは一度しかない。それを越えると、ぶつぶつ不満をもらすとか、怒鳴るとか、あるいは一度くらい鮮烈なぶり返しはあるかもしれないが、二度目のピークはない。アンジェラはあらゆる欠点と悪癖をあげてユージンを非難したが、重苦しい態度で彼を振り向かせて「違うってば! 僕がそこまでひどい奴じゃないことはわかってるだろ」とか「なぜそんなふうに僕をいじめるんだい? そんな事実はない」とか「何でそんなことを言うんだい?」と時々言わせただけだった。


「だってそれが事実だからよ。自分でわかってるくせに」アンジェラは断言した。


「いいかい、アンジェラ」ユージンは一度ある程度論理立てて答えた。「こんなふうに僕を怒鳴りつけたって仕方がないだろう。僕の悪口を言ったって何の役にも立たないんだよ。きみは僕に愛されたいんだろ? きみが望むのはそれだけなんだ。他には何も望まないよね。僕の悪口を言うと僕がそうなるとでもいうのかい? 僕にできなければ僕にはできないし、僕にできるのならできるんだ。争ってどうなるんだい?」


アンジェラは怒っても無駄だ、どうせどうにもならないとわかっていたから、みじめにユージンの話を聞くだけだった。主導権はユージンにあった。アンジェラはユージンを愛していた。そこが悲しいところだった。結局、泣いても頼んでも怒っても本当は無駄なのかもしれない! ユージンは自分の欲情ではなく、求められない限りアンジェラを愛せなかった。このことを、アンジェラは厳しい現実としてぼんやりわかり始めていた。


一度、手を組んで、青白くやつれた様子で座って、床を見つめていた。「ああ、どうしたらいいのかわからない」アンジェラは言った。「私はあなたと別れるべきだと思うわ。もし家族のことさえなかったら! 家族はみんな結婚というものをとても大切に考えているの。もともととても誠実でいい人たちなのよ。こういう資質ってきっと生まれつくものなんだと思うわ。後天的には得られないのよ。あなたは作り変えられないとならないのよ」


アンジェラが自分と別れるつもりがないことをユージンは知っていた。アンジェラにそのつもりはなかったが、その最後の言葉の偉そうな相手を見下した態度にユージンは微笑んだ。アンジェラと彼女の身内が定める模範どおりに自分が作り変えられるところを考えてしまった! 


「どこへ行ったらいいのか、何をしたらいいのか、私にはわからないわ」アンジェラは言った。「家族の元へは帰れない。あそこへは行きたくないわ。私は学校で教えること以外の訓練はしてこなかったのよ。それに、またあれを考えるのは嫌だわ。せめて速記か簿記でも勉強できたらいいんだけど!」アンジェラはユージンと同じように自分の頭を整理するために話していた。本当は何をすべきなのかわかっていなかった。


ユージンは恥ずかしそうな顔でこの独演を聞いていた。アンジェラが帳簿係とか速記者として世の中に放り出されるのかと思うとユージンはつらかった。アンジェラがそういうことをしている姿を見たくはなかった。一応、彼は、もし自分のやり方が通せるのであれば……モルモン教徒のようにできるのなら……アンジェラと一緒に暮らしたかった。もしアンジェラがユージンと別れたら、彼女の生活はどれほど孤独になるだろう! それに、アンジェラはそういうものに向いていなかった。彼女は商業の世界に向いていなかった……あまりにも家庭的で、主婦がお似合いだった。ユージンは今、アンジェラに、もうこれ以上悲しむ理由がないことを保証して心からそう言えたらいいのにと思った。しかし彼は元気な人ができることを自分もやれたらいいのにと願う病人のようなものだった。彼の考えには罪の自覚がなかった。この問題で正しいことをしようとすれば成功するかもしれないが、自分は不幸になるとしか思えなかった。だから成り行きにまかせた。


その一方でユージンはディーガンと一緒の仕事を始めていて、とても貴重な経験を積み重ねていた。ディーガンが引き受けてもいいと言った時点で、ユージンはハヴァーフォードに手紙を書き、丁寧に配置換えをお願いしていて、希望がかなえられることがすぐに知らされた。ハヴァーフォードは親切にユージンのことを覚えていてくれて、彼の回復が続くことを期待した。彼は建設部の部長に問い合わせ、とにかくディーガンが有能な補佐役を必要としていて、ユージンがちゃんとその任を果たせることを理解した。この現場監督はいつも報告書で苦労していた。ディーガン宛にユージンを編入せよという命令が出され、建設部からユージン宛にディーガンのもとへ出頭せよという辞令が出された。ユージンが行ってみると、ディーガンはフォード・センター駅の下に石炭貯蔵庫を建設する問題に取り組んでいて、いつものように大騒ぎしていた。ユージンは歓迎の笑顔で迎えられた。


「よく来たな。おお、ちょうどいいところに来てくれた。お前さんは事務所へ行ってほしいんだ」


ユージンは笑って「了解」と言った。ディーガンは新たに掘られた穴に降りていたので、彼の服は、彼を取り囲んでいた新たに掘り返された土の匂いがした。下げ振りと水準器を手に持っていたが両方とも下に置いた。ユージンが現れると、ディーガンはこぎれいな車庫までのろのろと行って、二人でその下で立った。ディーガンは古い灰色のコートのポケットから汚れたしわくちゃの書簡を取り出して、太い不格好な指で丁寧に広げた。そしてそれを掲げると、にらむように見た。


「ウッドローンまで行って」ディーガンは続けた。「向こうでボルトを少し手配してほしいんだ……円筒状の容器に入ってるだが……そいつの請求書にサインして、品物を俺んとこに送ってくれ。あれは俺のもんじゃないんでね。そしたら、事務所へ行ってこの確認をもらうんだ」ここでディーガンはポケットを探って、別のしわくちゃの伝票を取り出した。「馬鹿げているよ!」ディーガンはそれを見て叫んだ。「わけがわからん! いつだって確認を求めやがる。俺がやつらからそんなもんを盗もうとしていると思うか。俺がこんなもんで生活しているって思うか。確認、確認。朝から晩まで確認ばかりだぜ。馬鹿馬鹿しい! わけがわからんよ!」ディーガンの顔が反抗的に赤く染まった。


何かの鉄道の規則違反があって、そのことでディーガンが、鉄道員風に言うと「どやされた」か「吊るし上げを食らった」のだとユージンにはわかった。ディーガンはかなりご立腹だった……彼の気高いアイルランド人気質だからできる反抗的で好戦的な態度だった。


「僕がちゃんとやります」ユージンは言った。「大丈夫、任せてください」


ディーガンはいくらか安堵の表情を浮かべた。ついに彼は、彼の言う「学のある」男を手に入れた。ユージンが出かけるときには、上司に捨てぜりふを吐いた。


「こっちが受領したときに、その分のサインをするって言ってやれ、事前じゃねえって!」ディーガンは怒鳴った。


ユージンは笑った。そんな話は通らないことはわかっていた。しかし、ディーガンにストレスを発散させる機会を提供できてよかったと思った。ユージンは張り切って新しい仕事を始めた。屋外の活動、太陽の光、こうやって線路を行き来する短い出張を楽しんだ。愉快だった。もうすぐ元気になるだろう。ユージンにはそれがわかった。


ユージンはウッドローンに行って、ボルトの受け取りにサインをして、事務所に行って係長に会った。(求められた確認書を直接手渡した)係長はディーガンの仕事の大変さを教えてくれた。どうやら、作成すべき報告書が毎月二十五枚くらいあって、言うまでもなく物品を受領したことを認める確認欄が延々と続くらしかった。橋の一区画だろうが、ボルト一本だろうが、パテ一ポンドだろうが関係なく、すべてがこうやってサインされなくてはならなかった。座って自分がやっていることを詳しく報告できる人なら、係長の考え方を誇りにしただろう。仕事を彼がきちんと行うことは当然だとみなされた。ディーガンは妻と三人の子供たち、男の子一人と女の子二人に、時々手伝ってもらったが、あまりはかどらなくていつも困っていた。


必要になるまで安全な駅にボルトを保管しておいて取り出すときにその分のサインをすればいい、とディーガンが考えていたことをユージンが説明すると、係長は「何だと!」と叫んで、取り乱したように両手で髪をかきあげた。「きみはこのことをどう考えるんだ?」と叫んだ。「必要になるまで資材を現地に置いておくだって? 私の報告書はどうなるんだ? こっちは確認してもらわないとならないんだ。ディーガンに、もっと良識を持つべきだと伝えてくれ。あいつはこの道のベテランなんだから。きみからディーガンに私が言っていたと伝えてくれ。物資が彼を待ち受けていることを彼が知った時点で、彼に引き渡されたすべての物資に対して、サインされた書類を私が欲しがってるってね。あと、書き漏れのないように願いたい。そんなのはあいつに取りに行かせればいい。ずうずうしいにもほどがある! この件については時期を守るようにしないとな。さもないと何か欠品が出ることになるぞ。こっちはこれ以上我慢するつもりはない。この件ではきみが彼の力になってやるといい。こっちだって期限までに報告書を作成しなきゃならないんだ」


ユージンはそうしますと言った。これは彼の領域だった。ユージンならディーガンの力になることができた。本当に役に立てるかもしれなかった。


月日が経った。気候は一段と寒くなった。仕事は最初のうちは面白かったが、他のすべてのことと同じように、しばらくすると退屈になり始めた。天気がいいときは、小さな川に架かる暗渠や、貨物機関車に水を供給する井戸が作られている木立の下に立って、周囲の景色を眺めるのもよかったが、寒くなるとそうでもなくなった。ディーガンはいつも興味深かった。年がら年中騒ぎを起こしていた。ディーガンは、板や手押し車、セメント、石に囲まれた過酷で狭い活動領域の人生、つまり建設に関係する人生を送っていて、達成しても特別な喜びは何もなかった。彼らはひとつの仕事が無事に終わった瞬間に、そこを離れて、またすべてが掘り返されるところへ行かねばならなかった。ユージンはよく、傷ついた地面や、黄色い泥の山や、精神は清らかでも労働のせいで泥まみれでふしくれだった汚いイタリア人たちを見て、自分はいつまでこれに耐えられるだろうと考えた。よりによってこの自分が、こんなところでディーガンやイタリア人たちと一緒に働いているなんて! ユージンは時々寂しくなった……無性に、そして悲しくなった。カルロッタのことが、美しいアトリエが、贅沢で芸術に囲まれた暮らしが、恋しくなった。人生はユージンをひどく不当に扱っているように思えたが、彼はそれについて何もできなかった。彼には金を稼ぐ能力がなかった。


この頃、全長二百フィート、幅二百フィート、四階建てのかなり大がかりな機械工場の建設がディーガンに任されたが、これはユージンがディーガンの仕事にもたらした効率性によるところが大きかった。ユージンが報告書や計算書を迅速かつ正確に処理したことが、部の管理者を安心させて、彼らがディーガンの真価を知るきっかけになった。今回自分が采配を任された仕事で得られる大きな信用と実績を先取りして、ディーガンは興奮のあまり我を忘れた。


「いい時代が巡ってくるぜ、ユージン」ディーガンは叫んだ。「あのビルを建てるんだからな。ビルを建てた後はもう暗渠なんか作らない。石炭庫もな。石工が来るまで待ってくれ。そうすれば目処が立つだろう」


ユージンは自分たちの仕事がとても順調に進んでいてうれしかった。しかし、もちろんそこには彼の将来はなかった。彼は孤独で失意の底にいた。


その上、アンジェラが、自分たちは苦しい生活を送っている……アンジェラにしてみれば、どうなってしまうの? と十分に正当な不満を訴えていた。ユージンは健康と芸術を取り戻すかもしれない。(劇的な覚醒と変化によって彼はそうなっているように見えた。)しかしそれがアンジェラの何に役立つのだろう? ユージンはアンジェラを愛してはいなかった。もしユージンが再び成功しても、アンジェラを捨てるかもしれないし、お金と地位を手に入れたとしても、彼にはせいぜいそれしか彼女に与えることができなかった。それが何の役に立つのだろう? アンジェラが欲しいのは愛……彼の愛情だった。彼女は愛を手に入れていなかった。もしくはほんのわずかな愛しか手に入れていなかった。ユージンはこの最後の致命的な口論の後で、自分が相手に感じていないものをわざわざ装うことはないと腹を決めた。これが状況を一層悪化させた。アンジェラは、ユージンが彼なりに自分に同情していると信じていたが、それはあくまで知的な同情であり、心はほとんど関係がなかった。ユージンはアンジェラに申し訳ないと思った。申し訳ない! 申し訳ない! こう思われるのを彼女はどれほど嫌がっただろう! もしユージンにそれ以上のことができなかったら、今後の人生に惨めさ以外の何があるのだろう? 


この時期に注目すべき不思議な事実あった。疑惑がアンジェラの感覚をとても研ぎ澄ましていたので、アンジェラは知らないくせにユージンがカルロッタと一緒にいるときとか、いたときをほとんど言い当てることができた。夕方帰宅したときのユージンの態度に何かがあった。ユージンがカルロッタと一緒だったときに彼から彼女に伝わる微妙な思念の波があるのは言うまでもないが、それがアンジェラに彼がどこで何をしていたかを即座に伝えた。どこに行っていたの、と彼女が尋ねるとユージンは「ああ、ホワイトプレインズだよ」とか「スカボローまでね」と答えるが、彼がカルロッタと一緒だったときは、ほとんど毎回アンジェラが激怒した。「ええ、あなたがどこへ行っていたのか私は知ってるわ。またあの哀れな獣のような女と出かけてたのよね。どうせ神さまがあの女に罰を与えてくれるわ! あなたも罰せられるわよ! 今に見てなさい」


涙が目にあふれ、アンジェラは激しくユージンを責め立てた。


こういう微妙な爆発を前にして、ユージンは深く畏怖するしかなかった。どういうわけでアンジェラがこれほど正確に、知るというか、疑うようになったのか、ユージンには理解できなかった。ユージンはある程度、心霊術とか、潜在意識や自我の神秘性を信じていた。この潜在的な自我には、何が起きているのかをわかるなり把握するなりして、その知り得たことを不安や疑念の形でアンジェラの心に伝える何かの手段があるに違いない、とユージンは想像した。もし自然界のこの得体の知れないものが団結して彼に立ち向かっているとしたら、こういうことを続けて得をするには、どうすればいいのだろう? 明らかに、そんなことはできなかった。彼はおそらく、これがもとで厳しく罰せられるだろう。自然界にはあらゆる過ちをこういう形で正したがる何かの法則があるのかもしれない、という漠然とした疑問が生じてユージンは多少怖くなった。はっきりと罰せられていない悪癖や犯罪はたくさんあるかもしれない。しかし自殺や死亡、精神異常の事例が証明するように、矯正も多いかもしれない。これは本当だろうか? 悪癖を根絶する以外に、悪い結果から逃れる術はないのだろうか? ユージンはこれをまじめに考えた。


経済的に立ち直ることは、そう簡単なことではなかった。彼はもう随分長いこと芸術関係……雑誌の世界や画商……から遠ざかっていたので、すぐには関係を再構築できないかもしれないと感じた。おまけに、自分にまったく自信がなかった。スペオンクの人や物、線路にいるディーガンとその部下たち、カルロッタやアンジェラをスケッチしてみたが、そういうものに重要性はあまりないと感じた……かつて彼の作品の特徴だった力強さと感情がなかった。もし何らかの関係が築けたら、新聞の仕事で腕を試してみよう……もっと上手にやれると実感するまで、どこかの目立たない新聞の美術部で働こう……と考えたが、自分にそれがやれるという自信を全然感じなかった。ひどく精神的にまいったせいでユージンは人生が怖くなっていた……カルロッタのような女性の同情や、もっと希望に満ちた、もっと優しい態度を求めるようになり、どこかで何かを探すのが怖かった。それに、どこかへたどり着くわけでもないのに、時間をさくのは嫌だった。仕事はとても切迫していた。しかし仕事を辞めなくてはならないことはわかっていた。この世の中のもっといい立場にいられたらいいと願いながら、だるそうにそのことを考えた。そしてついにこの仕事を辞めようと勇気を振り絞ったが、何か別の職が無事に手に入るまで辞めなかった。





第三十章



一週間九ドルで生活しようとして、彼の稼いだもので食いつなぎ、さらに少し貯金までしようと決めて、アンジェラが悪あがき同然のことをしているのを見て、ユージンが気を取り直し、もっといい職を見つけようと本気で努力したのは、かなり時間が経ってからだった。その間もずっと彼はアンジェラを注意深く観察して、こんな逆境のつらい状況でも彼女がどれほど段取りよく、料理、掃除、買い物などの家事すべてをやっているかを見ていた。アンジェラは自分の古い服を仕立て直し、もっと長持ちしてずっとお洒落に見えるように作り変えていた。帽子まで自作して、要するにユージンが立ち直るまで、銀行預金を守るためにできることを何でもやっていた。彼女は自分のことにはお金を使いたがらないのに、ユージンがお金を取って自分の服を買うことはいとわなかった。彼が何らかの形で改心することを願って、彼女は生活していた。いつか自分がユージンにとってどれほどの価値があるか、彼にわかるときが来るかもしれない。しかしアンジェラは、物事が再びまったく同じ状態に戻れるとは思わなかった。アンジェラは決して忘れることができなかったし、ユージンも忘れられなかった。


ユージンとカルロッタの関係は、それを妨げていたさまざまな力のせいで、今、ゆっくりと収束に向かっていた。発覚後に続いた大騒ぎと重圧のすべてに耐えられなかったのだ。まず、カルロッタの母親が、娘の夫に事情を告げることなく、自宅にとどまるべき正当な理由があることを夫に感じさせたため、カルロッタは行動を取りづらくなった。さらに母親は、アンジェラがユージンを責め続けたように、娘の自堕落極まりない性格を絶えず責め立て、娘を絶えず守勢に立たせ続けた。カルロッタはどっちつかずだったので別居にまで踏み込めず、ユージンは高額な室内娯楽費を払うお金を彼女から受け取るつもりはなかった。カルロッタはユージンに会いたかったが、ユージンが再びアトリエを構えて、彼の専門分野のスターとして見られるようになればいいと願い続けた。その方がはるかによかった。


一度は刺激的だった蜜月期間は次第に失速し始めた。ユージンは悲しかったが必ずしも残念ではなかった。実を言うと、ひどい肉体的な不満が、最近彼のロマンチックな性質を、彼にとってはかなり気の毒な見方で染めていた。これが自分をどこへ導いているのか、一応はわかっていると思った。こんなことしていたらお金がなくなるのは明らかだった。自分たちの人生の幸福を自分たちが管理できなくても満足な人たちの手に、世の中の個人的問題が委ねられることが、当たり前であるように思えた。怠ける者は原則として何も得ず、仲間の尊敬され得られなかった。放蕩者は、自分の馬鹿げた精神的に病んだ性癖によって、ぼろぼろにされて汚名を着せられた。こういう無節操な関係に溺れる男女は、大体が病的な感傷家であり、どこの有力な社交界からも追放か無視された。富を得るなら、人は強くて、熱心で、決然とし、禁欲的であらねばならず、しかも同じ属性の人たちに認められねばならなかった。気を抜くことができなかった。そうしなければ、今の彼と同じように、考え込む感傷家になった……心も体も病んだ人間になった。


ユージンは恋の興奮、貧困、健康障害、悪い習慣から、この一つの事実をはっきりと理解するようになった、あるいはそう思った……つまり、もし本当に成功したいのであれば、自分の行動を慎まねばならない。彼はこれを望んだだろうか? 肯定はできなかった。しかし、そうしなければならなかった……これが残念な部分だった……明らかにそうしなければならなかったので、最善を尽くすつもりだった。これは厳しいが、不可欠だった。


この頃のユージンは、彼の若い頃の特徴だったかなり極端な芸術家らしい外見をまだ保っていたが、この点について、自分は少し変わっていて時代の精神に合っていないのではないかと疑い始めた。昔も今も彼が出会う一定の芸術家は、外見が実業家そのものだった……大成功した連中はそうだった……これは、彼らが自分たちの作品に関連するロマンスではなく、人生の厳しい現実に重点を置いたからだ、とユージンは判断した。これは彼に影響を与えた。自分も同じようにしようと決めて、流れるようなネクタイとかなり雑な髪のとかし方をやめ、その後は徹底して地味な装いにした。自分に一番似合うと思ったから中折れ帽はずっとかぶり続けたが、それ以外はかなり調子を抑えた。ディーガンとの仕事は、真面目に一生懸命働くとはどういうことなのかをユージンに強く印象づけた。ディーガンは労働者以外の何者でもなかった。彼にはロマンスの欠片もなく、ロマンスについて何も知らなかった。つるはし、シャベル、こて板、コンクリートの型枠……こういうものが彼の人生だった。そして絶対に愚痴をこぼさなかった。七時までに職場につく列車に乗るために朝四時に起きなければならなかった彼に、かつて同情したことを思い出した。しかし、暗いことや寒いことは彼の問題にはならなかった。


「当然だ、いかなきゃならないんだ」相手はいぶかしげなアイルランド風の笑みを浮かべて答えた。「ベッドで横んなってたって賃金を払ってくれるわけじゃねえ。お前だって一年間毎日そうやって起きるようになれば、一人前になるぞ!」


「そんな、まさか」ユージンはからかうように言った。


「いや、そうだって」ディーガンは言った。「そういうもんなんだ。それにお前みたいなのにはそういうのが必要なんだ。お前のざまを見ればわかる」


ユージンはこれに憤慨したが、このことは肝に銘じられた。ディーガンは本気で言うつもりはなくても働くことと禁欲に関しては健全な教訓をたれる癖があった。この二つはまさに彼の代表的な特徴だった……この二つだけで他には何もなかった。


ある日、新聞の美術部に応募する決心がつけられないかを確認するために、プリンティングハウス・スクエアまで出かけたところ、ユージンは久しぶりにハドソン・デューラに出くわした。デューラはユージンを見て喜んだ。


「やあ、久しぶりだね、ウィトラ!」デューラは叫んだものの、ユージンが異様に痩せて青白いのを見て衝撃を受けた。「この何年もの間どこにいたんだい? 会えてよかった。何してたんだい? こっちだ、ハーンの店に行こうぜ。近況を報告しろよ」


「僕はずっと病気だったんだ、デューラ」ユージンは率直に言った。「ひどいノイローゼにかかってしまってね。環境を変えて鉄道で働いてんだ。いろんな種類の専門医にあたってみたんだけど手の施しようがなくてね。それで、日雇いの仕事をして、どうなるか見てみることにしたんだ。すっかり参ってしまってね、もとに戻るまでに四年近くかかったよ。でも回復に向かっていると思うんだ。近いうちに鉄道の仕事をやめて、また絵を描いてみるつもりでいる。自分ならやれると思うんだ」


「奇妙じゃないか」デューラは思い出しながら答えた。「先日きみのことを考えて、どこにいるんだろうって思っていたところなんだよ。僕がアートディレクターの仕事をやめたのは知ってるだろ。〈トゥルース〉が破産したんで、石版印刷の仕事を始めたんだよ。ボンド・ストリートで僕が管理している工場に少し出資してるんだ。いつか会いに来てくれるといいな」


「ぜひ、行くよ」ユージンは言った。


「きみのノイローゼの件だけどね」二人が食事をしているレストランに入るときにデューラが言った。「僕には義理の兄貴がいるんだけど、そいつがそういうのにかかってね。ずっと医者にかかりっきりなんだ。兄貴にきみの症状を話してみるよ。きみはそんなにひどく見えないね」


「気分はだいぶよくなってきてるんだ」ユージンは言った。「確かによくなってはいるんだけど、ひどい時期があったんだ。でも僕は仕事に復帰するつもりだし、それを確信している。復帰したときには、自分の健康管理の仕方にもっと詳しくなってるはずだよ。絵が最初に大きな話題になったときに、僕は頑張りすぎたんだ」


「あれは、僕がこの国でこれまでに見たあの類の絵で、最高の出来だった、と言わないとな」デューラは言った。「覚えてるだろうけど、僕はきみの個展は両方とも見たよ。あれはすごかったな。あの絵はどうなったんだい?」


「ああ、何枚か売れて、残りは倉庫の中だ」ユージンは答えた。


「変じゃないか」デューラは言った。「てっきり全部買い手がついたとばかりと思ってたよ。あれは表現方法が斬新で強烈だった。きみとしては気を引き締めて、締めたままの状態を持続したいところだね。きみはあの分野で大成するよ」


「うーん、僕にはわからいな」ユージンは悲観して答えた。「大評判になるのはいいけど、それで食べていけるわけじゃないだろ。ここでは絵の売れ行きがあまりよくないんだ。作品のほとんどが残ってるんだ。配達のワゴンを一台持つ雑貨商が、業績を理由に舞台をおろされた史上最高の芸術家を抱えてるよ」


「そこまでひどくないだろ」デューラは笑顔で言った。「芸術家は、商人じゃ絶対に手に入れられないものを持ってるんだ……それを忘れないでほしいな。芸術家の視点には価値がある。精神的に違う世界に住んでいるんだ。それに、きみは経済的に十分順調にやれている……生活できてるんだ。それ以上何を望むんだい? きみならどこでだって受け入れられるよ。きみは商人ではおそらく手に入れられないものを持っている……ずば抜けた才能ってやつだ。そして、きみは称賛に値する価値の基準を世界に与えるんだ……きみならやるよ、そのくらい。もし僕にきみの才能があったら、僕は肉屋やパン屋をうらやましがって無為に過ごしたりはしないね。だって、今、すべての芸術家がきみを知ってるんだぞ……それも一流どころがだ。それさえあれば、あとはもっと活動して、もっと多くのものを得るだけだろ。きみにできることはたくさんあるんだから」


「たとえばどんなことがある?」ユージンは尋ねた。


「そうだな、天井画とか壁画だよ。ボストン図書館がパネル画をきみに頼まなかったのは失敗だったって先日も誰かに話してたところだよ。きみならそういうのですばらしい作品を作るだろうからね」


「随分と僕を買ってくれるね」ユージンは興奮でぞくぞくしながら答えた。憂鬱な日々がずっと続いた後でこれを聞くのは、燃え盛る炎の気分だった。そして、世界はまだ彼を覚えていた。彼にはそれだけの価値があった。


「オーレン・ベネディクトを覚えているかい……きみはシカゴで彼と知り合いだっただろ?」


「もちろん、知ってるよ」ユージンは答えた。「あいつとは一緒に働いたんだ」


「今は〈ワールド〉にいる。そこの美術部の責任者なんだ。就任したばかりだよ」そこでユージンがこの不思議な時間の移ろいに驚きの声をあげると、デューラは突然付け加えた。「なあ、きみにちょうどよくないか? きみは仕事をやめるって言ったよな。そこへ行ってペンを使う仕事をして肩慣らししたらどうだ? そうすりゃ、きみにはいい経験になるだろう。ベネディクトなら喜んできみを採用してくれるよ、きっと」


ユージンにはお金がないのかもしれないとデューラは疑った。絵の仕事に戻れそうな何かに紛れ込むにはこれが手っ取り早いだろう。デューラはユージンのことが好きだった。ユージンの成功を見届けたかった。彼の作品を初めてカラーで出版したのが自分だと思うとうれしくなった。


「悪い考えじゃないな」ユージンは言った。「できたら何かそういうことをしようと実は考えていたところなんだ。今日にでも会いに行くよ。今の僕に必要なのはまさにそういうものなんだ……ちょっとした肩慣らしってやつだ。かなり錆びついてる感じがして不安なんだ」


「お望みとあらば僕が電話してやるぞ」デューラは親切に申し出た。「あいつのことはくわしいんだ。先日も優秀な人材を一、二名心当たりがないかと聞いてきたくらいだからね。ここでちょっと待っててくれよ」


デューラが行ってしまうとユージンは椅子にもたれかかった。こんなに簡単にもっといい仕事に戻れるものだろうか? 彼はこれを至難の業だと考えていた。今、このチャンスがやってきて、絶好のタイミングで彼を苦難から救い出そうとしていた。


デューラが戻って来て「先方は了承したぞ」と叫んだ。「『すぐにでも来てくれ!』ってさ。今日の午後、行った方がいい。こいつはきみにぴったりの仕事だぞ。また軌道に乗ったら会いに来てくれよな。どこに住んでるんだい?」


ユージンは住所を教えた。


「よかった。きみは結婚してるんだよね」ユージンが自分とアンジェラが小さな住まいを構えたことを話すとデューラは言った。「奥さんはどうだい? とても魅力的な女性だったのを覚えてるんだが。僕たち夫婦はグラマシー・プレイスにアパートを構えたんだ。僕が結婚したのは知らなかったよね? 実はしたんだ。奥さんを連れて会いに来てくれよな。歓迎するぞ。きみたち二人にディナーを約束するよ」


ユージンは大喜びして得意になった。アンジェラが喜ぶのがわかった。二人とも近頃は優雅な生活を目にすることがなくなっていた。急いでベネディクトに会いに行くと、ユージンは旧知の間柄のように迎えられた。二人は決して仲良しではなかったが、いつもうまくやっていた。ベネディクトはユージンがノイローゼになったことを聞いていた。


「とりあえず言っておくけど」挨拶と昔話が終わってからベネディクトは言った。「大した額は払えないよ……ここじゃ今、五十ドルでも高給取りだ。ちょうど今、二十五ドルの空きポストがある。腕試しがしたいのなら、そのポストでどうだい。時々急ぎの仕事が大量にあるんだが、構わないね。ここでいろんな事が片付いたら、もっとましな仕事になるかもしれないんだ」


「ええ、大丈夫ですよ」ユージンは明るく答えた。「喜んで引き受けます」(本当に大喜びした。)「それに急ぐのは構いません。いい気分転換になりますよ」


ベネディクトは別れ際に親しげに握手を交わした。ユージンに何ができるかを知っていたので、採用できたことをよろこんだ。


「月曜日まで来られないと思います。通告して数日間をおかないとなりませんから。いいですか?」


「もっと早くてもいいんだけど、月曜日でいいよ」ベネディクトは言った。二人は和やかに別れた。


ユージンは急いで帰宅した。これで二人の間から多少わだかまりがなくなるだろうから、アンジェラに伝えられることはうれしかった。週給二十五ドルの報道画家として再出発することは、ユージンにとって大した慰めにはならなかったが、仕方がなかったし、何もしないよりはましだった。少なくとも、これで彼は再び軌道に乗り始めた。この後はずっとよくなると信じ、この新聞の仕事を続けられると感じた。このときはそれ以外のことがあまり気にならなかった。彼のプライドはいくつもの耐え難いショックを受けたことがあった。いずれにせよ、日雇い労働よりははるかにましだった。ユージンは四階分の階段を上って、二人が住む安い小さな部屋へ急いだ。ガスレンジのところにいるアンジェラを見て言った。「ねえ、僕らの鉄道時代が終わりそうなんだ」


「何があったの?」アンジェラは恐る恐る尋ねた。


「何もないよ」ユージンは答えた。「もっといい仕事が見つかったんだ」


「どんな仕事なの?」


「しばらく〈ワールド〉で報道画家をやるんだ」


「いつそんなの見つけたの?」アンジェラは自分たちの状況をひどく悲観していたので、明るくなりながら答えた。


「今日の午後だよ。働くのは月曜日からだ。週給二十五ドルは、九ドルより多少はましだろう?」


アンジェラは微笑んで「確かにそうね」と言った。目に感謝の涙があふれた。


ユージンはこの涙が何を表しているのかを知っていた。彼はつらいことを思い出すのを避けたかった。


「泣くのはおよしよ」と言った。「これからもっとよくなるんだ」


「ええ、そうね、そう願いたいわ」アンジェラはつぶやいた。彼女の頭が肩にのるとユージンは優しくなでた。


「ほら、元気を出すんだ、お嬢さん! もう僕らは大丈夫なんだから」


アンジェラは涙を流しながら微笑み、上機嫌でテーブルの支度をした。


「確かにいい知らせだわ」その後でアンジェラは笑った。「でも、とにかく当分はお金の無駄使いをしないわよ。多少は貯金をしないとね。こんなどん底生活なんか二度とご免だわ」


「僕だってご免だ、僕が仕事に慣れちゃえばそれはないからね」ユージンは明るく言って、居間と応接間と仕事部屋兼用の小さな部屋に入って行き、夕刊を開いて口笛を吹いた。ユージンは興奮のあまり、カルロッタと恋愛の問題のいろいろな悩みをほとんど忘れた。ユージンは再び世の中の高みにのぼって、アンジェラと幸せになるつもりだった。芸術家か、実業家にでもなるつもりだった。ハドソン・デューラを見るがいい。石版印刷業を営み、グラマシー・プレイスに住んでいる。彼の知っている芸術家にそんなことができるだろうか? まず無理だろう。彼はこの件について考えてみることにした。この芸術の仕事についてよく考えるつもりだった。もしかしたら、アートディレクターか石版画家くらいにはなれるかもしれない。もし十分な時間さえかけられたら自分は建設部門の立派な責任者になれるだろうか、と鉄道の仕事をしている間にたびたび考えた。


アンジェラはアンジェラで、実際のところ、この変化は自分にどう影響するのだろう、と考えていた。ユージンは今後行いを改めるだろうか? ゆっくりと確実に地位を高めていくことに取り組むだろうか? 彼は人生で順調にやっていた。もし今後そのつもりがあるのなら、ユージンは世の中に身の置き場をしっかりと作り始めるべきだった。アンジェラの愛情は以前と同じではなかった。時々、嫌悪感や反発がよぎりもしたが、それでもアンジェラは、ユージンが自分を必要としていると感じた。かわいそうなユージン……せめてこの弱点にさえ呪われていなければよかったのに。もしかしたら、ユージンはこれを克服するのでは? アンジェラはそう考えた。





第三十一章



ユージンが〈ワールド〉の美術部で引き受けた仕事は、シカゴで十年前にやっていたものと変わらなかった。仕事は彼ほどの経験者でもやはり大変に思えた……むしろ大変だった。彼はこの頃、これよりは上だと感じたので、結果的に本来いるべき場所ではなかった。すぐに自分の能力に見合う報酬が得られる仕事に就きたいと思うようになった。ただの青二才に混じって座るのは癪だった……そこには彼と同じか年上の者もいたが、もちろんその連中に大した注意は払わなかった。ユージンは、ベネディクトがわずかな金額を提示したことよりも才能に対してもっと敬意を払うべきだったと思った。しかし同時に受け取ったものに感謝した。与えられた提案をすべてやり遂げようと精力的に取り組んで、すべてを向上させたその速さと想像力で上司を驚かせた。二日目には「黒死病」を見事に、想像力豊かに解釈してみせてベネディクトを驚かせた。これは伝染病の最新予測についての日曜新聞の記事に添えることになった。ベネディクトは自分が出した金額ではほんのいっときしかユージンをつなぎとめられないことにすぐ気づいた。ひどい病み上がりでユージンの才能はかなり衰えているかもしれないと考えたので、低賃金から始めるという間違いをしてしまった。新聞のアートディレクターになったばかりの彼は、部下の給料を上げることがどんなに難しいかを知らなかった。誰かの給料を十ドル上げることだって、経営者に本気でかけ合って談判することを意味するのだから、今回行われるべきだった、給料を二倍三倍にすることなど論外だった。六か月は誰にとっても昇給を待つ妥当な期間だった……こういうのは企業経営の決まりごとだった……ユージンの場合、これは馬鹿げていて不公平だった。しかしまだ体調が悪くて不安だった彼は、体力を取り戻し、少しでもお金を貯めて、最終的には自分を正常な状態できればいいと願いながら、この状況に甘んじた。


もちろん、アンジェラはこの事態の展開を喜んだ。何か悪いことが待ち構えているかもしれないという取り越し苦労だけで長い間苦しんできたので、毎週火曜日に銀行に行って……ユージンの給料日が月曜日だった……いざという時に備えて十ドルを預金するととても安心した。アンジェラとユージンにどうしても必要だった服とささやかな娯楽に六ドル使おう、と二人の間で意見が一致した。ユージンが報道画家の友人を時々夕食に連れてくるようになり、二人が誘われるようになるまでに、長くはかからなかった。着るものもろくになく、一度も劇場に足を運ばず、友人もなく……何もしないで、二人はやってきたのだ。今この流れはゆっくりと変わり始めた。少しすると、二人は自由にいろいろな場所に行けるようになったので、知り合いと会うようになり始めた。


さまよい続けた報道の仕事の六か月があった。そこでもユージンは鉄道の仕事のときと同じようにだんだん落ち着かなくなり、やがて、もう一刻も我慢できないと感じるときが来た。給料は三十五ドル、五十ドルへと値上げされたが、所詮は誇張された、彼にとっては完全に虚飾でしかない芸術の、ものすごくつまらない仕事だった。これで得た唯一の価値ある結果は、彼が生まれて初めて適度に安定した生活費を稼ぎ続けたことと、自分のことを考える余裕がないほど細かいことで頭がいっぱいになったことだった。ユージンは大きな部屋の中で、機知の切れ味がナイフのように鋭くて、落ち着きのない貪欲な態度で世間に立ち向かう、他の男たちに囲まれていた。彼らはユージンと同じように、華麗に生きたがっていた。ただ彼らの方が自信家で、多くの場合、類まれな健康に由来する並外れたあの落ち着きがあった。最初はユージンのことを何だか気取った奴だと思いがちだったが、やがて彼を好きになった……しかも全員がである。ユージンは愛嬌のある笑顔をしていて、冗談が大好きで、熱中しやすく、とても体を揺らすので、面白い話題を持つ者はみんな彼にひきつけられた。


「それをウィトラに話してやれよ」と職場でよく言われるものだから、ユージンはいつも誰かの話を聞いていた。最初はこの人、次はあの人、やがて一度に三、四人とユージンはランチをともにするようになった。そしてアンジェラはユージンと彼の友だちの二、三人を週に二回、時には三回ももてなさなければならなかった。彼女は猛反対した。このことでは多少思うところがあった。彼女にはメイドがいなかったし、こんなに早く二人のわずかな収入に接待費という負担をユージンはかけ始めるべきではない、と彼女は考えた。アンジェラは、こういうことはあくまで正式に日時を決めてやってもらいたかったが、ユージンはいつもぶらっと帰って来て、アーヴィング・ネルソン、あるいはヘンリー・ヘア、ジョージ・ビーアスを連れてきたと説明し、土壇場でそわそわして、大丈夫かどうかを尋ねた。アンジェラは客の前では「もちろん、平気よ」と言いはするが、二人きりになると涙ながらに非難して、こんなのはご免ですからね、ときっぱりと言った。


「うん、もうしないよ」ユージンは謝った。「忘れてたんだってば」


しかしユージンは、アンジェラにメイドを雇わせて、来たがる人みんなを、自分が連れて来られるようにしたかった。再び元の生活に戻って、人生が広がっていく様子を見ると、ものすごく安心するからだった。


もっとずっといい出世の道を約束する話をユージンが耳にしたのは、安月給の〈ワールド〉との関係にほとほと愛想が尽きて間もなくだった。ユージンは以前からあちこちで、広告の芸術性が高まっていることを耳にしていた。小さな雑誌でこのテーマを取り上げた記事を一つ二つ読んだことがあり、いろいろな企業が興味深くて時には美しいシリーズ広告を使って、何かの商品を宣伝しているのを見たことがあった。ユージンはこういうものを見て、自分ならほとんどどんなテーマでも注目を集めるシリーズを作れるといつも思っていて、誰がこういうものを手掛けているのだろうと考えた。ある夜、ベネディクトと一緒に列車で移動中に、これについて彼がどんなことを知っているのかを尋ねた。


「まあ、私が知る限りでは」ベネディクトは言った。「これは大きなビジネスになりつつあるね。シカゴにサルジェリアンというシリア系アメリカ人がいる……父親はシリア人だが彼はここの生まれだ……大企業向けにそういうシリーズ広告を企画してものすごい事業を築き上げたんだ。新しい洗浄液のために、あのモリー・マグワイア・シリーズを立ち上げたんだよ。彼自身はその仕事を何もやっていないと思う。絵の専門家を雇ってその仕事をやらせるんだ。最高のメンバーが数人がかりで彼に代わって仕事をしたんだと理解してるよ。結構な金額が手に入るんだぞ。それから、大手の広告代理店でもそういう仕事を引き受けてるのがいるよ。そのうちの一社を知っているぞ。サマーフィールド社にはそういうことやる大きな美術部がある。常時十五から十八名のスタッフがいて、それ以上になる時もある。考えてみれば、すばらしい広告もいくつか制作しているな。あのコルノ・シリーズを覚えているかい?」……ベネディクトは、とても美しくて、とても気の利いた十枚の絵のシリーズ物を使って宣伝された朝食用の食品のことを言っていた。


「ええ」ユージンは答えた。


「まあ、あれもそこが制作したんだ」


ユージンはこれをとても面白い展開になったと考えた。アレキサンドリアの〈アピール社〉で働いていた頃から広告には関心を持っていた。広告制作という考えを気に入った。これは最近目にした他のどんなものよりも新しかった。この分野で自分に何かのチャンスはないだろうかと考えた。彼の絵は売れていなかった。新しいシリーズを描き始める勇気はなかった。最初にある程度の金額、たとえば一万ドルくらい、つまり年六、七百ドルくらいの利息収入を得られる額を稼げたら、芸術のために芸術に賭けてみるのもいいかもしれなかった。ユージンは散々苦しんだ……しばらくの間、給料か事業所得にでも頼りたくて仕方がなくなるほど貧乏にはこりごりだった。


そんなことを毎日のように考えていたある日のこと、ユージンのところに以前〈ワールド〉で働いていた若い芸術家モルゲンバウ……アドルフ・モルゲンバウ……という名の青年がやって来た。彼はユージンと彼の作品が大好きで、その後、別の新聞社に移っていた。サマーフィールド社のアートディレクターが変わるという話を聞きつけると、いろいろな理由からそれを知ったらユージンが喜ぶかもしれないと想像したので、どうしてもユージンに伝えたかった。モルゲンバウにはユージンが新聞社の美術部で働くような人間には見えなかった。彼はあまりにも冷静沈着で、超然としていて、聡明だった。モルゲンバウは、ユージンが何らかの大成功を収める運命にあるという考えを持っていたので、時々我々みんなを救ってくれるあのたきつける直感を使って、何らかの形でユージンを助けて彼の歓心を買いたかった。


「折り入ってお話があるんですが、ウィトラさん」モルゲンバウは言った。


「はい、何でしょうか?」ユージンは微笑んだ。


「外でお昼にしませんか?」


「じゃ、行きましょう」


二人は連れ立って出かけた。モルゲンバウは自分が聞いたことをユージンに伝えた……サマーフィールド社はフリーマンというとても有能なディレクターを解雇した、もしくは袂を分かった、もしくは失って、後任を探していた。


「それに応募してみるのはどうでしょう?」モルゲンバウは尋ねた。「あなたなら採用されますよ。ちょうど立派な広告になりそうな仕事をしている最中ですよね。人の扱い方も心得ている。先方はあなたを気に入りますよ。この辺にいる若い連中はみんなそうなんですから。サマーフィールド社長に会いに行かれたらどうですか? 三十四丁目にいるんですよ。あなたこそ、先方が探している人物かもしれません。そのときはあなたが自分の部署を持てるんです」


よくこんなことを思いついたな、と感心しながらユージンはこの青年を見た。デューラに電話しようと決めて、すぐ実行し、どういう行動をとるのが一番いいかを尋ねた。デューラはサマーフィールドを知らなかったが、知っている人物を知っていた。


「きみがやるべきことを言うとね、ユージン」デューラは言った。「サティナ社のベーカー・ベイツに会いに行けばいい。場所はブロードウェーと四丁目の角。うちはサティナ社と大きな取引をしているし、サティナ社はサマーフィールドと大きな取引をしているんだ。若いのに紹介状をもたせるから、それを使ってくれ。ベイツには私から電話をしておく。ベイツが了解してくれればサマーフィールドに話をつけてくれるよ。どうせ先方はきみに会いたがるだろうがね」


ユージンは丁重に礼を言って、手紙が届くのを心待ちにした。ベネディクトに少し休みをもらって、ベーカー・ベイツ氏のところへ行った。ベイツはデューラから事情を聞いていたので親身になってくれた。ベイツはデューラに、ユージンは偉大な芸術家になる潜在性があるが、少し運に見放されている、しかし今の職場で極めて順調にやっているから新しい職場でももっと活躍するだろう、と言われていた。デューラはユージンの外見に感銘を受けた。ユージンは自分のスタイルを芸術家風から実業家風へと変えていた。ベイツはユージンが有能に見えると思った。彼は確かに感じがよかった。


「サマーフィールド社長には私から話を通しておきます」ベイツは言った。「でも私があなただったら、それに過大な期待はしませんよ。あの社長は気難しい人だから、この件ではあまり熱心に見えなくするのが一番です。先方からあなたに使いを送るように仕向けられれば、それに越したことはありません。この件は明日まで放っておくことです。私が別件で社長に電話してランチにでも連れ出します。その時に向こうがどういう態度でいるのか、候補がいるのか、を確認しますよ。いるかもしれないでしょ。もし本当に空いているのなら、あなたのことを話します。様子を見ましょう」


ユージンは丁重に感謝してまたその場を後にした。デューラはいつも自分の運を開いてくれると考えていた。デューラが彼の最初の大事な絵を引き受けてくれたのだ。デューラが彼のためにプリントしてくれた写真がシャルル氏の目にとまったのだ。今、彼が手にしている職だってデューラが手に入れてくれたのだ。彼がこの職を手に入れるのは、デューラのおかげだろうか? 


列車でダウンタウンに行く途中、斜視の少年に出会った。斜視の少年なら吉で、斜視の少女だと凶だと最近人から聞いたばかりだった。幸先のいい前兆に体中がぞくぞくした。十中八九、彼はこの地位を手に入れるだろう。もし今回この兆しが現実のものとなれば、彼は兆しを信じるようになるだろう。兆しはこれまで何度か実現したが、今回は本番だった。ユージンは晴れやかな笑顔で少年を見つめた。すると少年はまともにユージンを直視してニコッとした。


「これで決まった!」ユージンは言った。「いただきだ」


それでも絶対の自信にはほど遠かった。





第三十二章



ダニエル・C・サマーフィールドが社長を務めるサマーフィールド広告という会社は、一個人の個性が変に剥がれ落ちたか開花した一例で、これはビジネスの世界ではよく見受けられ、その背後に一人の傑出した人物がいることを常に意味するものだった。ダニエル・C・サマーフィールドのアイデアと熱意とパワーが、サマーフィールド広告のすべてだった。確かに彼のために働く者は大勢いた。広告の注文取り、コピーライター、財務会計士、デザイナー、速記者、簿記係などはすべてダニエル・C・サマーフィールドの個性の発散か放射に過ぎなかった。小柄な、痩せて引き締まった体で、黒い髪、黒い目、黒い髭をしていて、顔色はオリーブ色、きれいに並んだ時々狼と化すこともある感じのいい白い歯は、気質と同じ貪欲で飢えた性質を示した。


サマーフィールドは極貧から裕福もしくは比較的裕福という現状まで、最も直接的な手段……本人の努力……で駆け上がった。彼が生まれたアラバマ州で彼の家族は、自分たちが知られる小さな社会の中で、貧しい白人のゴミとして知られていた。父親はかなり怠け者の飢えかけた綿花の農園主で、借地一エーカーあたり一俵になるかならないかの収穫で満足し、痩せたラバをこき使ってさらにひどく老いさらばえたものにし、「惨状」を内心嘆きながら、痩せた畑の畝を行き来する人だった。彼はゆっくり進行する結核だったか、それにかかっていると思った。これは思うだけで同じ効果があった。さらには鉤虫症だった。しかしこの絶望的な疲労感を生むこの寄生虫はまだ発見されておらず名前はなかった。


長男のダニエル・クリストファーは七歳のときに紡績工場に入れられて、ろくな教育も受けずに育ったが、それでもすぐに家族の頭脳として頭角を現した。四年間、紡績工場で働き、その後飛び抜けた聡明さのおかげでウィッカム・ユニオンの印刷所に配属された。そこでのんびり屋のオーナーに気に入られ、すぐに印刷部門の長になり、やがて経営を任された。当時は印刷や新聞のことなど何も知らなかったが、ここでちょっと仕事をかじっただけで、すぐに視界が開けた。新聞事業の内容を瞬時に把握して参入することにした。やがて年齢を重ねるに連れて彼は、広告について多くを知る者はまだ誰もいないか、とても少ししかいない、自分はこれを変えるために神に招されたのではないか、と思うようになった。もっと広い分野での使い方を頭に思い描いて、あらゆる種類の広告の文献を読みあさり、見せ方と効果的な表現の技術を磨きながら、すぐに準備を始めた。部下たちを相手に私的な喧嘩をして重たい鉄の組版でその一人を殴り倒したり、両親を相手に二人とも駄目な人間だ、この救いようがない生活の立て直し方を教わった方がいい、とずけずけした物言いで私的な口論をしたりして、つらい思いをしてきた。弟たちを支配しようとして喧嘩し、末の弟を支配することに成功した。主な理由は、この弟を溺愛していたからであり、後に自分の広告会社に引き入れた。これまでに稼いだわずかなお金をコツコツ貯めて、その一部をウィッカム・ユニオンのさらなる発展に投資し、父親に八エーカーの農場を買い与えて仕事のやり方を教え、最終的にニューヨークへ行き、彼の関心をかき立てたものをもっと学べる重要な広告関係の会社に就職できないかを確かめることにした。すで結婚していたので南部から若い妻を連れて行った。


すぐに大手代理店の一つに注文取りとして潜り込んで、どんどん出世した。とてもにこやかで、人当たりがよく、執拗で、人をひきつけたので、仕事がどんどん舞い込んだ。彼はこのニューヨークの会社の重要人物になったので、オーナー兼マネージャーのアルフレッド・クックマンはすぐに、彼を引き留めるには何ができるかを考えたほどだった。しかし、彼がいったん自分の能力を理解してしまうと、誰もどんな会社も、ダニエル・C・サマーフィールドを長く引き留めることはできなかった。彼は二年間で、アルフレッド・クックマンが教えなければならなかったことと、彼が教えられる以上のことを学んでしまった。顧客を知り、顧客のニーズは何であるか、クックマンが顧客に提供するサービスのどこに欠陥があるのか、を知っていた。売れる商品が芸術性の高い表現に移行することを見越して、その方面に進むことに決めた。自分のサービスを利用できる人が誰でも儲かるような、完璧で派手なサービスを提供する代理店を始めるつもりだった。


ユージンが初めてこの代理店の話を聞いたとき、サマーフィールド社は設立六年目で、急成長を続けていた。会社はすでにとても大きくなっていて、繁盛し、オーナーと同じようにシビアで強引だった。自分のオフィスに座っているダニエル・C・サマーフィールドは、人間の査定の仕方がすこぶる冷酷だった。ナポレオンの人生を研究して、個人の命は重要ではないという結論に達していた。情けはビジネスから排除されるべき冗談であり、感傷はくだらない戯言だった。やるべきことは、できるだけ安く人を雇って、せいぜいこき使い、過労で衰弱する兆候を見せたらすぐに処分することだった。この数年の間にすでに五人のアートディレクターを雇い、数え切れないほどの注文取り、コピーライター、簿記係、速記者、デザイナーを、彼が言うように「雇用っては解雇」していた……少しでも能力不足や効率の低下を見せる者がいれば誰でもみんなやめさせていた。彼が管理する立派なオフィスのフロアは、清潔と秩序の見本だった……商業的な美しさと言ってもいいかもしれないが、これは丈夫で磨きあげられた油の潤沢な機械でいう、清浄度や万全の整備や美観だった。ダニエル・C・サマーフィールドもご多分に漏れなかったが、彼は落伍者や愚か者、そして彼の言う「カモ」にならないために、まともな状態でいなければならないとずっと前から決めていた。そして、そうでありつづける自分を称賛した。


ハドソン・デューラに頼まれたベーカー・ベイツが、実在するという噂の空きポストの件でサマーフィールドのところへ行ったとき、サマーフィールドはかなり受け入れに前向きな心境だった。達成するには膨大な想像力と芸術的な技能を必要とする、とても重要な広告の契約を二件獲得したばかりなのに、以前の契約を巡る争いのせいでアートディレクターを失っていた。確かに、とても多くの場合……実際にほとんどの場合……顧客は自分たちが何を言いたいのか、どういうふうに言いたいのか、とても明確な考えを持っていたが、毎回そうだとは限らなかった。顧客はほぼ毎回、修正や改善の提案を受け入れたし、多くのとても重要な案件では、方法論全体を進んでサマーフィールド広告に一任してくれた。これには、広告の準備だけでなく掲載においても稀に見る優れた判断力が必要だった。そして、その準備では……広告が具体的な形にする、多くの印象的なアイデアの問題では……真の想像力を持つ有能なアートディレクターの判断力と補佐が最も貴重だった。


すでに述べたように、サマーフィールドはこの五年の間に五人のアートディレクターを採用していた。いずれの場合も、彼はナポレオン流の、新鮮で疲れていない正気な者を問題の突破口に投入してそれがその重圧で疲弊かくじけるかしたらさっさと投げ出す、というやり方を採用した。このやり方のどこにも、良心の呵責や同情はなかった。「私はいい人材を雇って、いい賃金を払う」が口癖だった。「どうしていい結果を期待しちゃいけないんだ?」失敗にうんざりしたり、腹を立てたりすると、こう叫びがちだった。……「芸術家のこん畜生どもめが! あいつらに何が期待できるんだ? あいつらは、物がどう見えるべきかという自分たちのちっぽけな理屈以外は何も知らないんだ。人生について何も知っちゃいない。まったく、どいつもこいつも子供と同じだ。どうしてそんなやつらが考えることをいちいち気にしなきゃならないんだ? あいつらの考えることなど誰が気にするんだ? あいつらにはいらいらするよ」ダニエル・C・サマーフィールドは悪気はないのに習慣でよく悪態をついた。それに彼の好みの表現を入れなければ、彼の絵は完成しないのだ。


ユージンがこのすばらしいポストの有望な応募者として現れたとき、ダニエル・C・サマーフィールドは懸案の二つの新しい契約をどうすべきか、独りで検討している最中だった。広告主たちは彼の提案をひたすら待ち続けていた。一つ目は、砂糖の新しいブランドを全国規模で宣伝するためのもので、二つ目は一連のフランスの香水のイメージを国際的に広めるためのものだった。香水の売れ行きは、一般の人に理解可能な美しさに大きく左右された。香水の方はアメリカとカナダだけでなく、メキシコでも広告されることになっていた。いずれの場合も契約の履行は、彼が提出する新聞、車両内、看板用の広告のデザインに、広告主が承認を出すかどうかにかかっていた。これは最終的な利益が二十万ドルになるデリケートな仕事だった。当然、彼は自社の美術部門の責任者の席に座る人物が、実力と才能のある人物……できればそのアイデアを通して自分が黄金の収穫を得るのを助けてくれる天才……であることを望んでいた。


当然、適任者はなかなか見つからなかった。前任者はかなり有能なだけの人だった。威厳があって、瞑想的で、思慮深く、単純なアイデアを強く印象づけるにあたってその具体的な場面に何が必要かについて、かなりいいセンスで理解する力を持ってはいたが、すごい想像力を働かせて人生をとらえる力はなかった。これまでにアートディレクターの椅子に座ったことがある人で実際にサマーフィールドを満足させた人はいなかった。彼に言わせると、どいつもこいつも弱虫で、中には「下手くそ、偽者、ほら吹き芸術家」などと言われる者もいた。しかし、彼らの問題は難問だった。彼が販売しようとしている商品がどんなものであれ彼らはとても精力的に考えねばならず、彼が販売しなくてはならないものに注意を集めるために、メーカーは次に何を言って何をすれば一番いいのか、を限りなく提案しなければならなかった。例えばそれは「あなたはこの新しい石鹸をご覧になったことがありますか?」とか「ソレスダをご存知ですか?……赤いやつです」などのキャッチフレーズかもしれないし、手や指、目や口の使い方を新しくすることが要求されることのすべてで、何かの適切な説明を文字で伝えればいいのかもしれない。時にはとても実用的な製品の場合のように、何かの明確で、興味を引く、魅力的な方法で、その実用性そのものを見せることが、必要とされるすべてだった。しかしほとんどの場合は、徹底して新しいものが求められた。広告は目を引くだけでなく、それ自体を記憶に定着させて、読者にとって重要、もしくは少なくとも重要だと思わせることができる事実を伝えなければならない、がサマーフィールドの持論だった。これは、人間の心理の最も深くて最も興味深い局面の一つとの闘いだった。


前任者のオールド・フリーマンは、彼なりにかなりサマーフィールドの役に立っていた。彼は自分のまわりにかなり有能な芸術家……一時的に運に見放された男たち……ユージンのようにこの種の労働環境につくことをいとわない人たち……をたくさん集めた。そして頼んだり、おだてたり、実演したりすることによって、彼らからたくさんの興味深いアイデアを引き出していた。彼らの労働時間は九時から五時半までであり、ベテランで五十とか六十ドルをもらう実例はあったが、賃金は微々たるもの……十八から三十五ドルだった。仕事は無限で実際には全然終わらなかった。彼らの成績は、一週間にどれくらいの成果を出したかと、それが会社にとってどれくらいの価値があったか、を記入する一覧表形式の記録システムで管理された。彼らが手掛けたアイデアは、多かれ少なかれアートディレクターとその上司の頭脳の産物だったが、時には彼ら自身も重要な提案をした。しかしその適切な実行、それに費やされた時間、被ったダメージについては、多かれ少なかれアートディレクターが責任を負った。アートディレクターは雇用主に、いいアイデアの下手なデッサンや、高度な考えを要求するものに貧困なアイデアを提出できなかったし、自分の地位に長くいる望みも持てなかった。ダニエル・C・サマーフィールドは、ものすごく抜け目なくて厳格だった。彼の行動する力は本当に疲れを知らなかった。いい絵を描くためのいいアイデアを提供して、それが適切かつ迅速に実行されるのを見届けることがアートディレクターの仕事である、とサマーフィールドは考えた。


サマーフィールドの目には、これ以下のものは胸くそ悪い失敗であり、自分の意見を表明することを全然ためらわなかった。事実、時々恐ろしいほど残酷だった。「どうしてあんなものを私に見せるんだ?」かつてフリーマンに叫んだことがあった。「まったく、ゴミ拾いを雇ってももっといい結果が得られるぞ。おい、ほら、その女の腕の描き方を見てみろ。それに耳だ。誰がそんなものを気に入るんだ? パッとしないな! くだらない! 冗談かよ! いったい、お前はどんな家畜をつかまえて働かせているんだ? もしサマーフィールド広告がこれよりましなものを作れないのなら、私は店を畳んで釣りにでも出かけた方がいい。六週間後に笑い者になるんだからな。こんなくだらないものを私に渡そうとしないでくれ、フリーマン。お前はよくわかっているはずだ。うちのクライアントはこんなもので我慢してはくれんぞ。目を覚ましてくれよ! お前には年間五千も払っているんだ。どうすればお前は、私がその取り決めからお金を取り戻せると思うんだ? お前は部下にそんなものを描かせて、私の金とお前の時間を無駄にしているだけだろうが。畜生め!」


誰であれアートディレクターは、徐々にこのひどい状況に入れられて……雇用期間だとか、おそらくかつて経験したことのない手厚い給料で自分に与えた特権が理由で……身売りして今の自分が思うやむを得ない状況に隷属し、どんな苛立たしい非難をあびせられても大体は謙虚で従順だった。どこへ行けば彼は自分の働きで年間五千ドルの報酬を得られるのだろう? もしこの職を失ったら、どうすれば彼は今の生活水準で生活できるのだろう? アートディレクターのポストは多くなかった。そのポストをちゃんと許容範囲で埋められる者を見つけることは不可能ではなかった。もし少しでも考える頭があって、神から与えられた力があるのを知って呑気でいられる天国生まれの天才ででもなかったら、相手はさすがにためらい、気をもみ、下手(したて)に出て、かなりのことを我慢しがちだった。似たような境遇にいるほとんどの者は、同じことをした。暴君の口からしばしば発せられる中傷や残酷な性格描写をそこに投げ返す前に、彼らは考えた。ほとんどの人がそうだった。それに、された非難の中には、ほぼ毎回かなり高い割合で真実があった。普通、人は荒波に揉まれて成長する。サマーフィールドはこれを知っていた。また、すべての部下がそうではなくても、そのほどんどが貧困から抜け出せず、恐怖にしばられることも知っていた。強い者が棍棒を使うようにこの武器に使っても、彼は全然気がとがめなかった。彼自身が過酷な人生を送っていた。誰も彼にあまり同情しなかった。それに、人が同情して引き継ぐことはできなかった。現実を直視して、無限の能力者だけと取り引きし、無能者を手当たり次第に排除して、力強い敵には最も抵抗が少ない方針に従って進む方がいいのだ。最後の審判の日まで議論は尽きないかもしれないが、これが物事の対処方法であり、彼が好んでとった方法だった。


ユージンは、サマーフィールド社に関するこういう事実をどれも聞いたことがなかった。この話は急に舞い込んだものだったので、彼には考える時間がまったくなかった。それに、もし時間があったとしても、違いは生じなかっただろう。ちょっとした人生経験は、他のみんなにそうしたように、噂を信じてはいけないと彼にも教えていた。ユージンは話を聞いて求人に応募した。彼はその地位を手に入れたがっていた。ユージンがベーカー・ベイツを訪ねた翌日の正午、ベイカーはユージンの代わりにサマーフィールドと話をしていたが、あくまで何気なく話していた。


「ところで」二人は南米に製品を紹介するチャンスについて話し合っていたのに、ベイカーは明らかに唐突に尋ねた。「あなたのところでは、これまでにアートディレクターの欠員が生じたことがありますか?」


「たまにはね」サマーフィールドは慎重に答えた。彼の印象では、ベーカー・ベイツはアートディレクターのことも、広告業界の美術に関する他のこともろくに知らなかった。目下、欠員なのを聞きつけて、誰か自分の友人、もちろん無能な者を押し付けようとしているのかもしれない。「どうしてそんなことを聞くんです?」


「トリプル石版印刷社を経営するハドソン・デューラが、あなたの役に立てるかもしれない〈ワールド〉の関係者の話をしてくれたんです。私も彼のことは多少知ってるんですよ。数年前にここでニューヨークとパリのかなり注目された風景画を描きました。デューラは、とてもすばらしかったと言っています」


「そいつは若いんですか?」サマーフィールドは計算しながら口を挟んだ。


「ええ、割とね。三十一か二ってとこです」


「そして、そいつがアートディレクターになりたいと。今はどこにいるんです?」


「〈ワールド〉にいるんですが、そこを辞めたがっています。あなたが人を探してると去年言ったのを、小耳に挟んだものですから、これなんかは興味があるんじゃないかと思いましてね」


「〈ワールド〉では何をしてるんですか?」


「病気だったと聞いてます。ちょうど再起しかけているところですよ」


サマーフィールドにはこの説明が十分誠実に聞こえた。


「名前は?」サマーフィールドは尋ねた。


「ウィトラ、ユージン・ウィトラです。数年前にここのギャラリーで個展を開きました」


「よくいるインテリの芸術家じゃ困るんだ」サマーフィールドは怪訝そうに言った。「あいつらはいつだって自分の芸術にこだわるから、一緒にやっていくのは無理なんだ。うちの仕事には、信頼できる実用的なセンスを持つ者が必要だ。まったくの大馬鹿じゃない奴がね。そいつは優秀な管理者でなければならない……優秀な統率者でないとね。絵を描く才能だけじゃだめなんだ……才能はなくてはならないが、見てわかる人でないとね。もしあなたが知っているというなら、いつか寄こしてくれてもいいよ。会う分には構わないからね。すぐにでも人が必要になるかもしれない。多少人事をいじろうと考えているところなんだ」


「会ったら来させますよ」ベーカーはそっけなく言ってこの話を切り上げた。しかしサマーフィールドは何かの心理的理由から、その名前に感銘を受けた。彼はどこでその名前を聞いたのだろう? 明らかにどこかで聞いていた。一応、相手を調べた方がいいかもしれない。


「もしきみがそいつを寄こすのなら紹介状を渡した方がいいな」ベイカーがこの件を忘れないうちに、慎重につけ加えた。「私に会いに来ようとする者はとても多いから、忘れてしまうかもしれん」


サマーフィールドがウィトラに会いたがっていることをベイカーはすぐに知った。その日の午後、紹介状を速記者に口述して、ユージンに郵送した。


「私が見たところでは、サマーフィールド氏は明らかにあなたに会いたがっています」と書き記した。「もしも興味があるのなら会いに行った方がいいでしょう。紹介状を同封します。敬具」


ユージンは驚き、今後の展開を予感しながら、それを見た。運命が彼のためにこれを用意していた。彼はこれを手に入れるつもりだった。人生とは何と不思議なものだろう! ここで〈ワールド〉に落ち着いて週給五十ドルで働いていたら、突如、何年も考えていたアートディレクターの職がどこからともなく舞い込んできた! それからダニエル・サマーフィールドに電話して、ベーカー・ベイツからの紹介状を持っていることを伝え、いつ会えるかを尋ねることにした。その後、時間を無駄にせず、電話を入れないで直接紹介状を渡すことに決めた。午後三時にベネディクトから三時から五時まで会社を離れる許可を得て、三時半にはサマーフィールド広告本社の控室で待望の入室許可を待っていた。





第三十三章



ユージンが訪問したとき、ダニエル・C・サマーフィールドは特に忙しいわけではなかったが、他の多くの件でそうだったようにこの件でも、自分から何かを得たい者は待たされることがとても重要だと判断した。ユージンは丸一時間待たされた挙げ句、部下から、大変申し訳ありませんが、サマーフィールドは他の用事で手が塞がってしまい、本日は面会できませんが、明日の十二時なら喜んでお会いします、と告げられた。ユージンはその翌日ようやく面会を許された。するとサマーフィールドは一目で彼を気に入った。椅子にもたれかかって相手を見つめながら「聡明な男」だと思った。「力のある男だ。まだ若くて、目がパッチリしていて、敏捷で、清潔そうだ。もしかしたら、私はこの男の中に、立派なアートディレクターになる人物を見つけたかもしれない」サマーフィールドは微笑んだ。彼は最初の関係構築のときはいつも温厚だった……大体、すべての人に対してそうだった。そしてほとんどの人たち(特に社員や社員になるかもしれない人たち)には傲慢だが親しげな見下した態度で接した。


「さあ! 掛けたまえ!」明るく叫んだ。ユージンは、体裁よく装飾がほどこされた壁、広々とした柔らかい薄茶色の絨毯が敷かれた床、銀や象牙や青銅のすてきな装飾品が置かれた、表面の平らなガラス張りのマホガニー材の机を見回しながら座った。この男は、とても鋭く、とてもダイナミックで、まるで磨き上げられた日本の彫刻のように硬くて滑らかだった。


「さっそくあなたのお話をうかがいましょうか」サマーフィールドが切り出した。「出身地は? どういう方ですか? どんな経験をお持ちですか?」


「ちょっとお待ちください!」ユージンは苦もなく鷹揚に言った。「そう急かさないでください。経歴は大したものではありません。貧しい者の短くて簡単な記録です。二、三行で語り尽くせます」


サマーフィールドは、自分の態度が招いたこのぶっきらぼうな態度に少し驚いたが、それでもこれを気に入った。これは彼にとって新鮮だった。サマーフィールドが判断したところでは、彼の応募者は怯えても、明らかに緊張さえもしていなかった。「ひょうきんな奴だ」と思った。「なかなかのものだ……明らかに場数を踏んできた男だった。態度にも余裕があるし、親切だ」


「それで」サマーフィールドはにこにこして言った。ユージンののんびりしたところが彼には魅力的だった。彼の気質はアートディレクターとして新鮮だった。サマーフィールドが思い出せる限りでは、前任者たちには何も話すようなことがなかった。


「ええ、私は芸術家で」ユージンは言った。「〈ワールド〉で働いています。それがあまり私の不利に働かないといいのですが」


「働かんよ」サマーフィールドは言った。


「私はアートディレクターになりたいのです。自分なら立派なアートディレクターになると思うからです」


「どうしてだね?」サマーフィールドはきれいに並んだ歯を感じよく見せながら尋ねた。


「人を管理することが好きだからです。自分ではそう思っています。みんなが私に好感を持ってくれます」


「そんなことがわかるんですか?」


「わかります。次に、私は芸術についての知識がとても豊富ですから、今やっているような小さなことをやりたくないのです。私ならもっと大きなことがやれます」


「私もそういうのは好きだよ」サマーフィールドは称賛した。ユージンのことを上品で見た目はいいが、完全に力強いかといえば少し青白くて痩せているかもしれない、と考えていたが確信には至らなかった。髪は少し長過ぎた。態度は少し慎重すぎるかもしれない。それでも上品だった。どうして中折れ帽をかぶっているのだろう? どうして芸術家はいつも中折れ帽をかぶることにこだわるのだろう、しかも彼らのほとんどが? とても馬鹿げているし、ビジネスの場にふさわしくなかった。


「給料はいくらもらっているんですか?」サマーフィールドは付け加えた。「もし差し支えなければだが」


「見くびられたものですよ」ユージンは言った。「たったの五十ドルですからね。でも、これも治療のうちだと受けとめました。私は数年前に神経症にかかりました……マルバニーの言い草じゃありませんが、もうよくなりました……それに、あそこにずっといたいわけではありません。私は気質的にアートディレクターなんです。少なくとも自分ではそう思っています。とにかく、私はここにいます」


「要するに」サマーフィールドは言った。「今までに美術部門を運営した経験はないんですね?」


「ありません」


「広告について何か知っているんですか?」


「以前はよくそう思っていました」


「それはどれくらい前のことですか?」


「イリノイ州アレキサンドリアの〈デイリー・アピール〉で働いていたときです」


サマーフィールドは微笑んだ。笑わずにはいられなかった。


「そこはウィッカム・ユニオンと同じくらい重要だと言っていいと思う。同じ規模の影響力がありそうだね」


「いや、もっとずっと大きいですね」ユージンは静かに答えた。「アレキサンドリアの〈アピール〉は、サンガモン以南の郡で最大の独占的な地域発行部数を持ってましたから」


「ほお! なるほどな!」サマーフィールドは上機嫌で答えた。「それじゃ一日中ウィッカム・ユニオンにいるようなものか。で、どういうわけで気が変わったんですか?」


「まあ、ひとつには、私が歳を取ったからです」ユージンは言った。「そして、私は自分に一流の芸術家になる素質があると判断し、それからニューヨークに来て、興奮の中でその考えを失いかけたのです」


「なるほど」


「しかし、ありがたいことにその考えを取り戻し、家の奥にしばりつけ、今ここにいる次第です」


「ウィトラさん、正直に言うと、あなたは本物の、いつも安定した、いかにもそれらしいアートディレクターには見えません。しかし、あなたなら立派に務まるかもしれない。あなたは我が社の一般的な基準でいう芸術性には必ずしも合致しないんだが、それでも、ここはひとつ大きなリスクをとってもいいかもしれない。そうすればいつものように刺されるだろうが、散々刺されてきたから、そろそろ慣れてもいい頃だ。私は過去に雇ったスズメバチどもに、時々傷つけられた感じがするんだ。まあ、それはさておいて、もし本当にアートディレクターになったら、あなたは自分に何ができると思いますか?」


ユージンは考え込んだ。こうしてからかうのは楽しかった。ユージンは二人が一緒にいるこのとき、サマーフィールドは自分を雇うだろうと思った。


「そうですね、まずは給料をもらいます。それから面会に来た誰もが私をイギリスの国王だと思うような適切な面会の手順があることを確認します。それから……」


「昨日は本当に忙しかったんだ」サマーフィールドは言い訳がましく口を挟んだ。


「私はあれで満足ですよ」ユージンは明るく答えた。「そして最後に、もし十分にちやほやされたら、少しは仕事をやらせていただくかもしれません」


この言い草はサマーフィールドをいらだたせると同時に面白がらせた。彼は気概のある男が好きだった。たとえ最初は多くを知らなくても、怖気づかない相手となら何かをやれるかもしれない。それに、ユージンは多くのことを知っている、と彼は思った。その上、彼の話はまさに彼独特の皮肉が効いていてなかなかユーモラスだった。ユージンが言うと、サマーフィールドが言うほど辛辣には聞こえなかったが、そこにはユージン自身の陽気で冗談めかしている態度があった。サマーフィールドはユージンならうまくやれると信じた。とにかく、直ちに彼を試したかった。


「それじゃ、こうしよう、ウィトラ」サマーフィールドは最後に言った。「きみにこういうことがやれるのかどうか私にはわからない……さっきも言ったが、可能性はすべてきみに不利に働いている。しかしきみにはアイデアがありそうだし、私の指揮下でできることがあるかもしれない。だから、きみにチャンスをやろうと思う。いいか、私だってあまり自信はないんだ。私が自分の好みでやると、いつも命取りになる。せっかく、きみはここにいるんだ。私はきみの見た目が気に入ったし、他に候補者は見当たらない。そこで……」


「ありがとうございます」ユージンは言った。


「礼には及ばん。私が採用すれば、きみは大変な仕事を目の前にかかえるんだ。子供の遊びとはわけがちがうぞ。まずは私と一緒に来て社内を見て回った方がいいな」サマーフィールドは大きな中央の部屋へと案内した。まだ正午だったのでそこで働いている人は少なかったが、この仕事が実際にどれほど立派であるかがよくわかる場所だった。


「七十二名の速記者、簿記係、営業担当、ライター、サポートのスタッフがそれぞれのデスクにいる」軽く手をうねらせて言うと、北東の日差しが確保されているビルの別棟にある美術部へ移動した。「ここがきみの配属先だ」と言ってドアを開け放つと、そこには三十二の机とイーゼルが並べられていた。ユージンは驚いた。


「きみはこれほどの大人数を使ってはいないよな?」サマーフィールドは楽しそうに尋ねた。社員の大半は昼食に出払っていた。


「常時二十から二十五名いるし、時にはそれ以上になる」サマーフィールドは言った。「外部にも数名いる。仕事の状況次第だな」


「それで、社員には基本的にどれくらい払うんですか?」


「まあ、状況によるな。合意に至ればだが、最初はきみに週七十五ドル出そうと考えている。いい成果を出せば、三か月以内に週百ドルにしよう。すべては状況次第だ。他の社員にはそんなに多く払ってはいないよ。事業部長が教えてくれるさ」


ユージンははぐらかしたのに気がついた。目が細くなった。しかし、ここは正念場だ。七十五ドルは五十ドルよりかなりよかった。しかももっと上がるかもしれない。自分で好きなようにできるのだ……ある程度の責任を持つ人物になるのだ。入社するなら彼の持ち場だとサマーフィールドが指摘した部屋を見たときは、少し誇らしくて体が引き締まらずにはいられなかった…… 大きなピカピカに磨き上げられたオーク材の机が置かれ、壁にはサマーフィールド広告のすばらしい代表作が掛けられていた。床にはすてきな絨毯が敷かれ、革張りの背もたれつきの椅子があった。


「入社すれば、ここがきみの部屋になる」サマーフィールドは言った。


ユージンは周囲を見回した。確実に人生は上向きつつあった。この場所を手に入れるにはどうすればいいのだろう? それは何に左右されるのだろう? 彼の頭は自分の抱える問題のいろいろな改善を考えていた。アンジェラをもっといいアパートに住まわせて、彼女にもっといい服を着せて、二人の娯楽をもっと増やし、将来の不安から解放されるのだ。ささやかな銀行口座に、こういう場所からの結果はすぐに反映されるだろう。


「年にたくさんの仕事をするわけですよね?」ユージンは興味を持って尋ねた。


「まあ、概算で二百万ドルってとこかな」


「そして、広告ごとに絵を描かないといけないのですか?」


「そうだとも、一枚ではなく、六枚、八枚になる時もある。それはアートディレクターの力量次第だ。彼がきちんと仕事をしてくれれば、私はお金を節約できるんだ」


ユージンは要点がわかった。


「前任者はどうなったんですか?」ドアのオルダー・フリーマンの名札に気づいて尋ねた。


「ああ、辞めたよ」サマーフィールドは言った。「というより、先が見えたんで道を空けたんだな。あいつは優秀じゃなかった。弱過ぎたんだ。あいつはここで洒落にならない仕事をしていた……いくつかの仕事は八回も九回もやり直さないとならなかったからな」


ユージンは、これに伴う怒りと苦労と対立を知った。サマーフィールドは明らかに厳しい男だった。今だから笑って冗談を言うのかもしれないが、あの椅子に座った者はみんな絶えず彼の小言を聞くのだろう。ユージンは一瞬、自分にはできない、やらないほうがいい、と思ったが次にこう思った。「なぜやってはいけないんだ? 害にはならないんだ。もし最悪の事態になっても、自分には頼れる芸術がある」


「なるほど、そういうことですか」ユージンは言った。「もし私がいい結果を出さなければ、私がそのドアから出て行くんですね?」


「いや、いや、そんな生易しいもんじゃない」サマーフィールドはくすくす笑った。「石炭シュートに送ってやる」


ユージンは、相手が神経質な馬のように歯ぎしりすることや、エネルギーの波を放出しているように見えることに気がついた。我が身を案じてほんの少し顔をしかめた。彼が入ろうとしているのは、厳しい闘いの雰囲気だった。ここでは命がけで戦わなくてはならない……これは間違いなかった。


「さて」サマーフィールドは自分のオフィスに戻るときに言った。「きみがどうすればいいか教えるとしよう。仕事は二つあって、一つは〈サンド香水〉、もう一つは〈アメリカンクリスタル製糖〉だ。この二社に適切な広告案を提示できれば、うちはでかい契約を結べるかもしれない。先方は広告を出したがっている。サンド社は、ビン、ラベル、車内広告、新聞広告、ポスターなどに向けた提案をお望みだ。アメリカンクリスタル製糖の方は、粉砂糖、ザラメ、角砂糖、六角形の砂糖を小分けにして売りたがっている。そのためには、包装の形状、ラベル、ポスター広告などが必要になる。問題は、最小限のスペースに、斬新さ、単純さ、インパクトをどれだけ盛り込めるかなんだ。今、私はアートディレクターに頼って、こういうことについての助言をもらっている。アートディレクターがすべてをやることを期待しているわけじゃない。私だってここにいるんだ。協力はするさ。この方針に沿って提案してくれる優秀なスタッフが顧客相談室にいるんだが、アートディレクターが補佐することになる。アートディレクターっていうのは、センスがあるはずで、最終的な形で問題を実行できる人物だからね。では、きみはこの二つのテーマを持ち帰って、それに対して自分に何ができるかを確認してくれたまえ。いくつか提案をしてほしい。もし提案が私の気に入るもので、きみが正しい意見を持っていると思えば、きみを雇うことにする。そうでなかったら、そのときは雇わない。問題はあるまい。それでいいかな?」


「いいでしょう」ユージンは言った。


サマーフィールドは、書類、カタログ、目論見書、連絡事項の束を引き渡した。「よかったら、これに目を通してくれ。持ち帰って後日返してくれればいい」


ユージンは立ち上がった。


「これに、二、三日お時間をいただきたい」と言った。「何しろ初仕事ですからね。いくつかアイデアを提案できると思います……定かではありませんが。とにかく、やってみます」


「どうぞ! どうぞ!」サマーフィールドは言った。「多ければ多いほどいい。準備ができたらいつでも会いますよ。他にも担当者がいるんだ……フリーマンのアシスタントがね……そいつが一時的に代行を務めている。幸運を祈るよ」サマーフィールドはすげなく手を振った。


ユージンは退出した。こんなに厳しくて、冷たく、現実的な男がこれまでにいただろうか! ユージンにとってこれは新しい留意事項だった。主に経験不足のせいだが、只々驚いた。彼はまだ、商業的に何かを大々的にやろうとする人たちが立ち向かわねばならないようなビジネスの世界に、立ち向かったことがなかった。この男はすでにユージンの神経を逆なでして、前途に大きな問題が待ち受けていることを感じさせて、芸術の静かな領域は忘れられた僻地に過ぎないと彼に考えさせていた。努力の最前列にいて何かをやりとげた人たちは、この男のような戦士であり、土からの生まれたてのように、残酷で、傍若無人だった。自分もそんな風になれたらいいな、と彼は思った。もし自分が強く、傲慢で、相手を威圧できるようになれたら、どんなにすばらしいことだろう。ひるむことも、たじろぐこともなく、毅然と構えて、世界に立ち向かい、人々を従わせるのだ。ああ、彼の目の前には、帝国の何ともすばらしい光景があった。


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