第19章~第25章
第十九章
ニューヨークに乗り入れている大手鉄道会社のうちの一社の社長に直訴しようというこのアイデアを実行するのはそれほど難しくなかった。翌朝ユージンはとても入念に身支度を整えた。四十二丁目にある会社の事務所へ行き、廊下の一つに掲示されていた役員リストを調べて、社長が三階にいるのを把握すると昇っていった。思い切って入ったはいいが、このいわゆるオフィスは社長に仕える補佐役たちが詰める単なる控え室に過ぎず、予約がなければ誰も社長には会えないことがわかった。
「忙しくなければ、秘書になら会えるかもしれません」とても慎重に彼の名刺を扱った事務員が提案した。
ユージンはそのときどうしようか決めかねたが、秘書でも助けになるかもしれないと判断した。名刺を取り次ぐのはいいが、秘書本人に聞かれること以外、自分についての説明は無用に願いますと言われた。しばらくして秘書が出てきた。二十八歳くらいの背が低くて、かっぷくのいい直属の秘書だった。温厚で明らかに人柄が良さそうだった。
「どういったご用件でしょうか?」秘書は尋ねた。
ユージンは頭の中で自分の要望を整理していた……短く簡単にした。
「ウィルソン社長に面会するために参りました」ユージンは言った。「鉄道会社の何かの部門に関連する日雇い労働者として私を派遣してもらえないかを確認するためです。私は職業が画家なのですが、神経衰弱症で苦しんでおります。相談した医者は口を揃えて、何か単純な肉体労働にでもついて、回復するまでその仕事をするよう勧めてくれました。ウィルソン社長がこうやって作家のサヴィンさんを援助した例を知っているものですから、私にも関心をお持ちいただけるかもしれないと考えた次第です」
秘書はヘンリー・サヴィンの名前に聞き耳を立てた。幸い秘書はサヴィンの本を一冊読んでいた。ユージンがその事例を知っていることと、彼の外見と、発言の内容にある種の誠実さがありそうなことがこれと合わさって一瞬興味を持った。
「社長があなたに用意できる事務職はありません」秘書は答えた。「そういうのはすべて昇進制度で決まるんです。現場の監督が管理する部門のひとつの建設チームのうちのひとつにならあなたを配属できるかもしれません。私にはわかりませんが、とてもきつい仕事ですよ。社長はあなたの事情を考慮するかもしれません」秘書は同情しながら微笑んだ。「そういう仕事ができるほどの体力があなたにあるかどうかが問題ですね。つるはしやシャベルを扱うにはかなり丈夫な人が要りますから」
「今はそんなことを気にしている場合じゃないと思うんです」ユージンはだるそうに微笑みながら答えた。「その仕事をやってみて、それが自分の助けになるかどうかを確認するつもりです。どうしてもその必要があると私は考えています」
ユージンは、秘書が提案を後悔して完全に拒否するのを恐れた。
「少々お待ちいただけますか?」秘書は気にかけて尋ねた。秘書はユージンが重要人物であると考えていた。立ち去り際に、特別な紹介状を何通かお渡しできると言ってくれた。
「はい」ユージンは言った。秘書は立ち去って、三十分後に戻り、ユージンに封筒を一通手渡した。
「考えたのですが」秘書は、この件で社長が力を貸すと言ったことを撤回し、彼と、ユージンへの援助に賛成してくれた秘書室長とを代表して率直に言った。「あなたは工務部へ行くのが一番いい。チーフエンジニアのホブセンさんが手配します。この手紙であなたの望みはかなうと思います」
ユージンの胸ははずんだ。宛名を見て、チーフエンジニアのウッドラフ・ホブセン氏に宛てたものであることを確認すると、読む間も惜しんでポケットにしまい、秘書にたっぷりと礼を言って部屋を出た。廊下の離れた安全なところで立ち止まって開けてみると「ユージン・ウィトラ氏、芸術家、神経衰弱症により一時的に能力喪失」と彼のことが親身に書かれていて、さらに、彼が「どこかの建設チームで何かの肉体労働に就くことを希望している。この要望に沿う取り計らいを願いたい。社長室」と続きがあった。
これを読んでユージンは、これがひとつの立場を意味していることがわかった。このことは階層化の本質と意義について不思議な感情をかき立てた。ユージンは労働者としては何の値打ちもなかったのに、芸術家として労働者の立場を手に入れることができた。結局、芸術家としての彼の能力には何かの値打ちがあった。それが彼にこの避難所をくれたのだ。ユージンはうれしそうに手紙を抱きしめ、その直後にチーフエンジニア室の専属秘書にそれを手渡した。管理者の誰にも会わされることなくユージンは代わりに「保線技士」のウィリアム・ハヴァーフォード氏宛の手紙を渡された。彼は青白い元気のないおそらくは四十歳くらいの男で、三十分後に最終的に案内されたときにユージンが当人から教わったように、一万三千人を率いる隊長だった。ハヴァーフォードは好奇の目でエンジニア室からの手紙を読んだ。ユージンの風変わりな役目と人としての外見に衝撃を受けた。芸術家って奴は変わり者だ。こいつも同類だ。ユージンを見てその姿に少し自分を重ねせてしまった。
「芸術家ねぇ」ハヴァーフォードは興味を抱いて言った。「そんな人が日雇い労働者で働きたいって?」面長の洋梨型の顔から様子をうかがっている澄んだ真っ黒い目で、ユージンを見つめた。ユージンは、自分の手が細長くて真っ白で、高くて青白い額は黒い髪がふさふさなことに気がついた。
「神経衰弱症か。最近、そいつをよく耳にするんだが、私はそういうのに悩まされたことがない。イライラするときはゴムの屈伸運動でもすれば、かなり効くって知ってるからな。どうせそういうのはやってみたんだよな?」
「はい」ユージンは答えた。「やりました。僕の場合はそれじゃ効かないほどひどいんだと思います。旅行も散々しましたが、僕には全然効果がないみたいです。何かの肉体労働がしたいんです……そういう何かをしなくちゃ駄目なんです。室内運動じゃ効果がないんです。環境を完全に変える必要があるんだと思います。何かの資格で仕事につかせていただけたら大変ありがたいのですが」
「だったらこいつがうってつけだ」ハヴァーフォードは穏やかに言った。「日雇い労働者として働くってことは決して遊びじゃないからな。実を言うと、私はあなたが耐えられると思わないんですよ」ハヴァーフォードはニューイングランドからシカゴやセントルイスへと伸びている鉄道の各管区がわかるガラス枠の地図に手を伸ばして、静かに言った。「あなたを派遣できる場所はたくさんあるんです。ペンシルバニア、ニューヨーク、オハイオ、ミシガン、カナダとかね」指がうろうろとさまよった。「私の部門には一万三千人の部下がいて、広範囲に散らばっていますから」
ユージンは驚いた。そういう地位なのか! それほどの権限があるのか! この活気のない色黒の男性は、とても大きな組織を管理している配置転換の部署でエンジニアとして着任していた。
「大きな力をお持ちなんですね」ユージンは簡単に言った。ハヴァーフォードはかすかに微笑んだ。
「もしもあなたが私の忠告に耳を貸す気があればですが、すぐに建設チームに入ることはないと思うんです。あなたに肉体労働は無理ですよ。街からそれほど遠くないスペオンクにうちの小さな木工所があるんですが、そこならあなたの要望にも応えられると思います。小さな川がそこでハドソン川に合流していましてね、工場は陸地の先端にあるんです。今は夏ですからね。イタリアの野郎どもと一緒にあなたを炎天下に置くのは少し乱暴ってもんです。私の言うことを聞いてここに行きなさい。そこだって十分大変ですよ。あなたが仕事に慣れて、変えたいと思えば、私が簡単にあなたのためにこっちの手配はできますから。お金はあなたにとってはあんまり重要じゃないのかもしれませんけど、持っていた方がいいですよ。時給は十五セントです。うちの課の技術者のリトルブラウン君宛ての紹介状をあなたにあげましょう。あなたがちゃんとやっていけるように彼が面倒を見てくれるでしょう」
ユージンは頭を下げた。あなたは金などいらないだろう、という思い込みに内心微笑んだ。何だって受け入れるつもりだった。おそらく、これが一番いいのだろう。そこは街の近くだった。地峡にある小さな木工所の描写がユージンには魅力的だった。その工場がある近隣地区の地図を見てわかったが、そこはかろうじて市内ぎりぎりのところだった。ユージンはニューヨークに住むことができた……とにかくアッパー地区だった。
再び手紙をもらった。今度はヘンリー・C・リトルブラウン氏宛だった。背が高くて瞑想的な哲学者のような人物で、ユージンは二日後彼にヨンカーズにある所属課の事務所で会った。すると今度は彼がモットヘイブンでいくつものビルを管理しているジョセフ・ブルックス氏宛の手紙を書いた。最後にその男の秘書がスペオンクで大工の現場監督をしているジャック・スティックス氏宛の手紙をユージンに渡した。晴れた金曜日の午後に渡されたこの手紙には、月曜日の午前七時に来るよう案内書きがあった。ユージンには日雇い労働者としての経歴が目の前でどんどん広がっていくのが見えた。
その「小さな工場」は、望みうる限りで最高に魅了的な形で存在した。もしこれが彼の特別な芸術感覚を狙っての舞台装置として設定されていたとしたら、これに勝るものはなかっただろう。川と、鉄道の本線と、鉄道の東側にあってその鉄道が再び本土に戻るときに架台で渡る小川に挟まれた地点にそれはあった。長くて低い二階建てで、屋根は緑、建物本体は赤、窓がたくさんあって、窓からは通過するヨット、汽船、小型のランチ、小川が作る入り江の水域に安心して停泊している手漕ぎのボートなどの絵のような景色が見えた。この工場からは、まぎれもない労働の歌が聞こえた。机や椅子やテーブル、つまり多種多様のオフィス用品を作ることができて、駅やオフィス向けの会社の必需品をきちんと供給し続ける大工がたくさんいることは言うまでもないが、鉋や旋盤、多種多様の轆轤でいっぱいだった。大工はそれぞれ二階の窓の前に作業台をもっていて、中央にはいつも使っている必要な機械が数台と、小さな治具、横引きノコギリ、紐、縦引きノコギリ、鉋、それから旋盤が四、五台あった。一階には動力室、鍛冶場、巨大な鉋、巨大な治具や横引きノコギリ、保管室と備品庫があった。外の資材置き場には材木が山積みになっていて、その間に線路があり、毎日二回、小型機関車と呼ばれるローカル線の貨物が停車して乗り入れたり、材木や完成した家具や供給品を積んだ車両を搬出したりした。紹介状を提出する日、ユージンは近づく間に足を止めて、四方を囲む低い板塀のきれいな造りと水の美しさに見惚れ、鋸の心地よい単調な響きに聞き惚れた。
「うん、ここの仕事ならあまりしんどくはないかもしれない」ユージンは考えた。大工が二階の窓から外をながめているのと、茶色いオーバーロールにジャンパーを着た二人の男が車両の積荷を降ろしているのを見かけた。彼らは大きな三×六の根太を肩に担いで運んでいた。彼もそういう仕事をすることが求められるのだろうか。ユージンはそうは思わなかった。ハヴァーフォード氏は紹介状の中でリトルブラウン氏に、徐々に鍛えるように明確に指示していた。大きな根太を運ぶ作業が正しいやり方だとは思わなかったが、ユージンは紹介状を提出した。彼は以前、川の奥にあってこの地点を見渡す高台を見て回り、まかないつきの下宿が見つからないか確認したが、何も見つからなかった。このあたりはとても排他的な地域で、偏狭な金持ちのニューヨーカーたちに占拠されていた。彼らはユージンが頭の中で立てた計画、すなわち下宿人として一時的にどこかへ受け入れるという案には、興味を示さなかった。ユージンはこのときどこかですてきな人たちと快適に暮らすイメージを抱いた。不思議なことに、このとても小さな職の獲得は、不運の終わりが始まる印象を彼に与えた。彼はおそらく時間が経つにつれて回復するだろう。夏の間だけでもどこかのすてきな家族と一緒に暮らせたらいいのだが。もしユージンが回復に向かっていて、自分でも回復しているかもしれないと思えば、秋にアンジェラは来られるかもしれない。画商の一人、ポトル・フリーズか、ジェイコブ・バーグマンか、ヘンリー・ラルーが、絵を売ることだってあるかもしれない。給料に百五十ドルか二百ドルが加えられれば、二人の生活をそこそこ快適にするのに大きく貢献するだろう。さらに、アンジェラのセンスと節約志向が、ユージンの芸術的な判断力と合わされば、どんな小さな場所でも立派で魅力的に見せることができるかもしれない。
部屋を見つけるのは、それほど簡単ではなかった。ユージンは線路沿いに南下して、四分の一マイル離れた工場の窓から見える住宅地まで行ったが、自分の好みに合う場所が見つからなかったのでスペオンクまで引き返し、小川に沿って半マイル内陸に進んだ。この冒険はユージンを楽しませた。銀色で覆われた小川を足場に持つ丘の斜面に半円状に並ぶ魅力的なコテージが姿を見せた。小川と丘の斜面の間を、半円を描いて道が走り、その上にも別の道があった。ユージンは一目で、中産階級がここが栄えていること、刈りそろえた芝生、明るい色の日よけ、ポーチや玄関先やベランダに置かれた青や黄色や緑色の植木鉢などを見てとった。家の前にとまっている自動車は、富裕層の生活様式にある程度馴染んでいることを示し、ニューヨークから続く道とその道が橋を通って渡る小川との交差点にある夏場の宿屋は、この村の魅力がツアー客や行楽客に知られていなくもないことを示した。その街道沿いの宿屋には日除けがかかっていて、食事がとれるバルコニーは川にせり出していた。ユージンの願いはすぐこの村に釘付けになった。ここに住みたくなった……この村ならどこでもよかった。まずはこっち次はそっちと玄関先の庭を見て、それから手紙で自己紹介して受け入れてもらえたらいいと願いながら、涼しい木陰を歩き回った。もし事情を知れば、先方は自分のような才能と洗練さを持つ芸術家を歓迎するはずであり、するだろうと思った。健康上の理由で家具工場や鉄道で日雇い労働者として働くことは簡単に彼の絵に描いたような特徴に書き添えてあった。散々歩き回った末に、赤レンガと飾り用の灰色の石とで造られた古風な趣のメソジスト教会にたどり着いた。その高いステンドグラスの窓と四角い要塞のような鐘楼を見てユージンはふと思いついた。牧師に聞くのはどうだろう? 牧師に自分の要望を説明して、証明する書類を見せることができた……ユージンは編集者や出版社や画廊からもらった古い手紙を持参していた……どうしてここに来たいのかをはっきり理解させることができた。ユージンの不健康と功績はこの男に好印象を与えるはずであり、おそらくは彼を喜んで迎えてくれそうな相手を教えてくれるだろう。午後五時に扉をノックし、牧師の書斎に通された……広い静かな部屋で、ハエが数匹、日陰の明かりの中でブンブンいっていた。すぐに牧師本人が現れた……背の高い白髪の男で、服装はひどく地味で、人前で話し慣れた人が持つ気さくな雰囲気が備わっていた。ユージンが説明を始めたとき、相手は用向きを尋ねるところだった。
「お初にお目にかかります。私はこの辺の者ではありません。職業は芸術家です。健康上の理由で、あそこの鉄道の工場で働くために月曜日にスペオンクに来ることなっています。神経衰弱症を患いまして、しばらく日雇い労働を試してみるつもりなんです。便利で快適な住まいを見つけたいのですが、牧師さんならここかこの近くでどなたか、しばらく私を住まわせてくれそうな人をご存知かもしれないと思いましてね。確かな照会先も言うことができます。工場のすぐ近くには何もないみたいなんです」
「あそこはかなり孤立していますからね」老牧師はユージンのことを慎重に観察しながら答えた。「あの人たちはみんなここまで足を運んでいるのに、どういうわけであそこが好きなんだろうってよく不思議に思ったものです。誰もこの辺には住んでいませんしね」牧師はいろいろな特徴を確認しながら真剣な顔でユージンを見た。印象は悪くなかった。控えめで、思慮深く、威厳がある青年で、確かに芸術家タイプだった。神経症のために日雇い労働という荒療治を試そうとしているとはとても興味深いと牧師に思わせた。
「そうですねぇ」考え込むように言って、テーブルの近くの椅子に座り、手で両目をおおった。「とっさには誰も思いつきませんね。その気になれば、あなたを受け入れる余地がある家族はたくさんいますが、相手にその気があるかどうかは私にはわかりませんからね。実際のところ、貸さないと思いますよ。ちょっと考えさせてください」
牧師は再び考えた。
ユージンは相手の大きな鷲鼻、白いゲジゲジ眉、ふさふさで縮れた白髪を観察した。頭ではすでに、牧師、机、薄暗い壁、部屋全体の雰囲気をスケッチしていた。
「うーん、いないな」牧師はゆっくりと言った。「誰も思いつかない。一人いるか……ヒバーデル夫人が。住まいは……ええと……一、二、三、ここから十軒目です。今は甥御さんと二人暮らしだ。あなたと同じくらいの年齢の青年ですよ。それ以外は誰も思いつきませんね。先方があなたを下宿させるかどうかまではわかりませんよ。でもあの人なら下宿させてくれるかもしれないな。家が広いのなんのって。一時期、娘さんが一緒にいたんですが、確か今はいなかったな。いないと思いますよ」
まるで声に出して自分の考えを自分に報告しているような話し方だった。
ユージンは娘に話が及んだところで耳をそばだてた。ニューヨークを離れていた期間中ずっとフリーダを除いて若い娘と親密に話をする機会が一度もなかった。アンジェラがずっと彼につきっきりだった。ユージンは戻ってきてからというもの、青春や恋愛について考えたことがなかったほど、このニューヨークで悲惨な状況で暮らしていた。今はそんなことを考えている場合ではなかった。しかし、この夏の空気、この木陰の村、小さいながらも頼ることができて、間違いなく精神的にいい影響を及ぼす職を自分が手に入れたという事実、働くことになったので自分のことを何となく前より良くなったと感じている事実が、もっと関心を持ってまた人生に向き合えるかもしれない、とユージンに感じさせた。死ぬことはない、回復するのだ。この職を見つけたのはその証拠だった。これからその家に行けば、彼を大好きになってくれるすてきな女の子が見つかるかもしれない。アンジェラが不在で、ユージンは独りだった。彼は再び若い頃の自由を手に入れたのである。もしただ元気になって働いているだけならよかったのだが!
ユージンはとても丁重に老牧師に礼を述べ、牧師に教わったいくつかの特徴、二重バルコニーのベランダ、赤いロッキングチェア、玄関の登り段にある二つの黄色い装飾用植木鉢、灰色がかった白い杭柵と門を目印にして家を確認しながら進んだ。颯爽と歩み寄って、呼び鈴を鳴らすと、年の頃は五十五から六十ほどの、明るい白髪と澄んだ明るい青い目をしたとても知的な女性が本を片手に現れた。ユージンは事情を説明した。女性はその間ユージンを観察しながら、とても熱心に耳を傾けた。とても知的な文学的思考の持ち主だったので、ユージンの外観に好感を持った。
「普段ならそういうことは考えもしませんが、ここには私と甥しかいませんし、この家なら十人くらい簡単に住めますからね。甥が嫌がることはしたくないから、もし来てくれるなら明日の朝お知らせするわ。私はあなたがいてくれても問題ないから。ディーサという名前の芸術家をご存知かしら?」
「彼ならよく知ってますよ」ユージンは答えた。「僕の古い友人です」
「その人は娘の友人だと思うわ。この村のどこか他にも問い合わせましたか?」
「いいえ」ユージンは答えた。
「それもそうよね」彼女は答えた。
ユージンはピンと来た。
すると、娘はここにいないのだ。それだと、どうなのだ? 景色がよかった。夕方は外のロッキングチェアに座って川を眺めていられる。すでに西に沈みかけた夕日が水面を鮮やかな金色に輝かせていた。向かいの丘の輪郭は気品があってのどかだった。しばらくは、ぐっすり眠って、日雇い労働者として働いて、のんびり暮らすことができた。すぐに元気になれる。これはそのための手段だった。日雇い労働者! 何てすばらしく、何て独創的で、何て興味深いのだろう。何だか新しい未知の世界を偵察している遍歴の騎士の気分だった。
第二十章
この家へ住まわせてもらう問題はすぐに解決した。後でユージンが知ったように、甥は三十四歳になる温厚で知的な男性で反対はしなかった。ヒバーデル夫人は明らかに自分の資産を持っていたが、ユージンには甥が何らかの形でこの家を支えることに貢献しているように見えた。数ある浴室の一つに隣接する二階のすてきな家具つきの部屋が割り当てられて、ユージンはさっそくこの家への立ち入りを認められた。本があり、(弾く者はいないが)ピアノがあり、ハンモックがあり、雑用係のメイドがいて、充実と平和の雰囲気があった。ヒバーデル夫人は未亡人で、おそらく数年間やもめ暮らしを送っていて、その経験と人生での判断力は彼女に知的な落ち着きを与えた。ユージンのことで特に何かを詮索するでもなく、見た目から判断できる限りでは上品で、寡黙で、保守的だった。冗談が言える人で、微妙な伝わり方をする冗談を言った。ユージンは問い合わせのときに、自分が結婚していること、妻が西部にいること、健康状態がある程度回復したら妻を呼び戻そうと思っていることなどを率直に伝えた。夫人はユージンと一緒になって芸術や本や人生全般について話をした。音楽はどうやら畑違いのようで、あまり気にかけなかった。甥のデイヴィス・シンプソンは文学や芸術とは無縁であり、音楽にはほとんど関心がないようだった。デイヴィスは大手のデパートの仕入れ担当者だった。細いと言ってもげっそりしているわけではない筋肉の引き締まった顔をして、短い黒い口髭をたくわえた、痩せ型で、小粋な、かなりめかしこむタイプの男性だった。人柄に合うユーモア、商売、野球、自分を楽しませる手段にしか関心がないようだった。デイヴィスのことでユージンが気に入った点は、清潔で、素朴で、率直で、気立てがよく、礼儀正しいことだった。誰のプライバシーにも干渉する気はなさそうだが、軽い議論をふっかけたり、気の利いた意見を挟むのが好きだった。花を育てたり、釣りをするのも好きで、裏庭の短い砂利道を彩る花壇の手入れに朝晩特に気を配った。
過去三年間、特に直近の九十日間、自分に猛威を振い続けた嵐の後にこういう雰囲気の中に入れたことが、ユージンはうれしくてたまらなかった。ヒバーデル夫人からは週八ドルの支払いを求められただけだったが、気づけば、ここの家庭的な雰囲気の中で彼が得ているものは、普通は世の中のお店でいくら出しても買えないものだった。毎日彼の化粧台に小さな花束が置かれるようにメイドが目を配った。新しいタオルやリネンの日用品は十分な量を提供された。風呂は専用だった。夕方はポーチに座ってずっと川を眺めていられたし、書斎で本を読むことができた。朝食と夕食は、いつも楽しいひとときだった。ユージンは入浴して朝食をとり、工場まで歩いて七時までに着けるように五時四十五分に起きたが、ヒバーデル夫人は必ず起きていた。こうして早起きするのが彼女の習慣で何年間もそうしていた。彼女はそれが好きだった。疲れていたユージンに、これはほどんど理解できなかった。デイヴィスは、ユージンが出かける少し前に食卓に現れた。不機嫌や憂鬱とは無縁だったので、いつも何か明るい話題を持っていた。たとえそれがどんなものであったにせよ、彼の問題が彼を抑圧しているようには見えなかった。ヒバーデル夫人はユージンに、仕事のこと、自分たちが所属するリバーウッドという小さな社交場のこと、政治、宗教、科学などの最近の動向について和やかに話しかけた。結婚してニューヨークに住んでいる一人娘のことが時々話題になることがあった。折に触れてここに母親を訪ねて来るようだった。この場所を見つけられたのは実に幸運だったと考え、ユージンは喜んだ。彼の受け入れにあたっては何の疑念も生じないように自ら好感されるよう心がけたので、失望はされなかった。
ヒバーデル夫人とデイヴィスが話し合ったところ、ユージンはとても魅力的で、いい人で、一緒にいる価値はある、と意見が一致した。働いている環境がまったく違う工場で、ユージンは細かい枝葉の問題で時々喧嘩することはあったが、ほぼ完全に自分が受け入れられる雰囲気を自分で作り上げた。例えば、初日の朝、ユージンは二人の男と一緒に働かされた。最初、鈍くさい生きた土塊としか思わなかった男たちは作業場ではジョンとビルで通っていた。彼の審美眼では、この二人は機械に見えた。人間が自分で行動しているのではなく機械で動いているように見えた。二人とも身長は五フィート九インチもない中くらいで、体重はそれぞれ約百八十ポンドくらいだった。一人は、卵のように丸い貧相な作りの顔で、大層な黄色い口髭がついていた。片目は義眼だが、突き出た大きな赤い耳に鉄製のフックでしっかり留められたメガネのせいで余計にわかりにくかった。もはや型崩れして原型をとどめていないボロボロの茶色い帽子をかぶっていた。名前はビル・ジェフォーズ。「一つ目」のあだ名に反応する時もあった。
もう一人はジョン、通称 「ジャック」・ダンカン、身長と体格は同じでも、顔の造形は少し作り込んでいて、いくらか知的だとしてもその差はほとんどなかった。彼の方が何となく抜け目なさそうに見えた……ユージンは彼のどこかにユーモアが少し潜んでいるかもしれないと思ったが、これは間違いだった。ジェフォーズに何もないことは疑いようがなかった。現場の監督で大工でもあるジャック・スティックスは、背が高く、骨張った、ゆっくりと歩く男で、赤い髪、赤い口髭、狡猾で信の置けない青い目、一段と大きな手と足をしていた。彼はユージンにしばらくこの二人と一緒に働くように言った。午前中に作業場で働いていたイタリア人のグループを担当する仲間の監督の一人にも言ったとおり、「彼を試しに使ってみる」考えだった。そのくらいの作業が彼にちょうどよかった。ここにはユージンの務まる仕事などないし、少しでも荒っぽい仕事をさせようものなら怖気づくかもしれないと考えた。
「健康上の理由でここに来たんだとよ」スティックスは相手に話した。「どっから来たんだかは知らん。ブルックスさんが着任の辞令を持たせてあいつをここへよこしたんだ。あいつが実際の仕事にどう取り組むのか、しばらく様子を見たいんだ」
「怪我させんようにみてやれよ」相手が口をはさんだ。「俺にはあいつがあんまり強そうには見えねえんだ」
「杭を二、三本運ぶ程度の強さはあんだろう。ジミーが運べるんなら、あいつでも運べんだろう。ずっとそればっかりやらせておくつもりもないがな」
ユージンはこういう事情を何も知らなかった。しかし「ついて来い、新入り」と言われて、直径六インチ長さ八フィートに切り出したザラザラのトネリコの丸太の山を見せられて、勇気がなくなった。そのうちの何本かを二階まで運ばされた。何本かはわからなかった。
「あの隅っこにいるトンプソンのところへそいつを持っていってくれ」ジェフォーズはぼそっと言った。
ユージンは、か細い芸術家の手で、丸太の中ほどをぎごちなくつかんだ。筆に扱い方があるように、材木にも扱い方があることを知らなかった。持ち上げようとしたができなかった。ザラザラの樹皮は容赦なく彼の指をひっかいた。
「仕事を始める前に要領を覚えるんだぞ」そばでその様子をじっと見ていたジャック・ダンカンは言った。
ジェフォーズは他の作業をしに行ってしまった。
「僕はこういうことをあまり知らないんです」手をとめてその先の指示を待ちながら、ユージンは面目なさそうに答えた。
「コツを教えてやっか」同僚が言った。「ここじゃどの作業にもコツってもんがある。端をこんなふうにもってだな、そいつを持ち上げられるまで押していくわけだ。今度はかがむぞ、それでもって肩を真ん中のすぐ横に置くんだ。シャツの下に当てる物を入れたか? 一つ入れとくといい。今度は右腕を前に出して杭の上に置く。ほら、できた」
ユージンはまっすぐ立った。ザラザラの柱はバランスを保ったが肩がつぶれそうだった。これは彼の筋肉をすり減らしたらしく、背中と足がすぐに痛くなった。余裕を見せようと勇ましく前に踏み出したが、五十フィートといかないうちに痛くてたまらなくなった。ユージンは工場の端から端まで歩いて、階段を上り、トンプソンがいる窓のところに戻った。額は汗だくで、耳は充血して真っ赤だった。機械の近くまで来たところでかなりよろめいて、ドサッと柱を落としてしまった。
「何だそのざまは」後ろで声がした。旋盤工のトンプソンだった。「もっと慎重に下ろせないのか?」
「無理ですよ」ユージンはムカッとして答えた。体を酷使したせいで顔面が薄っすら紅潮していた。とりわけ、ハヴァーフォード氏が簡単な仕事だと言っていたのに、彼らが自分をこんな作業につかせたことを思うと、驚き腹が立った。とっさに自分を厄介払いする策略かと疑った。「これは僕には重すぎます」と付け加えそうになったが自制した。残りをどうやって運びあげようか考えながら階段をおりた。こうやってかけた時間が痛みを和らげ、次の痛みへの耐久力になることを願いながらユージンは慎重に柱をいじくり回した。やっとの思いでもう一本担ぎ上げて、つらそうによろめきながら再び二階まで行った。現場監督は見ていたが何も言わなかった。ユージンがこういうつらいひと時を過ごしていると思うと少しおかしかった。気分転換は彼の害にはならないし、いい効果を及ぼすだろう。「四本運んだら休ませてやれ」少し手加減した方がいいと感じたのでトンプソンに言った。トンプソンは、ユージンのしかめっ面や重圧に耐えている様子を横目で見ても、ただ微笑むだけだった。四本が床に下ろされると「とりあえずこれだけあればいいや」と言った。ユージンは安堵のうめき声を上げて、怒って立ち去った。神経質で、空想的で、想像力豊かで、心配性なユージンは、自分が命にかかわる怪我をしたと想像をたくましくした。筋肉を痛めたのではないか、どこかの血管が切れたのではないか、と心配した。
「やれやれ、これじゃ身が持たない」ユージンは思った。「仕事がこんなにしんどいんじゃ、やめなくちゃならないな。僕をこんなふうに扱うとはどういうつもりなんだ。僕はこんなことをするためにここに来たんじゃない」
何日も何週間も続く苦役の光景がユージンの前に広がった。そんなことにはならないだろう。ユージンはこれに耐えられないかもしれない。昔の職探しが復活するのかと思うと、別の意味で怖くなった。「そう簡単にあきらめてはいけない」ユージンは辛くても自分にそう言い聞かせた。「とにかく少しの間これを我慢しなければならない」この最初の試練の時間は、まるで悪魔と深海の間にでもいるようだった。ゆっくりと作業場におりていくとジェフォーズとダンカンを見つけた。二人は貨車で作業をしていた。片方は中にいて積み上げる材木を受け取り、もう片方が材木を渡していた。
「降りろよ、ビル」ジョンは地面に立ったまま顔色一つ変えずに相棒を見上げて言った。「そこにあがれよ、新人。名前は何んてんだい?」
「ウィトラです」ユージンは言った。
「俺の名はダンカンだ。俺たちがこいつをお前に渡すから、お前はそれを積み重ねるんだぞ」
ユージンが恐る恐る見てみると、それはさっきのよりも重たい材木で、何かの建物用に四つ切りにされた根太だった……通称「四対四」……しかし扱い方のコツを教えてもらった後なので手に負えないものではなかった。労力を大幅に軽減できる滑らせ方やバランスのとり方があった。しかし、ユージンは手袋を自分で用意することを考えたことがなかったので、手は無残に傷つけられっぱなしだった。親指のトゲを抜こうとして一旦手を止めた。するとジェフォーズが近づいてきて尋ねた。「お前、手袋してないのか?」
「はい」ユージンは言った。「そこまで考えがまわりませんでした」
「手がボロボロになっちまうぞ。今日の分はジョセフがくれるかもしれん。行って頼んでみるといい」
「ジョセフさんはどこにいるんですか?」ユージンは尋ねた。
「そん中にいる。鉋のところで集めものをしているよ」
ユージンにはこれがよくわからなかった。鉋がどういうものなのかは知っていたし、午前中はずっと鉋が力強く音を出すのを聞いていた。鉋が板を平らにするときは削り屑が宙を舞っていた。しかし、「集める」とは?
「ジョセフさんはどこでしょうか?」ユージンは鉋盤を操作している男に尋ねた。
男は、二十二歳くらいの長身で猫背の若者に向かってうなずいてみせた。でかくて、素朴で、無邪気そうな人だった。顔は細長く、口は大きく、目は水のように青く、髪は茶色で束ねずウェーブがかかっていて、おが屑だらけだった。腰に大きな麻袋を草のロープで結びつけ、飛んでくる削り屑や埃から目を守るための長いひさしのついた古い色あせたウールの帽子をかぶっていた。ユージンが現れると目を守ろうとして片手がかざされた。ユージンはへりくだった態度で近づいた。
「あなたが手袋をお持ちで僕に今日の分を貸してくれるかもしれないと外の作業場の人に言われました。材木を積む作業をしているので、手を怪我してしまうんです。用意するのを忘れていました」
「わかった」ジョセフは穏やかに手を振って操作を止めさせた。「手袋ならここの俺のロッカーの中にある。事情はわかってるよ。俺もあそこにいたことがある。俺がここに来たとき、お前さんと同じで俺もそうだったんだ。気にしなさんな。元気になるって。健康上の理由でここに来たんだろう? いつもそういうことばかりじゃないさ。ここなら何もすることがないってことはない。それから日よってはたっぷりあるからな。まあ、とても健康的な仕事だよ、それだけは言える。俺はまったく病気じゃないってことがないんだ。ここは新鮮な空気とかそういうのはあるからな」
ジョセフは硬い布地のエプロンの下でごそごそと鍵を探し、ロッカーの鍵を開けて、古い黄色の作業用手袋を取り出しながらとりとめのない話を続けた。ジョセフは快く手袋をユージンに渡し、ユージンはジョセフに礼を言った。ジョセフはすぐにユージンを好きになり、ユージンも彼を好きになった。「いい人だな」貨車のところに戻る間にユージンは言った。「どれだけ親切にこれをくれたか考えてみればいい。すばらしいことだ! すべての人がこの若者のように優しく親切だったら、世の中はどんなにすてきだろう」手袋をはめると、痛い思いをせずにしっかりと根太をつかめるようになったので作業が一気にやりやすくなったのがわかった。笛が鳴る正午まで作業を続け、考え事をしながらひとりで端っこに座って退屈な昼食をとった。一時を回ってから、削り屑を運ぶように言われた。鍛冶場を抜けて大きな削り屑入れがある奥の動力室までカゴを抱えて往復した。四時までに、ここにいる間に関わることになるほぼ全員に会った。鍛冶屋もしくはユージンが後で「村の鍛冶屋」と呼ぶようになったハリー・フォーネス、鍛冶屋の下働きもしくはすぐに「よろずや」名付けたジミー・サッズ、エンジニアのジョン・ピーターズ、大型旋盤技師のマラキ・デンプシー、ジョセフ・ミューズ、そしてそれに加えて、大工、ブリキ工、配管工、塗装工、さらに時々下の階を通過する数少ない非凡な家具職人、それと時々その部署にいてそうでない時はそこから離れるすべての者が、最初はユージンを変わり者だと見ていた。
ユージン自身がこの人たちに強い興味を持った。ハリー・フォーネスとジミー・サッズは特に彼を魅了した。ハリー・フォーネスは遠いアイルランド出身の小柄なアメリカ人で、胸は広く、腕は太く、顎は角張っていて、おおよそのことは自分ででき、力が強くて、小さな巨人のようだった。大の働き者で、たくさんの仕事をこなし、外の丘や谷中に響くほどのでかい音を立てて鉄片を叩いていた。下働きのジミー・サッズは親方と同じように小柄で、汚く、ごつごつして、ひん曲がっていた。歯は黄色い枝が一列突き出ているように見え、耳は小さな扇のように目立ち、目は傾いていたが、それでも顔には批判をたちまち和らげてしまう温和な表情があった。ジミー・サッズは、正直で、一途で、悪意がないので、みんなに好かれた。コートは三まわり分、ズボンは二まわり分、彼にはサイズが大きすぎた。靴は明らかに中古品店で買ったものだが、彼だと絵になるという大きな取り柄があった。ユージンは彼に見とれてしまった。バッファローはニューヨークのバッファロー周辺で撃たれるものだとジミー・サッズが本気で信じていることを彼は間もなく知った。
エンジニアのジョン・ピーターズもまたユージンの注意を釘付けにする人物だった。ジョンはどうしようもないほど太って、そのせいで「ビッグ・ジョン」と呼ばれた。まさに鯨のような男だった。背丈は六フィート、体重は三百ポンド以上、こういう夏日でも暑い動力室で、シャツを脱ぎ、サスペンダーを下げ、薄い木綿の肌着越しに脂肪のひどいミミズ腫れを見せながら立ち続け、いかにもつらそうに見えたが、本人はつらくなかった。ユージンがすぐに気づいように、ジョンは感情的に人生を受けとめなかった。日陰があるときはほとんど動力室の入口に立って、きらきら光っている川の水面を見つめて、働く必要がなく横になっていつまでも眠っていられたらいいと時折願っていた。
「葉巻をふかしながらああいうヨットの船尾デッキに座っていると、さぞかし気分がいいんだろうね?」ジョンはかつてユージンに、川を行き来する豪華な自家用船のことで尋ねた。
「もちろんいいでしょう」ユージンは笑った。
「ああ! そうだな! あれこそがダドリー叔父さんの人生だ。俺だってあそこでなら誰とでも同じことができるよな。ああ! すごい!」
ユージンは楽しそうに笑った。
「そうですよ、それが人生です」と言った。 「私たちは皆、自分の持ち分は分かち合えるんです」
大型鉋盤を扱うマラキ・デンプシーは、鈍感で、口下手で、無口で、他の何をさておいても考えが足らなかった。しかし牡蠣程度には賢かったから、殻をしっかりと閉じていればあらゆる種類の災いから遠ざかることを学習していた。彼は異常なほど口をつぐみ続ける以外に地上の災厄を避ける方法を知らなかった。そしてユージンはすぐにこれを見抜いた。相手の態度が示す好奇心に驚きながら、ユージンは一時は彼のことをじっと見たものだった。しかし、彼らがユージンにとって物珍しかった以上に、ユージン自身が他の人たちにとって物珍しかった。ユージンは労働者には見えなかったし、労働者に見せることもできなかった。彼の精神はあまりにも崇高で、目はあまりにもキラキラして鋭すぎた。削り屑が降り注ぐ旋盤作業室から削り屑をカゴに詰めて何度も運んでいる自分に微笑んだ。木材用の粉砕機がないために、削り屑はビッグ・ジョンが取り仕切る暑い動力室まで運び出されねばならなかった。ビッグ・ジョンはユージンを大層気に入ったが、犬が主人を慕うようなものだった。彼は発動機と自宅の庭と妻子とパイプのこと以外何ひとつ考えなかった。こういうものと睡眠……熟睡……が彼の喜びであり、楽しみであり、彼の世界のすべてだった。
第二十一章
もう随分日数が経過して、かれこれ三か月たった。その中でユージンはこれまで経験したことがなかった日常の世界を知るようになった。確かに、彼は以前にもこういうやり方で多少働いたことがあった。しかし、シカゴでの彼の経験には、後で身についた広い哲学的な洞察はなかった。ユージンはこれまで宇宙や地上の権力の階層構造をわかっていなかった……完全に蚊帳の外にいた。しかし、ここで彼は、無知なほぼ動物並みの知能の者が、より偉大な抜け目のない、そしておそらくは悪意ある知性を有する者によって支配されていることが徐々にわかった……必ずしもこれについて確証はなかったが時々彼にはそう見えた。彼らはとても強力だったので、より弱い者は彼らに従わねばならなかった。この組織でさえ人生は乱暴に最も都合のいい形に整理されてしまうのかもしれないと彼は想像し始めた。確かに男たちはここで誰が指図をするべきかについて互いに争った。ここにも他の場所と同じように、適切な材木の積み方、板の削り方、机や椅子の作り方などの些細なことで、指揮をとったり指図する特権や名誉を強く求める者がいた。男たちはこういう点で自分たちの才能や能力に激しく嫉妬したが、そもそも秩序ある知的な制御を生むのは嫉妬だった。誰もが知的な仕事をしようと努力しているのであって、知的でない仕事をしてはいなかった。たとえどれだけ無知であっても、彼らの誇りは劣ったものにではなく優れたものにあった。彼らは自分たちの仕事に不満を持ち、互いにいがみ合い、上司をののしるかもしれないが、結局そうなるのはすべて、彼らがもっと高度な仕事をしたりもっと高度な思考の命令を実行できない、あるいは許されないからだった。誰もが、もっといい方法、優れた方法で何かを行い、優れた方法で何かをすることで得られる名誉や報酬を得ようとしていた。もしも彼らが自分たちの仕事の自己評価に見合った報酬を得られなければ、怒り、反発、不平、自己憐憫があった。しかし優れた知性の仕事とは、その仕事の中で各人が脇目も振らずに自分を追求するやり方で明らかにそれをやろうと努力をし続けることだった。
ユージンは、自分の問題を忘れられるほど問題からそれほど遠ざかっていなかったのと、絵を描く才能がやがて自分に戻ってくることに全然自信がなかったので、以前のように陽気でないことが時々あったが、それを何とか上手に隠していた。おそらく貧困と無名という弊害を伴うこの考えはユージンには恐ろしかった。時間はどんどん過ぎていき、若さは失われていた。しかし、このことを考えていないときの彼は十分陽気だった。それに加えて、自分が楽しいと感じていないときでも陽気なふりができる能力が彼にはあった。この日雇い労働の世界に永久にいるわけではなかったことと、好意で与えられた自分の地位が適度に安定していたおかげで、ユージンは自分を取り巻くすべてのものに優越感を覚えた。いずれにせよこの気持ちを表に出したくはなかった……実際のところは隠そうととても気遣っていた。しかしこういうつまらない細かい事すべてに対する優越感と極度の無関心はずっと続いていた。削り屑入りのカゴを運びながらあちこちに行って、「村の鍛冶屋」と一緒に冗談を言い、エンジニアの「ビッグ・ジョン」や、ジョセフ、マラキ・デンプシー、小さなジミー・サッズ、それから実際に彼の近くへ来た友だちになるつもりのある人みんなと誰とでも仲良くなった。ある日の昼休みに鉛筆を取って、金床に腕を振り上げる鍛冶屋のハリー・フォーネスと、その背後に立つ下働きのジミー・サッズと、炉で燃え盛る炎をスケッチした。傍らに立って肩越しに見ていたフォーネスは自分の目が信じられなかった。
「何やってんだい?」彼は肩越しに見ながら興味津々でユージンに尋ねた。彼が座って川を眺めていたのは窓際の日当たりのいいところにある鍛冶屋のテーブルだった。ユージンはヒバーデル夫人に言われた通りに弁当箱を買い、おいしい昼食を毎日持参していた。昼食を済ませて、景色の美しさや、自分のおかしな立場、工場の珍しいところを……頭に浮かんだことを何でもかんでも……考えながら、ぼんやりしていた。
「もうちょっと待ってね」と気さくに言った。すでに彼と鍛冶屋は大の仲良しだった。
鍛冶屋は興味を持って見つめた末に叫んだ。
「こいつは俺だよな?」
「まあね!」ユージンは言った。
「描き終わったらそいつをどうする気だい?」鍛冶屋は物欲しそうな顔で尋ねた。
「もちろん、あげますよ」
「いやぁ、そいつはありがたい」鍛冶屋はうれしそうに答えた。「女房がそいつを見たら喜ぶぞ。お前さんは芸術家なんだっけ? 話には聞くがな。実物は見たことがなかった。いや、うめぇな、俺にそっくりだな?」
「一応はね」ユージンは作業を続けたまま静かに言った。
下働きのジミーがやって来て尋ねた。
「何してんの?」
「絵を描いてんだよ、ボケ。何をしてると思ってやがるんだ」鍛冶屋は頭ごなしに言った。「あんまり近づき過ぎるんじゃねえぞ。邪魔されねえ場所が要るんだ」
「なあ、誰に群がってんだよ?」ジミーはいらついて尋ねた。ジミーはすぐに親方が自分を後ろへ追いやろうとしていることに気がついた。これはよほど大事なことをやっている。彼はそんなことがあっていいとは思わなかった。鍛冶屋はイライラして相手をにらみつけた。しかし芸術作品の進捗があまりにも刺激的だったため、喧嘩のきっかけを作るわけにはいかなかった。おかでジミーは近寄って見物することを許された。
「ほほぉー! そいつは親方じゃんか」ジミーは絵の中にいる親方の正確な位置を汚い親指で指しながら、気になって鍛冶屋に尋ねた。
「やめろって」鍛冶屋は横柄に言った……「そうだよ! 邪魔するんじゃねえぞ」
「あれ、俺もいる。ほほぉ! 何とも男前じゃねえか? ほぼぉ!」
小さな下働きが発した短い声は喜びを表していた……微笑みが顔の両端まで広がった。鍛冶屋の叱責にまったく気づかなかった。
「君さえよければ、ジミー」ユージンは作業を続けたまま明るく言った。「いつか君の絵を描いてもいいよ!」
「おお! そうしてくれるかい? 頼むぜ! いやぁ、立派なもんになるよな? いやぁ、すげえ! すげえ! 家にいるもんには俺だとわからんだろうな。そういうのが欲しいんだよな! 」
ユージンは微笑んだ。鍛冶屋は残念がった。この名誉の分かち合いはあっていいことではなかった。それでも彼自身の絵はすばらしかった。工場もそっくりだった。笛が鳴り、ベルトが音を立て始め、車輪がうなり出すまで、ユージンは描き続けた。それから立ち上がった。
「ほら、フォーネス」と言った。「気に入った?」
「おお、すげえや」と言ってフォーネスはロッカーに持って行った。しかし、少ししてからそれを取り出し、みんなに見せびらかしたくて、炉の向かいの壁の作業台の上にかかるように飾った。これは彼の人生の一大事の一つだった。このスケッチはたちまち議論の嵐を引き起こした。ユージンは芸術家だった……絵が描ける……これが明らかになった。それにこの絵はまるで生きているようだった。フォルネスとサッズと工場は実物そっくりだった。みんなが興味を抱き、みんながうらやましがった。みんなは、神さまがどういうわけで鍛冶屋をこうやって贔屓したのか、理解できなかった。どうしてユージンは鍛冶屋を描く前にみんなの絵を描かなかったのだろう? どうしてユージンはすぐに、今度はみんなの絵を描いてあげると言ってくれないのだろう? ジミー・サッズに耳打ちされ、連れられて、ビッグ・ジョンが最初にやってきた。
「すげえ!」驚きのあまり大きな丸い目は飛び出さんばかりだった。「ずいぶんと立派だな、おやっ? あれはお前に似てんな、フォーネス。似てるなんてもんじゃねえ! サッズまでいやがる! まさしくサッズじゃねえか。やっぱ、お前だぞ、しかも生き写しだな。どう見たってお前だぜ。見事なもんだ。こいつぁ大事にしねえとな、鍛冶屋」
「そのつもりでいる」鍛冶屋は鼻高々に言った。
ビッグ・ジョンは悔しそうに動力室に戻った。次に来たのはジョセフ・ミューズだった。肩をまるめ、歩くときにうなずく癖があったから頭がアヒルのように揺れていた。
「なあ、お前、どう思う?」ジョセフは尋ねた。「見事じゃねえか。雑誌に載ってるようなすげえのをあいつは描けるんだぞ。時々ああいうのを雑誌で見るよな。ありゃすごくねえか? 後ろにいるサッズを見てみろやい。ほれ、サッズ、お前がいるだろう、ちゃんとな。俺らの絵も描いて欲しいな。俺らだってお前程度にゃ立派なんだからな。俺らは駄目なのかな?」
「ああ、わざわざお前みたいなうすのろの絵を描いたりはしねえんだよ」鍛冶屋は冗談半分で答えた。「あいつは本物しか描かねえんだ。そいつをよおく覚えておくことだぜ、ミューズ。絵を描くには立派な人が要るんだ。お前のような半端な旋盤職人だとかノコギリ屋なんてお呼びじゃねえ」
「へえ、そうかい? そうなのかい?」ジョセフは相手を馬鹿にして答えた。自分の能力が軽くあしらわれたものだから茶化したくなった。「もし本物を探してるんなら、ここへ来た時点で間違えてんじゃんか。そういうのはすべて管理職だろうが。そいつを忘れんこったな、鍛冶屋。そいうのはな、俺がこれまでに見たような鍛冶場には住み着かねえんだ」
「やめ! そこまでだ!」ドア付近の見通しのいいところから、小さなサッズが叫んだ。「ボスが来んぞ」ジョセフはすぐに動力室へ飲み物を取りに行くふりをした。鍛冶屋はまるで炭の中に入れた鉄を加熱する必要があるかのように火力を上げた。ジャック・スティックスがぶらっと通りかかった。
「誰が描いたんだ?」一度全体を見回した後で立ち止まって壁のスケッチを見ながら尋ねた。
「新人のウィトラさんです」鍛冶屋は敬意を込めて答えた。
「いやぁ、なかなか立派なもんだな?」現場監督は上機嫌で答えた。「うまいもんだ。きっと芸術家に違いないな」
「そうだと思います」鍛冶屋は慎重に答えた。彼はいつも上司の機嫌をとるのに熱心だった。そばに近寄って腕越しにながめた。「今日お昼にここで三十分くらいで描いたんですよ」
「うん、なかなか立派なもんだ」現場監督は考え事をしながら先に進んだ。
こんなことができるのに、ユージンはどうしてここにいるのだろう? 体調を崩したからに違いない、きっとそうだ。そして彼は誰かお偉いさんの友人に違いない。礼儀正しくした方がいい。これまで彼はユージンをどう評価していいのかわからず、迷いながらも畏敬の念を抱いていた。どうしてユージンがここにいるのか彼にはわからなかった……ひょっとしたら内部監査かもしれない。今、彼は自分が心得違いをしているかもしれないと思った。
「あいつにはあまりきつい仕事をさせるな」とビルとジョンに伝えた。「まだ十分に体力が回復していない。ここには健康を取り戻しに来たんだからな」
現場監督の意向に逆らうことはなかったので彼はこれに従った。しかし場合によっては、こうやってあからさまに配慮を求めることは、ユージンの人気を低下させかねなかった。現場の人間はこの監督のことが好きではなかった。もしこの現場監督がユージンに目立った配慮をしなかったり、完全に目の敵にしていたら、彼はいつだって部下たちにもっと強く慕われていただろう。
* * * * * *
その後の日々は大変ではあったが十分にくつろげた。ユージンは、ここで続いた仕事の絶え間のない目まぐるしさと、自ずと自分の分をやらねばならなかった仕事が自分のために役立っていることに気がついた。熟睡したのは数年ぶりだった。朝は七時の笛が鳴る数分前に青いオーバーオールとジャンパーを着て、それから正午までと一時から六時まで削り屑を運び出し、作業場の一人か数人のために材木を積み、貨車の荷物の積み降ろしをして、ビッグ・ジョンがボイラーをたくのを手伝い、二階から切り屑や削り屑を運んだ。ヒバーデル家のクローゼットで見つけた古い帽子を着用した。色あせて、くしゃくしゃになった、柔らかい黄褐色のソンブレロのなれのはてを、叩いて洒落た感じに尖らせて、片耳を覆うようにかぶった。大きな新しい黄色の手袋を一日中していた。ヨレヨレですり切れていたが、この工場や作業場で使う分には全く問題なかった。材木の上手な扱い方、積み重ねるコツ、マラキ・デンプシーのために旋盤から削り屑を回収すること、ノコギリや他の珍しい小道具の使い方を学んだ。ユージンのエネルギーは疲れ知らずだった。考えることにうんざりしたのと、ただ活動することによって芸術の能力が発揮できないという思い込みを打ち破って克服したい……自分は絵が描けないと信じていたことを忘れて再び絵が描けるようになりたい……と彼が望んだからだった。自分が描いたスケッチに自分で驚いた。昔の彼なら真っ先に、こんなものは描けない、と感じていただろう。ここではみんなが夢中になり、さんざん褒められたものだから、かなり簡単に描けることに気がついた。妙な話だが、こういうのもいいもんだと思った。
夜はヒバーデル夫人の家で、夕食の前に作業着をすべて脱ぎ捨て、水風呂に入り、新しい茶色のスーツを着た。これは地位が保証されたために、十八ドルで買った既製品だった。工場を離れた瞬間に給料(時給十五セント)がとまるため、休んで買い物をするのは難しいことがわかった。絵をニューヨークの倉庫に保管していたため、休んで絵を売りに行けなかった(少なくとも休みを取りたくなかった)。無給なら問題なく休めるが、有給でも正当な理由があれば、時には許されることがあるのを知った。夕方六時半過ぎと日曜日に家や作業場周辺で見かける彼の姿は十分に魅力的だった。繊細で、洗練されていて、保守的で、誰かと話をしていないときは、どちらかというと物思いに沈んでいるように見えた。ものすごく孤独を感じたので、さびしくて、落ち着かなかった。この家はさびしかった。フリーダと出会う前にアレキサンドリアにいた頃のように、若い娘たちがいたらなあとユージンは願い続けた。フリーダはどこにいるだろう、どうしているだろう、結婚しただろうか、などと考え、そうでないことを願った。人生がフリーダのような女の子……とても若くて、とても美しい人……を授けてさえくれたらなあ! 日没後、月明かりの下に座って水面を眺めた。これが彼の唯一の慰めだった……自然の美しさに思いを巡らせていた。何から何まですてきだった! 人生は何てすてきなんだ……この村、夏の木々、働いている工場、川、ジョセフ、小さなジミー、ビッグ・ジョン、星々。もしまた絵が描けたら、もしまた恋ができたらなあ。恋だ! 恋ができたらなあ! 世の中に恋をしているときの感覚に似たものが他にあっただろうか?
春の夕暮れ、そう、今夜のように柔らかくて甘い香りが漂い、暗い木々が頭を垂れている、あるいは天使のような銀、薄紫、オレンジ色の黄昏に、風が心地よくざわめき、ヒキガエルかアマガエルのかすかな鳴き声がしている。そして、そういうときに、女の子がいる。神さま! これに勝るものが何かあるでしょうか? 人生には何か他に価値のあるものがあるのでしょうか? 恋人がその柔らかな若い腕をあなたの首に回し、純愛の唇をあなたの唇に重ね、まるで夜のここの色をした二つの池のような目で語りかけてくれる。
ほんの少し前までそれはフリーダだった。かつてそれがアンジェラの時があった。ずっと前はステラだった! 親愛なる、いとしいステラ、彼女は何てすてきだっただろう。そして今ここにいるユージンは病気であり孤独であり結婚していた。アンジェラがじきに帰ってくるだろう……そしたら…… ユージンはたびたび立ち上がってはこういう考えを払拭した。そして、本を読むか、散歩するか、寝てしまった。しかし孤独だった。イライラするほど孤独だった。ユージンがどこにいようと本当の安らぎの場所は一つしかなかった。それは恋する春の時間だった。
第二十二章
ユージンがそんな気分でぼんやりしたり、働いたり、夢を見たり、願い事をしていると、ある日リバーウッドの母親の家にカルロッタ・ウィルソン……引っ越し先での名前はノーマン・ウィルソン夫人……がやって来た。背が高いブルネットの三十二歳になる、イギリス風の美人で、スタイルがよく、優雅で、天性の知性とユーモアのセンスだけでなく人生の光と影の両面を見せてくれた幸運と不運の経験とが混ぜ合わされて作られた世の中の知識を備えていた。まず第一に彼女はギャンブラーの妻だった……しかもプロであり……紳士の務めを果たそうとし、その役割を演じ、付き合いのある仲間であっても油断している相手からは容赦なく金を巻き上げるというあの特殊な種類のギャンブラーだった。当時マサチューセッツのスプリングフィールドで母親と一緒に暮らしていたカルロッタ・ヒバーデルは、両親と一緒に見物していた一連の地方競馬で、たまたま別の用件でそこに居合わせたウィルソンに出会った。カルロッタの父親は不動産屋で、一時はかなり羽振りがよく、競馬には目がなく、名声こそなかったが価値ある経歴をいくつか持っていた。ノーマン・ウィルソンは自ら不動産の投機家を装い、いくつかかなり成功した土地取引を手掛けていたが、彼の本領と拠り所はギャンブルだった。街中のあらゆるギャンブルの場に精通し、ニューヨークやその他の地域のギャンブル好きを男女を問わず大勢知っていた。彼の幸運と腕前は時々驚異的だったが、そうでない時はかなり悲惨だった。最高のアパートに住み、最高のレストランで食事をとり、最高の地方の行楽地に出かけ、その他にも友だちとの付き合いを楽しんで、ゆとりのある生活を過ごせた時期があった。かと思えば不運に見舞われて、こういうものに興じる余裕どころか、財産を守るのに必死で、そのために借金をしなければならないときもあった。物事の解釈の仕方がどこか運命論者的で、自分の運は好転すると信じて頑張った。もちろん、必ず好転した。 問題がどんどん大きくなり始めると、ノーマンは盛んに考えて、いつも自分を救い出すのに役立つ何かのアイデアを生み出した。彼の計画はいつも、クモのように巣を張り、そそっかしいハエがうっかり飛んで来るのを待つことだった。
結婚したとき、カルロッタ・ヒバーデルは、自分の情熱的な恋人のおかしな傾向と微妙な執着を知らなかった。彼のような男性はみんなそうだが、愛想がよく、説得力があって、情熱的で、熱心だった。ノーマンにはある種の猫のような魅力があって、それがまたカルロッタを惹きつけた。そのときカルロッタはノーマンを理解できなかったし、その後も決して理解することはなかった。後にノーマンがカルロッタだけでなく他の者にまで見せた放埒ぶりは、カルロッタを驚きあきれさせた。カルロッタは、ノーマンが身勝手で傲慢、自分の得意分野以外は底が浅く、芸術性、感性、詩情のかけらもないことを知った。お金があるときのノーマンは(彼の理解の及ぶ範囲で)周囲の物質的な優雅さにとことんこだわる傾向があったが、残念ながらカルロッタは彼がそいうものを理解していないことに気がついた。カルロッタや他のみんなに対するノーマンの態度は、頭ごなしで、尊大で、見下していた。ノーマンの大げさな物言いは、ある時はカルロッタを激怒させ、またある時は面白がらせた。最初の情熱が冷めて、ノーマンの虚像を見透かして彼の目的や行動がわかり始めると、カルロッタは関心がなくなり、やがてうんざりした。精神年齢が高すぎる女性だったので、ノーマンが相手では大した喧嘩にならなかった。彼女は人生全体に対する関心が薄過ぎたので本気で向き合うことができなかった。彼女の唯一の情熱は、ある種の理想的な恋人をさがすことだったが、彼を完全に誤解していた彼女は、果たして理想的な男性などいるのだろうかと思いながら目を外に向けた。
二人のアパートにはいろいろな人がやって来た。ギャンブラー、享楽に飽きた上流階級の男たち、採鉱の専門家、投機家などで、夫人を同伴するときもあればしないときもあった。カルロッタはこういう人たちや自分の夫や自分の観察から、あらゆる種類の悪党、身分の釣り合わない夫婦、気質の不一致に見られるおかしな症状、性欲に駆られた変人たちについて学んだ。カルロッタは容姿端麗で、気品があり、付け込まれやすい態度だったので、彼女に向けられる申し込み、口説き、ほのめかし、遠回しな誘いは後を絶たなかった。そういうのにはとっくの昔に慣れっこになっていた。夫が公然と自分を捨てて他の女に走り、しかもそれを事もなげに告白したものだから、他の男性から自分を遠ざける正当な理由を見出せなかった。彼女は微妙なセンスで慎重に恋人を選んで、熟慮の末に自分を大いに楽しませた相手と関係を始めた。ある種の能力を兼ね備えた、洗練さ、感性、知力の持ち主を求めていたが、そういう人はそう簡単に見つからなかった。カルロッタの長い不倫遍歴はこの物語には関係ないが、彼女の性格に与えた影響は大きかった。
カルロッタはほとんどいつも、ほとんどの人にそっけない態度をとった。うまい冗談や話をすると心から笑った。とても例外的な性格を有する作品……写実主義……以外の文学に興味がなく、こういうものは特定の購読者以外には許可されるべきではないと考えた。それにもかかわらず他の本には全然興味がなかった。絵画……真の名画……には心が惹かれた。レンブラント、フランス・ハルス、コレッジオ、ティツィアーノの絵が大好きで、カバネル、ブグロー、ジェロームの裸体画なども、分け隔てせずに官能的な観点からとらえた。カルロッタにすれば、彼らの作品にはリアリティがあり、偉大な想像力によって光があてられた。彼女が関心を持つのは主に人間で、人間の心の気まぐれ、性格の特異性、嘘、ごまかし、取り繕い、恐怖だった。カルロッタは自分が危険な女であるとわかっていて、モナ・リザの口元に見られるような薄笑いを浮かべながら猫のように静かに歩いた。しかし自分のことは心配しなかった。ありあまるほどの勇気があって、同時に寛容で、欠点を大目に見る、情け深い人だった。寛容も度が過ぎると言われてカルロッタは答えた。「どうしてだめなの? 私はこんなにすてきなガラスの家に住んでいるのよ」(訳注:ガラスの家に住む人は石を投げてはいけない。石を投げ返されたら自分の家がこわれるから)
今回実家を訪れた理由は、夫が一時的にカルロッタを事実上見捨てたからだった。彼女の推測どおり、夫がシカゴにいたのは主にニューヨークの大気が彼にとって熱くなりすぎてきたからだった。カルロッタはシカゴが嫌いなのと、夫と一緒にいるとうんざりしたので、一緒に行くのを断った。ノーマンはカルロッタの不貞を疑って憤慨したが、彼にはどうすることもできなかった。カルロッタは冷淡だった。それにカルロッタには夫の財産の他にも金の出どころがあり、金なら手に入れることができた。
ある金持ちのユダヤ人がカルロッタとの結婚を望んで、何年もの間彼女に離婚を迫っていた。相手の車もお金も自由にできたが、カルロッタはどうとでもとれる儀礼的な応対しかとらなかった。男がカルロッタに電話をして、車でお邪魔してもいいですかと尋ねるのは普通の日課になった。男は三台持っていた。カルロッタはすげなくこの大半を受け流して「何の御用?」と問い返すのが常だった。夫は時々、車なしで出かけることがあった。カルロッタには好きな服を着て好きな時にドライブする金があり、面白い外出にもたくさん招待された。母親は、娘の独特な態度も、娘の結婚の問題も、娘の言い分も、娘の浮気性もよく知っていた。離婚して再婚して次こそ幸せをつかむ権利を娘に残しておきたかったから、最善を尽くして娘に自重させた。しかし、ノーマン・ウィルソンは有力な証拠が自分に不利に働いても、やすやすと法的な別居を認めるつもりはなかった。もしも娘が自分の立場を危うくすれば望みはなくなるだろう。娘はすでに自分の身を危険にさらしてしまったかもしれないと半信半疑だったが、自信は持てなかった。カルロッタのことはよくわからなかった。ノーマンは家族の反目の原因を公然と訴えたが、大部分は嫉妬に基づくものだった。彼にも確かなことまではわからなかった。
カルロッタ・ウィルソンはユージンについて聞いたことがあった。ユージンの評判までは知らなかったが、彼と彼の存在についての母親の慎重な発言と、彼が芸術家であることと、彼が病気であり健康上の理由で肉体労働者として働いている事実は、彼女の関心を呼び覚ました。夫の留守中はナラガンセットで友人たちと過ごすつもりだったが、その前に自分の目で確認するために数日実家に戻ることに決めた。母親は直感で、娘がユージンに好奇心を持ったと疑った。娘が興味をなくすことに期待して、彼は長くはいないかもしれない、とそれとなく口にした。奥さんだって戻ってくることになっていた。カルロッタはこの牽制を見抜いた……これは自分を遠ざけたいのだ。カルロッタは行くことに決めた。
「こんなときにナラガンセットへ行くなんてごめんだわ」カルロッタは母親に言った。「疲れちゃった。ノーマンのおかげで神経がすり切れたわ。一週間ほど帰ろうと思うんだけど」
「いいわよ」母親は言った。「でも、これからは自分の行動に気をつけなさい。ウィトラさんはとても立派な方のようよ。それに幸せな結婚をされているわ。無闇に彼の方を見るんじゃありませんよ。あなたがそんなことをするようなら、彼をここに置いてはおきませんからね」
「まあ、ずいぶんな物言いね」カルロッタは怒って答えた。「少しは娘を信頼してほしいわ。私はその人に会いに行くわけじゃないのよ。疲れたからだって言ったでしょ。来てほしくないんなら行かないわよ」
「そんなつもりじゃないわ。歓迎するわよ。でも、あなた、自分の立場をわかっているわよね。慎重に行動しないで、どうやって自由を手に入れるつもりなの? わかってるわよね、あなたは……」
「ねえ、お願いだから、古い話を蒸し返さないでよ」カルロッタは予防線を張りながら叫んだ。「そんなことをして何の役に立つの? 散々話し合ったわよね。どうせ私はどこにも行けないし、お母さんが騒ぎたがってること以外は何もできないわ。静養でもなきゃ今さらそんなところへ行くもんですか。どうしてお母さんはいつも何でもつぶしにかかるのかしら?」
「でも、まあ、これでお前にも十分伝わったよね、カルロッタ?」母親は繰り返した。
「じゃあ、やめるわ。私は行きません。何よ、あんな家。私はナラガンセットへ行くわ。お母さんにはうんざりよ!」
母親は背の高い自分の娘を見た。優雅で、美しく、黒髪をふっくらと畳んで分けていて、苛ついているが、それでも力と能力に満足していた。もし彼女が慎重で用心深くなりさえすれば、さぞかし立派な人物になるかもしれない! 顔の色はオールドローズ系のアイボリー、唇は濃いラズベリー、目は青みがかったグレイで、眉間が広く、ぱっちりしていて、思いやりがあって、優しそうだった。最初にどこかの立派な大物と結婚しなかったことが悔やまれた。たとえセントラルパークウェストに住み、比較的豪華なアパートを持っていたとしても、あのギャンブラーと結ばれたのは間違いだった。それでも貧乏やスキャンダルよりはましだが、自己管理を怠れば両方ともありえる話だった。母親は娘と一緒にいたかったから、娘にリバーウッドに来てもらいたかったが、節度はわきまえてほしかった。おそらくユージンなら切り抜けてくれるだろう。確かに彼は態度も発言も十分に控えめだった。母親はリバーウッドに戻った。カルロッタは矛を収めて母親の後を追った。
ユージンは仕事に行っていたからカルロッタが到着した日の日中に彼女に会うことはなく、カルロッタもユージンが夜帰宅したとき彼に会わなかった。ユージンは古いひさし帽をかぶり、しゃれた革の弁当箱を気取って片手で持ち運んだ。自分の部屋に行って、入浴し、服を着て、それからポーチに出て夕食の鐘が鳴るのを待った。ヒバーデル夫人は二階の自室にいた。「いとこのデイブ」は裏庭にいた。カルロッタはシンプソンをそう呼んでいた。すてきな黄昏だった。網戸が開いてカルロッタが出て来たとき、ユージンはこの場面の美しさ、自分の孤独、工場で働いているメンバー、アンジェラなどについて深く考えていたところだった。カルロッタは襟ぐりと袖口に黄色いレースをあしらった、半袖で、まだら模様の青いシルクのホームドレスを着ていた。高い身長とも美しく釣り合っているスタイルのいい体には、滑らかでぴったりとしたコルセットが装着され、後ろで大きく三つ編みにした髪には、茶色いスパンコールの付いたネットがかぶされていた。カルロッタは思慮深く気取らずに振る舞い、自然な感じで無関心に見えた。
ユージンは立ち上がった。「僕はお邪魔ですね。この椅子にいかかですか?」
「あら、いいわよ。隅っこのがありますから。でも自己紹介した方がいいかしら。ここには紹介してくれる人がいませんものね。私はウィルソン夫人、ヒバーデル夫人の娘です。あなたがウィトラさんかしら?」
「はい、いかにもそのとおりです」ユージンは笑顔で言った。最初はあまり大して印象を受けなかった。カルロッタは優しそうでユージンは知的だと思った……彼の興味を引きそうな女性よりも少し年が上だった。カルロッタは座って川を眺めた。ユージンは椅子に座っておとなしくしていた。彼女に話しかける気分にさえならなかった。それにしても眺めがいのある女性だった。彼女の存在がその場を明るくしたようにユージンには見えた。
「ここはいつ来てもいいところよ」ようやくカルロッタが切り出した。「最近、市内はやけに暑いし、この場所を知ってる人ってあまりいないんじゃないかしら。穴場なのよね」
「僕は楽しんでいます」ユージンは言った。「おかげでいい静養になっています。あなたのお母さんが受け入れてくれなかったら、どうなっていたかわかりません。僕みたいになってしまうと、とにかく居場所を見つけるのが大変なんです」
「健康を回復しようとして随分頑張ってらっしゃるのね」カルロッタは言った。「日雇い労働って大変そうに聞こえるんですけど、平気なんですか?」
「大丈夫です。気に入ってますから。仕事は面白いし、それほどきつくはないんです。僕にとってはすべてが新鮮です。だから気楽でいられるんでしょうね。日雇い労働者になって労働者の仲間になる、という発想が気に入ってます。僕が心配しているのは健康を損ねていることだけですから。病気にはなりたくないもんですね」
「大変ですね」カルロッタは答えた。「でも、この調子ならおそらく立ち直るわよ。人間っていつも自分の今の問題が最悪だと考える傾向があると思うんです。私がそうですもの」
「そう言っていただけると安心します」ユージンは言った。
カルロッタはユージンを見なかった。ユージンは無言で体を前後に揺らした。ようやく夕食の鐘が鳴った。ヒバーデル夫人が階段を下りてきて、二人とも中に入った。
夕食の会話でしばらくユージンの仕事が話題になった。ユージンは、ジョンとビル、エンジニアのビッグ・ジョン、小さなサッズと鍛冶屋のハリー・フォーネスの特徴を正確に説明した。カルロッタは聞いていないようでもきちんと聞いていた。ユージンに関することはすべて彼女にとって珍しい特別なことのようだった。彼女は彼の背の高いやせた体も、細い手も、黒い髪と目も好きだった。朝は労働者の服を着て、昼は一日中工場で働き、夜は食卓にちゃんときれいに身なりを整えて現れるという発想が好きだった。ユージンの態度はのんきで、動作は明らかに無気力だったが、この部屋を満たすある種の迅速な力をカルロッタは感じ取ることができた。これはユージンの存在感を高めるものだった。カルロッタは一目で彼が芸術家、どうみても優れた芸術家だとわかった。ユージンはこれには一切触れず、自分の芸術に話が及ぶとすべて慎重にかわして聞き役に徹した。まるでユージンが彼女や他のみんなを観察しているように感じたので、カルロッタはさらに楽しくなった。同時に彼のことがすごく気になった。「交際するなら理想的な相手ね」とカルロッタは繰り返し考えた。
カルロッタは十日ほど家にいた。ユージンは彼女に三日目の朝以降、夕食だけなら十分に普通だったが、(少し意外なことに)朝食のときにも会った。しかしユージンは彼女にあまり注意を払わなかった。カルロッタはすてきだった。とてもすてきだった。しかしユージンは別のことを考えていた。彼はカルロッタをものすごく感じのいい思いやりがある人だと考えた。そして興味を持って彼女を研究し、どんな人生を送ったのだろうと思いながら、服の着こなしや美しさを称賛した。食事だけでなく他のときに耳にした会話のさまざまな断片から、彼女はかなりうまくいっていると判断した。セントラルパークウェストにアパートがあって、カードの仲間、自動車の仲間、観劇の仲間、いろいろな人たちがいた……とにかく知り合いはお金を儲けていた。ユージンは、カルロッタが鉱山技師のローランド博士や、石炭採掘で成功した投機家のジェラルド・ウッズや、銅鉱山に大きな関心を持ち明らかに大富豪のヘイル夫人について話すのを聞いた。「ノーマンがそういうのに関わって、現金を稼げないのが残念だわ」ユージンはある晩彼女が母親に言うのを聞いた。ノーマンというのは彼女の夫で、すぐに戻ってくるかもしれないことを理解した。だからユージンは距離を置いた……興味がわき、気になったが、それ以上ではなかった。
しかしウィルソン夫人はそう簡単に引き下がらなかった。ある晩、夕食が終わるとすぐに玄関に車が一台、立派な赤いツーリングカーが現れた。そしてウィルソン夫人が気さくに声をかけた。「私たち夕食後にひとっ走りするんだけど、ウィトラさん、一緒に来ない?」
当時、ユージンは自動車に乗ったことがなかった。車が現れたのを見たとき、誰もいない家の寂しい夜が思い浮かんだので「喜んでお供します」と言った。
運転手がいた……茶色の麦わら帽子をかぶり黄褐色のダスターコートを着た立派な人だった。しかし座席はウィルソン夫人が決めた。
「あなたは運転手と一緒に座るのよ、従兄弟」カルロッタはシンプソンに言った。母親が乗り込むと、カルロッタがその後に続き、ユージンに自分の右側の席を空けた。
「トランクにコートと帽子があるはずよ」カルロッタは運転手に言った。「ウィトラさんにお渡しして」
運転手が予備のリネンのコートと麦わら帽子を取り出して、ユージンがそれをかぶった。
「私は自動車に乗るのが好きなの、あなたは?」カルロッタは愛想よくユージンに言った。「とてもスカッとするわよ。この世で気苦労を忘れて一休みできるとしたら、それは高速で飛ばしているときだわ」
「僕はまだ一度も車に乗ったことがありません」ユージンは簡潔に答えた。今のユージンの言い方の何かがカルロッタの気を引いた。ユージンが孤独でしょんぼりしているようなので、かわいそうだと感じた。ユージンの気のない態度はカルロッタの好奇心を刺激して、プライドを傷つけた。どうして彼は私に興味を持たないのかしら? 草木の生い茂る小道を走り、丘を登り、谷を下るときに、カルロッタは星明かりで彼の顔を見た。青白く、もの思わしげで、無関心だった。「ずいぶんと思いつめてますね!」カルロッタはたしなめた。「哲学者になったら大変よ」ユージンは微笑んだ。
家に着くと、他のみんなが部屋にさがったのでユージンも自分の部屋に行った。数分後、書斎に本を取りに行こうとして廊下に出たところ、通らなければならないカルロッタの部屋のドアが大きく開けっ放しなのに気がついた。カルロッタはモリスチェアに深々と腰掛けて、両足を別の椅子に乗せ、スカートを少したくし上げて細い足と足首を露わにしていた。動じることなく顔を上げて愛嬌のある笑顔を見せた。
「眠るほどの疲れじゃないんですね?」ユージンは尋ねた。
「まだまだよ」カルロッタは微笑んだ。
ユージンは階段を下りて、書斎の明かりをつけて、タイトルを確認しながら本の列をながめた。足音がした。するとそこでカルロッタも本を見ていた。
「ビール、いらない?」カルロッタは尋ねた。「冷蔵庫に何本かあると思うわ。忘れてたけど、あなた、喉が渇いているんじゃない」
「そうでもないですね」ユージンは言った。「僕は飲み物の類はあまり好きではありませんから」
「まあ、付き合いの悪い方ね」カルロッタは笑った。
「それじゃ、いただきますよ」ユージンは言った。
カルロッタは飲み物とスイスチーズとクラッカーを持って来て、ダイニングルームの大きな椅子にぐったりともたれかかって言った。「よかったら隅のテーブルにタバコがあると思うわ」
ユージンがマッチをすってやると、カルロッタは気持ちよさそうにタバコを吹かした。「友だちや仲間から離れてこんなところにいるんじゃ、さぞかし孤独を感じるでしょ」カルロッタは切り出した。
「ずいぶん長いこと患ってますから、果たしてそんなものがいるのかどうかわかりませんよ」
ユージンは自分の想像を交えた病気と経験の話をして、カルロッタは親身に耳を傾けた。ビールがなくなると、カルロッタはもっと飲むか尋ねたが、ユージンはいらないと言った。しばらくしてユージンが疲れた様子で体を動かしたので、カルロッタは立ち上がった。
「僕らがこんなところで何やら夜遊びをしているとあなたのお母さんが気を回しますよ」ユージンは切り出した。
「母には聞こえっこないわ」カルロッタは言った。「部屋は三階だし、おまけに耳が遠いから。デイブは気にしないわ。今では私のことをよく知ってるから、私がやりたいようにやるってことを知ってるもの」
カルロッタはユージンのもっと近くに立ったが、彼は見向きもしなかった。ユージンが立ち去ると、カルロッタは明かりを消し、彼に続いて階段まで行った。
「彼は男性の中で一番の恥ずかしがりやか、一番の無関心ね」カルロッタはそう思ったが「おやすみなさい。すてきな夢を見られるといいわね」と言って別れた。
ユージンはこの時カルロッタを、いい人で、既婚女性にしては少し浮ついているが、それでいて多分用心深いと考えた。ユージンにとって彼女はただすてきであるというだけだった。これはただ単に、まだ彼があまり興味を持っていなかったからだった。
小さな出来事は他にもあった。ある朝ユージンはカルロッタの部屋の前を通った。母親はすでに朝食に降りていて、カルロッタはドアが開いていることに明らかに気づかぬ様子で枕を高くして寝ていたので、滑らかな形のいいむき出しの腕と肩がユージンに丸見えだった。それは完璧な腕だったので官能的に美しいものとしてユージンを興奮させた。またあるときは、夕食直前の夕方に靴のボタンを留めている姿を見かけた。まだコルセットとミニスカートを履いた状態だったので、ドレスが膝まで四分の三ほど下ろされて、肩と腕がむき出しだった。カルロッタはユージンが近くにいるのを気づいていないようだった。ある夜、夕食後にユージンが口笛を吹き始めると、カルロッタはピアノまで行って伴奏した。またあるときは、ユージンがポーチで鼻歌を歌うと、カルロッタも同じ歌を始めて一緒に歌い続けた。ユージンは夜、母親の就寝後にソファのある窓際に椅子を引き寄せた。するとカルロッタがそこに身を投げ出した。「ここに横になっても構わないかしら?」カルロッタは言った。「今夜は疲れちゃった」
「どうぞ、喜んでお相手しますよ。何しろ孤独ですから」
カルロッタは横になって微笑みながらユージンを見つめた。ユージンが鼻歌を奏でてカルロッタが歌詞を口ずさんだ。「手のひらを見せて」カルロッタは言った。「さあ、何がわかるかしら」カルロッタは誘惑するように指で触れた。ユージンはこれにも反応しなかった。
カルロッタが仕事の関係で五日間出かけて帰ってきたとき、ユージンは彼女に会えてうれしがった。ずっと孤独だった。そして今はカルロッタがこの家を明るくしてくれることがわかった。ユージンは和やかに挨拶した。
「帰ってきてくれてうれしいです」と言った。
「本当かしら?」カルロッタは答えた。「信じられないわ」
「どうしてですか?」ユージンは尋ねた。
「そうね、いろいろな兆候かしら。あなたは女性のことがあまり好きじゃないんだと思うの」
「僕がですか!」
「ええ、好きじゃないんだと思うわ」カルロッタは答えた。
柔らかい灰色がかった緑のサテンを着た彼女は魅力的だった。首が美しくて、髪がうなじで優雅にカールしていることにユージンは気がついた。鼻はまっすぐで細く、鼻柱が細いので敏感だった。ユージンは彼女を追って書斎に入り、二人はポーチに出た。やがてユージンは戻った……時刻は十時……カルロッタも戻った。デイヴィスもヒバーデル夫人も自分の部屋に下がっていた。
「本でも読むとするか」ユージンが漫然と口にした。
「どうしてそうなるかな?」カルロッタはからかった。「他にできることがいくらでもあるのに読書なんかやめてよ」
「他に何ができるっていうんです?」
「あら、いくらでもあるじゃない。トランプ、占い、手相、ビールでしょ……」カルロッタは思わせぶりに相手を見た。
ユージンは窓際のソファと並んでいる、窓辺のお気に入りの椅子のところへ行った。カルロッタが来てソファに体を投げ出した。
「お手数だけど枕を直してもらっていいかしら?」カルロッタが頼んだ。
「ええ、いいですよ」
カルロッタが動こうとしないので、ユージンは枕をとって彼女の頭を持ち上げた。
「こんなもんですかね?」ユージンは尋ねた。
「もう一つちょうだい」
ユージンは最初の枕の下に手を入れて、それを持ち上げた。カルロッタはユージンの空いている手をつかんで体を起こした。手をつかむと握ったまま離さず、奇妙に興奮した笑い声をあげた。彼女がしてきたことすべての完全な意味が、いっぺんに理解できた。ユージンはつかんでいた枕を下ろしてじっと相手を見つめた。カルロッタはつかんでいる手をゆるめて、微笑みながら、だるそうに後ろにもたれかかった。ユージンは相手の左の手、次に右の手をとって、その横に腰を下ろした。すぐに片腕をウエストの下に滑り込ませて、おおいかぶさり、唇にキスをした。カルロッタは相手の首にしっかり両腕をからませて、ぎゅっと抱き締めた。それから目をのぞきこんで大きなため息をついた。
「僕のことが好きなんですね?」ユージンは尋ねた。
「あなたは絶対に応じないと思ったんだけどな」カルロッタはため息をついてもう一度相手を抱きしめた。
第二十三章
カルロッタ・ウィルソンのスタイルは完璧だった。情熱がわくと夢中になり、ほぼ何事に対しても繊細だった。カルロッタが自分からわざわざユージンを射止めようと乗り出したのは、ユージンが彼女にとって魅力的だったのと、最初に無関心な態度をとって彼が彼女の虚栄心と自己愛を刺激したからだった。しかしユージンのことは好きだった。彼のあらゆる特徴が好きだった。新しいおもちゃを手に入れた子供のように彼女は自分の勝利が誇らしかった。ついにユージンが腕をウエストの下に滑り込ませると、カルロッタは全身を貫く燃えるようなぞくぞくする興奮で打ち震えた。彼に立ち向かったときには、愛撫を求めてやまない人の熱望があった。カルロッタはユージンに体を投げ出して、何度も官能的なキスをして、欲望と愛情をささやいた。目覚めた情熱を通して彼女を見たこのとき、ユージンはこれほど美しいものを見たことがないと思った。しばらくは、フリーダも、アンジェラも、自分の孤独も、健康の回復を想定して慎重に自制して働いていたことも忘れて、この状況を存分に楽しむことに身を委ねた。
カルロッタは注意を怠らなかった。ひとたび彼が本気になったと見るなり思うなりすると、彼女は自分の情熱と愛情で満たされた雰囲気の中にいた。どちらか一方ができるときに、彼女がユージンと一緒にいない、もしくはユージンのことを考えない瞬間はなかった。いつもユージンを待ち伏せしていて、彼女の力でできるあらゆる機会を彼に与えた。カルロッタは母親と従兄弟の動きを事細かに知っていた……二人がどこにいるか、どのくらい長くそこに留まりそうか、二人が今いるところから特定のドアや場所までたどり着くのにどのくらいかかるか、を正確に言うことができた。足取りは静かで、動作と目配せには意味があり、何かを物語っていた。ぎりぎりの瞬間まで彼に抱きついていたり、まさかの時にまさかの状況で予告もなく素早くキスしたりして、ひと月ほどユージンを最も危険な状況に導いた。疲れた感じの無気力も表面的な無関心もなくなって、彼女はとても生き生きしていた……他の人がいるときはそうではなかった。母親と従兄弟の目をくらますことに決めたので、彼女の古い態度はそのまま続いた。しかも強調さえされた。ユージンはすてきだけど少し世事にうとい、と見なしているふりをして母親を嘘で丸め込んだので、しばらくはうまくいった。「彼は優れた芸術家かもしれないけど」わざわざ言った。「あまり女性が好む男性じゃないわね。女性の扱いがちっともなってないわ」
ヒバーデル夫人は喜んだ。少なくともここでは何の騒ぎも起きないだろう。カルロッタとユージンのことが心配だったが、苦言を呈する理由が見当たらなかった。夫人の前では、すべてが礼儀正しく見え、時にはよそよそしいほどだった。ユージンがいるから今は実家に来るなと娘に言いたくはなかったし、かといってユージンに出て行ってくれとも言いたくなかった。カルロッタはユージンのことがかなり好きだと言ったが、これは何でもないことだった。どの既婚女性でもそういうことになったかもしれない。それなのに、まさに夫人の目の前で、困惑せずにはいられない身勝手過ぎる行いが続いていた。浴室と、カルロッタの寝室と、ユージンの部屋の使われ方を知ったら夫人はさぞかし驚いたことだろう。そういう時間は、二人が目の届かないところにいても、一緒にいない限りは訪れなかった。
ユージンは仕事にかなり無関心になった。自分のためになるひとつの運動だと考えて仕事を楽しみ、このペースでリハビリを続ければずっと働かなくてもいいかもしれないと感じるところまで来ていたので、仕事がおっくうになり、それにかけなくてはならない時間が惜しくなった。カルロッタは特定の自動車に対する特権を持っていた。それどころか自分のを借りる余裕があった。カルロッタはちょっとしたドライブをするために場所と時間を提案して会うようになり始めた。これはかなりの時間ユージンを仕事から引き離した。
「毎日働く必要はないんじゃないかしら?」ある日曜日の午後、二人っきりでいるときにカルロッタはユージンに尋ねた。シンプソンとヒバーデル夫人は散歩に出かけてしまい、二人は二階の彼女の部屋にいた。母親の部屋は三階にあった。
「会社が払う給料を失ってもかまわなければ、その必要はないですけどね」ユージンは言った。「時給十五セントだけど、僕にはそれが必要なんだ。僕は自分の本業で働いているわけじゃないんです、覚えておいてください」
「そんなのやめちゃいなさいよ」カルロッタは言った。「時給十五セントが何よ? 私と来て一緒にいてくれれば、その十倍あげるわよ」
「いや、あなたでは駄目です」ユージンは言った。「あなたでは僕をどうすることもできませんよ。そんなことしても、僕らはどこにもたどり着かないでしょう」
「まあ、ユージン、何って言い草よ。別にいいんじゃない?」カルロッタは尋ねた。「これでも結構持ってるのよ……少なくともあなたが今持ってる以上はあるわ。それが他で使われるように、こういう形で使われてもいいでしょ。どうせまともな使われ方はしないもの……何か特別な目的があるわけじゃないんだから。それを少しくらいあなたが受け取ったっていいんじゃない? あなたなら引き合うわ」
「僕はそんなことしませんよ」ユージンは言った。「そんなことしたって、僕らはどこにもたどり着かないでしょうから。僕はむしろ仕事に行きますよ。なあに大丈夫です。多分絵が売れますから。いずれ何かが売れた知らせを聞くと思います。あなたがやりたいことは何なんですか?」
「明日、ドライブに付き合ってほしいの。母がブルックリンにいる妹のエラのところへ行くのよ。あなたの工場に電話ってあるかしら?」
「もちろんあるけど、でも、あそこで僕を呼び出すのは懸命じゃありませんね」
「一度くらいどうってことないでしょ」
「まあ、そうかもしれないけど、でも僕たちはそんなことを始めない方がいいですよ。少なくとも定期的にやるもんじゃない。この辺の人たちはとても厳しいですよ。厳しいに決まってる」
「わかってるわ」カルロッタは言った。「かけたりしないわよ。だだ考えていただけよ。じゃあ、こうしましょう。向こうの丘の上を流れる川沿いの道を知ってるかしら?」
「はい」
「明日一時にあそこを歩いていてちょうだい。私がひろうから。一度くらいいいでしょ?」
「もちろんです」ユージンは言った。「行けますよ。冗談を言っていただけです。多少のお金はあるんです」最初に仕事探しを始めたときに使わないでおいた百ドルがまだあった。ユージンは必死にそれを守ってきたが、この明るくなった雰囲気の今なら、多少は使ってもいいと考えた。ユージンは元気になりかけていた。すべてがその方向を指していた。運が向いてきた。
「じゃ、車を手配するわ。車でドライブするのは構わないわね?」
「ええ」ユージンは言った。「いいスーツを着て工場へ行って、そこで着替えるつもりです」
ユージンのためらいと単純さがおかしくて、カルロッタは楽しそうに笑った。
「あなたは王子さま……私の王子さまだわ」そう言うとカルロッタはユージンのひざの上に飛び乗った。「ああ、あなたは天国生まれの天使だわ! 私はずっとあなたを待ってたのよ。どれだけ待ったか知れやしない。賢者! 王子さま! 愛してるわ! 愛してる! これまでいろんな人が現れたけどあなたが最高だと思うわ」
ユージンは優しく彼女を愛撫した。
「それなら、あなたは僕の賢い彼女だ。でも僕らはまともじゃない、あなたも僕もね。あなたはろくでなしで、はぐれものだ。そして僕は……僕は自分が何者なのか考えたくないな」
「ろくでなしって何よ?」カルロッタは尋ねた。「そう言われたの初めてだわ。覚えがないわね」
「役に立たずとして捨てられてしまう物とか人ですよ。はぐれものは群れに留まらない鳩ですね」
「確かに私ね」カルロッタは引き締まったすべすべの両腕を前に伸ばして、お茶目ににやっと笑いながら言った。「私はどの群れにも留まらないもの。群がるのが嫌なのよ。私はむしろ飛び出して賢者と一緒になるわ。賢者がいれば十分だもの。群れが九や十あるよりも賢者の方がいいわ」カルロッタは面白がって堕落した言葉を使っていた。「私とあなただけがいいわ、王子さま。私ってあなたのかわいいろくでなしかしら? はぐれものは好きですか? さあ、おっしゃい。聞きなさいよ! はぐれものは好きですか?」
ユージンは顔をそむけて言った。「あきれたね! 恐ろしい、あなたはこれまでで最悪だ」カルロッタは唇でユージンの口を黙らせた。
「好きなの?」
「このろくでなしめ、好きだよ。このはぐれもの」ユージンはカルロッタの頬をなでながら答えた。「ああ、すてきだよ、カルロッタ、あなたは美しい。何てすばらしい女性なんだろう」
カルロッタは完全にユージンに身を委ねた。
「たとえ私が何者であろうとあなたのものよ、賢者さん」カルロッタは続けた。「あなたは私から何でも欲しいものを手に入れて、私を好きにしていいのよ。あなたは私にとって麻薬みたいなものだわ、ユージン! あなたは私の口も目も耳もふさいでしまうのよ。時々考えちゃうんだけど考えたくないと思うすべてのことをあなたは忘れさせてくれるわ。考えたくないのにね! それに、私はどうでもいいんだもの。あなたが独身で私が自由の身だったらいいのにね。二人で一緒にどこかの島を手に入れたいものだわ。なのに、最悪よ! 人生なんて退屈のもつれ合いじゃない? 実益を手に入れて信用をあきらめるわ」
カルロッタはこの時までにユージンの人生について十分に聞いていて、彼の今の状況を理解していた。ユージンが病気であることは知っていたが、どうしてなのか正確なところは知らなかった。過労のせいだと考えた。売りに出してある特定の絵の他に彼に資産がないことを知っていたが、やがて彼が絵の能力を取り戻して再起することを疑わなかった。アンジェラのことを多少は知っていて、ユージンとは別居しているから大丈夫だと思った。しかし今は別居がずっと続くことを願っていた。街に出て、いろいろな画材店を尋ねて回り、ユージンの美術歴とすごい将来性を知った。これはカルロッタの目に映る彼をさらに魅力的にした。しばらくしてポトル・フレールの店で展示中の彼の絵の一枚が彼女に買い取られて代金がユージンに送られた。こういう絵はどんな絵でも売るために展示され、売れれば手数料を差っ引かれて画家に代金が支払われる仕組みなのをカルロッタはユージンから学んでいた。カルロッタは、ユージンにお金を渡すために自分がこれをしていることをポトル・フレールの店主にはっきり伝えて、小切手が速やかに彼に届くようにきちんと手配した。もしユージンがひとりだったら、この三百ドルの小切手はアンジェラを呼び寄せるのに役立っただろう。結果として、これはユージンにカルロッタと一緒に遊び回る資金を提供した。彼はカルロッタのおかけで資金が手に入ったことも、絵が誰に売られたのかも知らなかった。告げられたのは架空の名前だった。この売り上げは、将来に対するユージンの自信をいくらか回復させた。絵の一枚が今どきこの値段で売れるのなら他の絵も売れるだろう。
その後、最高に興味深い日々が続いた。ユージンは朝、古い作業着を着て弁当箱を持って出かけ、カルロッタは部屋の窓から手を振ってそれを見送った。カルロッタと外で落ち合う約束があるときは、いいスーツを着てそれを守るためにオーバーオールとジャンパーをまとい、ジョンとビルか、マラキ・デンプシーとジョセフと一緒に一日中働いた……この二つのグループの間で、どちらがユージンを仲間に入れるかを巡って争いがあった……あるいは工場を早退して彼女と一緒に束の間のドライブを楽しみ、夜になってから帰宅し、まるでユージンには会いもしなかったかのような態度でカルロッタに迎えられた。カルロッタは女房気取りで辛抱強くユージンが現れるのを見守り、ユージンのために何か自分にできることはないかと気配りに余念がなかった。工場ではマラキとジョセフ、ジョンとビル、時には上の階にいる大工たちが、ユージンに手伝いや立ち会いを求めて仕事の忙しさを訴えた。マラキとジョセフは削り屑が邪魔で危ないといつでも文句を言うことができた。何しろジョセフが絶えず、樹脂や乳香のような匂いを放ち、少女の巻き髪か朝食のドライフードの形をしたトネリコや黄色い松やクルミの美しい削り屑や、たっぷり湿ったおがくずを大きな山のように積み上げていたからだ。あるいはジョンとビルが、仕事が手に負えないから車両内で誰か受け取り役が必要だと不平を言った。エンジニアのビッグ・ジョンでさえユージンを缶焚きとして使えるような仕組みを考えだそうとした。しかしこればかりはできなかった。そもそもそういう人は必要なかったからだ。現場監督は何が言いたいのかを十分に理解したが何も言わず、ユージンを一番必要としていると思える特定のグループに配置した。ユージンは快く仕事を引き受けた。彼はどこででも通用した。貨車の中も、材木の山の上も、旋盤室も好きだった。カゴを小脇に抱えてビッグ・ジョンやハリー・フォーネスと立ち話をすること……ユージンに言わせると「からかう」こと……も好きだった。どっちへ行き来しても尽きない軽口と冗談で注目され、彼は決してへこたれなかった。
夜、仕事が終わるとユージンは急いで家路につき、ヒバーデル邸に面した通りに出る小路にたどり着くまで、小川の右の土手に沿って進んだ。途中で時々立ち止まってその水面、つまりは懐に棒や藁を抱えたその平和な流れを眺めて、一見平和なその動きを自分の波乱の人生と比べていた。水に表れる自然の情景は彼には魅力的だった。この牧歌的な小川の土手と、工場や工場の関係者たちとの差は、彼に強い衝撃を与えて考えさせた。マラキ・デンプシーは自然の美しさについてごく漠然とした考えしか持っていなかった。ジャック・スティックスは彼が扱うざらざらの材木の山ほども絵にならなかった。ビッグ・ジョンはユージンの頭を悩ませる愛や美の豊かな感情について何も知らなかった。彼らは別の次元で生きているようだった。
そして、川の向こう岸ではカルロッタが彼を待っていた。優雅で、洗練されていて、ユージンに一途な思いを抱くが、道徳に対する関心は薄く、奢侈逸楽にふけり、ある意味でこの搾取された労働の成果を食い物にして生きる世界を代表し、それを何とも思っていなかった。燃料代を節約するために夕方、薪の束を持ち帰って妹に渡すジョセフ・ミューズの境遇について何かを言っても、カルロッタはただ微笑むだけだった。彼が大衆の貧困について語れば「暗い話はよしましょう、ユージン」と言った。カルロッタは芸術や贅沢や愛の話をしたがった。少なくともそういうことを考えたかった。自然の美しさをこよなく愛していた。自動車で行けて、座って食事をしてワインのボトルやクラレットカップのピッチャーを飲んだりできる宿があった。そこでカルロッタは、もし自分たちが自由でさえあったら何をするだろうと考えた。アンジェラはよくカルロッタの心に現れ、絶えずユージンの心の中にいた。ユージンは自分がアンジェラにはなはだしく不当な仕打ちをしていると感じずにはいられなかった。
アンジェラはこれまでずっと辛抱強く、愛情細やかに、母親のようにユージンの面倒を見て、使用人のように仕えてくれた。つい最近も彼は、アンジェラが一緒にいてくれることを願いながら、愛情たっぷりの言葉で手紙を書いたばかりだった。今またそのすべてが終わってしまった。書くのは大変な作業だった。言ったことのすべてが嘘に聞こえるので、言いたくなかった。偽るのは嫌だった。しかしもし手紙を書かなかったら、アンジェラは死ぬほど苦しみ、すぐに会いに来るだろう、とユージンは思った。アンジェラを今いるところに足止めさせることができるとしたら、手紙を書いて、愛情を強調して、どうして彼女が今来ることが好ましくないと彼が判断したかを説明するしかなかった。そして、カルロッタに夢中になっている今は、これが望ましく思えた。ユージンはカルロッタと結婚できると勘違いしてはいなかった。理由が全くないので離婚できないことはわかっていた。そしてアンジェラへの不義理が彼の良心を苦しめた。カルロッタに関しては将来にあまり確信が持てなかった。ノーマン・ウィルソンは時々妻をないがしろにしたにもかかわらず、手放したがらなかった。手紙を書いて、彼女がこっちに来なければニューヨークへ戻ると脅していたが、彼女がそこなら安全だと思える母親の家にいる事実が、多少は彼の慰めになった。アンジェラは自分をそちらへ行かせてくださいとユージンに頼んでいた。ユージンの稼ぎがどれほどでもそれで二人はやっていけるし、ユージンが独りでいるよりも私と一緒の方がいいとアンジェラは主張した。彼がどこかの居心地の悪い下宿で生活し、そこでろくな世話もされずにひどく孤独でいる様子を彼女は想像した。アンジェラが戻ることは、この素敵な家を出ることを意味した……ヒバーデル夫人は夫婦でいてもらいたくない意向を伝えていた……このカルロッタとの理想的なロマンスは終わるのだ。すてきな田舎宿や、二人が食事を共にする真夏のバルコニーが終わる! 運転手なしでカルロッタ本人が巧みに運転する束の間の自動車旅行が終わる! ユージンがキスして愛撫し、カルロッタがその腕に抱かれいつまでも楽しそうにしていた木陰やきれいな小川のほとりでの密会が終わる!
「もしも今、母に見つかっちゃったら」とか
「ビルとジョンがあなたを見たら、あなただってわかると思う?」などとカルロッタは冗談を言った。
「ここは動力室よりましでしょ」と言ったこともあった。
「あなたは悪い人だ、カルロッタ」ユージンが言うと、モナ・リザの謎めいた微笑みが彼女の口元に浮かんだ。
「悪い人が好きなんでしょ? はぐれものは狩りが上手ね」
自分の哲学に則り、カルロッタは実益を手に入れて、信用をなくしていた。
第二十四章
こういう日々が永遠に続くはずはなかった。破滅の種が芽を出し始めていた。ユージンは悲観的だった。時々それを態度にまで出すことがあって、カルロッタがどうしたのと尋ねると言った。「こんなことはいつまでも続けられない。どうせすぐに終わるんだ」
「あなたって本当に陰気な哲学者ね、ジーニー」どんな状況になろうとカルロッタはこれがずっと続けられることを期待していたから、非難がましく言った。ユージンは、どう取り繕ってもアンジェラの洞察力からは逃れようがないと感じていた。アンジェラはユージンが口に出さない気分や感情にもものすごく敏感だった。彼女はいや応なしにもうじきやって来るだろう。そしてそのときすべてが終わるのだ。実際は、いくつかの要因が重なって変化と結論をもたらした。
まず、カルロッタが滞在するだけは飽き足らず、来たとたんに長居しようとかなり本気になった事実に伴い、ヒバーデル夫人はますます思い当たるふしが多くなった。彼女は市内に自分のアパートを持っていたが、表向きは夏の間閉鎖していた。というのは、最初ナラガンセットに行くつもりだったときに、市内は暑くて暮らせないと断言してしまったからだった。ユージンに会ってからカルロッタはここが使えることを思いついた。しかしノーマン・ウィルソンがいつ戻って来てもおかしくないから使うのは危険だった。それでも、二人は時々そこにいた……母親をだませてユージンを楽しませることができたから一石二鳥だった。もし彼女がある程度の時間リバーウッドを離れることができたら、彼女の滞在は疑わしくなくなるし、二人の楽しい逢瀬を危険にさらさないですむ、とカルロッタはユージンと話し合い、これを実行した。その一方で、ユージンは必ず朝晩リバーウッドにいたから、彼女は完全にリバーウッドを留守にはできなかった。
それでも八月が終わりに向かう頃、ヒバーデル夫人は疑いを抱くようになった。頭痛がひどくてそっちに行けないとカルロッタが電話をくれたときに、車がセントラルパークに入っていくのを見たからだった。この病気を信じて街まで買い物に出かけ、夕方アパートに立ち寄るとカルロッタに電話までしたヒバーデル夫人には、車内にユージンとカルロッタがいたように見えた。ユージンはその朝仕事に出かけていたからありえないことに思えたが、確かに彼にそっくりだった。しかしヒバーデル夫人は、それが彼だったかカルロッタだったか確信が持てなかった。アパートについたら、カルロッタはそこにいた。気分はよくなったが、外出はしていないと言った。ヒバーデル夫人は考えた末に自分の勘違いだったに違いないと結論づけた。
夫人の部屋は三階だった。みんなが部屋にさがったあとで用事があってキッチンやダイニングルールや書斎に来たときに何度か誰かが忍び足で歩く異様な物音を聞いたことがあったが、二階に着くといつも真っ暗で静まり返っていたので、気のせいだと思った。それでもやはり、ユージンとカルロッタが出歩いているのかもしれないと考えた。朝食からユージンが出かけるまでの間に二度ほどユージンとカルロッタが二階でひそひそ話をしているのを聞いた気がしたが確証はなかった。カルロッタがユージンと同じテーブルにつくために六時半に起きて朝食を取ろうとするは奇妙であり、ナラガンセットへ行くのやめてリバーウッドに変更したことはとても重要だった。夫人の疑惑をすべて解消して事実の核心に迫り、カルロッタを良心のかけらもない嘘つきと断罪するには、ひとつの真実を発見するだけで事が足りた。
それはこういう形で起こった。デイヴィスとヒバーデル夫人はある日曜日の朝ドライブに出かけることに決めていた。ユージンとカルロッタは誘われたが断った。数日前にこの話を聞いたカルロッタがユージンに警告して、恋人二人でその日を過ごす計画を立て、街に行く用事があるふりをするようユージンに注意した。カルロッタ本人は行くと言っておいたが、当日になって体調不良を訴えた。デイヴィスとヒバーデル夫人はロングアイランドに向けて出発した。一日がかりの旅だった。しかし一時間後に車が故障し、修理のために車内で二時間座って待っていた……予定が台無しになるほどの長い時間だった……二人はトロリーで帰宅した。ユージンは街に出かけなかった。一階のドアが開いてヒバーデル夫人が中に入ったときは服さえ着ていなかった。
夫人は階段の下に立って、カルロッタが自分の部屋か、家の二階の正面の彼女がよくそこにいる団欒と裁縫用の部屋から現れるものと思い「ねえ、カルロッタ」と声をかけた。あいにくカルロッタはユージンと一緒だった。しかも、部屋の入口がヒバーデル夫人の立っているところから丸見えだった。返事をするどころではなかった。
「ねえ、カルロッタ」母親はもう一度呼びかけた。
母親が最初に思いついたのは、キッチンに戻ってそこを確認することだったが、考え直して階段を上り、裁縫部屋に向かった。カルロッタは、母親がすでに部屋に入っていると考えた。すぐにユージンの部屋の隣りの浴室へ駆け込むチャンスをつかんだが間一髪のところで間に合わなかった。母親は部屋の中までは入っていなかった……ただドアを開けて中をのぞいただけだった。カルロッタがユージンの部屋から出て来るところは見なかったが、ネグリジェ姿で浴室に入るところを見てしまった。彼女は他のところから出てくることはできなかった。ユージンの部屋と裁縫部屋との間にあるカルロッタの部屋の入口は十フィートも離れていた。カルロッタがそこから来ることができた可能性があるようには思えなかった。彼女にそれだけの時間はなかった。いずれにしても、どうして返事をしなかったのだろう?
ヒバーデル夫人は、最初、娘を呼ぼうと思ったが、思い直してその策がうまくいっていると思わせることにした。ユージンは自分の部屋にいるものと判断した。そして、しばらくしてから彼が……わざとらしい……戒めるような咳したので確信に至った。
「浴室にいるのかい、カルロッタ?」夫人はカルロッタの部屋をのぞき込んでから静かに声をかけた。
「はい」今度はあっさり返事が帰ってきた。「車が故障でもしたの?」
ドア越しに二言三言やりとりがあってヒバーデル夫人は自分の部屋に行った。あまりにも腹が立たしかったから、この状況をじっくりと考えた。これは信頼できる貞淑な娘の不祥事が発覚したのと同じではなかった。カルロッタは惑わされて道を踏み外したのではなかった。成人女性で、既婚者で、経験豊富だった。あらゆる点で母親と同じくらい人生を知っていた……いくつかの点ではそれ以上だった。二人の違いは倫理的な基準と、それを常識や良識や自衛本能に合わせるか合わせないかの方針だった。カルロッタには注意すべきことがたくさんあった。彼女の将来は彼女自身の手の中にあった。さらに、ユージンの将来、彼の妻の権利と利益、母親の家庭、母親の基準は、彼女が尊重すべきものだった……尊重したいと思うべきものだった。娘がこれほど長い間嘘をつき、無関心を装い、いないふりをし、紛れもなくその間ユージンとずっと関係を続けていたことを知るのは不快だった。ユージンへの尊敬は著しく低下したが、所詮は芸術家なのだ。激しい怒りの矛先はユージンによりもカルロッタに向けられた。カルロッタは行いを改めるべきだ。ユージンのような男性を誘惑するのではなく、そういう男性から身を守ろうとしないことを恥じるべきだ。これはカルロッタの落ち度だ。夫人は娘を厳しく叱って、このみじめな関係を直ちに解消させることにした。
翌朝、激しい辛辣な口論があった。ヒバーデル夫人はユージンとデイヴィスが出かけるまで大人しくしていようと決めていた。夫人はカルロッタと二人だけでこの問題を解決したかった。朝食後他の二人が出かけて間もなく衝突があった。カルロッタはユージンにこの件で何かが起こるかもしれないと警告していたが、ユージンはどんな状況だろうと彼女が言わない限り、何も認めないつもりだった。メイドはキッチンにいたので聞こえなかった。火蓋が切って落とされたときヒバーデル夫人とカルロッタは書斎にいた。カルロッタは一応覚悟はしていた。母親は他のことにも気づいていたかもしれないと考えた……何をどれだけかは予測できなかった。以前にもこういう場面を経験していたので、カルロッタは魔女キルケーのような威厳を失わなかった。夫が不倫のことで彼女を責めたのは一度ではきかなかったし、夫から暴力で脅されたこともあった。カルロッタは顔面蒼白だったが落ち着いていた。
「ねえ、カルロッタ」母親は強い口調で言った。「私は昨日の午前中に帰って来て何が起きているのかがわかったわ。あなたは服も着ないでウィトラさんのお部屋にいたでしょ。私はあなたが出てくるところを見ましたよ。お願いだから否定しないでね。私はあなたが出てくるのを見たんですから。あなたは自分のことが恥ずかしくないの? ここではやましいことは何もしないと約束しておきながら、よくも私にこんなまねができたわね?」
「お母さんは私が彼の部屋から出てくるところなんか見てないわ。だって私はそんなところにいなかったもの」カルロッタはぬけぬけと言った。顔面蒼白だったが、もっともらしく驚いているふりを続けた。「お母さんはどうしてそんなことを言うのかしら?」
「ねえ、カルロッタ・ヒバーデルさん、よくこの私に口ごたえができるわね、しかも嘘までついて! あなたはあの部屋から出て来たわ。自分がしたことはわかってるでしょ。自分がそこにいたこともわかってるでしょ。私があなたを目撃したこともわかってるわね。売春婦のようにこの家をうろつく自分と、その中にいる自分の母親を、恥ずかしいと思うはずよ。自分が恥ずかしくないの? あなたには良識ってものがないの? ねえ、カルロッタ、あなたが悪いのはわかってるんです。でも、どうしてここまで来てそんなことするのかしら? どうしてあの人を放っておけないの? あの人はちゃんとうまくやっていたのよ。恥ずかしいことよ、あなたがしたことは。もってのほかだわ。ウィトラ夫人にここまで来てもらって死ぬほど折檻してもらわないとね」
「まあ、何て言い草かしら」カルロッタは怒って言った。「もううんざり。お母さんは私を見てないわ。前にもあったわね……濡れ衣よ。お母さんはいつも疑ってばかりいるわ。お母さんは私を見てないわ、私はそこにいなかったんだから。どうして無駄に大騒ぎするのかしら!」
「大騒ぎですって! 無駄に大騒ぎ……そう考えているのね、この性悪女は。無駄に大騒ぎ。よくもそんなことが言えたものね! この耳が信じられないわ。あなたがこうやって平気で私に顔向けできるのが信じられないわ。私はあなたを見ました。なのに今あなたはそれを否定するのね」
ヒバーデル夫人は娘を見ていなかったが、自分の言ったことは真実だと確信していた。
カルロッタはあくまで白を切った。「お母さんは見ていません」と言い張った。
ヒバーデル夫人はじっと見つめた。その厚かましさに絶句した。
「カルロッタ」夫人は叫んだ。「あなたは世界で最低の女だとつくづく思うわ。あなたが自分の娘だとは思えないもの……図々しいにもほどがあるわ。あなたは計算高いだけに最低よ。あなたは自分が何をしているかがわかっていて、そのやり方まで慎重に考えているんだわ。腹黒いのよ。自分が欲しいものを正確にわかっていて、用意周到に準備してそれを手に入れるんだわ。今回もそうしたんでしょ。この男性を手に入れようと思い立って、それを見事にやってのけたのよ。あなたには恥の感覚も、プライドも、誠意も、名誉も、私や他の誰に対する敬意もないんだわ。あの人のことだって愛してないでしょ。あなたは自分が愛していないってことがわかってるのよ。もし愛していたら、あなたはこんなふうに、彼やあなた自身や私の顔に泥を塗るようなまねは絶対にしなかったでしょう。あなたは自分が望んだから、またみだらな関係におぼれただけよ。そしてそれがばれたから今度はずうずうしく白を切るんだわ。あなたが悪いのよ、カルロッタ。たとえ実の娘でもあなたは女としては最低だわ」
「それはお門違いね」カルロッタは言った。「お母さんはひとりでいい気になって喋ってるだけよ」
「だって本当のことでしょ。自分でわかってるくせに」母親は叱った。「あなたはノーマンのことを言うけど、あの人だってあなたがしでかした以上の悪いことはしてないわよ。ギャンブラーで、遊び人で、軽率で、身勝手かもしれないけど、あなたはどうなのよ? あなたはそこに立って自分の方がましだと言えるのかしら? ねえ! せめてあなたに羞恥心ってものさえあれば、何かやりようはあるかもしれないけど、あなたって人はその欠片もないんですからね。あなたはただの恥知らず、それに尽きるわ」
「よくもそんなことが言えるわね、お母さん」カルロッタは冷静に言った。「よく続けられるものだわ。ただの憶測でしょ。お母さんは私を見てません。私はそこにいたかもしれないけど、お母さんは私を見ていません。それに私はいなかったのよ。お母さんはただ騒ぎたいから騒いでいるんだわ。私はウィトラさんが好きよ。とてもすてきな方だと思うわ。でも私は彼に興味はないし、彼を困らせることは何もしていないわ。追い出したいなら、お母さんが彼を追い出せばいいことでしょ。これは私の問題じゃないもの。何の根拠もないくせにお母さんがただいつものように当たり散らしているだけのことよ」
カルロッタは考えながら母親を見つめた。あまり動揺していなかった。確かにこれはかなりまずかった。しかし彼女はそれよりも詮索されていることの愚かさを考えていた。彼女の母親は確かに知っていたが、カルロッタはそれを認めようとはしなかった。これで、この素晴らしい夏のロマンスもお終いだ……とにかく気軽に楽しめなくなった。ユージンは引っ越しで大変になるだろう。母親は彼に何か嫌みを言うかもしれない。それに、ノーマンと同じ悪いタイプの人たちと付き合っていなかったから、自分の方がノーマンよりもましなのを母親は知っていた。カルロッタは下品ではなく、厚かましくなく、無慈悲でなく、汚い言葉を使わず、卑しい考えを口にしたりしなかったが、ノーマンには時々そういう時があった。カルロッタは嘘つきで打算的かもしれないが、誰の不利益にもならなかった……ただ情熱に突き動かされるだけだった……それも大胆に、愛か恋に向かうだけだった。「私が悪いのかしら?」カルロッタはよく自分に問いかけた。母親は彼女が悪いと言った。まあ、ある意味ではそうだった。しかし母親が怒りっぽいのだ。それだけのことだった。言ったことのすべてを本気で言っているのではなかった。どうせ考えは変わるだろう。しかしカルロッタは母親の非難が真実であると認めたり、議論もせずにこの問題の幕引きをはかるつもりはなかった。母親がしていた非難には反論しきれない点があった……弁解できなかった。
「カルロッタ・ヒバーデル、あなたは私が知る中で最も厚かましい人だわ! とんでもない嘘つきね。私が知ってるってことをあなたは知ってるくせに、どうしてそんなところに立って、私の目を見てこんなことが言えるのかしら? どうして余計な嘘までつくのかしら? ねえ! カルロッタ、恥を知りなさい。せめてあなたが多少なりとも名誉をわきまえてさえいたら! どうすればそんな嘘がつけるのかしら? どうすればつけるの?」
「私は嘘なんかついていません」カルロッタは言い張った。「お母さんこそ騒ぐのをやめてほしいわ。お母さんは私を見ていません。自分が見なかったことは自分でわかってるでしょ。私は自分の部屋から出てきたのよ。お母さんは正面の部屋にいたのよ。どうしていなかったって言うの。お母さんは私を見ていません。仮に私が嘘つきだというのなら、あなたの娘だからよ。私は恥知らずかもしれないわ。でも自分でそうなったんじゃない。今回のことに私は絶対に関係ないわ。たとえ私が何であろうと、私は欲しいものを正々堂々と手に入れるわ。私の人生はバラ園ではなかった。お母さんはどうしてくだらない闘いを始めるの? 疑い以外には続ける材料もないくせに、こうして騒ぎを起こしたがるなんて。お母さんが私をどう思おうと構わないわ。この件で私は無実だもの。お母さんは好きなように考えればいいわ。確信もないのに私を非難したことを恥じるべきよ」
カルロッタは窓まで行って外を見つめた。母親は首を振った。これほど厚かましいとは思わなかった。しかしそこが彼女の娘らしかった。カルロッタは父親と彼女自身の血を引いていた。興奮するとどちらも意地っ張りで頑固だった。同時に彼女は娘を気の毒に思った。カルロッタは彼女なりに有能な女性であり、人生にかなりの不満を抱いていたからだ。
「あなたがそれを認めようが認めまいが、あなたは自分を恥じることになるわ、カルロッタ」夫人は続けた。「真実は真実なんですから。それにこれであなたも少しは懲りたでしょう。あなたはあの部屋にいた。でも、この議論はよしましょう。あなたは細心の注意を払ってこれをやろうとして、やってのけたのよ。これだけは言わなくちゃね。あなたは今日中に自分のアパートに戻りなさい。そして、どこかよそに部屋を見つけ次第ウィトラさんにはここを出て行ってもらいます。もしもこれですむなら、もうこんなみじめな関係をあなたが続けることはなくなるわ。これを終わらせるために他にすることがなければ、私は彼の奥さんとノーマンに手紙を書くつもりでもいるわ。あなたはあの人のことを放っておくことね。あなたにウィトラ夫妻の仲を裂く権利はありません。それは人の道に反することだわ。恥知らずで良心のない女でもない限りそんなことはしません。今さら私からはあの人に何かを言うつもりはありません。でもここを出て行くことになるわね。あなたもよ。すべてが終った上で、あなたが戻ってきたいのなら来ればいいわ。あなたのことが恥ずかしいわ。自分のことも恥ずかしいけど。昨日あなた方二人にこの家を出て行くよう言わなかったのは私とデイヴィスのせめてもの気持ちよ。わかるわよね。これほど穏便に済まそうという気になったのも自分のことを思えばこそだわ。結局、あの人は私の恩を仇で返したわけね。でもね、あなたを責めてもあの人のことは責めません。だってもしあなたがちょっかいを出さなかったら向こうはあなたに見向きもしなかったでしょうから。よりによって私の娘が! しかも私の家で! あ、あ、ああ!」
さらに話は続いた……才気煥発な非難の応酬があった。ユージンはダメな奴で、カルロッタは恥知らずだった。もし自分の目で見なかったら、ヒバーデル夫人だってこんなことがありえるとは信じなかっただろう。もしカルロッタが改心しなかったらノーマンに言うつもりだ……同じ話を蒸し返して、次々に脅しをかけた。
「じゃ」夫人は最後に言い放った。「荷物をまとめたら今日の午後、街に帰るのよ。私はもう一日もあなたをここにおいておくつもりはありません」
「いいえ、そうはいかないわ」カルロッタは言われたことをじっくり考えながら平然と言い放った。厳しい試練になるが、今日出て行くつもりはなかった。「午前中、出かけるのよ。そんなに急いで荷造りするつもりはないわ。遅すぎるわよ。使用人じゃあるまいし、ここから出ていけと命じられるいわれはないわ」
母親は渋ったが折れた。カルロッタにやりたくないことをやらせることはできなかった。カルロッタは部屋に行ってしまった。じきにヒバーデル夫人は娘が歌を口ずさむのを聞いた。首を振るしかなかった。そういう人なのだ。ユージンが彼女の甘い言葉に惑わされたのも不思議ではなかった。惑わされない男性がいるだろうか?
第二十五章
このシーンの続きは待ち望まれなかった。ヒバーデル夫人は夕食のときにカルロッタとデイヴィスのいる前で、この家がしばらくの間、それもただちに閉鎖されることを発表した。夫人とカルロッタは九月と十月の一定期間をナラガンセットで過ごすつもりだった。カルロッタから事前に知らされていたユージンは、上手に驚いて見せてそれを聞き入れた。残念だった。彼はここでとても楽しい時間を過ごしていたのだ。ヒバーデル夫人は、カルロッタがユージンに話したかどうか確信が持てなかった。ユージンはとても無邪気に見えた。しかし夫人は、カルロッタはユージンに話していて、ユージンはカルロッタと同じように「それらしく振る舞っている」と見なした。デイヴィスにはあくまで自分の事情でこうしたいからだと告げてあった。デイヴィスは二人の仲を疑った。カルロッタとユージンが示し合わせていると確信するに至った仕草やちょっとした態度を見たことがあったからだった。デイヴィスはこれをそんなに悪いことだとは考えなかった。カルロッタは世慣れた女性であり、自立した人であり、「いい人」で、いつも彼に親切だった。彼女の邪魔はしたくなかった。おまけに彼はユージンのことが好きだった。一度冗談めかして「ねえ、ノーマンの手が届くなら彼の手も届くよね……きっと」とカルロッタに言ったところ
「あなたの出る幕じゃないわよ」と丁寧に返された。
その夜、嵐が到来した。華麗で、きらびやかな夏の嵐だった。ユージンはポーチに出てそれを見物した。カルロッタも現れた。
「あら、賢者さん」雷鳴が轟く中でカルロッタは言った。「ここではすべてお終いね。口を割っちゃだめよ。あなたがどこへ行こうと私は会いに行くわ。ここは最高だったのにね。あなたとお近づきになれてよかったわ。ねえ、浮かない顔しないでよ。母ったらね、あなたの奥さんに手紙を書くって言うのよ。しないとは思うけど。私が態度を改めたと思えば書かないわ。母のことは私がうまく誤魔化すわよ。でもしくじったわね。私、あなたに夢中なのよ、ジーニー」
カルロッタを失う危機にある今、彼女の美しさはユージンにとって特別な意味を持つようになった。彼女と親密になり、様々な状況で彼女を見てきて、その美しさだけでなく、知性や能力にも深い感銘を受けるようになった。ユージンの欠点の一つは、自分が称賛する人の中に、実物以上のものを見てしまいがちなことだった。自分の気分の中の架空の雰囲気をそういう相手に付与して、その中に彼にしかできないことをする能力を見出した。もちろんこれをする過程でユージンは、相手の虚栄心をくすぐって、相手の自信を呼び覚まし、相手に自分がユージンの前で夢見ただけの潜在的な能力や影響力の持ち主だと感じさせた。マーガレット、ルビー、アンジェラ、クリスティーナ、カルロッタ、みんなが彼からこの感覚を受け取っていた。彼女たちは彼と知り合ったことで自己評価を高めた。今ユージンはカルロッタを見てすごく残念でならなかった。彼女はとても落ち着いていて、話しやすく、とても有能で自立していように見え、近頃では彼の慰めになっていた。
「ああ!」ユージンは言った。「これはひどすぎる。残念でならない。あなたを失うのは嫌だ」
「失うもんですか」カルロッタは答えた。「失いっこないわよ。私がそうさせないから。やっと見つけたあなたを放すもんですか。こんなのどうってことないわ。会う場所くらい見つけられるわよ。できれば電話のあるところを見つけてね。いつ出て行くの?」
「すぐですよ」ユージンは言った。「明日の朝、休みを取ってさがしますから」
「気の毒なユージン」カルロッタは同情して言った。「ひどすぎるわ。でも気にすることないわよ。すべてうまくいくんだから」
カルロッタはまだアンジェラを計算に入れていなかった。ユージンはアンジェラがすぐに戻って来ると言ったが、もし来ても、共存が成立するかもしれないとカルロッタは考えた。アンジェラはここにてもいいのだ。カルロッタなら何らかの形でユージンを共有できるかもしれなかった。地上の他のどの男性よりもユージンと一緒に暮らしたいとカルロッタは考えた。
ユージンが新しい部屋を見つけたのは翌日の午前中の正午頃だった。ここにかなり長く住んでいたので、最初から部屋を手に入れる手立てはいくつか考えてあった。別の教会があり、図書館があり、村にはスペオンクの郵便局長や切符売りが住んでいた。まず郵便局長のところに行って、二つの家族を教えてもらった。一つはユージンを歓迎してくれそうな土木技師の家で、最終的に落ち着いたのはここだった。景色は必ずしも惹きつけられるほどではなかったが、すてきで、部屋も食事もよかった。妻がすぐに戻って来るので長くはいないかもしれないことを伝えた。アンジェラからの手紙はものすごくしつこくなっていた。
ユージンはヒバーデル邸で荷造りを終えて、失礼のないように退去した。ユージンが去った後でヒバーデル夫人はやはり考えが変わった。カルロッタはニューヨークのアパートに戻った。電話だけでなく速達郵便を使ってユージンと連絡をとり、彼が出ていった二日目の晩には手頃なホテルで落ち合うほどだった。アンジェラがすでにニューヨークに向かっているから今は何もできないとユージンが伝えたとき、カルロッタは二人のために別のアパートのようなものを計画していた。
ユージンがビロクシに残してから、アンジェラはとてもみじめな七か月を過ごしていた。ユージンがとても孤独でいることを想像したので心を痛め、同時に別居を後悔していた。ユージンと一緒にいた方がよかったかもしれない。兄弟から何百ドルか借りて、ユージンのそばで神経症の回復をめざす戦いをやり遂げた方がよかったかもしれないと後になって考えた。ユージンがいなくなったとたんにアンジェラは結婚を間違えたかもしれないと思った。何しろユージンはまわりの影響をとても受けやすかった……しかし彼の状態は、自分の回復以外のことに関心がない、とアンジェラが思うほどだった。その上、近頃のアンジェラに対するユージンの態度は、とても愛情深くて、ある意味では依存的だった。ユージンがいなくなってからのアンジェラの手紙はすべてが優しくて、このやむを得ない別居の悲しみについて語り、早く一緒にいられる日が来ることを願っていた。ユージンが孤独でさびしがっている事実が最後の決め手となり、彼が望もうが望むまいがそちらへ行くとアンジェラは手紙を書いた。
ユージンがそれまで完全に彼女から引き離されていたことや、新しい理想の相手を手に入れ、カルロッタに会って一緒にいることにしか興味がなかったことを除けば、アンジェラが来ても大した違いは生じなかっただろう。カルロッタの余裕のある資産状況、立派な服装、快適で贅沢なものへの慣れ……ユージンがこれまでに夢見た享楽を上回っていた……、自動車の活用、自由な消費活動……当然のようにシャンパンや高価な食べ物を購入した……、がユージンを眩惑、魅了した。こんなにすてきな女性が自分と恋に落ちるなんて、これはむしろ驚くべきことだとユージンは思った。さらに、彼女の寛容さ、ささいな慣習にとらわれないこと、人生や文学や芸術への造詣の深さは、アンジェラとは明らかに対照的であり、ユージンにはあらゆる点でカルロッタが希少な力強い存在に思えた。自由になってカルロッタを手に入れたいと心から願った。
九月のある晴れた土曜日の午後、アンジェラはこの変な状況にその身を投じた。彼女は死ぬほどユージンとの再会を待ち望んでいた。ユージンの将来を憂えるあまり、それがどんなものになろうと、それを分かち合うつもりで来ていた。彼女はてっきりユージンが病気で落ち込み、孤独にさいなまれていると思い込んでいた。ユージンの手紙には明るいところや楽観的なところがまったくなかった。当然のことながら、彼は自分がカルロッタと一緒に楽しんでいることをわざわざ告白しなかった。アンジェラを遠ざけておくために、資金が不足しているから彼女をここにいさせられないふりをしなければならなかった。カルロッタに売った絵がもたらした三百ドルのほぼ全額を、アンジェラが来る前に使い果たしていた事実がユージンを悩ませていた……もちろん不当ではなかった。さもなければ彼はそんなことはしなかっただろう。ユージンは良心の呵責に苛まれた。それは激しいものだったが、カルロッタといたり、アンジェラからの手紙を読んでるうちに治まった。
「僕はどうしちゃったんだろう」と時々自分に問いかけた。「僕は駄目な人間なんだと思う」ユージンは世界が自分をありのままの状態で見られないことを幸いだと考えた。
ここで述べておくべきであり、彼の行動の基礎を解明するのに役立つであろう、ユージン特有の欠点の一つは、彼が二重の視点……独自の分析力を基準にした状態……に悩まされていることだった。特に自己分析が、自分がどういうふうにやっているかを確認するために、絶えず自分を根こそぎにしてズタズタに切り裂くことを許していた。ユージンは他に用事がないと毎日、毎時間、井戸の蓋を外すように、自分の内面的な精神活動のベールを外して、その奥底をのぞき込んだ。彼が見たものは、あまり魅力的ではなく、かなり困惑させられるものだった。誠実な人間が動くようには動かない、いわば時計のような、その道徳的な特徴のどれもが広く認められている人間の基準に一致しない、機械の部品だった。ユージンは様々な例を見て、まともな人間は正直であり、生まれつき道徳を尊重する者もいれば、強い義務感に支配される者もいて、時にはこういう美徳や他の美徳のすべてが一人の人間に結びつけられることもある、という結論に達していた。アンジェラの父親はそういう人だった。シャルル氏もそういう人に見えた。ジェリー・マシューズ、フィリップ・ショットマイヤー、ピーター・マクヒュー、ジョセフ・スマイトとの付き合いから、彼らはみんな道徳面でかなりきちんとしている、と結論を出していた。彼らが誘惑に負けるところを見たことはなかったが、そういうところは想像した。保線技師のウィリアム・ハヴァーフォードや、この大手鉄道会社の管区担当技師のヘンリー・C・リトルブラウンような人物は、義務感や自分たちの生活慣習に忠実で、常に一生懸命働いて、今の地位を獲得したに違いないと思った。彼が日々そこの関係者という小さな視点から注意深く見守っていたこの鉄道システム全体が、義務感と信頼性が必要であることをはっきりと示しているように見えた。この会社で働く者は全員、健康であらねばならず、時計の針に合わせて自分の持ち場につき、与えられた仕事を忠実にこなさなければならなかった。さもなければ大惨事が起こっただろう。彼らのほとんどは長い苦難の労働の歳月を経て、車掌、エンジニア、現場監督、管区長など重要度の高いとても地味な地位に昇進した。もっと大きな才能か運に恵まれた者は管区担当エンジニア、部長、副社長、社長になった。彼らはみんなゆっくりと昇進した。義務感にしばられ、行動する力は疲れを知らず、正確で、思慮深かった。彼はどうだっただろう?
ユージンは自分の内面をのぞき込んだ。そこにはころころ変わる不確かな流れ以外何も見えなかった。下は真っ暗だった。お金の問題以外では自分は正直ではない、とユージンは思った……その理由をたびたび考えた。彼は誠実ではなかった。道徳を重んじなかった。絶えず彼を悩ますこの美への愛は、この世の何よりもはるかに大切に思え、これを追求し続けたら、既存の重要な他のすべてと衝突するように思えた。彼は、どこの男性も女性に夢中になる男性を、あまりよく思わないことに気がついた。たまの過ちなら、笑える欠点とか大目に見られるものとして冗談で済ませるかもしれないが、過ちに支配された男性とはあまり関わりたがらなかった。最近、スぺオンクの鉄道操車場で、妻を捨ててホワイトプレインズの娼婦に走った現場監督の事件があったが、男はこの不祥事のせいで即刻解雇された。しかしこれ以前にも時々こういう不祥事があって、その都度解雇されていたらしいが、後で許されていた。他に欠点はないのにこの一つのために、彼は鉄道員の仲間内で評判が悪かった……飲んだくれが持つ悪評と同じだった。いつだったかエンジニアのビッグ・ジョン・ピーターズが内緒でユージンに「エド・ボワーズは陰でこそこそやっているからしくじるぞ」と耳打ちしたとき彼は状況を言い当てていた。陰でこそこそと言えば地元では女を表していた。みんなが彼を情けなく思い、その男も一応自分を情けなく思っているようだった。職場に復帰したとき、きまり悪そうな様子だったが、これを除けば彼がかなり有能な現場監督であることをみんなが知っていた。それでも、彼はどうにもならないだろう、と広く理解されていた。
このことから、この異常な欠点に呪われた者はどうにもならない、このまま続けていたら自分は駄目になる、とユージンは自分に言い聞かせた。飲んだくれや泥棒と同じで、世間はこれに顔をそむけた。それはこういうものと密接に関連していることがとても多かった……所詮は同類なのだと思った。しかしユージンはそれに呪われていて、エド・ボワーズと同じように、それを克服できそうもなかった。少なくとも以前と同じように今もそれに屈していた。彼が選んだ女性が稀に見る美貌と魅力の持ち主であることが問題なのではなかった。女性が複数だった。複数の女性を求めてもいいのだろうか? 一人いるのに。ユージンは、その女性を愛し大事にしますと厳粛な誓いを立てていた。少なくともそういう誓いの形式的手続きを踏んでいた。なのに彼はここで、その女性の前にクリスティーナやルビーとしたようにカルロッタと遊び回っていた。彼はいつもこうやって誰かこういう女性を探していたのではなかっただろうか? 確かに探していた。富や名声、高潔や貞潔や非の打ちどころのない道徳的な名誉を求めた方がはるかにいいのではないだろうか? 確かにその方がよかった。才能があるなら、それは成功への道だった。なのに彼はここでその道をとらず他のことをしていた。良心が彼の前に立ちはだかった。良心は薄情な利己心にも修正されなかった。恥を知るがいい! この美の幻想から立ち直れない自分の軟弱な性根を恥じるがいい。内省のときに浮かんだことの中には、こういうものもあった。
その一方で、彼の二面性のもう一つの側面……天界でも深淵でも照らす恐ろしい知性のサーチライトを、まるで巨大な白い光線のように問題の別の側面に向ける能力……が発動した。それは自然の不可解な機微や見た目の不当さを常に明らかにした。彼は、どのようにして大きな魚が小さな魚を捕食し、強者が常に弱者を駒として利用するかや、泥棒、収賄犯、人殺しが時には何の妨げもなく社会を食い物にすることを許されているのを、見ずにはいられなかった。善は必ずしも報われない……仇で返されることも多かった。時には悪が見事に栄えるのが見受けられることもあった。悪が罰せられると言うのはかまわないが、果たしてそうだろうか? カルロッタはそう思わなかった。自分がユージンとやっていることがそんなに悪いことだとは思わなかった。これは解決のつかない問題だし、あなたは良心の呵責に悩まされている、と何度も彼に言っていたし、「私はそんなに悪いとは思わないわ」と一度言ったことがあった。「そういうのって、どんなふうに育てられたかによって、ある程度左右されるのよ」社会には確かに制度があるようだったが、それがうまく機能していないようでもあった。宗教につかまるのは愚か者だけだった。宗教は押しつけがましく、金に汚く、嘘偽りだった。正直者はとても立派かもしれないが、あまり成功してはいなかった。道徳のことで大騒ぎするわりに、ほとんどの人は道徳に違反していたり無関心だった。どうして心配するの? 自分の健康に目を向けなさい! 病的な良心に負けちゃだめよ。カルロッタはこう忠告した。ユージンは彼女の意見に賛成した。あとは、一番適しているものが生き残ればいいのだ。なぜ気に病まねばならないのだろう? 才能があるというのに。
こんなふうにユージンはあれこれともがいていた。アンジェラが到着したときは、思い悩んでいる憂鬱な状態だった。考え事をしていないときは、時々これまでのように陽気だったが、体は痩せ細り、目がうつろだった。アンジェラはこんな状態が続くのは過労と心配事のせいだと想像した。どうして彼のもとを去ってしまったのかしら? かわいそうなユージン! アンジェラはユージンからもらったお金を必死に守って、彼の介護にすぐ使えるようにそのほとんどを持参していた。ユージンの回復と心の平穏をひたすら願っていたので、彼の行く道をもっと楽にするためにも、見つけられたことは何でもやる覚悟だった。運命はユージンにひどく不公平だとアンジェラは考えていた。最初の夜は、彼が隣で眠りにつくと、一睡もせずに泣き明かした。かわいそうなユージン! 運命にこうも苦しめられるとは。とはいえ、彼女の力で防げるものなら、彼が苦しむことはないのではないか。アンジェラはできる限りユージンを快適で幸せにするつもりだった。二人が平和に暮らせて、そこで自分がユージンのために食事を作ってあげられるような、すてきで小さなアパートか部屋を探し始めた。もしかしたら食事が適切ではなかったのかもしれないとアンジェラは思った。彼女が見せかけでもいいから自信と勇気を示せる状態にユージンを持って行くことができれば、ユージンは彼女から勇気をもらって元気になるだろう。そこでアンジェラはユージンを甘やかしながら、元気に自分の仕事をこなした。何よりもこれがユージンに必要なことだと信じたからだった。このすべてがユージンにどれほど茶番に見えたか、彼自身が本人の目にどれほど卑劣で軽蔑すべき存在に見えたか、アンジェラはろくに疑いもしなかった。ユージンは卑劣でいたくなかった……いきなりアンジェラを幻滅させて勝手なことをしたくなかった。しかしこの二重生活は彼を苦しめた。ユージンはとても多くの点から見て、アンジェラの方がカルロッタより優れていると感じざるを得なかった。しかしカルロッタの方が、視野が広く、見た目も優雅で、威厳があり、繊細だった。彼女は世界の王女であり、狡猾で、とんでもない策士だが、それでもやはり王女だった。アンジェラは当時使われていた褒め言葉で表現した方がぴったりだった……「どこまでもよく出来た女性」だった。誠実で、活気があって、気が利き、あらゆる面で民族精神や当時の伝統的価値観に従順だった。ユージンは、社会がアンジェラを全面的に支持し、カルロッタを非難することを知っていたが、それでもカルロッタの方が彼の関心を掻き立てた。両方とも手に入れて何の騒ぎも起きなければいいことを願った。そうすればすべてが丸く収まるのだ。ユージンはそう思った。