第11章~第18章
第十一章
アンジェラがユージンの二枚舌の最初の証拠に出くわしたのは、トランクの荷造りをしてワシントンスクエアのアパートを離れようとしていた時のことだった。(デクスター氏が引き続き留守にするため、二人は部屋の明け渡しを強いられなかった)。ユージンは自分の芸術に関係する事以外は何事にも異常なほど無頓着だったため、ルビー・ケニーからのたった一通の手紙はもちろんのことクリスティーナ・チャニングから過去に何通か受け取った手紙まで、かつて便箋が入っていた箱に入れて、トランクの隅に無造作に放り込んでいた。どこか見つからない場所へしまったつもりだったが、このときには手紙のことをすっかり忘れていた。アンジェラは、中にあったいろいろなものを広げ始めたときにこの箱を見つけて開け、手紙を取り出した。
この時、ユージンに関係がある物事への好奇心は、アンジェラの人生を支配している特徴だった。彼女はユージンと自分を結びつけるこの関係を抜きにしては、考えることも判断することもできなかった。彼と彼の問題は、まさに彼女の存在のすべてであり本質だった。アンジェラは怪訝そうに手紙を見て、それから一通を開けてみた……最初のはクリスティーナからのものだった。日付はアンジェラがブラックウッドで辛抱強くユージンを待っていた三年前の夏で、フロリゼルとあった。手紙は決り文句で始まった……「親愛なるユ……」しかしすぐに明らかな恋愛関係に話が及んだ。「今朝、アルカディでダイアナかアドニスの痕跡にひょっこり出くわしはしないかと見に行きましたが、大したものはありませんでした。ヘアピンが一、二本、夏のブラウスの壊れた真珠色のボタン、ある天才がスケッチで使った鉛筆の残りがあっただけです。木々は極力、妖精や木の精を意識しないでいるようでした。柔らかい芝生はどんな歩き方をしてもまったく乱れません。木々や森がどれほど物知りで自分の考えを明かさないか、不思議です。
今、暑い都会はどんな様子ですか? あのゆらゆらと揺れたハンモックが恋しくありませんか? ああ、木の葉や露の匂いがしましたね! あまり根を詰め過ぎないように。あなたには気楽な未来とありあまる活力があるのですから。もっと休息をとって、もっともっと気楽に考えましょう。幸運をお祈りします……ダイアナ」
アンジェラはすぐにダイアナとは誰だろうと考えた。この手紙を読み始める前に、彼女は次のページで署名を探していた。これを読んだ後は、名前を探し求めて夢中で次から次へと急いで手紙に目を通した。署名はなかった。「山のダイアナ」、「木の精」、「森の妖精」、「C」、「C C」……といったものがアンジェラを混乱させ、悩ませ、怒らせながら、続々と出てきて、突然明らかになった……少なくとも女の名前だった。それはフロリゼルに来るように誘うボルチモアからの手紙にあった……「クリスティーナ」
「ああ」アンジェラは考えた。「クリスティーナ! これはあの女の名前だ」女の名字の手掛かりが何か見つかることを期待しながら急いで残りの手紙を読む作業に戻った。アンジェラが軽蔑したその文面にはどれも同じ特徴があった……尊大で、体裁屋、芸術家特有の性格の悪い、偽善的で、もったいぶった物言いの、見せかけだけの大物ぶったところがあった。アンジェラはあの時からどれほどこの女を嫌っていただろう。どうすればこの女の喉をつかんで、この女が言った木々に頭を叩きつけてやれただろう。ああ、恐ろしい女だ! 何て大胆な女だろう! そしてユージンまで……どうして彼にそんなまねができたのだろう! アンジェラの愛に対して何という報い方だろう! 彼女のすべての献身に対して何という応え方をするのだろう! アンジェラが辛抱して待っていたまさにそのとき、ユージンはこのダイアナと一緒に山にいたのだ。ユージンがろくに気にもしなかったとき、明らかにこのときずっとろくに気にもしていなかったのに、アンジェラは小さな奴隷のように、ここで彼のためにトランクに荷物を詰めていた。どうすればユージンは彼女を気遣ったり、このようなことができたりしたのだろう! 気遣っていなかったのだ! 気遣ったことは一度もなかったのだ! 神さま!
アンジェラは、自分の最大の特徴である強い感情と悲嘆からなるあの狂乱状態に突入しながら、劇的に手を握ったり開いたりし始めた。突然、手がとまった。もっと安物の紙で違う筆跡の別の手紙があった。「ルビー」という署名があった。
「親愛なるユージン」……アンジェラは手紙を読んだ……「あなたの手紙は何週間か前に受け取っていたのですが、今まで返事を書く気持ちになれませんでした。私たちの関係が何もかも終ってしまったのはわかっています。それは構いません。仕方のないことだと思いますから。あなたはどんな女性のことも長く愛せないと思います。自分の活動領域を広げるためにニューヨークへ行かなければならなかったというあなたの言葉は本当だとわかっています。そうするべきです。でも私はあなたが来てくれなかったのが残念です。あなたは来てくれたのかもしれませんが。それでも私はあなたを責めません、ユージン。しばらくの間続いていたことと大して違いませんから。私は好きでしたがそれを乗り越えます。今後はあなたを真剣に考えないようにします。私が時々あなた送った手紙と私の絵は返してくれませんか? もうあなたにはそんなものいらないでしょうから。……ルビー」
「昨夜窓辺に立ち、外の通りを眺めました。月は輝いていて、枯れ木が風に吹かれて揺れていました。原っぱの水溜りに浮かぶ月を見ました。銀色に見えました。ねえ、ユージン、私、死んでしまいたい」
アンジェラはこれを読んで(ユージンと同じように)立ち上がった。どういうわけかこの悲哀が自分の気持ちと重なって、胸をえぐられる思いがした。ルビー! 誰なんだろう? 自分がシカゴに来ている間、彼女はどこに隠されていたのだろう? これは婚約していた秋から冬にかけてのことだろうか? きっとそうだ。日付を見ればいい。ユージンはあの秋、私の指にダイヤモンドの指輪をくれたのに! 永遠の愛を誓ったのに! 世界中どこにも私のような女性はいないと誓っておきながら、その最中にあろうことか明らかにこの女を口説いていたのだ。まさか! こんなことが実際にあるだなんて! ユージンは私を愛していると言っておきながら、同時にこのルビーとも恋愛をしていた。ユージンは私だけでなくルビーにもキスや愛撫をしていたのだ! これまでにもこういう状況があったのだろうか? ユージン・ウィトラはこうやって女性をだますのだ。ニューヨークに来たときに、私を捨てたくなっても不思議ではなかった。このルビーを扱ったように私のことも扱うつもりだったのだろう。それにクリスティーナ! このクリスティーナにも! 彼女はどこにいるのだろう? 何者だろう? 今はどうしているのだろう? ユージンのところへ行って彼の非道を告発する覚悟で飛び起きたが、彼がアパートにいないことを思い出した……散歩に出かけていた。今は病気で、かなりひどかった。こういう責められても仕方がない話を持ち出して、彼を責める勇気が彼女にあるのだろうか?
アンジェラは仕事をしていたトランクに戻って腰をおろした。この時のアンジェラの目は険しく冷たかったが、同時に恐怖と苦悶の愛情を感じさせるものがあった。安らかさに包まれた普段の顔は、聖母の特徴にとても良く似ていたが、今は引きつり、険があり、青ざめていた。明らかにクリスティーナはユージンを捨てていた。あるいは二人はまだ密かに連絡を取り合っているかもしれない。そう考えるとアンジェラは再び立ち上がった。しかしこれらの手紙は古かった。まるですべての手紙のやりとりが、二年前に途絶えたかのようだ。ユージンは女にどんなことを書いたのだろう?……愛情を書きつづっていた。アンジェラに書き送ったような口説き文句でいっぱいの手紙だった。ああ、男性の移り気、不誠実、責任感や義務感の欠如。アンジェラの父親とは大違いだった。彼女の兄弟は自分の言葉に嘘偽りがなかった。そして彼女は、最高に熱烈な求婚期間中でさえ相手を騙していた男とここで結婚した。彼女もまた彼に堕落させられていた……家名を汚してしまった。しばらくすると涙が出てきた。頬を焦がす熱い焼けるような涙だった。そして今、彼女は彼と結婚し、その彼は病気だった。彼女はこれを最大限に活かさなければならなくなるだろう。アンジェラはこれを最大限に活かしたかった。結局、彼女はユージンを愛していた。
ああ、このすべてが残酷、不誠実、薄情、野蛮だった。
この発見の後、数時間ユージンが外出していたおかげで、アンジェラは適切な活動方針を考える十分な時間が取れた。アンジェラは他人の意見や自分の愛情の影響をもろに受け、この男の才能にも感銘を受けていたので、この惨めさから自分の魂を救い出し、なおかつ彼を彼の邪悪な性癖から解放し、彼の情けない経歴を彼に恥じ入らせ、彼が自分にどれほどひどい仕打ちをしたのかと、彼がどれほど悔い改めるべきかを彼にわからせる方法以外は、すぐに何も考えられなかった。アンジェラはユージンに申し訳ないと感じてほしかった。苦しみの中でずっと後悔しながら申し訳なかったと感じてほしかった。しかし同時に彼にそれをさせることが自分にできないことを恐れた。人生を考えるときのユージンはとても霊妙で、まわりに無頓着で、あまりにも夢中になりすぎたので、アンジェラのことを考えるように仕向けさせることができなかった。アンジェラはこれに不満だった。ユージンには他に彼女に優先する神々がいた……自分の芸術という神、大自然という神、見世物としての人々という神。この一年間アンジェラはこのことで何度もユージンに不満を訴えた……「あなたは私のことを愛してないんだわ! 愛してないのよ!」するとユージンは答えた。「いや、愛してるよ。だけどずっときみと話をしてはいられないよ、エンジェルフェイス。僕にはやるべき仕事があるからね。僕の芸術は磨き上げられなきゃならないんだ。僕はずっと恋愛にかまけてはいられないんだよ」
「いえ、そうじゃないわ! そういうことじゃないの!」アンジェラはいきりたって叫んだ。「あなたは全然私を愛していないわ、そうであるべきようにはね。あなたは気にもかけていないわ。もしあなたにその気があれば私はそれを感じるもの」
「ああ、アンジェラ」ユージンは答えた。「どうしてそういう話をするんだい? どうしてそうやって騒ぎたてるのかな? きみは僕が今まで知った中で一番おかしな女の子だよ。そろそろ分別をもってもらいたいな。少しは持つべき哲学を持って臨んだらどうだい? 僕たちは年がら年中べたべたしてはいられないんだよ!」
「べたべたですって! それがあなたの考え方なんだわ。それがあなたの話し方なんだわ! それってまるでやらなきゃならないことみたいだわ。ああ、愛なんか嫌い! 人生なんか嫌い! 哲学なんか嫌いよ! いっそ死ねたらいいのに」
「ねえ、アンジェラ、いったい、どうしてそんなに興奮するんだい? 僕はこんなの我慢できないよ。きみのこういう癇癪には耐えられないんだ。道理も何もあったもんじゃないからね。僕がきみを愛してることはわかってるだろ。それとも、僕は愛情を見せたことがなかったかな? もし愛してなかったら、どうして僕はきみと結婚しなきゃならなかったんだい? きみと結婚する義務なんかなかったのに!」
「まあ、あなた! あなたは!」アンジェラは両手を握り締めてすすり泣いた。「ああ、あなたは本当は私を愛してないんだわ! 気にもしていないわ! そして、これはこの調子で続いて、どんどん悪化して、愛と感情はますます少なくなって、しばらくしてあなたがもう私に会いたくなくなるまで……私を嫌いになるまで続くのよ! ああ、あなた! あなた!」
ユージンはこの朽ちかけた愛の絵の中に悲哀を鋭く感じた。現に、彼女の幸せの小さな船を襲うかもしれない災いに対する恐怖には十分な根拠があった。ユージンの愛情はなくなるかもしれなかった……それは今、その言葉の本当の意味での愛情でさえなかった……彼女と一緒にいたいと願う情熱的で知的な欲望だった。現にユージンはアンジェラの精神や、考えの美しさに惹かれてアンジェラを愛したことがなかった。考えているうちに、自分が知的な工程を経てアンジェラと理解に到達したことが一度もなかったことに気がついた。それは感情か潜在意識のもの、明らかに理性や思考の精神性ではなく、もっと粗雑な感情や欲望に基づいた自然な結びつきだった。肉体的な欲望が関係していた……強く、激しく、抑えきれないものだった。そしてどういうわけかユージンはいつもアンジェラを気の毒だと感じていた……いつもそうだった。彼女はあまりにも小さかった。災いをとても意識して、人生とそれが彼女に何をもたらすかをとても恐れていた。彼女の希望や願望を台無しにすることは恥であった。同時にユージンは、彼が彼自身にもたらしたこの束縛を今では後悔していた……このくびきは彼が自分の首にかけてしまったものだった。彼はもっとずっとうまくやれたかもしれなかった。裕福な女性か、クリスティーナ・チャニングのような芸術を理解し哲学的見識を備えた女性と結婚して、一緒に平和な幸せを築いたかもしれなかった。アンジェラには無理だった。本当はアンジェラを十分にすばらしいとは思わなかったし、まともに構うことができなかった。こういうときに彼女をなだめて、彼女の不安には何も根拠がないことを信じさせようと努力し、すべてがうまくいっていないという彼女の潜在意識的な直感に共感しているときでさえも、彼は自分の人生がどれくらい違うものになりえたかを考えていた。
「そんな終わり方はしないよ」ユージンはなだめた。「泣くのはおよし。さあ、泣かないで。僕らはとっても幸せになるんだから。今きみを愛しているように、僕はこれからもずっときみを愛していくよ。きみも僕を愛してくれるだろう。それでいいじゃないか? さあ、さあ、元気を出すんだ。そんなに悲観的にならないで。さあ、アンジェラ。お願いだ。頼むよ!」
アンジェラはしばらくすると明るくなるが、発作的な不安や憂鬱に襲われることがあった。これはよくあることで、どちらも全然予期していないときに、夏の嵐のように突然始まりがちだった。
この手紙の発見は、今、ここには優しさ以上のものがあるかもしれないという、アンジェラが時々自分をごまかそうとするときに使った感情の確認になった。この手紙は、そんなものはないという彼女の疑念を裏付けて、何度も悲惨なまでに彼女を打ちのめしたあの敗北感と絶望感をもたらした。ユージンが悲惨な精神状態にあったために彼がアンジェラのひたむきな配慮と心遣いを必要としたときにもこれがあった。今、アンジェラをユージンと喧嘩させ、癇癪を起こさせ、荒れ狂わせ、彼女を慰める作業まで強いることは、かなりつらい負担になっていた。ユージンはそんな気分ではなかった。自分を傷つけずにこれに耐えることはとてもではないができなかった。彼は陽気な雰囲気を求めていた。自分から自分を引き離して自分を完全体にしてくれる愉快な楽観主義を見つけたいと願っていた。ユージンはノルマ・ホイットモアや、舞台で活躍中のイサドラ・クレーンや、モデルでありながらとても活発に知性の自然な魅力を備えたヘダ・アンデルセンをぶらっと訪ねて会うことが珍しくなく、ミリアム・フィンチとも時々会った。フィンチは彼がそこにいた事実をいちいちアンジェラに隠そうとしなかったが、彼がひとりなのを見ると喜んだ。これこそほとんどアンジェラに対する反発の証拠のようなものだった。ユージンは何も言わなかったが、他の人たちは、アンジェラが一緒に来なかったので、ユージンは何も言われたくないのだと決めてかかって、彼の願いをくみ取った。彼らは、ユージンが結婚に失敗して、おそらく芸術か知性の面で孤独を託っているのかもしれないと考えがちだった。彼らは皆、ユージンの健康状態の悪化に気がついてかなり心配して悲しんだ。もしこの時期に彼の健康が彼を破滅させるとしたら、あまりにもひどすぎる、とみんなが考えた。ユージンは、アンジェラがこういう知人巡りに気づくのではないかと怯えて暮らした。まず第一にアンジェラは自分を連れて行かなかったことに憤慨するだろうし、次に、もし最初に提案したとしても、反対するか、別の日を設定するか、無意味な質問をしただろうから彼女には話せないと思った。ユージンは、何も言わず、何も言う必要を感じずに、好きなところに行く自由が好きだった。かつての結婚前の自由にあこがれた。ちょうどこの頃は芸術的な仕事ができず、気晴らしや楽しい芸術についてのおしゃべりが必要だったため、特に惨めだった。人生がとても暗く醜く見えた。
ユージンはいつものように自分の境遇に落ち込んで戻りながら、アンジェラが一緒にいることに慰めを見出そうとした。二人のいつものお昼の食事の時間の一時に現れて、アンジェラがまだ働いているのを見つけたので言った。「なんだ! でも始めたからには続けたいよね? きみはいつもこつこつ働いてくれるよ。かなり大変なんだろ?」
「いいーえ」アンジェラは怪訝な顔で答えた。
ユージンはその声の調子に気がついた。アンジェラはあまり体力がないのでこの荷造りで気が立っているのだと思った。幸いなことに、家財道具の大半はこの部屋のものだったから、扱うトランクは数個しかなかった。それでもアンジェラが疲れていることに間違いはなかった。
「かなり疲れてるのかい?」ユージンは尋ねた。
「いいーえ」アンジェラは答えた。
「そう見えるけどね」ユージンはアンジェラにそっと腕をまわしながら言った。彼が手で上を向かせたその顔は青白くてひきつっていた。
「身体は何でもないわ」アンジェラは悲しみに打ちひしがれてユージンから顔をそむけて答えた。「心の問題よ。ここよ!」と心臓をおおうように手をおいた。
「今度はどうしたんだい?」どうせ虫の居所でも悪いのだろうと疑って尋ねてみたが、それが何なのかはさっぱり思いつかなかった。「心臓が苦しいのかい?」
「本物の心臓じゃないわよ」アンジェラは答えた。「私の心の問題、私の感情よ、でもそれが問題なんだとは思わないわ」
「今度はどうしたんだい、エンジェルフェイス」ユージンはアンジェラを気の毒に思うあまり粘り強く尋ねた。彼女のこの感情的な能力には彼を動かす力があった。これは演技だったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。悲しみは本物かもしれないし、想像の産物かもしれない……いずれにせよ彼女にとっては本物だった。「何があったんだい?」ユージンは続けた。「だだ疲れてるだけじゃないかな? こんなことはやめて、どこかへ出かけて何か食べようよ。そうすれば気分だってよくなるよ」
「だめよ、食事が喉を通らないわ」アンジェラは答えた。「もうやめて、あなたのお昼の支度をするわ。でも私は何も欲しくないの」
「なあ、どうしたんだい、アンジェラ?」ユージンは食い下がった。「何かあったんだよね。それは何なんだい? きみは疲れているか、病気か、何かが起こったんだ。僕がしたことが関係するのかな? 僕を見てごらん! そうなんだね?」
アンジェラはうつむいたままユージンから離れた。どう切り出したらいいのかわからなかったが、できることならユージンにものすごく後悔させたかった。自分が味わったのと同じくらいの思いをさせたかった。後悔すべきだと思った。もしユージンに恥や思いやりを感じる本物の感情があったなら後悔するだろうと思った。彼の恥知らずな過去を前にしたアンジェラの状態はひどいものだった。アンジェラには自分を愛してくれる人が誰もいなかった。頼れる人が誰もいなかった。彼女の家族ですらもう彼女の生活はわからなかった……がらりと変わってしまったからだ。アンジェラはもう別人だった。以前よりも大物で、重要人物で、有名人だった。ここニューヨーク、パリ、ロンドン、そして彼女が結婚する前のシカゴやブラックウッドでユージンと共にした経験が彼女の視点を変えてしまった。アンジェラは、自分の考えはもう以前と同じではないと思った。そして、こうして自分は感情的に捨てられた……本当は愛されていなかった、本当はこれまで一度も愛されたことがなく、ただの人形かおもちゃにされただけだった、と気づいてとてもつらかった。
「ああ、あなた!」アンジェラは甲高い歯切れのいい声で叫んだ。「私、どうしたいいのかわからない! 何って言ったらいいのかわからない! 何を考えていいのかわからない! せめて何を考えればいいのか、何をすればいいのかがわかればいいのに!」
「どうしたんだい?」ユージンはつかんでいた手を離して、考えをある程度アンジェラだけでなく自分や自分の状況にも振り分けながら尋ねた。ユージンの神経はこの感情的な癇癪のせいで限界に達した……かなり頭が痛かった。手まで震えた。心身ともに健康なときなら問題はなかった。しかし、病気になり、彼の想像によれば心臓が弱っていて、ほんのささいな衝突で神経がイライラし始めた今のようなときは、ほとんど彼には耐えられなかった。「どうしてきみは普通に話さないんだい?」ユージンは強く言った。「僕がこれに耐えられないことは知ってるよね。体調が悪いんだ。一体何なんだい? こんなやり方をして何になるんだい? 説明してくれるんだろうね?」
「それよ!」アンジェラは窓台によけて置いていた手紙箱を指で差して言った。ユージンがそれを見ればそれが何かをすぐに思い出すだろうとアンジェラは見越していた。
ユージンは見た。箱を見てすぐに思い出した。ユージンは緊張して箱を恐る恐る手に取った。これは抵抗する力のない顔面に一撃を喰らったも同然だった。彼のルビーやクリスティーナの扱い方の異様な性質のすべてが、当時の彼に見えたようにではなく、今のアンジェラにそう見えているようによみがえった。アンジェラは彼のことをどう考えただろう? ここでユージンは、僕はきみを愛している、きみと一緒に暮らせて幸せであり満足している、僕に気があるのを知ってきみが過度に嫉妬している他の女性たちの誰にも僕は関心を持っていない、僕はいつもきみを、きみだけを愛している、とずっと言い続けていた。それなのにこの手紙が突然明るみに出て、これまでのすべての主張や断言を嘘にしてしまった……彼を卑怯者か、悪党か、自分でもわかっている貞操泥棒のように見せた。アンジェラの無知と認識不足につけ込んだ仲良しという暗闇から引きずり出されて、明確な証拠という白日の下にさらされたユージンは、どうすることもできずに目を凝らし、神経過敏で震え、頭痛がしていた。何しろ彼は本当に感情的な議論に対応できる状態ではなかった。
おまけにアンジェラは今泣いていた。ユージンから離れて、マントルピースによりかかり、胸が張り裂けんばかりに泣きじゃくっていた。その音には本物の説得力を持つ痛ましさがあった……その震え方は彼女が感じた喪失感、敗北感、絶望感を表していた。ユージンは、なぜこんなものをトランクに残すほど自分は間抜けだったのだろうと不思議に思いながら箱を見つめていた。
「こればかりは何とも言いいようがない」ユージンはアンジェラのところまで歩きながら最後に言った。言えることが何もなかった……それを彼はわかっていた。ユージンはものすごく後悔した……アンジェラにはすまないと思い、自分でも後悔した。「全部読んだのかい?」気になって尋ねた。
アンジェラはそうだとうなずいた。
「でもね、クリスティーナ・チャニングのことはあまり気にかけてはいなかったんだ」ユージンは否定的に言った。何か言いたかった。アンジェラの落ち込んだ気分を和らげそうなことなら何でもよかった。どうせ大したことでないことはわかっていた。このどちらの関係も重要なものではなく、彼の関心や反論は軽い女遊びのようなものだった、とアンジェラに信じさせることさえできればよかったのだが。しかしルビー・ケニーの手紙を読めば、ルビーが必死に彼を慕っていたことがわかった。ルビーのことでユージンは何も反論できなかった。
アンジェラはクリスティーナ・チャニングという名前をはっきり見て、脳裏に焼きつけておいた。これは時々ユージンが敬意のこもった感じで口にするのを聞いたことがある女性の名前だと今、思い出した。ユージンはアトリエで、彼女がどれほどすてきな声をしているか、どれほど魅力的な舞台の存在感があるか、どれほど感情豊かに歌うことができるか、どれほど知的に人生をとらえているか、どれほど美しく見えるか、いつかどうやってグランドオペラへ戻ってくることになるか、などを話したことがあった。なのに彼はその女と山にいた……アンジェラがブラックウッドで辛抱強く彼を待っている間、彼はその女と愛し合っていた。これは瞬時にアンジェラの胸にあった好戦的な嫉妬心をかきたてた。これは彼女のまわりで続いているように見えた陰謀や策略をものともせずに、彼を守り抜こうとかつて彼女に決意させたのと同じ嫉妬だった。あんな連中にユージンをわたしてなるものか……あの意地の悪いお高くとまった芸術家ども……あの連中が束になってユージンを奪おうとしても、あの中の誰にも、まとまったすべてにもわたすものか。アンジェラが東部にきてからずっと、彼らは彼女にひどい扱いをしていた。ほぼ一様に彼女のことを無視していた。当然、彼らはユージンに会いに来る。そしてユージンが有名になった今、彼らはユージンに対しては、いくら親切にしてもしすぎることはなかったが、まあ、アンジェラには特に用はなかった。アンジェラはこういう目に遭ったことがなかった! 彼らの目にあった批判的な、偽善的な、品定めでもするような表情を彼女は見たことがなかった! アンジェラには十分な知性がなかった! 文学や芸術を十分にわかっていなかった! 人生については彼らと同じくらい、あるいはそれ以上に……十倍くらい……詳しかった。それなのに、ふんぞり返って歩いたり、すましたり、じろじろ見たり、作り声で話せなかったので、彼らは自分たちがまさっていると思った。そして、哀れな生き物、ユージンもそういう態度だった! 傲慢! 安っぽくて、下品で、感じ悪い、自分本位の成り上がり者ども! そもそも彼らの大部分は何も持っていなかった。よく見ると彼らの服はただのぼろい服に飾りをつけただけだった……仕立ては雑で、素材も粗末で、ただ一緒に吊り下げられただけだった。それなのにそんなものをあんなに堂々と着ていた! アンジェラもそういうのを見せるつもりだった。いつかユージンが余裕を持つようになったときに、彼女も着飾るつもりだった。今それをやっている最中だった……初めて来たときよりも盛んにやっていた。近いうちにもっと盛大にやるつもりだった。感じ悪い、下品で、安っぽい、自分本位の、見せかけのものを。そういうのを見せてやるつもりだった! ああ! アンジェラはこういうことがどんなに嫌だっただろう。
今、泣きながら、アンジェラはユージンがこの忌まわしいクリスティーナ・チャニングにラブレターを書けるという事実についても考えた……同じ種類の人間であることは間違いなかった。彼女の手紙がそれを示していた。ああ! アンジェラはどれほど彼女を嫌っていただろう! 毒を盛るためでなければ近づけないほどだった。アンジェラの嗚咽は怒りより悲しみの方がはるかに大きかった。ある意味で彼女は無力であり、それを自分でわかっていた。自分が感じたことをそっくりそのままユージンに見せる勇気はなかった。アンジェラはユージンのことが怖かった。彼は彼女を捨てるかもしれなかった。ユージンはアンジェラのすべてを我慢できるほど本当は彼女のことが大切ではなかった……それとも大切だっただろうか? この疑念は、これ全体を構成する恐怖と落胆と完全敗北の特徴だった……せめてユージンが大切に思ってくれたなら。
「泣かないでほしいな、アンジェラ」ユージンはしばらくしてから訴えるように言った。「これはきみが考えるほど悪いことじゃないだろ。悪く見えるけど、僕は当時結婚していなかったし、この人たちのことだって大して気にかけてはいなかった……きみが考えているほど本気じゃなかったんだ。本当に違うんだよ。きみにはそう見えるかもしれないが、本気じゃなかったんだ」
「本気じゃなかった!」アンジェラは突然逆上してあざ笑った。「本気じゃなかったですって! 一人はあなたをハニーボーイとかアドニスと呼んで、もう一人は死んでしまいたいと言っているのに、それって、あなたが本気じゃなかったように見えるのね。あなたが本気じゃなかったことを、みんなに納得させてもいい頃だわ。私はちょうどその時、ブラックウッドにいて、あなたが来るのを待ちわびていたわ。なのにあなたは山にいて他の女と愛し合っていたのよ。あなたの愛情の程がわかるわね。あなたが山で他の女と楽しいひと時を過ごしている間に、私を放ったらかしてつらい思いをさせて待ちぼうけをくわせることができた時点で、あなたは自分の本気度を見せたんだわ。『愛するユージン』、『かわいいハニーボーイ』、『アドニス』! それがあなたの本気度を物語ってるじゃない!」
ユージンはどうすることもできずに前を見つめた。アンジェラの辛辣さと逆上は、ユージンを驚かせ、苛立たせた。ユージンは、アンジェラがこの時に顔や言葉に見せた凄まじい怒りを抱けることを知らなかった。彼女が立派に正当化されていること以外は知らなかった。でも、どうしてこんなに辛辣なのだろう?……野蛮といってもいいのではないだろうか? ユージンは病気だった。彼女は病人に対して何の配慮もないのだろうか?
「きみが考えるほど悪いことじゃなかったって言ってんだろう」ユージンは初めて怒りと反発を少しにじませてぼそっと言った。「当時僕は結婚していなかった。クリスティーナ・チャニングが好きだった、ルビー・ケニーが好きだった。それが何なんだ? 今さらどうしようもないだろ。そのことで僕は何を言うことになるんだい? きみは僕に何と言ってほしいんだい? 僕に何をしてほしいんだい?」
「ああ」アンジェラは無力な非難の怒りから、自分を哀れむ惨めさを嘆く口調に一気に変えながら、すすり泣いた。「あなたはそんなところに立ってよく私に『それが何なんだ?』なんて言えるわね。それが何なんだ! それが何なんだ! あなたなら何て言うつもり? あなたなら何て言うべきだと思うの? 私はあなたをとても高潔で誠実な人だと信じてたのに! ああ、知ってさえいれば! 知ってさえいれば! 目が覚めて自分が愛されていないことを知るくらいなら、百回溺れ死んだ方がましだったわ。ねえ、あなた、あなたってば! 私どうしたらいいのか自分でもわからないわ! 自分に何ができるのかわからないわ!」
「でも僕はきみを愛している」ユージンは、この恐ろしい嵐を静めてくれるなら何だって言ってやるし、やってやると思いながら、なだめるように断言した。どうしてこういう手紙をそのへんに放置するほど愚かでいられたのか、自分でもわからなかった。神さま! 彼は何というへまをしでかしたのだろう! 家の外で安全に保管しておくか、捨ててしまえばよかったのに! しかしユージンはクリスティーナの手紙を保管しておきたかった。それだけすてきだったからだ。
「ええ、あなたは私を愛してます!」アンジェラはカッとなった。「あなたがどれくらい私を愛しているのかわかってます。この手紙が教えてくれましたから。ああ、あなた! あなた! 私、死んでしまいたい」
「いいかい、アンジェラ」ユージンは必死に答えた。「この手紙がひどいものに見えるのはわかる。僕はケニーともクリスティーナ・チャニングとも恋愛をしたさ。だけどね、どちらも結婚するほど大切ではなかった。もし大切だったらしてたさ。僕が大切だと思ったのはきみなんだ。信じようが信じまいがね。僕はきみと結婚したんだ。なぜ僕はきみと結婚したのさ? それを答えてくれよ? きみと結婚する必要なんかなかったのにね。なぜ僕はしたんだい? きみを愛したからだよ、もちろん。他にどんな理由があるっていうんだい?」
「クリスティーナ・チャニングを手に入れることができなかったからよ」一つの重大事実から別の重大事実を推論する人の直観で、アンジェラは怒って言い放った。もし手に入れることができていたら、してたでしょう。わかりきったことだわ。彼女の手紙がそれを示しているもの」
「彼女の手紙にそういうことは何も書かれていないだろ」ユージンは怒って答えた。「僕が彼女を手に入れることができなかっただって? やろうと思えば簡単にできたさ。僕は彼女を欲しくなかった。もし彼女のことが欲しかったら、僕は彼女と結婚してただろうね……これは確かだ」
ユージンはこんなふうに嘘をつく自分のことが嫌になったが、しばらくはこうしなければならないと感じた。振られた恋人の役などまっぴらだった。もし本気で努力していたら、クリスティーナと結婚できたかもしれないとぼんやり想像した。
「とにかく」ユージンは言った。「僕はこの問題できみと議論する気はない。僕は彼女とは結婚しなかった。だからきみがここにいる。そしてルビー・ケニーとも結婚しなかった。まあ、きみはきみの好きなように考えればいいさ。でも僕は知ってるんだ。僕は二人とも好きだった。しかし結婚はしなかった。代わりにきみと結婚した。この点は多少は認められるべきだろう。僕はきみを愛していたから結婚したんだと思う。完全にはっきりしてるんじゃないかな?」ユージンは、自分はアンジェラを……ある程度は……愛していたと半分自分を説得していた。
「ええ、あなたがどういうふうに私を愛しているかはわかってます」アンジェラは、ユージンが強く主張し、知的に克服するのがとても困難なこのとても奇妙な事実をじっくりと考えながら譲らなかった。「あなたは引くに引けなくなったから私と結婚したのよ、それが理由でしょ。わかってるんだから。あなたは私とは結婚したくなかったのよ。これはとてもはっきりしてるわ。あなたは他の人と結婚したかったのよ。ああ、やれやれだわ!」
「ああ、よくそんなこと言うね!」ユージンはけんか腰で答えた。「他の人と結婚だって! 僕は誰と結婚したかったんだい? その気になれば、僕は何度でも結婚できたんだ。だけど結婚したくはなかった、それだけだよ。信じようが信じまいがね。僕はきみと結婚したかった、だからしたんだ。そんなところに立ってそんなことを言う権利はきみにはないと思うよ。きみの言ってることは事実じゃない。自分でわかってるだろ」
アンジェラはこの論点をさらに掘り下げて考えた。ユージンは私と結婚した! なぜしたのだろう? ユージンはクリスティーナとルビーを大切にしていたかもしれない。しかし私のことも大切だったに違いない。なぜ私はそのことを考えなかったのだろう? そこに何かがあった……私を騙したいただの欲望以外の何かが。おそらくユージンは少しは私のことが大切だった。いずれにしても、ユージンと議論したところで勝ち目がことは明らかだった……彼は頑固に、理屈っぽく、論戦好きに、なりつつあった。アンジェラはこんなユージンをこれまで見たことがなかった。
「ああ!」アンジェラは泣きじゃくって、このとても難しい論理の領域から、非論理的な涙というもっと安全で快適な領域へと避難した。「どうしたらいいのかわかんない! 何を考えたらいいのかわかんないわ!」
アンジェラはひどい扱いを受けた。これに疑問の余地はなかった。彼女の人生は失敗だった。しかし、たとえそうでもユージンにはかなりの魅力があった。ユージンがあてもなくあたりを見回して、あるときは反抗的、またあるときは訴えかけるように、そこに立っている間に、アンジェラはユージンが全面的に悪いわけではないと見なさずにはいられなかった。ユージンはこの一点だけが弱かった。彼はきれいな女性が大好きだった。きれいな女性はいつも彼を口説き落とそうとしていた。彼が全面的に悪いわけではないのかもしれない。彼が十分に悔い改めさえすれば、この問題は立ち消えになってもよかったかもしれない。しかし許されることではなかった。アンジェラはユージンが自分をだましたやり方を絶対に許すことができなかった。彼女のユージンに対する理想はかなり絶望的に打ち砕かれてしまった……しかし、とりあえず様子を見ながら一緒に暮らしてもいいのではないだろうか。
「アンジェラ!」ユージンはアンジェラがまだ泣きじゃくっているうちに言った。彼女に謝らなければならないと感じていた。「僕を信じてくれないか? 僕を許してくれないか? きみがこうやって泣くのを聞くのは嫌なんだ。僕は何もしてないと言っても無駄だだろ。どうせ何を言っても無駄なんだから。きみは僕のことを信じないだろうしね。僕はきみに泣いてほしくないんだ。だから謝るよ。これを信じてくれないかな? 僕を許してくれないか?」
アンジェラはこの話を興味深く聞いたが、思考は堂々巡りを続けた。ユージンに対して絶望し、後悔し、復讐を誓い、批判し、同情し、自分の立場を維持したい、彼の愛を手に入れて維持したい、彼を罰したい、たくさんあることの中の何でもいいからしたい、と同時に思ったからだった。ああ、彼がこんなことさえしなかったら! そして彼は病人でもあった。ユージンは彼女の思いやりを必要としていた。
「僕を許してくれないか、アンジェラ?」ユージンはアンジェラの腕に手を添えて穏やかに頼んだ。「もうこういうことはしないよ。僕を信じてくれないか? さあ、泣くのをやめてくれないか?」
アンジェラは悲しみを引きずったまま、しばらくためらった。どうしたらいいのか、何を言うべきか、わからなかった。これでユージンはもうアンジェラを裏切ろうとはしないかもしれない。彼女が知る限り、ユージンはこれまでのところ裏切ってはいなかった。それでも、これは恐ろしい事実の発覚だった。ユージンが体を動かして適切な姿勢をとったのと、アンジェラが戦うことと泣くことに疲れて、同情を切望したのとが同時に起こったため、アンジェラは引き寄せられるがままにユージンの腕に抱かれ、頭を彼の肩に寄り添え、そこでこれまで以上に大泣きした。その瞬間ユージンはものすごく悲しくなった。本当にアンジェラにすまないと思った。これは正しくなかった。自分を恥じるべきだった。こんなことは絶対にすべきではなかった。
「ごめんよ」ユージンはささやいた。「本当にすまなかった。僕を許してくれないか?」
「ああ、どうすればいいのかわからない! 何を考えればいいのかわからないわ!」アンジェラはしばらくしてうめき声をあげた。
「頼むから許してよ、アンジェラ」ユージンは問いかけるように抱きしめながら促した。
結局アンジェラが疲れ果てて承知するまで、この言い訳と泣き落しはさらに続いた。この衝突のせいでユージンの神経は擦り切れて糸のように細くなった。ユージンは青ざめ、疲弊し、頭が混乱した。こんな場面が何度もあったら気が狂ってしまうと思った。しかもこんな時でさえ愛撫や愛欲の世界を通り抜けねばならなかった。アンジェラを普通の状態に戻すのは簡単ではなかった。この女遊びっていうのは割に合わない仕事だなとユージンは思った。それがあらゆる種類の不幸につながるようにユージンには思えた。そしてアンジェラは嫉妬深かった。神さま! 興奮すると彼女は、怒りっぽく、狂暴で、好戦的になるのだ。ユージンはこれを疑ったことが一度もなかった。アンジェラがそういう態度をとっているのに、どうすればユージンはそんな彼女をまともに愛せただろう? どうすればユージンは彼女と心が通じ合えただろう? アンジェラがどう自分をあざ笑ったかを……クリスティーナが自分を捨てたことでアンジェラがどんなふうに自分をなじったたかを……ユージンは思い出した。疲れて、神経が高ぶり、休息と睡眠が欲しかったのに、今、さらに愛し合わなければならなかった。ユージンはアンジェラを愛撫した。アンジェラは徐々に最悪の気分から抜け出したが、その時でさえ彼は本当に許されたわけではなかった。彼はただ理解が深められただけだった。そしてアンジェラは本当にまた幸せになったわけではなく、ただ希望を抱いただけだった……そして警戒を怠らなかった。
第十二章
春と夏と秋がユージンとアンジェラとともに、最初はアレキサンドリア、次にブラックウッドに訪れて過ぎ去った。ノイローゼに苦しみ、ニューヨークを離れざるをえなくなったことで、ユージンは芸術に費やした努力の最高の成果を多少ふいにした。シャルル氏や他の大勢の人たちが彼に関心をもち、面白くて人目につく形で彼を楽しませようと準備をしてくれていたのである。外出はいくらでもできたが、彼の精神状態では、誰とでもうまく付き合えるわけではなかった。極度の鬱状態にあって、暗い話題を議論し、人生を極度に悲観し、人間は総じて悪だと信じがちだった。情欲、不誠実、利己主義、嫉妬、偽善、中傷、憎悪、窃盗、不貞、殺人、痴呆、狂気、無気力……こういうものや死や衰えが彼の思考を占拠し、光がどこにもなかった。あるのは悪と死の嵐だけだった。これらの考えが、アンジェラとの問題、彼が働けなくなった事実、結婚相手を間違えたと彼が感じる事実、死ぬか発狂するかもしれないと彼が恐れる事実と結びついて、ユージンに恐ろしくて苦しい冬をもたらした。
アンジェラの態度は、いったん最初の感情の嵐が去ってしまえば十分に同情的だったが、それでも根底に批判が含まれていた。アンジェラは何も言わず、忘れることに同意したが、彼女は忘れてはいない、密かに彼を責め続けている、こういう問題の新たな発覚に目を光らせ、あると予測し、それを防ごうと警戒していることをユージンはずっと意識していた。
二人が到着して間もなく始まったアレキサンドリアの春は、ユージンにとってある意味で改善の始まりだった。ユージンはしばらくの間、働くことをあきらめ、ロンドンかシカゴに行く考えをあきらめ、ただ休むだけにした。疲れているのは本当だったかもしれないが、そうは感じなかった。眠れず、仕事もできなかったが、気分は十分爽快だった。彼が惨めだったのは、ただ仕事ができないからだった。それなのに彼はまったく何もしないでいてみようと決めた。そうすれば、彼のすばらしい芸術は復活するかもしれない。その間もユージンは、自分が失っている時間、会いそこなっている有名人、見ていない場所のことを絶えず考えていた。ああ、ロンドン、ロンドン! 自分にそれができればいいのだが。
ウィトラ夫妻は息子が戻って再び自分たちと一緒にいられることがとてもうれしかった。彼らは彼らなりに単純素朴な人たちだったので、どうして自分たちの息子の健康状態がこんな急に悪化したのか理解できなかった
「こんなに具合の悪そうなジーンをこれまで見たことがない」ユージンが到着した日にウィトラ氏は妻に言った。「目がとてもくぼんでいるな。いったい何がせがれを苦しめているとお前は思うんだい?」
「私が知るもんですか」自分の息子の身を案じてとても苦しんでいる妻が答えた。「ただ疲れてるだけだと思うわ。しばらく休めば多分大丈夫ですよ。あの子の具合が悪そうに見えると思っても、口には出さないでくださいね。大丈夫だって言ってやればいいんです。奥さんのこと、あなたはどう思います?」
「とてもすてきな小さい女性のようだね」ウィトラは答えた。「きっとあの子に尽くしてくれるんだ。ユージンがああいうタイプと結婚するとは思わなかったが、まあ本人が決めたことだ。世間だって、私がお前のような女と結婚することはないって思ったはずだからな」ウィトラは冗談めかして付け加えた。
「そうね、あなたはとんでもない間違いをしちゃったわね」妻は冗談で返した。「それを実現するためにものすごく働いたんだから」
「若かったんだよ! 若かったんだ! それを思い出してもらいたいな」ウィトラは言った。「あの頃はあまり物事を知らなかったんだ」
「未だに大してよくわかっていないようですけど」夫人は答えた。「そうでしょ?」
ウィトラは微笑んで妻の背中を軽く叩いた。「まあ、とにかくそれを精一杯活用しないとならないわけだな? もう手遅れなんだから」
「確かにそうですね」夫人は答えた。
ユージンとアンジェラは庭と街角がよく見渡せる二階の彼の古い部屋を与えられ、ウィトラ家の両親が望んだ数か月の穏やかな日々を過ごすために落ち着いた。アレキサンドリアのこの地に戻って来た自分が、自分の育った平和な近所、木々、芝生、去ってから何度も取り換えられたはずなのに依然としてまだいつもの場所にあるハンモックを眺めていることに気づくのは、ユージンには不思議な感覚だった。小さな湖や、町を曲がりくねって流れる小川のことを考えるのは、ユージンの慰めになった。今なら釣りやボートに乗りに行くことができた。あっちにもこっちにもすてきな散歩道がいくつかあった。最初の週は釣りに行って楽しみ始めたが、まだ少し寒かったので、しばらくは散歩に専念することにした。
こういう日常はだいたいすぐに飽きがくる。ユージンのような気質の人間を楽しませるものは、アレクサンドリアにほとんど存在しなかった。ロンドンやパリ、シカゴやニューヨークを見た後では、古い故郷の町の静かな通りなど冗談にしかならなかった。〈アピール〉社にも顔を出したが、ジョナス・ライルもケーレブ・ウィリアムズもいなくなったあとで、前者はセントルイス、後者はブルーミントンへ行ってしまった。姉の夫の父親にあたるベンジャミン・バージェス老人は、年月の経過以外の変化はなく、次の選挙で議会に立候補することを考えているとユージンに語った……共和党は彼にそれだけの借りがあった。シルヴィアの夫にあたる彼の息子のヘンリーは地元の銀行の出納係になっていた。ヘンリーは相変わらず辛抱強く静かに働き、日曜日には教会に行き、時々仕事でシカゴに行き、農家や実業家を相手に小口融資の相談に乗っていた。この国のいくつかの金融専門誌を熱心に研究して、とても順調に投資をやっているようだった。シルヴィアは夫がどのくらい順調にやっているかをほとんど話さなかった。十一年も一緒に暮らしているうちに、夫と同じように何だか口数が少なくなっていた。若いのにスリッパを履いた痩せたこの男の鋭さに、ユージンは微笑まずにいられなかった。ヘンリーはとても物静かで、とても保守的で、従来型の成功した人生を築くすべての小さな行いにとても熱心だった。まるで家具職人のように、最終的に完成体を作り上げる小さな部品をはめ込む作業で忙しかった。
アンジェラは、ウィトラ夫人がしぶしぶ分担を承諾した家事に本腰を入れて取り組んだ。働くことが好きなので、ウィトラ夫人が朝食後に洗い物をしている間に家中を片付けた。できるときは、機嫌を損ねないように、ユージンのために特製のパイやケーキを作って、ウィトラ夫人に好かれるような振る舞いを心がけた。アンジェラはウィトラ家をあまりよく思わなかった。自分の実家と比べて大幅にいいわけではなかった……同じくらいいいとは言えなかった。それでもここはユージンの生まれた場所だった。だから大事だった。ユージンの母親とアンジェラの間には人生の本質と生き方を巡って少し意見の違いがあった。ウィトラ夫人は、アンジェラよりももっと気軽で親しみやすい人生観の持ち主だった。アンジェラはもともと心配性だったが、夫人はあまり心配せずに、物事をありのままに受けとめるのが好きだった。この二人には共通の人間的な欠点が一つあった……何事においても他の誰とも一緒に仕事ができなかった。どちらも、やる以上はやるべき仕事を分かち合うより全部やってしまう方が好きだった。二人とも、ユージンのためと、恒久的な家庭円満のために、折り合いをつけたかったので、意見が一致しないことはあまりなかった。どちらも気が利かないわけではなかった。しかし、何かの漠然とした気配は漂っていた……ウィトラ夫人からすると、アンジェラは少し気性が激しくてわがままだった。アンジェラから見ると、ウィトラ夫人はほんの少しだけ秘密主義というか、引っ込み思案、あるいは他人行儀だった。双方で、私にやらせてくれませんか、じゃおねがいね、がたくさんあったが、表面上はすべてが穏やかで円満だった。ウィトラ夫人はかなり年上だったので、やはり落ち着いていて、貫禄と穏やかさを備えた家族の席にいた。
何もしないで椅子に座ったり、ハンモックに寝そべったり、森や野原を散策したり、無駄な考え事をして孤独の中で幸せを満喫するには、そういうこと向いている特別な才能が必要である。ユージンは両親と同じように自分にもそれがあると思ったが、名声の呼ぶ声を聞いてからは、もうじっとしてはいられなかった。それに、ちょうどこのときユージンは、孤独や無駄な考え事ではなく、気晴らしや娯楽を必要としていた。彼には、適切な種類の仲間、陽気なもの、共感を呼ぶもの、夢中になれるものが必要だった。何の悩みもかかえていないときのアンジェラには多少これがあった。彼の両親や姉、古い知人たちにももう少し提供できるものがあった。しかし彼らは永遠にユージンに話しかけたり気を遣うことはできなかったし、彼らの他には何もなかった。この町には面白いものが何もなかった。ユージンはアンジェラと一緒に長い田舎道を歩いたり、時々ボートや釣りに出かけることがあったが、それでも孤独だった。ポーチやハンモックに座って、ロンドンやパリで見たものや、どうやって仕事をすればいいのだろうと考えた。霧の中のセントポール寺院、テムズ川の堤防、ピカデリー、ブラックフライヤーズ橋、ホワイトチャペルやイーストエンドの汚い部分……現状を脱してこういうものを描いていたいとユージンはどれほど願っただろう。絵を描くことさえできたらいいのだが。父親の納屋にアトリエを作って、明かりをとるのに北側の屋根裏の扉を使い、記憶を頼りに一定のものを描いたが、まともなものは何も生み出せなかった。単にひとつの意見にすぎないのに、いつも何か悪いところがあるというこの固定観念が彼にはあった。時折意見を求めると、アンジェラや両親は美しいとかすばらしいと言うかもしれないが、ユージンはそれを信じなかった。こうして少し変更を考え、その影響を受けて物事を変えて変えて変えた後で、気持ちがすさんで、自分の状態に憤慨し、激しく落胆して自分を哀れんでいる自分に気がつくのだった。
「どうせ」ユージンは筆を放り出して言った。「この状態を抜け出すまで僕はただ待つしかない。こんな調子じゃ何もできやしない」それから、散歩か、読書か、湖でボートを漕ぐか、ソリティアをするか、父親がずっと前にマートルに買い与えたピアノをアンジェラが演奏するのを聞いた。ユージンはずっと自分の状況を考えていた。自分は何を失い続けているのだろう、陽気な世界はどこか他の場所でどんなふうに急速に盛り上がっているのだろう、この先自分がよくなるまでにあとどのくらいかかるのだろう。ユージンはシカゴに行って、そこの風景で腕試しをしたいと話したが、アンジェラはもうしばらく静養するように彼を説得した。六月にアンジェラは、夏の間二人でブラックウッドに行き、ユージンが望むなら秋にここに戻ってくるか、あるいはニューヨークへ行くかシカゴに滞在するか、彼の気分次第にすると約束した。今、ユージンには静養が必要だった。
「それまでには多分ユージンは元気になってシカゴに行くかロンドンへ行くかを決められるわ」アンジェラはユージンの母親に言った。
アンジェラは、自分たちがどこに行って何をするつもりなのかを話せることが、とても誇らしかった。
第十三章
もし女性との何かの新鮮で刺激的な経験を密かに期待していなかったら、ユージンはどうしようもないほど孤独だっただろう。実は、ユージンにつきまとうこの考えは……ウイスキーを思うアル中の考えとまったく同じで……彼を励まし、彼が完全に絶望しないように防ぎ、常に存在する挫折感から引き離してくれる唯一の気晴らしを彼の心に与えた。もし偶然、明るくて、魅力的な、彼と恋に落ちそうな本当に美しい女性に出会ったら、それは幸運だっただろう。ただアンジェラがこのところ絶えず彼を見張っていた。それなのに、若い女性が増えたら、単純に彼の症状が悪化することを意味するだけだっただろう。それでも欲望の幻覚、美しさに対する純粋な動物的本能の引き寄せる力は、とても強力だったので、そういうものが彼自身の気質が好む美しい若い女性の形をとって近づくと、ユージンは抵抗できなかった。魅力的な目をのぞき込んで、柔らかくて繊細な……少女時代特有の若さと健やかさをそれとなく感じさせるものでいっぱいの……輪郭の顔をちらっと見ると、呪文がかけられた。まるで顔の形そのものが、持ち主の意志や意図に関係なく、見る者に催眠術のような効果を与えるようだった。アラビア人はアブラカタブラという言葉に呪文を唱える魔法の力があると信じていたが、ユージンにとって女性の顔と体の形はまったく同じ力を持っていた。
ユージンとアンジェラが二月から五月にかけてアレクサンドリアに滞在していたときのこと、ユージンはある夜、姉の家で一人の少女に出会った。彼好みでそういう美しさに彼がとても影響を受けやすいという観点からすると、少女は極めて強力な催眠作用の持ち主で、浮気のしやすさと手頃さにかけてはとてもいい立場にあった。彼女はジョージ・ロスという巡回セールスマンの娘で、この男の妻、つまり娘の母親はすでに亡く、かつてユージンが初恋の相手ステラ・アップルトンを愛撫しようとした場所からそう遠くないグリーン湖の畔の古い木陰の家に、父親の妹と住んでいた。娘の名前はフリーダといい、ものすごく魅力的だった。まだ十八歳にもならず、大きく澄んだ青い目と、豊かな黄褐色の髪をしていて、ふくよかだがスタイルは抜群だった。地元の高校を卒業し、年齢の割には発育がよく、明るくて、バラ色の頬を持ち、快活で、たっぷり天性の知性に恵まれていたから、たちまちユージンの注意を引いた。普段から彼は、自然なままの、明るくて、よく笑うタイプが大好きだったが、今の状態のせいで、異常なほどだった。この娘と養母は、ユージンの両親や姉をよく知っていて頻繁に訪れていたので、ずっと前からユージンのことを聞いていた。ジョージ・ロスがこの地に引っ越してきたのは、ユージンが最初にシカゴに向かった後であり、しかも旅に出ることが多かったので、その頃からユージンには会ったことがなかった。フリーダは、これまではいくらユージンが来ても若すぎたから男性に興味を示さなかったが、大人の女性に開花しつつあるちょうどこの年頃ともなると、心は男性に釘付けだった。ユージンが結婚したのを知っていたので、まさか自分が彼に興味を持つとは思わなかったが、芸術家としての評判を聞いて気にはなっていた。彼が誰だかみんなが知っていた。地元の新聞が彼の成功を記事にして肖像画を掲載したことがあった。フリーダは、四十歳くらいの、堅物で、真面目な男性に会うものだと思った。ところが会ったのは二十九歳の笑顔の青年で、かなり痩せて目がくぼんでいたが、それでもそこがまた魅力的だった。ユージンはアンジェラの許しを得て、ゆるめの流れるようなネクタイ、柔らかい折り襟、原則として茶色いコール天のスーツ、ベルトつきのコート、狩猟用のジャケットを今でも愛用し、とても変わったデザインの黒い鉄製の指輪を指の一本にはめ、ソフト帽をかぶっていた。手はとても細くて白く、肌は青白かった。フリーダは、バラ色で、蝶のように考えがなく、青いリネンのドレスを魅力的に着て、笑みが絶えず、評判が高いユージンを恐れていたが、すぐ彼の目にとまった。フリーダは彼がこれまでに知っていたすべての若くて健康的な笑いの絶えない娘たちと同じで愉快だった。ユージンはもう一度独身に戻って彼女と冗談を交えて会話ができたらいいなと思った。フリーダは最初から親しくなりたがっているように見えた。
しかしアンジェラもフリーダの養母もいるので、ユージンは慎重に構えて距離をおく必要があった。養母とシルヴィアとアンジェラは芸術について話をしたり、ユージンの変わったところや独特なところや経験談についてのアンジェラの説明に耳を傾けた。これらは彼らが会う普通の凡人にとって決して尽きない興味の源泉だった。ユージンはその時の気分に合う、疲れや愛想や無関心の表情を顔に浮かべて安楽椅子に座った。今夜は退屈で、少しうわの空だった。ここではこの娘以外に誰も彼に興味を示さなかった。その美貌はユージンの秘密の夢を育んだ。彼はこういう若々しい精神がいつも自分のそばにいてくれることを熱望した。どうして女性は若いままでいられないのだろう?
みんなが談笑している間にユージンは、アーサー王のヒーローとヒロインたちの興奮を呼ぶすばらしいイラストの入った、ハワード・パイルの『円卓の騎士』を手に取って、いろいろなキャラクターの威厳のある誇張された特徴を研究し始めた。これはシルヴィアが二階で眠っている七歳になる男の子のジャックに買い与えたものだったが、フリーダは数年前の少女時代に読んでいた。ユージンのことが気になって仕方がなかったが、会話のきっかけのつかみ方を知らなかったので、そわそわと動き回っていた。ユージンが時々向ける笑顔はフリーダをうっとりさせた。
「あら、私、それ読みました」フリーダはユージンが本を見ているのを見て言った。彼女はユージンの椅子からそれほど遠くない、窓の近くまで来ていた。最初は外を眺めているふりをしていたが、今はユージンに話しかけていた。「よく騎士や貴婦人なんかに夢中になったものだわ……ランスロット卿に、ガラハッド卿、トリストラム卿、ガウェイン卿、グィネヴィア王妃」
「ブラッフ卿って聞いたことある?」ユージンはからかって尋ねた。「スタッフ卿は? じゃあ、ダブ卿は?」ユージンは人を馬鹿にしたユーモアの光を目に浮かべてフリーダを見た。
「あら、そんな人たちはいないわよ」フリーダはその称号に驚いたが、考えるとおかしくて笑ってしまった。
「主人に馬鹿にされちゃだめよ、フリーダ」アンジェラが口を挟んだ。この娘が陽気なことを歓迎し、ユージンが関心を持てる相手を見つけたことをよろこんだ。アンジェラは、フリーダや実の妹のマリエッタのような素朴な西部人タイプの娘のことは恐れなかった。彼女たちは東部の芸術家タイプよりも率直で、親切で、人がよく、その上、自分たちが優れているとは考えなかった。アンジェラはここで面倒見がいい先輩風を吹かしていた。
「それがいるんだよ」ユージンはフリーダを相手に真面目に答えた。「彼らは新しい円卓の騎士なんだ。今までにその本の話を聞いたことがないのかな?」
「ええ、聞いたことないわ」フリーダは面白がって答えた。「だってそんなものはないもの。私をからかっているだけでしょ」
「あなたをからかうですって? そんなことを考えるつもりもありませんよ。それにそういう本は実在します。ハーパー&ブラザーズから出版されていて『新・円卓の騎士』ていうんです。ただあなたが聞いたことがないってだけですよ」
これはフリーダの印象に残った。彼を信じていいのかどうか、わからなかった。フリーダは好奇心の旺盛な女の子みたいに目を丸くした。ユージンはこういうのが大好きだった。彼女のかわいらしい、真っ赤な、ぽかんと開いた唇に自由にキスしたいと思った。アンジェラは、ユージンが本物の本のことを言っているのかどうか、少し疑っていた。
「スタッフ卿はとても有名な騎士なんだ」ユージンは続けた。「ブラッフ卿もね。本の中ではかけがえのない仲間同士なんだ。ダブ卿とハック卿とドープ王妃は……」
「およしなさいって、ユージン」アンジェラは陽気に叫んだ。「主人がフリーダに話していることをちょっと聞いてみて」アンジェラはミス・ロスに言った。「真に受けちゃだめよ。主人たらいつも誰をからかってるんだから。どうして主人をもっときちんと育ててくれなかったのかしら、シルヴィア?」アンジェラはユージンの姉に尋ねた。
「あら、私に聞かれてもねぇ。私たちじゃジーンに何もできなかったわ。今回戻って来るまであの子がこんなに冗談ばかり言う子だったなんて知らなかったし」
「とてもすばらしい人たちですよ」みんなはユージンがフリーダに話しているのを聞いた。「全員が豪華絢爛な紳士淑女なんですから」
フリーダはこの魅力的で気だてのいい男性に好感を持った。ユージンの精神は明らかにフリーダの精神と同じくらい若くて快活だった。フリーダはユージンの前に座って、彼のにこやかな目を見つめていた。ユージンはあれやこれや若者の知らないことを話題にしてフリーダをからかった。フリーダの恋人はどんな人だろう? 彼女はどんな恋愛をするのだろう? 日曜日にフリーダが教会から出てくるのを見るために何人の青年が行列を作るのだろう? ユージンにはそれがわかった。「その様子はきっと正装閲兵式の兵隊の行列に見えますよ」ユージンは言ってみた。「全員が立派な真新しいネクタイをしめて、清潔なハンカチをポケットに飾り、靴はピカピカで……」
「ああ、おかしい!」フリーダは笑った。そう考えるのはとても魅力的だった。フリーダはユージンと一緒になって笑ったり冗談を言うようになった。二人の友情は確かに成立した。フリーダはユージンを楽しい人だと思った。
第十四章
その後の出会いは、ごく自然に巡って来るように思えた。小さな自家用ボートが一艘あるウィトラ家のボートハウスは、ロス家の芝地の端にあり、家の脇を通るあまり人通りのない小道か、ぶどう棚を通ってたどり着いた。ぶどう棚は家の下の階から湖が見えないように隠すだけでなく、雨ざらしの木のベンチがある水辺のほとりまで屋根つきの散歩道を作ってくれた。ユージンはボートに乗ったり、漕いだり、釣りをしに時々ここに来た。アンジェラも数回同行したが、彼女はボート漕ぎや釣りをあまり好まず、行きたければユージンがひとりで行けばいいと完全に思っていた。ミス・ロスもウィトラ夫妻とは仲がよかったので、時々彼女とフリーダが家に来ることがあった。そして時々フリーダが納屋のアトリエにやって来てユージンが絵を描く様子を見物した。フリーダは若くて無邪気だったので、そこにいてもアンジェラは彼女のことをほとんど考えなかった。これがユージンには絶好のチャンスに思えた。彼はフリーダの魅力に関心を持ち、危害を加えるつもりはなかったが、遊びのような形で彼女を愛したかった。かつて冬の夜にステラといちゃいちゃしたその場所のすぐ近くにフリーダが住んでいることを知って、少し不思議な気がした。フリーダはステラに似ていなくもなかったが、もっと穏やかで、もっと真心いっぱいに優しくユージンの気分に合わせてくれた。
ある日、ボートに乗りに行くとき、ユージンはフリーダが庭に立っているのを見かけた。フリーダは水辺まで降りてきてユージンに挨拶した。
「ねえ」ユージンはフリーダの爽やかな朝の登場を、のんきな人懐っこい笑顔で迎えて言った。彼はそういう態度での若さや人生全般の受け入れ方を知っていた。僕たち蝶々は、あくせく働く必要はないと思うんですが、どうでしょう?」
「ええ、ないわ」フリーダは答えた。「そんなことわかってるくせに」
「それがね、僕にはわからないんだ、本当だよ、でも多分この蝶々たちの一匹が僕に教えてくれるかもね。例えばきみが」
フリーダは微笑んだ。ユージンとどう接したらいいのかよくわからなかったが、彼を楽しいと思った。ユージンという人間の奥深さと繊細さも、その優しくて親切で移り気な性分についても、これっぽっちも考えなかった。彼女はただ彼のことを、年をとりすぎているわけではない、ウィットに富んだ、気立ての良い、ハンサムな笑顔の男性が、ここで、この湖の明るい緑色の水辺に、自分のボートを引っ張り出している、としか見なかった。フリーダには、ユージンがとても陽気な、気遣い無用の人に見えた。フリーダは自分の印象の中にユージンを、大地の新しさや、草のみずみずしさ、空の明るさ、鳥のさえずり、水面できらめく小さなさざ波さえも一緒にして、わけられないほど溶け込ませていた。
「蝶たちは決して働かないよ、それくらい知ってる」フリーダを真剣にうけとめるのを拒みながらユージンは言った。「ただ太陽の光を浴びて踊り回って楽しい時間を過ごすだけだ。これまでにそういう話を蝶にしたことがあるかい?」
フリーダはただユージンに微笑むだけだった。
ユージンはボートを湖に押し出し、ロープで軽く係留し、棚からオールを一組取って乗り込んだ。それからそこに立ってフリーダを見た。
「アレキサンドリアには長く住んでるの?」と尋ねた。
「かれこれ八年になるわ」
「気に入っているかい?」
「そういう時もあるわ、いつもというわけにはいかないもの。シカゴで暮せたらいいんだけどな。あら!」フリーダはかわいらしい鼻を上に向けてクンクンさせた。「いい匂いがするじゃない!」庭から風に吹かれてきた花の香りを嗅いでいた。
「そうだね、香りがする。ゼラニウムじゃないかな? ここで咲いているんだよ、確か。こういう日はじっとしていられなくなる」ユージンはボートに座ってオールを設置した。
「さて、クジラが釣れるか運だめしに行かなくちゃ。釣りに行きたくないかい?」
「私は行きたいけど」フリーダは言った。「叔母が許してくれないと思う。ぜひ行きたいわ。とても楽しいでしょうね、お魚をつかまえるのって」
「楽しいよ、お魚を『つかまえる』のは」ユージンは笑った。「じゃ、おいしい小さいサメを持ってきてあげるね……噛むけど。そういうの、好きかい? 大西洋には噛みついたり吠えたりするサメがいる。夜な夜な海から上がってきて、犬のように吠えるんだ」
「あら、やだ! おっかしい!」フリーダはくすくす笑った。ユージンはゆっくりとボートを漕ぎ始め湖に乗り出した。
「必ずおいしいお魚を持ってきてくださいね」フリーダが声をかけた。
「僕が戻ってきたら、きっとここに取りに来るんだよ」ユージンは答えた。
ユージンは、格子模様のような春の葉を背景にしたフリーダと、高台に気持ちよさそうに建っている古い家と、朝の空を旋回する数羽のイワツバメを見た。
「何てすてきな女の子なんだ」と思った。「美しい……花のようにみずみずしい。あれこそこの世でひとつしかない偉大なもの……少女時代の美しさだ」
ユージンはフリーダに会うのを期待しながら戻って来たが、養母がお使いに出した後だった。ユージンは強い失望を感じた。
この後も何度か会う機会があった。ユージンが事実上、魚が釣れずに帰ってきて、フリーダが笑う日があり、フリーダが髪を洗った後、裏のポーチで日向ぼっこをしている姿をユージンが見かけることもあった。そしてフリーダが降りてきて、まるで水の精ナイアスように水辺の木陰に立った。ユージンはフリーダを抱きしめたかった。しかし、彼女と自分のことに少し疑念をいだいていた。一度フリーダが、ユージンの母親がストーブの上でひっくり返した余ったパン生地を一切れ、納屋のアトリエまで持ってきてくれた。
「ユージンは子供の頃これに目がなくってねえ」母親は言った。
「じゃ、私に運ばせてください」フリーダは積極的に引き受けようと思い立ち、はしゃいで大喜びして言った。
「あら、助かるわ」アンジェラは何の考えもなく言った。「待って、このお皿にのせるから」
フリーダはそれを受け取って走った。ユージンが難しい顔をしてキャンバスを見つめているのを見つけた。表情が気になるほど暗かった。フリーダの頭が屋根裏の床から現れると、たちまちユージンの表情が変わった。あどけない優しい笑顔が戻った。
「何だか当ててみて」皿にかぶせておいた小さな白いエプロンを引っ張りながらフリーダが言った。
「イチゴ」今が旬だった。
「はずれです」
「桃とクリーム」
「この時期に桃がどこで手に入るのよ?」
「スーパーかな」
「もう一度チャンスをあげます」
「エンジェルケーキだ!」これはユージンの好物でアンジェラが時々作ってくれた。
「全てハズレです。何ももらえません」
ユージンは手を伸ばしたが、フリーダは後ずさりした。追いかけるとフリーダは笑った。「だめ、だめ、あなたはもう何も手に入れられません」
ユージンはフリーダの柔らかい腕をつかんで手もとに引き寄せた。「本当に手に入れられないかな?」
二人の顔がともに近づいた。
フリーダはしばらく相手の目をのぞき込んで、それから目を伏せた。ユージンの頭脳はフリーダの美しさを感じてくらくらした。これは昔からある不思議な力だった。ユージンが唇でフリーダの甘い唇を覆うと、彼女は興奮しながら屈服した。
「さあ、パンをどうぞ」ユージンが放すとフリーダは恥ずかしがるようにそれを突き出して叫んだ。取り乱していた……これについての冗談が言えないほどひどく取り乱していた。「もしウィトラ夫人がこれをご覧になったらどう思うかしら?」フリーダは付け加えた。
ユージンは真顔で押し黙って耳を立てた。アンジェラのことは怖かった。
「僕は子供の頃からずっとこれが好物だったんだ」ユージンはいきなり話題をかえた。
「お母さんもそう言ってました」どうにか落ち着きを取り戻してフリーダは答えた。「描いている絵を見せてください」フリーダが横へまわって来るとユージンはその手をつかんだ。「私、もう行かなきゃ」フリーダはうまくあしらった。「私が戻るのをみんなが待ってるわ」
ユージンは若い娘たちの頭のよさについていろいろ考えた……あくまで対象は彼好みの娘である。こういう状況になると、どういうわけか、彼女たちはみんな賢かった……用心深かった。ユージンはフリーダが本能的に彼と自分の身を守る態勢を整えたのがわかった。この思わぬ出来事から何かのショックを受けているようには見えなかった。むしろそれを最大限に利用したがっていた。
ユージンは再びフリーダを両腕で抱きしめた。
「きみはエンジェルケーキであり、イチゴであり、桃であり、クリームだ」と言った。
「やめて!」フリーダは訴えた。「やめてったら! 私、もう行かなきゃ」
ユージンが放すと、フリーダはすかさず別れの笑みを浮かべて、足早に階段を駆け下りた。
これでフリーダは彼の征服リストに加えられた。ユージンはこれについて真剣に考えた。もしアンジェラがこの光景を目撃していたらどんな波乱があっただろう! もし何が起こっているのかにアンジェラが気がついたら、そこにどんな怒りのひと時が発生するのだろう! 恐ろしいことになるだろう。最近アンジェラが手紙を発見してからというもの、ユージンはこのことを考えるのが嫌になった。それでも若者を愛撫するこの至福には、かけがえのない価値があるのではないだろうか? 明るくて楽しい十八歳の娘に抱きついてもらう……これがかなえられるリスクに大きすぎるものがあるだろうか? 世の中は、一生かけてひとつの愛をまっとうすると言うが、ユージンはそんなことに同意できるだろうか? 誰であれ一人の女性に、彼を満足させることができるのだろうか? もしフリーダを手に入れたとして、フリーダにそれができるだろうか? ユージンにはわからなかった。彼はそういうことについて考える気はなかった。ただ花園を歩くだけだった……これはどれほど気持ちがよかっただろう。これは唇をバラ色にするほどだった!
アンジェラはしばらくの間、この見ものに全然気づかなかった。アンジェラは自分が理解できる社会通念に依存する哀れな小物だったので、世の中が陰謀、相手の裏をかく、罠、落とし穴、仕掛けだらけと信じるところまでいかなかった。貞淑で善良な主婦の生活は、単純で気楽であるべきだった。愛情不信、相性の悪さ、無関心、不貞に悩まされるべきではなかった。アンジェラが努力していたように、彼女が良い妻になろうと努力し、節約し、奉仕し、自分の時間と労力と気持ちとやりたいことを夫のために犠牲にして一生懸命働くのであれば、ユージンも彼女のために同じことをするべきではないだろうか? アンジェラは美徳に基準が二つあることを知らなかった。知っていたとしても、それを信じなかっただろう。彼女の両親が結婚を別の観点から見るようにアンジェラを育ててしまった。アンジェラの父親は母親に誠実だった。ユージンの父親は自分の妻に誠実だった……それは一目瞭然だった。アンジェラの義兄弟はアンジェラの実の姉妹に誠実だった。ユージンの義理の兄たちはユージンの姉たちに誠実だった。なぜユージンがアンジェラに誠実ではいけないのだろう?
もちろん、今のところアンジェラはこの反証を持ち合わせていなかった。おそらくユージンだって誠実であり、そうあり続けるだろう。本人はそうだと言っていても、彼の結婚前のこの女性遍歴はとても気になるものに見えた。ユージンがそうやって彼女をだましとおせたのは驚くべきことだった。アンジェラはこれを絶対に忘れるつもりはなかった。彼は確かに天才だった。世界が彼の発言を聞こうと待っていた。彼は偉大な人物であり、偉大な人物と付き合うべきだった。あるいは、それができないのであれば誰とも付き合いたくないはずだった。そんな彼が愚かな女たちを追い駆け回すのは馬鹿げていた。アンジェラはこう考えて、これを防ぐために全力を尽くすことにした。アンジェラは考えでは、王座こそがユージンにふさわしい場所であり、彼女が忠実な筆頭従者として陣頭に立って、称賛と喜びの香炉を振るのである。
日が経つにつれ、ユージンとフリーダの間にはさまざまな小さな出会いがあった……あるものは偶発的で、あるものは計画的だった。ある日の午後、ユージンは姉の家にいた。するとフリーダが養母の使いでシルヴィアから型紙をもらおうとやって来た。フリーダは一時間以上も長居し、その間にユージンは十数回キスするチャンスを手に入れた。フリーダが帰った後も、彼女の目と笑顔の美しさはユージンの頭から離れなかった。またあるときは夕暮れ時にボートハウスの近くで彼女を見ると、目隠しになるぶどう棚の陰でキスをした。ユージンの自宅の納屋の屋根裏のアトリエでも秘密のひと時があった。フリーダは何度か彼を訪ねる機会を作った……彼女の絵を描く約束が口実だった。アンジェラはこれに憤りを感じたが、防ぐことはできなかった。いつもフリーダは、女性にはよくあるが男性には決して理解できない、恋愛における不思議な忍耐強さを見せた。フリーダは自分の出番を待つことができた……ユージンが彼女を見つけ出すのを待つことができた。一方、ユージンは恋する男性のあの奇妙な貪欲さで、彼女に会いたくて、煽られた炎のように燃え上がった。フリーダが彼女の知り合いの若い青年とただの無邪気な散歩をしただけでユージンは嫉妬した。フリーダがユージンから離れていなければならないことは大きな損失だった。ユージンがアンジェラと結婚したのは大失敗だった。アンジェラが一緒にいて、自分から恋愛の自由を奪っているとき、ユージンはほぼ意図的に目に憎悪を込めて彼女のことを見た。どうして彼女と結婚してしまったのだろう? フリーダに関して言うと、彼女が近くにいるのに近づくことができないとき、ユージンの目は憧れるような、食い入るような視線で彼女の動きを追った。彼女の美しさに魅了されて悶々としながらユージンは完全に我を忘れた。フリーダは自分が起こした焼き尽くす炎に全く気づいていなかった。
郵便局から家まで彼女と一緒に歩いて帰るのは簡単だった……まったくの偶然で何度かそういうことがあった。アンナ・ロスが、ユージンの両親だけでなくアンジェラとユージンを自宅のディナーに招いたのは偶然だった。あるとき、フリーダがウィトラ家を訪れていたときのこと、アンジェラが応接間に入ったときに、フリーダが妙に動揺した様子でユージンから離れたと思うことがあった。確信は持てなかった。フリーダは家族のいろいろな人がいるときはほとんどいつもおとなしく彼の周りをうろうろした。ひょっとしたらユージンはフリーダに気があるのではないかと疑ったが、アンジェラはこれを証明できなかった。それからというものアンジェラは二人の監視に努めたが、ユージンはとても巧妙で、フリーダはとても慎重だったので、確かな証拠はつかめなかった。しかし二人がアレキサンドリアを離れる前にこれを巡って修羅場があり、その中でアンジェラはヒステリーを起こして激しく、ユージンはフリーダを愛していると非難し、彼はそれを断固否定した。
「あなたの身内のことがなかったら」アンジェラはきっぱり言った。「ここで、あなたの目の前で、面と向かって彼女に言ってやるのに。どうせ彼女は否定できないんだから」
「ねえ、きみは変だよ」ユージンは言った。「きみは僕の知る中で、最も疑り深い女だぞ。やれやれ、僕はもう女性を見ることもできないのかい? こんな女の子まで! 僕は女の子に優しくすることさえできないのかい?」
「女の子に優しく? 女の子に優しくですって? あなたがどんな風に女の子に優しくするのか、私は知ってるわ。目に見えるわ! 手に取るようにわかるわ! ああ、まったく! あなたって人はどうして誠実な夫でいられないのかしら!」
「ああ、いい加減にしろ!」ユージンは開き直って強く出た。「いつも見張りやがって。僕は振り向くことさえできないよ、きみが目を光らせているからね。わかってるんだからな。まあ、せいぜい見張るがいいさ。それできみの気が晴れるんならね。そのうち何か本物の見張る理由を提供してやるよ。きみにはうんざりだ!」
「ああ、よくそんなことが言えるわね」アンジェラは嘆いた。「私たちは結婚して一年しかたっていないのよ! ねえ、ユージン、どうしたらそんなまねができるのよ? あなたには情けや恥ってものがないの? よりによってこの自分の実家に来てまで! ああ! ああ! ああ!」
こういうヒステリーを相手にしているとユージンは気が変になりそうだった。誰であれどういうわけでこういうやり方を続けたがるのか、あるいは続けられると思うのか、ユージンには理解できなかった。ユージンはフリーダのことで真っ赤な嘘をついていたが、アンジェラは知らなかった。そしてユージンは、アンジェラが知らないということを承知していた。こういうすべての癇癪の根拠は憶測だった。単なる憶測でここまでするのなら、立証済みの根拠をつかんだら、彼女は手加減しないのではないだろうか?
しかしまだアンジェラには、涙で彼の同情を誘ったり羞恥心を呼び覚ましたりする力があった。この人一倍手強い性格が絶えず現れていたので、アンジェラの悲嘆はユージンに少し自分の行いを恥じ入らせた、もしくはかなり後悔させた。彼女の疑惑を招いた以上、この愛の探求をさらに進めることは事実上できなくなった。すでにユージンはアンジェラと結婚した日を密かに呪っていた。フリーダの顔がいつも目の前にあって、愛と欲望へと悩ましく誘うからだった。この時ユージンには人生がものすごく悲しく見えた。人間が探したり見つけたりするすべての完璧なものは、敵対する運命の灼熱の息吹にその命運を握られている、と感じずにはいられなかった。バラの灰……人生が与えてくれるのはそれだけだった。唇の上で灰と化す死海の果実。ああ、フリーダ! フリーダ! ああ、青春、青春よ! 永遠に叶わぬ欲望……美の聖杯……が目の前で踊っている。ああ、生命よ、死よ! 起きているのと寝ているのとでは、果たしてどちらがましなのだろう? 今フリーダを手に入れることさえできれば、生きることに価値は生じるだろうが、彼女なしでは……
第十五章
ユージンの弱点はこういう新たな征服のたびに、さしあたって幸福の概要を確認して、他のどこでもないここに、今、この特定の形の中に、理想の幸福が存在していると感じるまで、制御不能な誇張された愛情のレベルを急速に上げる傾向があった。ユージンはこんな調子でステラ、マーガレット、ルビー、アンジェラ、クリスティーナ、そして今度はフリーダと恋をしてきたが、それが愛について今までユージンに教えたことは、とても楽しいこと以外、何もなかった。どうして特定の顔の形がこの呪文をかけられるのだろう、と時々不思議に思うことがあった。髪の毛のカールや、額の白さや丸み、鼻や耳の尖り具合、満開の花びらのような唇のアーチ型の赤さには明らかに魔力があった。頬、顎、目……こういうものの組み合わせ……は、どうやってこの魔法をかけるのだろう? この呪文に屈して自分の身をさらすことになる悲劇……ユージンはこれについて考えるために決して立ち止まらなかった。
これは、人間の意志が自力で人間の弱さを治したことがあるのか、あるいは治せるのか、という疑問であり、流れがつかみにくいものである。これには人間の存在の不思議な働きが関わっている。生物学の謎を研究する者は、あの興味深い異常なもの、別の種類の動物のエサになるために生まれるある種の小動物、化学的にも物理的にも自分の不幸に引き寄せられるもの、をよく目にする。コーキンズを引用しよう。「ある種の原生動物は明らかに特殊な種類の食料でしかない。『草履型微生物』(ゾウリムシ)と『釣鐘型微生物』(ツリガネムシ)は特定の種類のバクテリアを常食とする。自分よりも小さな原生生物を常食とするその他の多く微生物は、特定の種類に対して著しく相性がいいようである。私は、こういう生物の一つ(ミツバコカブト属)が、ある変種が接近して、そのときに小さな矢、もしくは比較的長い糸がついている「毛胞」が発射されるまで、たくさんのバクテリアやもっと小さな原生生物が自分にぶつかっても、まったく動かないでいるのを見たことがる。エサはいつも襲われ、少しもがいた末に引き寄せられて食われてしまう。多くの実験結果は、こういう場合の明らかな「意図的」選択が、変えることのできない明確な化学的、物理的法則の必然的作用であることを示している。個々の生物は、重力の方向を変えることができないのと同じで、これを変えることはできない。先に述べたこの命取りの矢は、磁石に吸い寄せられる鉄の圧倒的な引力を持つ、特定のエサに呼ばれるのである」
ユージンはこの時こういう興味をそそられる生物学的実験を知らなかったが、この引力は人の意志よりも奥が深いのではないかと思った。時々、自分は衝動を抑えるべきだと考えた。またある時は、そのわけを自問した。目の前に宝物があるのに手をこまねいてそれを失ったら自分に何が残るのだろう? 身の潔白か? そんなものはどうでもいい。仲間の尊敬か? ユージンは自分の仲間のほとんどが偽善者だと信じていた。仲間の偽善的な尊敬が自分の何の役に立つのだろう? 他人を裁くのか? 二人の間に生じるかもしれない自然な親密な間柄に、他人は関係ないし、関係すべきではない。決めるのは当人たちだ。それに世の中には正しい裁きなどほとんどないのである。妻に対しては……まあ、彼は誓いをたてたが、進んでそうしたのではなかった。自然界の本質が、信義の欠如、薄情、破壊、変化だったとき、人は永遠の忠誠を誓い、それを守ることができるのだろうか? 陰気なハムレットは確かに「名誉で足を元通りにできるのか」と問いかけた……策士マキャベリは、力こそが正義であると信じ、この世で成功を収めるのは倫理ではなく綿密な計画が重要だと信じていたが、同時に最も稚拙な立案者の一人でもあった。確かに利己主義の無政府主義的な現れだったが、ユージンが重ねて訴えたのは、自分の考えも、感情も、他の何もかも、自分は決めていない、ということだった。そして最悪なことに、自分は無慈悲に何かを奪っているのではない、と自分に言い聞かせていた。彼はただ運命によって誘惑されるように突きつけられたものを受け入れているだけだった。
この種の催眠効果のある呪文は伝染病や熱病のように、持続期間、始まり、山場、終わり、がある。愛は死なないと書かれても、これは肉体や、欲望の高まりについて書かれたものではなった。シェークスピアが何の障害も認めようとしなかった真の心の結婚は別物で、そこにセックスはほとんど登場しない。男同士の話になるがデイモンとピュティアスの友情は最もいい意味での結婚だった。男女間の知的な結びつきの可能性もまったく同じである。全人類の精神的理想を反映する限りにおいて、これは不滅である……そうでなければ違う。他のものはすべて束の間の幻想であり、宙に消えてしまう。
最初望みどおりにアレキサンドリアを発つ時が来たとき、ユージンはちっとも離れたくなかった。むしろこれはユージンにとってすごく辛いことだった。ユージンはフリーダが自分を愛してくれるという問題に対する解決策を何も見出せなかった。実際にこれについてよく考えたときにユージンは、フリーダが彼に対する彼女の愛、もしくは彼女に対する彼の愛の性質を理解も認識もしていないと確信した。それには責任の根拠がなかった。それは、日光、明るい水面、明るい部屋の反射……無形で実体のないもの……宙から生まれたもののひとつだった。たとえそういうことを何か考えたとしても、ユージンはただの遊び目的で少女を不品行へと誘う人間ではなかった。ユージンの感情は常にもっと繊細なもの、交友関係への愛や、美しいものへの愛、あるいは自分のことも考えるが自分よりもむしろ相手の女に降りかかるに違いない結果についていろいろ感じること、で構成されていた。もし相手の女がまだ経験がなく、しかも彼に彼女を守る術がなかったら、もしその女を自分の妻にできない、あるいは密かにであれ公然とであれ自分の存在と経済的援助の恩恵をその女に与えられなかったら、もし二人の関係のすべてを世界から隠しとおすことができなかったら、ユージンは躊躇するタイプだった。自分のためにも相手のためにも軽率な行動をとりたくなかった。この場合、彼が彼女と結婚できない事実、彼が精神的に病み経済的に不安定であるため彼女と駆け落ちがまともに考えればできない事実、慎重にふるまうことを最も重視する家庭環境に彼自身が囲まれている事実、が重くのしかかった。それでも、悲劇はここで簡単に起こるかもしれない。もしフリーダが強情で何も考えない性格だったら、もしアンジェラがこんなに用心深くなく、病的でなく、感情的に訴えなかったら、もし家庭環境と土地柄が重くのしかからなかったら、もし彼が健康で十分お金があったなら、ユージンはおそらくアンジェラを捨て、フリーダをヨーロッパのどこかの都市に連れ去っただろう……このときはパリを夢見ていた。そして後で、激怒する父親に、もしくはフリーダの個人的魅力は自分の存在のすべてではなかったと高まっていく認識に、あるいはその両方に、自分が向き合わされたことに気づいただろう。ジョージ・ロスは地方回りのセールスマンだがかなり毅然とした男だった。彼なら、芸術の名声があろうがなかろうが、自分の娘をたぶらかした相手の息の根を簡単に止めたかもしれない。フリーダを死んだ妻の生き写しとして大事にしていたから、よくても悲嘆に暮れただろう。
実際、ユージンは早まったことをしなかったので、こうなる可能性はあまりなかった。彼はあまりにも達観しすぎていた。彼がこの上なく愚かな強がりを見せたかもしれない状況は発生したかもしれないが、今の彼の状態でそれはなかった。彼の中には彼を行動に駆り立てるほどの苦悩はなかった。先が全く見通せなかった。六月になるとユージンはアンジェラを連れてブラックウッドに旅立った。アンジェラに向けて表向きは出発に無関心を装っていたが、内心は自分の人生が空っぽになるように感じていた。
ブラックウッドに着いたとき、今度は自ずとその雰囲気全体がいとわしかった。ここにはフリーダがいなかった。アレキサンドリアはあてもなくだらだら過ごすだけの退屈極まりない場所だったのに、いきなり楽園のあらゆる特徴を持つようになった。小さな湖、静かな通り、郡庁舎広場、姉の家、フリーダの家、自分の家が、ユージンのために再びロマンスの輝きを与えられた……それは愛という幻想の外では存在し得ない、実体のない感情の高揚にすぎなかった。そのいたるところに、フリーダの顔、彼女の姿、目の表情が存在した。今ここではフリーダの後光以外、何も目に入らなかった。それはまるで荒野の景色のような険しい疲れきった顔が、突然、真夜中の月の柔らかい光に包まれたかのようだった。
ブラックウッドは相変わらずすてきだったが、ユージンにはそう見えなかった。アンジェラに対する彼の態度が一時的に変わったことが、すべてを変えてしまった。本当にアンジェラを嫌いになったわけではない……ユージンは自分にそう言い聞かせた。アンジェラはこれまでのアンジェラとまったく変わらなかった。これは完全に明らかだった。変わったのはユージンだった。実は彼は同時に二人の人間と激しい恋愛ができなった。アンジェラとルビー、そしてアンジェラとクリスティーナを相手に二股を楽しんだことはあったが、どちらも今回のような圧倒的熱量ではなかった。ユージンはしばらくの間この娘の顔を頭から払うことができなかった。時々アンジェラにはすまないと思ったが、彼女が彼と一緒にいること……同席すること、ユージンに言わせると「彼につきまとう」こと……にこだわるのでアンジェラのことが嫌になった。神さま! 彼女を傷つけることなく自由になれたらいいのだが。せめて束縛をゆるめてもらえたらいいのだが。思えば、今この瞬間にフリーダと一緒にどこか太陽の下を散歩していても、アレキサンドリアの湖で彼女を抱きながらボートを漕いでいてもよかったのだ。実家の納屋のアトリエに現れた最初の朝フリーダがどんな様子だったか、シルヴィアの家で見かけた最初の夜はどんなに魅力的だったか、ユージンは決して忘れはしなかっただろう。いずれにせよ、実にひどいみじめな生活だった。ブルー家のハンモックの中で何もしないでいたり、ジョーサム老人が前にマリエッタの恋人のために作ったブランコに乗ったり、家の日陰にある椅子で読書をしながら夢に浸った。彼は世界でたったひとつの野望……フリーダ……を抱き、寂しく孤独だった。
その一方で予想通りだったかもしれないが、ユージンの健康は一向に回復しなかった。アンジェラとの生活の特徴だった、情熱をあくまで情欲で表すやり方を、彼女はユージンに控えるどころか、やめずに続けた。彼のフリーダへの情熱がこれを妨げると人は思うだろうが、割と強引な触れ合いをはかり、自分への気配りを無理強いするアンジェラの存在は嫌悪の防壁を何度も打ち破った。もし彼が独身だったら、誰か新しい夢中になれる相手ができるまで空閨をかこっただろう。結局、自分からもアンジェラからも逃げられず、時々吐きたくなるような関係が延々と続いた。
実家や近所にいるブルー家の人たちは、ユージンに会えて喜んだ。新聞が報じたように、彼が最初の個展で大成功を収め、二回目の個展でも勢いを失わなかった事実のおかげで、みんなが彼を高く評価した……七月にパリの絵がパリで展示されることを告げるとても興味深い手紙がシャルル氏から届いていた。この家庭的な雰囲気の中でアンジェラは紛れもなく女王だった。そしてユージンは万能の特権が与えられて好きなように振る舞うことができた。このときユージンは注目の的だった。しかし彼の四人のしっかりした西部の義兄弟は、自分たちがユージンを普通ではないと考えている態度を全然示さなかったので、そうは見えなかった。ユージンは彼らのタイプ……銀行家、弁護士、穀物商、不動産屋……ではなかったが、彼らはユージンを誇りに思った。彼はタイプが違っても、同時に自然体で、穏やかで、謙虚であり、実際よりもはるかに彼らのことに関心を持っているように見えがちだった。政治、経済、農業、社会の細かい問題にまで毎時間耳を傾けようとした。ユージンにとってこの世界は知りたいことの塊であり、他の人たちがどんな生活をしているのかをいつだって知りたいと思った。いい話が大好きで、自分は滅多に話さなかったが、話し手からすればものすごく聞き上手だった。感じたユーモアを楽しんで、目が輝いて、顔全体が明るくなった。
このように、注目され、歓迎され、彼の芸術への関心がまだ途絶えていない事実があっても(パリの個展は最初の爆発的な力はなくなりかけていた)、自分の状況が下向いていることをユージンは痛感していた。彼の心は正常ではなかった。これは確かだった。お金の問題は改善どころか悪化していた。まだ多少の売り上げは期待できても(パリの絵はニューヨークでは売れなかった)こればかりは自信がなかった。この帰省で千七百ドルのうちの二百ドルが費やされた。予定どおり、秋にシカゴへ行くとなると、さらに出費がかさむだろう。千五百ドルでは一年も生活できない……せいぜい六か月だった。今の状態ではユージンは絵もイラストも描けなかった。二つの原画展の絵画が妥当な期間内にもっと売れなければならない。そうしないと窮地に陥ることになる。
一方、ニューヨークとパリでの経験からユージンの将来性を高く見積もっていたアンジェラは、あくまで彼女の判断だが、彼をうまく管理できそうだったので、再び楽しみ始めていた。ユージンはフリーダ・ロスと少しは心を通わせていたかもしれない……これは大したことなかったのかもしれない、さもなければ自分の目についただろうとアンジェラは思った……しかし何とかそれをぶち壊した。ユージンは当然機嫌を損ねたが、それは他の何よりもアンジェラが喧嘩腰だったからだった。アンジェラの感情のこうした荒ぶりは……必ずしも前もって考えられたものではなかったが……どうしても欠かせないものに思えた。自分がもう既婚者であることと、昔みたいに若い娘に目を向けたり追いかけたりできないことをユージンに理解させねばならなかった。アンジェラは、ユージンが自分よりもかなり若い気質で、とても子供っぽくなりがちなことをよく知っていた。このせいでどこででも問題を起こしやすかった。しかしアンジェラが彼を見張って、彼の注意を彼女に釘付けにしてしまえば、すべてはうまくいくだろう。それに、他のすばらしい特性がすべてあった……ルックス、温厚な態度、名声、才能。ユージン・ウィトラ夫人と自己紹介することは何と楽しいことだったか。彼を知る人たちの驚く様子は見ものだった。大物が彼の友人であり、芸術家が彼を称賛し、庶民は彼を立派で、思慮深く、能力があって、とても価値ある人物だと考えた。ユージンはどこででもみんなに好かれた。これ以上何を望めるのだろう?
アンジェラはユージンの本心を何も知らなかった。同情や、彼が彼女に密かに抱く不公平感、人生全体を不公平だととらえるかなり病的な感じ方、物事を親切に、あるいは少なくとも密かに残忍ではないやり方で処理したいと願うあまり、ユージンは自分が本当にアンジェラを気にかけているふりをするように、快適で幸せに見えるように、すべての気分を仕事ができないせいにするように、追い込まれた。ユージンの考えをはっきり読み取れなかったアンジェラには、こういうことがわからなかった。ユージンは時々アンジェラの理解が及ばなくなるほど繊細すぎることがあった。アンジェラは愚か者の楽園に住んでいた。眠っている火山の上で遊んでいるのだった。
ユージンは全然回復しなかった。秋までに、シカゴで生活すればもっと良くなるかもしれないと考えるようになった。そこでならおそらく健康は回復するだろう。ユージンはブラックウッドにほとほとうんざりしていた。延々と続く木陰の芝生など今の彼には何の価値もなかった。最初は喜んでいた小さな湖も、小川も、野原も、すっかり陳腐になってしまった。ジョーサム老人は、優しくて安定したずっと変わらない物事に対する態度と、人生についての興味深い意見で、いつもユージンを喜ばせた。マリエッタは、そのウィットと、気立ての良さと、直観的な理解力でユージンを楽しませた。しかしユージンはたとえ彼らが面白くて価値があっても、平凡な普通の安定した人たちと話しているだけでは幸せになれなかった。今は単純なことをして、単純な生活を送ることに、イライラしていた。ロンドンやパリに行かねばならない……仕事をしなければならない。こうしてのんきに暮らしてはいられなかった。彼が働けないことは大した問題ではなかった。彼は努力しなければならないのだ。こうして孤立するのは最悪だった。
その後シカゴで過ごした六か月の間にユージンは自分が納得できる絵を一枚も描かなかったし、絵が変更に変更を重ねた末に台無しになることもなかった。驚くほど病気に効く快適な渓谷の春について話してくれた人がいたので、それから三か月はテネシーの山の中にいた。そこは春が色鮮やかな夢のように訪れ、生活費がほとんどかからなかった。ケンタッキー州南部の涼しい尾根で夏の四か月を過ごして、その後ミシシッピ州ビロクシのメキシコ湾で五か月過ごした。こうなったのは、ケンタッキー州とテネシー州にいた悠々自適な人たちが、このずっと南の楽しい冬のリゾート地についてアンジェラに話したからだった。この間にユージンの資金、ブラックウッドを離れるときに持っていた千五百ドル、パリの個展後の秋から冬にかけてニューヨークとパリで売れた絵の代金二百ドル、百五十ドル、二百五十ドルの合計額、数が月後にシャルル氏がたまたま売りさばいた古いニューヨークの風景画の一枚の代金二百ドルは、ほとんどなくなった。まだ手元に五百ドルあったが、売れている絵も描かれた絵もなかったので、この先収入の目処は立たなかった。アンジェラと一緒にアレキサンドリアに戻れば、あと半年は切り詰めた生活を送れたかもしれないが、フリーダの件があるので二人ともこれには反対だった。アンジェラはフリーダが怖かったので彼女がいる限りその町には行かないと決めていたし、ユージンは、帰省が薄れつつある芸術家の先行きを明示することになるので恥ずかしかった。ユージンにとってブラックウッドは論外だった。二人はアンジェラの両親のところに十分長居した。もし良くならなかったら、すぐにこの芸術に関する考えを完全にあきらめねばならなかった。絵を描く努力だけでは生活できなかった。
自分は狂ってしまった……悪魔に取り憑かれた……一定の人々は悪霊に追われ、星に運命づけられ、生まれたときから失敗や事故に遭遇するよう定められている、と彼は考え始めた。彼が不運の四年を迎えることをニューヨークの占星術師はどうやって知ったのだろう? ユージンはすでに占星術師には三人も会っていた。どうしてかつてシカゴで彼の手相を見た男は、ニューヨークの占星術師と同じように、手相に受難の時期が二回と出ていて、その半ばで彼の人生の流れは根本的に変わりそうだと言ったのだろう? 人生に何かの決まった法則があるのだろうか? 彼が本で読んだ哲学者や科学者のいわゆる自然主義派は、何でも知っているのだろうか? 彼らはいつも宇宙の定められた法則……化学や物理学の不変の法則……について語っていた。どうして化学や物理学は、彼の体の異常や、占星術師のまことしやかな予言や、彼の障害や幸運を予言するものとして彼が自分のために観察するようになった兆候や前兆に、光を投じなかったのだろう? 左目がひきつると、誰かと……決まってアンジェラだが……喧嘩しなければならないことにユージンは最近気がついた。一ペニーでもお金を見つけると、お金が手に入った。小切手の同封された絵の売上報告書が届くときは毎回その前にどこかでコインが発見されていた。雨の日にシカゴのステートストリートで一ペニーを見つけたら、パリで絵が二百ドルで売れたとシャルル氏が手紙をくれた。テネシー州の道ばたの埃の中で古いアメリカの三セント硬貨を見つけると、古いアメリカの風景画の一枚が百五十ドルになったとシャルル氏が手紙をくれた。ビロクシ湾近くの砂浜から一ペニーが出てくると、また売上報告書が届いた。それが続いた。ドアが軋むとその家の住民が病気になりやすいことを知った。家の前で遠吠えをしている黒い犬は、確かな死の前触れだった。ユージンはこれを自分の目で見たことがあった。この前兆は、ビロクシで病気になった男性で経験して証明済みだと彼の母親が話したものだった。男は病気だった。犬が一匹通りに沿って走って来てここの前で止まった……それが黒い犬だった……やがて男は死んだ。ユージンはこれを自分の目で見た……つまり、犬と、病人への死のお告げをである。犬は午後四時に吠えた。すると翌朝、男が死んだ。ユージンはドアにかかるクレープの喪章を見た。アンジェラは彼の迷信深さをあざ笑ったが、ユージンは真に受けた。「ホレイショー、天にも地にもおまえの哲学で夢想する以上のことがあるのだ」
第十六章
ユージンはもうお金がないというところまで来ていて、今後どうやって生計を立てていくかを考えざるを得なくなった。不安と心気症的な絶望のせいで、体がかなりやつれていた。目に神経質な不安の表情があった。自然の神秘に思いを巡らせながら、どうすればこの状況を抜け出せるのだろう、自分はどうなってしまうのだろう、もし売れるとしたら次の絵はいつ頃、あとどのくらいすれば売れるのだろうと考えながら、ユージンは歩き回った。アンジェラは、ユージンの病気をただの一時的な軽いものと思っていたが、しばらく深刻な状態が続くかもしれないと感じるようになっていた。ユージンは体の病気ではなかった。歩行も食事も会話も十分元気に行えた。なのに仕事ができなかった。不安で不安でたまらなかった。
ユージンはまったく言及しなかったが、アンジェラは家計が悪化していること、もしくは悪化する恐れがあることを、彼と同じくらいよく認識していた。ニューヨークでとても人目につくスタートを二人で切っておきながら、今さら、うまくいかない恐れがあるなどと告白するのは恥ずかしかった。馬鹿馬鹿しい話だ……彼のすべての才能は健在なのだ! きっと彼はこれを克服するだろう、あと少しの辛抱だ。
アンジェラの無駄遣いをしない育てられ方と、もともとの節約家気質がここにきて役に立った。彼女は細心の注意を払って買い物をして、一番得になる買い方をして、ガラクタでも小銭でも大切にすることができた。ユージンが初めてブラックウッドを訪れたときに気づいたように、アンジェラには裁縫の心得があり、帽子のデザインも得意だった。ユージンが最初にお金を稼ぎ始めた頃、これからはオーダーメイドの服を着て、優れたドレスメーカーの技術を堪能しようとニューヨークで思ったが実行したことはなかった。アンジェラは根っからの倹約家だったので、しばらく様子を見ることに決めていた。その矢先にユージンが健康を損ねたので、もうそれどころではなくなった。アンジェラはこの嵐が長引く可能性を恐れて、必要になりそうなものは何でも修理し、汚れをとり、アイロンをかけ、仕立て直しを始めた。ユージンが新しいものを買ったらと提案したときでさえ、アンジェラはそうしようとしなかった。二人の将来……ユージンでは生計を立てるのが難しくなること……を考えて、アンジェラは思いとどまった。
ユージンは何も言わなかったが、これに気がついた。アンジェラが感じた不安、アンジェラが示した辛抱強さ、アンジェラが気まぐれや欲望を彼のために犠牲にしたことを、ユージンは知らないわけではなかった。それに、まったく感謝しないわけではなかった。アンジェラにはユージンの人生以外に人生……関心……が何もないことが、ユージンにはっきりわかり始めてきた。アンジェラは、ユージンの影であり、ユージンの分身であり、ユージンの召使いであり、ユージンがそうあってほしいと彼女に望むものでしかなかった。「小さなおさげ髪」は、彼が冗談でつけた愛称の一つだった。西部で子供の頃、他人の使い走りをいつもおさげ髪と呼んだ。「球打ち」して遊ぶときに、誰かに打球を追いかけてもらいたければ「おーい、ウィリー、頼むよ、僕の代わりにひろってきてくれないか?」と言った。アンジェラは彼の「使い走り」だった。
二人が一緒に放浪生活を続けた約二年間は、もう嫉妬の出番はなくなかった。理由は、アンジェラがいつもユージンにつきっきりで、ほとんど唯一の彼の話し相手だったことと、二人が一か所に長く滞在せず、悲惨な結果を生んだかもしれない親密な関係を彼が築けるほど、自由に社交ができる環境にいなかったからだった。何人かの若い娘がユージンの目を奪った……若くてスタイル抜群の娘たちはいつも目を奪っていたが、ユージンには社交的な出会いのチャンスがまったくなかった、もしくはほとんどなかった。二人は知っている人たちと一緒に生活しているわけでも、訪問先の地元の社交界に紹介されてもいなかった。ユージンは時々盗み見る機会がある若い娘たちを見て、彼女たちのことをもっとよく知ることができたらいいのにと願うしかなかった。結婚について伝統的な価値観に縛られるのは……社会学的な視点でしか美に興味がないふりをするのは……つらかった。しかし彼はアンジェラ(と、この件に関して伝統的な価値観を有するすべての人たち)の前でこの立場をとらねばならなかった。彼が特定の女性に少しでも関心を示そうものならアンジェラが猛反発するからだった。彼の発言はすべて一般論でなければならず、そういう性格の中に抑えられねばならなかった。少しでも感情や称賛の態度を見せようものならアンジェラはユージンの選んだ相手を批判したり、褒める理由がないとさとし始めるのだった。もしユージンが特別な関心を示したら、アンジェラは彼の最新の理想像をバラバラに引き裂こうとしただろう。アンジェラは容赦しなかった。彼女の批判が何に基づいているのかユージンははっきりとわかっていた。笑止千万だったがユージンは何も言わなかった。彼は自分を守ろうとするアンジェラの勇ましい努力を称賛さえしたが、アンジェラが勝ったように見えるすべての勝利は、彼の檻の鉄格子を強固にする役にしか立たなかった。
この頃ユージンは、アンジェラがどれほど熱心に、辛抱強く、心から彼の体調を考えているかを知り、感謝せずにはいられなかった。アンジェラにとってユージンは明らかに世界一偉大な男性であり、偉大な画家であり、偉大な思想家であり、偉大な恋人であり、あらゆる点で偉大な人物だった。ユージンが稼いでいないことは、このときのアンジェラにはあまり大きな問題ではなかった。ユージンはいつかきっと稼ぐようになるだろう。それに、アンジェラは今、名声を手にしているのではなかっただろうか? ニューヨークやパリで彼がどれほどの者かを見た後で、ユージン・ウィトラ夫人になること以上の望みが彼女にあっただろうか? 今は集められるだけ集めて、自分の服や帽子を自分で作り、節約し、直し、アイロンをかけ、つぎあてでもすることがアンジェラにできることではなかっただろうか? ユージンだってもう少し年をとれば他の女にこんな愚かな感情を抱かなくなるだろう。そうなってしまえば大丈夫だ。いずれにせよ、ユージンは今はアンジェラを愛しているようだった。それが肝心だった。孤独で、不安で、自分に自信がなく、将来に自信がなかったからユージンはアンジェラのこういう惜しみない気遣いを歓迎した。これがアンジェラを欺いた。他の誰が自分を気遣ってくれるだろう、とユージンは考えた。他の誰がこういう時に親身になってくれるのだろう? ユージンは、他の魅力的な人たちの周囲に近寄らなければ自分は再びアンジェラを愛することができる、アンジェラに誠実でいられる、ともう少しで信じてしまうところだった。せめて他の女性や、彼女たちの称賛や美しさに向かうこの熱い欲望を抑えられたらいいのだが!
ユージンは病気で孤独だったから余計にそう感じた。もしも彼がこの時この場で健康を取り戻していたら、もしも彼がとても熱く夢見たように成功が彼のもとに舞い降りたなら、状況はこれまでと同じだっただろう。ユージンは自然そのものと同じでとらえようがなく、カメレオンのように変わりやすかった。しかし本当に重要なことは二つだった……針が地球の極を指すのと同じで、ユージンが忠実で、ぶれない二つとは……これを色で表現したいという願いと結びついた、人生の美しさに対する彼の愛、それと女性というか十八歳の若い娘の顔の形の美しさへの愛だった。十八歳の女性が迎える人生の開花!……ユージンには太陽の下でこれに匹敵するものが他になかった。これは春の木々の芽吹き、早朝の花々の開花、バラや露の香り、明るい水や澄んだ宝石の色、のようなものだった。ユージンはこれに背けなかった。これからのがれられなかった。これは楽しい幻想のようにユージンから離れなかった。そしてこれが部分的あるいは全体的に影を落としていた、ステラ、ルビー、アンジェラ、クリスティーナ、フリーダの魅力が時折現れて消えるという事実は、大して変わらなかった。これは鮮明であり続け、求めるものが多かった。ユージンはこれから逃れられなかった……考えずにいられなかった。彼はこれを拒むことができなかった。ユージンは来る日も来る日も毎時間これに悩まされた。自分は愚かだ、これは鬼火のように自分を破滅へと誘うだろう、しかも結局自分はそこに何の利益も見いだせない、と自分に言い聞かせたのに、それでもこれは消えようとしなかった。若者の美しさ、十八歳の美しさ! ユージンにとって、これがない人生は、冗談であり、卑しい奪い合いであり、苦役だった。家具や家や鉄の車やお店のような、くだらない細々した物しかない人生は、奮闘の中でいったい何を求めるのだろう? もっとみすぼらしい人間の居場所を作ることだろうか? 決してそんなことはない! 美しいものの居場所を作ることだろうか? きっとそうだ! どういう美しさだろう? 老人の美しさか?……馬鹿馬鹿しい! 中年の美しさか? くだらない! 成熟した者の美しさか? 違う! 若者の美しさか? そうだ。十八歳の美しさだ。それより上でも下でもない。それが標準だった。世界の歴史がそれを証明している。芸術、文学、ロマンス、歴史、詩……もしも人がこれや、これの魅力や、これが原因の争いや罪に目を向けなかったら、人は何に目を向けるのだろう? ユージンは美しさに目を向けた。彼が正しいことは世界の歴史が証明済みだ。誰がこれを否定できるだろう?
第十七章
耐え難い暑さになる夏が近づいたのと、大失敗しようがしまいが何か思い切った行動をとる必要が生じるほど資金が枯渇したのとで、ユージンはビロクシからニューヨークに戻ることに決めた。ケルナー商会の倉庫には最初の個展で売れ残ったかなりの数の絵と、パリ個展のほぼすべての絵があった。(シャルル氏は親切にもユージンのために絵の保管を申し出てくれた)。パリの絵はあまり売れなかった。ユージンが考えたのは、密かにニューヨーク入りして、どこかの裏通りか人目につかないジャージーシティかブルックリンに部屋を構えて、シャルル氏が保管している絵を返してもらい、小耳に挟んだことがある小さな画商か思惑買いしそうな誰かに作品を見に来てもらい、即金で買い取ってもらえないかを確認することだった。それができなければ、自分で一枚ずつあちこちのディーラーに持ち込んで処分してもよかった。ノルマ・ホイットモアを通してエーバーハート・ザンが面会を求めてきたのを今になって思い出した。ケルナー商会が高い関心を示し、新聞の批評がかなり好意的だったのだから、小さなディーラーなら自分と取り引きしたがるだろうと考えた。きっと彼らならこの作品を買ってくれるだろう。非凡な作品だ……それもかなりの。買わないはずがない。
ユージンは成功と失敗の形而上学的な側面を忘れていたか、さもなければ知らなかった。「人はその人が思っているとおりの人になってしまう」ことを彼はわかっていなかった。自分が自分をこうだと思っているとき、全世界の評価もまたそれと同じである……ありのままの自分ではなく、自分がこうだと思っている自分になるのである。感じたことは伝わる……どういう過程を経るかは知らないが伝わるのである。
とても落ち込み、無力に苛まれ、恐怖に取り憑かれた、いわば暗闇の中で舵の取れない船のようなユージンの精神状態は、彼を知る者全員、あるいは彼の噂を知る者全員に、印象として、無線通信のようにそのまま伝わった。最初にシャルル氏を驚かせたユージンの衰弱は、シャルル氏を落胆させ、彼のユージンへの関心を低下させた。ビジネスの世界にいる他の有能な成功者たちと同じで、シャルル氏が求めるのは強い男だった……成功の全盛期、能力の頂点にいる者だった。この力と関心の基準から少しでも外れるとシャルル氏は気になった。もしある人が挫折したら……病気になって人生に興味を失うとか、立場が影響を受けるとしたら、はなはだ残念かもしれないが、その状況下ですべきことはたった一つしかなかった……その人から離れることだった。どんな挫折であろうと同情するのは禁物だった。そういう連中とかかわりを持ってはならなかった。どうせ利益にはならないからだ。かつては彼の指導役であり、彼が成功したときはシカゴで彼の評判を聞いていたテンプル・ボイルやヴィンセント・ビアーズのような人たちや、ルーク・セヴェラス、ウィリアム・マコーネル、オーレン・ベネディクト、ハドソン・デューラなどは、ユージンはどうなってしまったのだろうと不思議がった。どうして彼はもう絵を描かないのだろう? ニューヨークの芸術家のたまり場でも見かけなかった! パリの個展の時に、同じような風景画を描きにロンドンへ行くと噂されたが、ロンドンの個展は実現しなかった。ユージンは旅立ちの春に、次はシカゴにするかもしれない、とスマイトとマクヒューに話していたが立ち消えになった。何の音沙汰もなかった。彼が大金持ちになったとか、絵に行き詰まったとか、正気を失ったなどの噂があったが、彼を知って彼にかなり関心を持った美術界はもうあまり彼を気にしなかった。ひどい話だったが……ライバルの画家たちは考えた……手強い相手がひとり減った。友人たちは残念がったが、人生はそういうものだった。ユージンは回復するかもしれない。もししなかったら……さて……
一年、また一年、さらに一年と時が経つにつれ、突然華々しく弾けて消え去った彼の謎は、この分野の才能ある人たちの語り草になった。彼はあんなに将来を約束された男だったのに! どうして彼は絵を続けなかったのだろう? 時折、会話や印刷物で言及されることはあったが、ユージンは死んだも同然だった。
ユージンがニューヨークに来たのは、所持金が三百ドルまで目減りした後だった。そこからアンジェラにブラックウッドに戻る旅費と、一緒に暮らせる準備ができるまでの滞在費分の百二十五ドルを渡した。長い議論の末に二人は最終的に、こうするのが一番いいと合意した。ユージンが絵もイラストも描けないとわかったので、彼がどうすればいいのか、はっきりした目処が立たなかった。わずかな所持金しかないのにアンジェラとここまで来るのは賢明ではなかった。いずれにせよアンジェラには、しばらく滞在しても歓迎してくれる実家があった。一方、ユージンは独りならどんな嵐でも乗り切れると考えた。
各地を放浪して約二年以上留守にした後の大都市の姿は、ユージンにとって最高に印象深かった。ケンタッキーやテネシーの山々や、ビロクシ海岸の寂寞の後で、人の群がるこの都会に戻ると、ほっとした。ここでは何百万もの人々が慌ただしく行き交っていて、想像を絶するほどたくさんの人生に、人の繁栄ばかりか不幸までもが、明らかに飲み込まれていた。地下鉄が建設中だった。ほんの数年前にはっきりしない不確かな始まり方をした自動車が、今は大流行していた。新しいデザインのすばらしい車が至る所にあった。ジャージーシティのフェリー乗り場から、地平線の目覚ましい変化をはっきり見ることができた。二十三丁目を横切り七番街を歩くだけで変わりゆく世界が見て取れた……立派なホテル、豪華なアパート、街をその欲望のままに形作っている見栄っ張りな人生が大挙して押し寄せていた。この壮大さと威容の一翼を担いたいと常に望んでいたので、ユージンはひどく落胆した。今の彼はそれどころではなかった……もう二度とそうなれないかもしれなかった。
春が始まったばかりなので、まだ底冷えのする寒さが続いていた。ユージンは薄手のオーバーコートを買わざるを得なかった。ずっと使ってきた立派なコートを置いてきてしまったため、他に着るものがなかった。体裁を保つにはこれが必要だと考えた。ビロクシからニューヨークに来るのに、大事に保管していた百七十五ドルのうちの四十ドルを費やし、さらにこのコート代に十五ドルが必要だったので、新たな活動を始めるのに百二十五ドルしか残らなかった。ユージンはこの結果をひどく心配していたが、不思議と、自分にとって壊滅的なはずがないとずっと意識下で感じてもいた。
十一番街近くの西二十四丁目のそこそこ立派な地区で安い部屋を借りたのは、立ち直るまで知的な生活に足を踏み入れず鳴りを潜めていたいというだけの理由だった。そこは彼が風景画の一枚で描いたような古くてみすぼらしい赤レンガ街にある古くてみすぼらしい家だったが、必ずしも悪くはなかった。住民は貧しいが、かなり知的だった。貧困がとりえのこの地域を選んだのは、ノース川に近いので、盛んな河川交通が見られたことと、荷馬車が何台も停められる空き地のおかげで、唯一の西側の窓からこの生活全体が一望できるからだった。二十三丁目の角のあたりの、別の多少朽ちた住宅に、手頃な値段のレストランを兼ねた下宿屋があった。そこは二十五セントで食事ができた。ユージンは周囲の生活環境を全然気にしなかった。そこはお金の面で見れば安くて貧乏たらしくて、薄汚れていた。しかしずっとここにいるつもりはないとの思いはあった。こういうところの人たちは彼を知らなかった。それに、西二十四番街五五二番地は悪いと思わなかった。そこはニューヨークに点在する古い町並みの一つで、画家たちが見つけて住みたがる場所だったかもしれない。
波止場の検量係の妻で、そこそこ立派なアイルランド人の女主人からこの部屋を借り受けてから、ユージンはシャルル氏を訪ねることにした。金に困って落ち目になっても、自分がまだかなり立派に見えることを知っていた。服装は立派で、オーバーコートは新品で、態度はきびきびして毅然としていた。しかし、やつれて黄ばんだ顔と、何かの悩みをかかえた心を示す熱病じみた光を帯びた目は、自分ではわからなかった。ユージンは五番街にあるケルナー商会の外に立った……ドアから半ブロックのところで、中に入ろうかどうかと何を言おうか、迷っていた。シャルル氏には手紙で時々、健康がすぐれないことと、仕事ができないことを書いていた……いつもすぐによくなればいいと願っていた。別の絵が売れたという返事が来るのをいつも心待ちにしていた。一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目になろうというのにユージンは一向に回復しなかった。シャルル氏は厳しい目でユージンを見るだろう。ユージンはひるまず相手の視線に耐えねばならないだろう。今の張り詰めた状態でこれは大変だったが、今でさえ一応立ち向かえないわけではなかった。無理してでもいつかは人生を巻き返すつもりだった。
ユージンは最終的に勇気を出して中に入った。するとシャルル氏が暖かく出迎えた。
「これは誠にうれしいですね……またお目にかかれるとは。もうあなたはニューヨークにお戻りにならないのではとほとんど諦めておりました。体のお加減はいかかですか? それと、ウィトラ夫人はどうなさいました? 三年ぶりとは思えませんね。元気そうでいらっしゃる。絵の方は今どんな調子なんですか? また何かやれるところまで来ているんですか?」
ユージンはこの時、シャルル氏が自分を絶好調だと信じているように感じたが、人を見る目があるこの鋭い男は、どうしたらこんなに大きな変化をもたらすことができるのだろうと不思議がっていた。ユージンは八歳は老けたように見えた。眉間にはシワが目立ち、倦怠感と疲労感が漂っていた。シャルル氏は内心考えた。「ううん、この男はもしかしたら画家として終わったかもしれない。彼に初めて会ったときに感じた何かが彼から消えてしまった。アークライトのようにパワーを放射するあの炎と強烈な熱意が。今、彼は何かを引き寄せようとしているようだ……まるで溺れていく自分を救うために。声なき声で助けを求めている。ああ、情けない!」
最悪なことに、シャルル氏の考えでは、こういう場合は手の施しようがなかった。自分で何もできない芸術家のためにできることは何もなかった。彼の芸術は終わった。彼にとって最も賢明なのは、努力するのをやめて、他の仕事に就き、これまでのことをすべて忘れることだ。回復することだってあるかもしれないが、これは疑問だった。ノイローゼが一生続くことは珍しくなかった。
ユージンは相手の態度で何かそれらしきことに気がついた。それが何なのかは正確にはわからなかったが、シャルル氏はいつも以上に何かに心を奪われ、慎重で、よそよそしく思えた。彼の態度は必ずしも冷淡ではなかったが、あまり力になれないことを頼まれるのを恐れているかのような及び腰だった。
「パリの風景画はここでもパリでもあまり好評ではないようですね」ユージンはこんなことは些細な問題だと言わんばかりの涼しい顔で、それでいて何か良い言葉をかけてもらえるのを期待しながら言った。「もっと評判がいいと考えていたんです。だからって、何でもかんでも売れると思ってはいませんけど。ニューヨークの絵は順調でしたね」
「あれは実によかった。私が予想したよりもずっとよかった。私だってあんなにたくさん売れるとは思っていなかった。あれはとても新しくて、流行のトレンドからはかなり外れていたからね。一方、パリの絵はアメリカ人にとって悪い意味で外国の絵だった。つまり、外国から来たもの、でもどの地域にも属していなくて、テーマ的に言えばその魅力は普遍的なんです。あれがあのジャンルの芸術に入れられることはありませんでした。あなたのパリの絵は、色使いや構図や着想を芸術と考える人にとっては、もちろん最高の意味で絵画でしたが、普通の一般人にとってはただのパリの風景画でしかなかったのだと思います。私が言いたいことはわかりますね。その意味で、あれは外国の作品だった。とにかくパリが描かれていましたからね。ロンドンかシカゴだったらもっとうまく行ったかもしれない。しかしあなたには喜んでいい理由がいくらでもある。あなたの作品はここでもフランスでもはっきりと他とは異なる印象を与えました。もとに戻れるとあなたが感じるときに、あなたはきっと時間があなたに何の害も及ぼさなかったことに気がつきますよ」
シャルル氏は丁重な歓待に努めたが、ユージンがまたいなくなったときは清々した。
ユージンはやるせない気持ちを抱えて通りに出た。状況は飲み込めた。しばらくはどん底のあぶれ者だ、待つしかないだろう。
第十八章
次にすべきことは、残された絵画に対して何ができるかを他の画商と確認することだった。絵はかなりたくさんあった。もしすべての絵に妥当な値段をつけることができれば、しばらく……とにかく再び自立できるようになるまで……生活できるはずだった。彼の静かな部屋に届いて、かなりばつの悪いおぼつかない手つきでユージンに荷解きされ、周りに並べられたとき、絵はすばらしいものに見えた。評論家が絶賛して、シャルル氏がすばらしいと思ったものが、どうして売れないのだろう? 画商ならきっと買ってくれるだろう! ところが、いざ再び表に出て、歩道から特徴のある画廊が見えてくると、勇気がくじけた。先方が絵を求めているわけではなかった。彼は非凡だったかもしれないが芸術家は……優れた芸術家は……いくらでもいた。ユージンの作品はケルナー商会と一体とみなされていたため、他の有名な画商のところにそうやすやすと駆け込めなかった。小さなディーラーの中には買う者もいるかもしれないが、全部は買わないだろう……せいぜい一、二枚、しかも捨値で買い叩くのが落ちだろう。何てざまなんだ!……三年前は成功間近の全盛期にいたユージン・ウィトラともあろう者が、薄暗い裏通りの家の一室に立って、夏を乗り切る生活費をどうやって工面しようか、つい二年前に自分の財産の実体に思えていた絵をどうやって売ろうか、と考えていた。見せなくてはならないものがあるから見に来てくれないか、と中堅クラスのディーラー数名に声をかけてみることにした。いざとなったら、四番街、六番街、八番街、その他各地にたくさんいるもっと小さなディーラーに何枚か即金での買い取りを持ちかけるつもりだった。それでもユージンはすぐにお金を作らなければならなかった。アンジェラをいつまでもブラックウッドに放っておくわけにはいかなかった。
ユージンは、ジェイコブ・バーグマン、ヘンリー・ラルー、ポトル・フレールのところへ行き、手持ちの作品を見る気があるかどうかを尋ねた。自分が経営者でもあるバーグマンはすぐにユージンの名前を思い出した。彼は個展を見ていたが、熱心ではなかった。一回目と二回目の個展の絵の売れ行きはどうだったのか、何枚だったのか、いくらで売れたのか、と根掘り葉掘り尋ねた。ユージンは彼に話した。
「一、二枚ここに持ち込んで売りに出してもいいよ。どうやるかは知ってるよね。絵を気に入ってくれる者がいるかもしれない。わかりませんがね」
手数料は二十五パーセントで売れたら報告するとバーグマンは説明した。彼は絵を見に来る気などなかった。ユージンは好きな絵を二枚選ぶことができた。ヘンリー・ラルーとポトル・フレールが相手でも状況は同じだった。しかもフレールはユージンのことを聞いたことがなかった。二人とも絵を一枚見せてほしいと言った。ユージンのプライドは、相手が知らなかったことでちょっぴり傷ついたが、事の成り行きを見ていて、自分は多くを期待しすぎているかもしれないと感じた。
他の画商にまで絵の販売を任せたくはなかった。雑誌ならもし売れれば一枚あたり最低でも百二十五ドルから百五十ドルは期待できたかもしれないが、今さら恥ずかしくて持ち込めなかった。ユージンは美術誌の業界に、こんな状態になっていたのかと思われたくなかった。ハドソン・デューラは彼の親友だったが、もう〈トゥルース〉のアートディレクターではないかもしれない。現にデューラはもうそこにいなかった。そのときはジャン・ヤンセンと他にも数名いたが、彼らは間違いなく今ユージンを成功した画家だと考えていた。まるで彼のプライドが自分で乗り越えられない壁を作っているみたいだった。これができず、絵も描けなかったら、ユージンはどうやって生きていくことになるのだろう? 絵を一枚小さな画商に持ち込んで直接売ってみることにした。小さなディーラーなら彼だとはわからないかもしれないし、直接買い取るかもしれない。これなら、相手の提示額が少なすぎることがなければ、プライドをあまり傷つけずに、何でも受け入れることができた。
五月のある晴れた日の朝、ユージンはこれをやってみた。結果がないわけではなかったが、これは彼のすてきな一日を台無しにしてしまった。ニューヨークの風景画を一枚とり、アッパー六番街で目についた三流の画商に持ち込み、自分のことは何も告げずに、買う気があるかどうかを尋ねた。小柄で色黒のセム語族系の店主はじろじろとユージンを見てから絵を見た。ユージンが困っていて、お金が必要で、絵を売りたがっていることはひと目でわかった。そういうことなら何でも引き取ろうと当然考えたが、だからといってその絵が欲しいとまでは言い切れなかった。それはあまり人気のあるテーマではなかった。L鉄道の線路の向こうに六番街の有名レストランが見えていて、光の合間に土砂降りの雨が降り注いでいた。数年後にこの絵は中古家具のセールでカンザスシティのコレクターに拾われ、その男の秘蔵の品々に混じって飾られるのだが、今朝はその真価をあまり発揮しなかった。
「こちらで時々、店頭に絵を展示して販売しているのを見かけるのですが、原画を買うのですか?」
「たまにはね」男はそっけなく言った……「しょっちゅうじゃないよ。何をもっているんだい?」
「少し前に描いた油絵を一枚持参しました。時々こういうのを描くんですよ。ひょっとしたらこちらで買っていただけるかと思いましてね」
ユージンが紐を解き、包み紙を剥がし、見えるように絵を立てかける間、店主はしぶしぶ脇に立っていた。これは十分に印象的だったが、店主には人気のある作品には見えなかった。「これはここで売れるような代物じゃないな」店主は肩をすくめながら言った。「いい絵だよ、でもうちじゃ、どんな絵もあんまり需要がないんだ。これがただの景色とか、海とか、何かの人物画だったらね……人物画が一番売れるんだ。だけどこれはね……うちでさばけるか怪しいな。そちらがお望みならそのまま売りに出すけどさ。誰かが気に入るかもしれないし。だけどうちが買いたい絵じゃないよ」
「セール品にしたくはないんです」ユージンはイラッとして答えた。自分の絵を安っぽい裏通りの画廊に置いておくなんて……しかもセール品で! ユージンにそのつもりはなかった。ユージンは辛辣な言葉を返したかったが、こみ上がる怒りを抑えて尋ねた。
「もしあなたが欲しかったら、これはいくらになりますか?」
「そうだな」店主は反射的に唇をすぼめながら答えた。「十ドルにもらなんよ。うちじゃ、何を展示しても大金はふっかけられないからね。いい商売は全部、五番街の店が持ってっちまうんだ」
ユージンはたじろいだ。十ドルだと! まあ、何て馬鹿げた金額なんだ! そもそも、こんなところへ来て何になるっていうんだ? アートディレクターかもっといい店を相手にすれば、もっといい取り引きができるはずだ。しかしそういう相手はどこにいるのだろう? 彼は誰を相手に取り引きをすればいいのだろう? すでに回った大きな店以外で、ここよりもずっといい店は、どこにあるだろう。絵を保管して、今は何か他の仕事をした方が得策だった。ユージンは全部で絵を三十五枚持っているだけだった。この値段だと全部なくなったとき、手もとにあるのはたったの三百五十ドルなのだ。それが彼の何の役に立つのだろう? ユージンは自分の作風とさっきのちょっとした経験から、絵はあれ以上高く売れないことを確信した。おそらく十五ドルかそれ以下の金額が提示されて、結局それ以上になることはないだろう。絵がなくなって、彼は何もかもなくしてしまう。何かの仕事について、絵は残しておくべきだ。しかし何をすればいいのだろう?
ユージンの立場の人間にとって、自分にできる何か他のことを見つけるというこの問題はとても難しかった……彼は今、三十一歳で、芸術的な判断力と能力を高めるために身につけたことを除けば何の訓練も受けていなかった。もちろん、心の病が最初の大きな障害だった。そのせいでユージンは神経質で、やる気がなく見えたので、従業員の姿に元気で健康な男らしさを探している人には多少嫌がられた。次に、見た目と態度が明らかに芸術家のものになっていた……気取り屋で、人見知りで、繊細だった。特に、彼の目に平凡に映る人や、相手の印象や態度が彼の上に立とうとしているように見える人を、ひどく気にして距離を置いた感じになることも時々あった。結局、ユージンは自分の本当にやりたいことが何も思いつかなかった……芸術に関係する能力が復活するとか、この危機でその力が役立つはずだという考えがずっと彼から離れなかった。一度アートディレクターになりたいと考えたことがあった。自分なら優秀なアートディレクターになると確信していた。またある時は、書くことをやりたいと思ったが、これはずいぶん昔のことだった。ユージンはシカゴの新聞の特集記事以来、何の文章も書いたことがなかった。これに考えを集中させようと努力を重ねたが、今の自分は書くことに向いていないとすぐにわかった。アンジェラに知的で一貫した考えに基づく手紙をしたためるのがユージンは難しかった。ユージンは古いシカゴ時代を振り返った。集金人やクリーニング屋のワゴンの運転手だったことを思い出しながら、そいう仕事をするのもいいかもしれないと決心した。路面鉄道の車掌とか衣料雑貨の店員の職に就くのも選択肢として魅力的に思えた。一定の時間内に決められた手順で何かを行う必要があることに、治療効果があるとユージンは考えた。どうすればそういう職に就けるだろう?
普通の職に就けるくらい十分に体は動かせたので、もし彼が心を病んでいなければ、これはそれほど難しい問題ではなかっただろう。シャルル氏かアイザック・ウェルトヘイムにでも素直にひと言頼めば、影響力を借りてこの場を乗り切る何らかの職を手に入れられたかもしれない。しかし彼はもともと神経質すぎたので、今の弱気が彼をますます臆病な引っ込み思案にしてしまった。自分の創造的才能を使わない仕事をしようと考えたときに、ユージンにはたった一つだけ望むことがあった。それは人目につかないようにすることだった。彼のような風貌、名声、嗜好、感性を持つ者が、どうすれば車掌や衣料雑貨の店員や鉄道員や運転手たちと一緒にやっていけるのだろう? そんなことは無理だった……彼に力はなかった。それに、これはすべて過去のことだった。あるいは彼の思い込みだった。そんなものはアートスクール時代に置いてきてしまった。今は外に出て仕事を探さなければならない! 彼はどうすればいいのだろう? ユージンはもしかしたらまだ絵が描けるかもしれないことを確認するために部屋へ戻ったり、アンジェラに長くてとりとめのない感情的な手紙を書いたりしながら、何日も何日も街中を歩いた。哀れだった。憂鬱に襲われると、つい絵を持ち出しては売り、時には何マイルも持ち回した末に十ドルとか十五ドルで手放すこともあった。唯一の救いは歩くことだった。どういうわけか歩けなくなってしまい、最悪の気分だった。自然の美しさと、人々の活気は、彼の心を楽しませ、気を紛らわせてくれた。夕方に何度か、まるで大きな変化が自分の身に起こったかのような、まるでこれから回復に向かうかのような気分を感じながら、部屋に戻ったが、これは長く続かなかった。しばらくすると、また元の気分に戻った。何かをしなければならない……あと少しで秋と冬がまた来るのに自分には何もない……と気づくまで、こうして流されるように三か月を費やした。
ユージンは必死の思いで、まずアートディレクターの職に就こうとした。しかし雑誌の出版社との面接を二、三回受けてすぐに、こういう地位は経験のない者には与えられないことがわかった。他の何事でもそうだが、これにも見習いは必要で、他所でこの分野の地位にいた者が最初に声をかけられた。ユージンの名前や姿は、関係者の誰にも、いかなる形であれ、馴染みがあるとも重要だとも響かないようだった。先方はユージンをイラストレーターや画家として話に聞いたことはあったが、今の彼の姿を見れば、彼が求めているのは病人の避難所であって、活気ある建設的な地位ではないとわかったので、採用するつもりはまったくなかった。次に大手出版社の三社にあたってみたが、先方はその立場の人材を求めていなかった。本人は知っているつもりだったが、実を言うとユージンはこの地位の詳細も責任もろくに知らなかった。あとは、衣料雑貨の店か、路面鉄道会社の登録所か、大手鉄道会社や工場の求人係くらいしかなかった。精糖所、タバコ工場、運送会社、鉄道貨物会社を見て回り、このうちのどれかで週給十ドルの地位が得られるだろうかと考えた。その地位を手に入れることができて、さらにジェイコブ・バーグマンか、ヘンリー・ラルーか、ポトル・フレールの店で展示中の絵のどれかが売れれば、何とかやっていけるかもしれない。たまに十ドルか十五ドルで絵を売ることができれば、ここでアンジェラと一緒に暮らすこともできるかもしれない。しかしユージンは何もしていないのに食費と部屋代に週七ドルを支払っていて、ニューヨークのここで生活を始める費用の全額を払ってしまうと、最初の旅行資金の残金百ドルを死守するのでやっとだった。しばらくしてから後悔するのが怖くて、こういう形ですべての絵を手放すところまでは踏み切れなかった。
健康と若さと野心の三拍子そろった絶好の条件下でも仕事は得難いのに、不利な条件下で仕事を得る難しさは力説するまでもない。もしできるのであれば、応募を検討するために設けられた特別の日に、すべての衣料雑貨業者の採用部門やすべての路面鉄道の登録所の入口で、あるいは新聞に特定の男女の求人広告が掲載されたすべての工場や店舗や事務所で、待っている四十人、五十人、百人の屈強な男たちの集団を想像するといい。何度か応募したとき、もしくは応募しようとしたとき、ユージンは変な連中に先回りされていているのに気がついた。彼らはユージンが近づくとユージンをじろじろと見て、思うに、彼のようなタイプの人間でも求人の応募に来ることがあるのだろうかと不思議がっていた。彼らは自分とは根本的に違うようにユージンには思えた。ろくな教育を受けておらず人生の難しさを痛感している人たち、若年者、活気がなさそうに見えている人たち、みすぼらしく、腑抜けて、くじけたタイプ……ユージンのように何かもっとずっといい目に遭ったことがあるような人たちや、もっとずっとひどい目に遭ったことがありそうな人たちだった。ユージンをひるませたのは、十九、二十、二十一、二十二歳の明るく健康的でやる気がありそうな若者のグループの存在だった。数年前初めてシカゴに行ったときのユージンと同じような人たちが行く先々にいた。近づいても、自分が何かを探していることをいかなる形であれ示せないことに、彼はいつも気づくのだった。ユージンにはできなかった。勇気が出なかった。自分の方がはるかに優れて見えると感じた。自意識と羞恥心には勝てなかった。
男たちは列の先頭に立つために、早朝四時に起きて新聞を買い、すぐに記載された住所に駆けつけ、こうして応募者として最初に選考してもらうのだとこのときに知った。ウエイターや、コックや、ホテルの従業員などの他の応募者は、夏でも冬でも、雨でも雪でも、暑くても寒くても、午前二時に新聞を買うためにたびたび徹夜して、見つけた有望な住所へ駆けつけることを知った。人数が増え続けると、自分たちの個々のチャンスが危なくなるので、応募者たちが無愛想に、嫌味に、喧嘩腰になりやすいことを知った。こういうすべてのことが、夏でも冬でも、暑くても寒くても、雨でも雪でも、ずっと続いていた。下品な冗談や中傷が、疲れたり絶望して待っている人たちによって、人生や運や特定の個人や一般人に投げつけられるのを聞きながら、ユージンは見物人のように興味があるふりを装って時々立って見守った。今の状態のユージンにとって、これは恐ろしい光景だった。まるで上下から石臼ですりつぶされているようだった。この連中は籾殻だった。ユージンは今その籾殻の一部か、そうなる危険があった。人生が彼を選別していた。どんどん落ちていくのかもしれない。もう上昇のチャンスはないのかもしれなかった。
人生で生じる無意識の階層化や、自分自身をも分類して組み入れてしまう階層や類型や階級や、ある階級から別の階級へ人が自由に移動するを妨げる障壁の本質を完全に理解している人は、たとえ我々の中にいるとしてもほとんどいない。我々は自分の気質や必要性や機会に応じた、物質的な装いを自然に身につけるようになる。司祭、医者、弁護士、商人は、生まれながらにして彼ら特有の心構えを持っているようであり、事務員、溝掘り人夫、ビルの管理人も同様である。彼らには彼らなりの行動規範、同業者団体、階級感情がある。精神面で密接に関係しているかもしれないが、身体面ではかけ離れている。一か月の職探しが終わってみるとユージンは、それまで想像した以上にたっぷりとこの階層化について知ることになった。ユージンは、自分があることからは気質によって、あることからは体力や体重もしくはその不足によって、あることからは経験がないことによって、あることからは年齢によって、自然に締め出されることに気がついた。これらの項目のどれかが、あるいはすべてがユージンと違う人たちは、ユージンを横目で見がちだった。「あなたは我々とは違う」と彼らの目は言っているようだった。「どうしてこんなところに来るんだ?」
ある日、ユージンは車庫の外で待っている男の集団に近づいて、登録事務所の場所を聞き出そうとした。持ち前の偉そうな態度を捨てずに……捨てられなかった……近くにいた男に、知っているかどうかを尋ねた。これだけのことをするのにもありったけの勇気が必要だった。
「まさかあいつ、車掌の仕事を探しているんじゃないよな?」と誰かが言う声が聞こえた。なぜかこの一言がユージンの勇気をすべて奪った。ユージンは木の階段を上って申請用紙が配られる小さな事務所まで行ったが、申し込む勇気さえなかった。誰かを探しているふりをしてまた出ていった。その後、衣料雑貨管理部門の事務室前で、ある若者が「店員になりたがってるのがいますよ」と言うのを聞いてユージンは凍りついた。
もしも仲間の芸術家がかつて彼に話してくれたある作家の経験談を偶然思い出していなかったら、この当てのない不安な放浪がどのくらい長く続いたかわからない。その作家は、自分が神経衰弱にかかったのを知り、鉄道会社の社長に申し出たところ、彼が立派に代表するその職業への敬意として測量隊の見習いの地位を獲得し、国の遠方までの交通手段を与えられ、元気になるまで労働者の賃金で雇われた。ユージンは今、これは我ながらよく思いついたと考えた。なぜ今まで思いつかなかったのか、わからなかった。ユージンなら芸術家として応募することができた……本人が出向けば証明でき、健康を損ねたことにより個人的な能力が一時的に力を発揮できない立場から話せるので、何かを得るチャンスははるかに増えるだろう。これは彼が正々堂々と自分で獲得した地位と同じではないだろうが、給料が出るのだから、アンジェラの父親と一緒に農業をするのとは異なる地位だろう。