第1章~第10章
第一章
ユージンとアンジェラの結婚式が十一月二日にバッファローで執り行われ、予定通り、マリエッタが参列した。三人は滝とウエスト・ポイントへ行き、そこで女性たちは兄のデイビッドに会い、それからマリエッタが戻って家族に報告する手はずだった。こういう状況だったから、当然、式はいたって簡素だった。あるはずのお祝いの言葉はなく、配慮や承認を示す贈り物も……少なくともすぐには……なかった。この時期にユージンが西部に来るなんて絶対に無理だとアンジェラから両親や友だちには説明がしてあった。親類全員の厳しい目にさらされねばならなくなりそうな人前での式にユージンが反対なのを知っていたから、東部でユージンと落ち会ってそこで結婚することをアンジェラはいとわなかった。ユージンはまだ自分の身内にも打ち明けていなかった。前回帰省した時に、結婚するかもしれないことと、相手の女性がアンジェラであることを伝えてはあったが、彼の身内でアンジェラに会ったことがあるのはマートルだけで、しかもマートルはこのときアイオワ州オッタムアにいたため、家族の者はアンジェラについて何も知らなかった。ユージンの父親はいつの日かユージンがすごい結婚をしたと聞くのを心待ちにしていたから少し失望した。絵が雑誌によく掲載され、総じて優れた容姿の息子なら、チャンスが多いニューヨークで資産家の令嬢と結婚してもおかしくなかった。ユージンが田舎娘と結婚したければ、当然それでも構わなかったが、これで家族が栄光をつかむ可能性はなくなった。
ユージンにすれば、この結婚を祝う心境には到底なれなかった。自分は間違いを犯しているのかもしれないという意識が常にあった。状況と自分の弱さに押し切られて、果たさずにおいた方がよかったのかもしれない約束を果たしてしまったとの思いがあった。その満足の中に代償を見出すかもしれないが、ユージンはアンジェラを不幸な未婚の境遇から救いたい一心で突き進んだだけだった。すがるにしては細すぎる藁だった。そこに本当の満足があるはずがなかった。アンジェラは優しく献身的で、人生に、ユージンに、彼女が接するすべてのものに、苦労を惜しまぬ態度で臨んだが、彼女はユージンがいつも想像していたような真の伴侶……彼の存在のすべてであり究極のもの……ではなかった。このときの彼を動かした神の火はどこにあったのだろう? 将来の伴侶という高尚な考えか、それともシカゴの彼女の叔母の家を訪れた時に彼が最初に彼女に感じたあの強烈な感情だろうか? 何かが起きていた。理想に近づき過ぎたせいで、理想を下げてしまったのだろうか? 美しい花を手に入れて、埃の中で踏んづけてしまったのだろうか? 結婚は情熱がすべてなのだろうか? それとも本当の結婚はもっと高尚なもの……優れた思考と感情の結合……なのだろうか? アンジェラはユージンとそれを共有しているだろうか? アンジェラも時には高尚な感情や気分を持つことはあった。それでも取り立てて知的というわけではなかった……しかし音楽ではより優れたものに、文学ではある程度のものに反応するようだった。芸術について何も知らなかったが、多くのすばらしいものに感情的に反応した。二人の間で人生を末永く幸せにするために、なぜこれで十分ではないのだろう? 本当に十分ではないのだろうか? こういう要点をすべて検討した後でも、この結婚には何か問題があるという考えが依然として残った。義務を果たすという称賛に値するはずの行いをしたにもかかわらず、ユージンは幸せではなかった。ある意味では彼がその義務を生じさせるのに一役買った、あるいは生じさせてしまったのだ。男性が気の進まない社会的義務を果たしに行くように、ユージンは自分の結婚式に行った。楽しくて幸せな生活を送るかもしれないし、その真逆かもしれない。ユージンは、これが人生のためであるという……今日彼女と結婚すれば、残りの日々をずっと彼女と暮らさなければならないという……社会理論の重みと意義を直視できなかった。それが結婚について一般的に受け入れられている解釈だとは知っていたが、ユージンには魅力的に響かなかった。ユージンの意見では、結婚は一緒に生活したいという強い欲望に基づくべきであって、それ以外の何ものも関係なかった。ユージンは子供に付随する義務を感じなかった。なぜなら、彼は子供を持ったことがなく、欲しいとも感じなかった。子供は要するに足手まといだった。結婚は自然界の策略で、それによって人は種の存続という自然界の計画を実行することを強いられた。愛はおとりで、欲望はそれを手段に考案された繁殖計画だった。人が荷を引くために馬を利用するように、自然や種の精神は人を利用した。この場合の荷物は種の発達で、人は犠牲者だった。ユージンは、自分が自然や種の精神に何かの責任を負っているとは思わなかった。自分がこの世に生まれたいと頼んだわけではなかった。生まれてこのかた、寛大な扱いをされたことがなかった。なぜ自分が自然の言いなりに行動しなければならないのだろう?
アンジェラに会うとユージンは愛情をこめてキスをした。もちろん、彼女を見たことが、いつか来る出番をひたすら求めて心の中で拡大を続けていた欲望の感情を呼び起こしたからだった。最後にアンジェラに会って以来ユージンは女性との接触が皆無だった。主な理由は理想の女性が現れなかったことと、アンジェラに関する記憶と期待がとても身近だったからだ。アンジェラと再び一緒になったこのとき、昔の炎が襲来してユージンは式が滞りなく終わることを熱望した。結婚許可書は午前中に手配しておいた……アンジェラとマリエッタは到着した列車を降りて馬車に乗りメソジスト派宣教師のもとへ直行した。アンジェラにとってとても重要な式典でも、ユージンにとってはほとんど無意味だった。馬鹿げた儀式に思えた……婚姻事務局からもらったこの紙切れも、これが説く「愛し、敬い、大切にする」の文言もそうだった。できるのであれば、愛し、敬い、大切にするだろう……できなければ、しないのだ。結婚指輪を指にはめて「この指輪をもって私はあなたと結婚します」という言葉が耳に響くと、アンジェラはすべての夢がかなったと感じた。今や、名実ともにユージン・ウィトラ夫人だった。溺死や、生き恥をさらしたり、哀れな老後を孤独に耐えることを心配する必要がなくなった。画家の妻になった……しかも新進気鋭で……そしてニューヨークで暮らすのだ。目の前に何という未来が開けたのだろう! 結局ユージンは私のことを愛していた。私にはそれがわかるとアンジェラは思い込んだ。結婚するのが遅かったのは、彼が自分の地位をきちんと確立することが大変だったからだ。そうでなかったら、彼はとっくに結婚していただろう。二人はイロコイ・ホテルに乗りつけて夫婦として記帳し、マリエッタには別の部屋を取った。鉄道の旅の後だったからマリエッタは急いで風呂に入りたいふりをして、夕食に間に合うよう支度すると約束しながら、二人と別れた。ユージンとアンジェラはようやく二人っきりになった。
立派な理論を持っていたにもかかわらず、今、ユージンはアンジェラとの過去の経験がこの時の喜びをどれほど弱めてしまったかを思い知った。再び彼女を手に入れたのは事実だった。彼が強く思い求めたのは満たされることだったが、そこには何の神秘もなかった。本当の結婚式は数か月前にブラックウッドで済んでいた。これはどの結婚でもよくあることだった。熱烈で満足することはあっても、まだ手をつけたことがない人が持つあの最初のすばらしい神秘は存在しなかった。ユージンは夢中でアンジェラを抱いたが、その全過程は畏敬の喜びよりもむき出しの欲望のほうが勝っていた。
それでもユージンにとってアンジェラは甘美だった。アンジェラは愛情深い気質であり、ユージンは彼女の愛のすべてであり到達点だった。彼という人物はアンジェラにとって英雄に匹敵した。彼の才能は神の火だった。もちろん、誰もユージンの知識にはかなわなかった! 誰も彼ほどの芸術家にはなれなかった。確かにユージンはその辺の男たち……例えば彼女の兄弟や義理の兄弟……のように実務型ではなく、天才だった。なぜ彼が実務型でなくてはならないのだろう? アンジェラはすでに、成功へ向かう彼の人生設計にどうやってとことん協力しようか……彼にとってどんな良い妻になろうか……考え始めていた。自分の教師としての訓練、買い出しの経験、実用的な判断力は、ユージンの大きな助けになるだろう。二人は夕食までの二時間を新たな恍惚の中で過ごし、それから身支度を整えて公の場に姿を現した。アンジェラはこの時のためにドレスを何着も考案していた。それは長年の節約を象徴していた。今夜のディナーでは、小粒の真珠と黒いビーズの装飾で引き立てた、真珠色のシルクの半襟と半袖がついた黒いシルクのドレスを着て、一段ときれいだった。マリエッタは、半袖で襟ぐりの深いボディスに、桃の花のような柔らかさを持つ淡いピンクのシルクを着て、若さと自然な丸みと魂が持つ陽気さを全開にして、とても魅力的だった。アンジェラを無事に結婚させた今、マリエッタはユージンの気を散らさないようにしたり、姉が輝くように自分の魅力を修正する義務がなくなり、ことのほか気分が高揚していた。ユージンはこんな時も二人の姉妹のいいところを比べずにはいられなかった。マリエッタの笑顔、ユーモア、無意識の勇気は、アンジェラのおとなしさと著しく対照的だった。
最新のホテルの豪華さは普通の生活でも当り前になってしまったが、この女性たちにはまだ珍しくて十分に印象的だった。アンジェラにとって、これは永遠に続く高尚な生活の前触れだった。このカーペットや壁掛け、エレベーター、ウェイターなどは、二人の粗末な物質主義だと、優れたものを語っているようだった。
ある日、バッファローでナイアガラの雄大な滝を見物して、それからウエストポイントにやってきたら、視察中の将軍のためにたまたま用意された正装閲兵式と、士官候補生向けのダンスパーティーがあった。マリエッタは自分の魅力と兄の人気のおかげでウェストポイントで引く手あまたなのがわかると滞在を一週間延長し、ユージンとアンジェラを解放して一緒にニューヨークへ行かせ二人っきりの時間を少し持てるようにした。二人はマリエッタが無事に泊まる場所を確保するのを見届ける間だけ滞在して、街とワシントンスクエアのアパートにやって来た。
到着したときは暗かった。アンジェラは街が四十二丁目からノースリバーを渡って見せてくれた光り輝く天の川のような街灯に感動した。この街の本質を彼女はまったく知らなかったが、ユージンが頼んだタクシーが四十二丁目でブロードウェイに入り、ガタガタ音を立てて南の五番街までとまりとまり進んたときに、後に「偉大な光り輝く道」として知られることになるあの下品な世界をアンジェラは初めて垣間見た。すでにユージンにはその見せかけと固有の安っぽさが、この街と生活の大きな特徴に思えるようになっていたが、ここは彼の気を引くのに十分な中身と装いと薄暗い評判の魅力を依然として保っていた。ここには演劇批評家、名だたる俳優、女優、コーラスガールがいた。神格化される者もいれば、貪欲で、経験不足で、懐が満たされない、もてあそばれる者もいた。ユージンはアンジェラにいろいろな劇場を案内して有名人の名前に注意を促し、たくさんのレストラン、ホテル、専門店、つまらないものやガラクタを売る店を紹介し、最後に立派な屋敷や保守的な大富豪の威厳がまだ残っているロウアー五番街に入った。十四丁目でアンジェラは言うよりも早く電灯のまぶしい光を浴びたワシントンアーチがクリーム色を帯びた白で輝くのを見ることができた。
「あれは何かしら?」アンジェラは興味津々で尋ねた。
「ワシントンアーチだよ」ユージンは答えた。「僕たちは広場の南側のあれが見えるところで暮らすんだ」
「まあ! すてきね!」アンジェラは叫んだ。
アンジェラにはそれがとてもすばらしいものに思えた。その下を通過して広場全体が目の前に広がると、そこは生活するのに理想的な世界に思えた。
「ここがそうなの?」アトリエのある建物の前でとまるとアンジェラは尋ねた。
「そう、ここだよ。どうだい、気に入ったかい?」
「美しいところね」アンジェラは言った。
二人はユージンが借りた部屋の年上の花嫁の家に続く白いステップをのぼって、さらに赤いカーペット敷きの階段を二続き分のぼって、最後に暗い部屋に入った。ユージンはマッチをすり、美しい効果を狙ってロウソクに火をつけた。ユージンが進むにつれて柔らかいロウの光がその場所を照らした。アンジェラは、古いチペンデールの椅子、ヘップルホワイトの書き物机、使用済みと未使用の画用紙を収納してあるフランドル風の丈夫な箱、鱗を模した小さな鏡をいくつもちりばめてある緑色に染めた漁網、マントルピースの上の四角い金縁の鏡、ユージンの絵の一枚……灰色の雲が垂れ込める天気の中でたたずむ三両の機関車……イーゼルいっぱいにのっている印象的なもの、を見た。アンジェラにはそれが究極の美に見えた。平凡なホテルの安っぽい華やかさと、個人のセンスが冴えるこの選択と配置との間にある違いが彼女にもわかった。四角い鏡の両側で七本のロウソクを赤々と燃やしている燭台は、アンジェラを深く驚嘆させた。半分覆われた網の奥の小部屋にある黒いクルミ材のピアノには、思わず歓喜のさけび声があがった。「ああ、どれもすてきだわ!」アンジェラは叫ぶと、キスしてもらいにユージンのところに駆け寄った。ユージンはしばらくアンジェラを愛撫した。そのあとでアンジェラは再びそこを離れて、絵や、個々の家具、真鍮や銅の装飾品を丹念に調べた。
「いつの間にこれだけのものを手に入れたの?」アンジェラは尋ねた。ユージンは家を空けようとしているデクスターを見つけて、部屋代でそれを借りて管理することになった幸運を言いそびれていた。ユージンは家政婦が準備しておいてくれた暖炉に火をおこしている最中だった。
「ああ、それは僕のじゃない」ユージンはあっさり答えた。「ラッセル・デクスターからここを借りたんだ。来年の冬までヨーロッパにいるっていうんでね。きみが来た後で場所を決めるのを待つよりも、その方が簡単だと思ったんだ。僕たちの分は来年の秋にそろえればいいんだから」
春には個展を開けるだろうし、おそらくは結構な売り上げがあるだろうとユージンは考えていた。とにかく少しは売れて、評判があがって、もっと大きな収益力を与えてくれるかもしれない。
アンジェラの心はほんの少し沈んだが、すぐに回復した。結局これだけの場所を借りられるだけでも異例のことだからだ。窓に行って外をながめた。四方の壁に家屋が立ち並ぶ立派な広場、数少ない埃まみれの葉っぱにまだ飾られた木々の広がり、その間で白い輝きを放っている何十ものアーク灯、五番街の入り口にかかるクリームホワイトの優美なアーチがあった。
「とても美しいわ」アンジェラは再び叫んで、ユージンのところに戻ってきて抱きついた。「これほど立派なものだとは思わなかったわ。あなたってとても私想いね」アンジェラが唇を突き出すと、ユージンは頬をつねりながらキスをした。一緒にキッチンと寝室と浴室を見て回った。しばらくしてからロウソクを吹き消してその夜は休んだ。
第二章
小さな町の静寂と、田舎の生活の単純素朴さと、田舎の学校の教職のわびしい繰り返される退屈のあとで、アンジェラが放り込まれたこの新しい世界は、美しさと珍しさと楽しさ以外のものがほとんど混ぜられていないようにその驚く目には見えた。人間の感覚は、繰り返される感覚的な感動にすぐ飽きて、慣れないものの美しさや魅力を同じようにすぐに誇張する。だとすれば、対象が新しければ、感動は私たちが古いものに抱いたものよりも大きいに違いない。私たちが自分の周囲に配置できる物質的要素は、時として私たちの視点を作り変えてしまうらしい。自分が貧しかったら、富が一時的に幸せにしてくれるように思え、自分の考えに合わない集団や人たちの中に自分がいるときは、調和のとれる環境に置かれることで、しばらくはすべての悩みが解決したように思える。物質的条件が実際に影響や混乱を与えられない内なる平和など、私たちはほとんど持っていないのだ。
アンジェラは翌朝目が覚めたときに、これから自分が住むことになるこの部屋が、人が考え出せる最も完璧な住居に思えた。部屋の間取りが見事で、設備は魅力的だった……寝室の隣りがお湯も冷水も使えるバスルームで、キッチンには必要な調理器具がそろっていた。ダイニングとして使われた部屋の奥からその中央部を垣間見ただけで、自然、人間の形の美しさ、色彩、色調を扱う芸術のセンスが、学校で教えていることといかに違うかが、アンジェラに伝わった。彼女にとって、つる草に飾られた窓や、やや無造作に配置された花々や立派な芝生のあるブラックウッドの横長で屋根の低いまとまりのない家と、ワシントンスクエアに面したこの独特な雰囲気でこじんまりとした華やかなワンルームのアパートとの違いでは、すべて後者の方が好みだった。アンジェラの判断では、全然比べ物にならなかった。もしこの時アンジェラがユージンの心をのぞくことができても、彼女の故郷の町や、彼女の父親のたったひとつの農場や、彼女の家の近くにある小さな湖の青々とした水や、芝生に落ちた高い木の影が、どういうわけか、それ自体の古典的な美しさだけでなく、彼女自身の魅力と結びついていることを彼女は理解できていなかった。アンジェラはこういうものの中にいるときに、これらの美しさを分かち合って、それによって一段と美しくなった。それらを置き去りにしたことで、自分がどれほど多くのものを失ってしまったのか、彼女は知らなかった。アンジェラにとって自分の人生のすべてのこういう古い要素は、みすぼらしい、重要ではない、無意味な、無視されるべきものだった。
この新しい世界は、アンジェラにとってアラジンの洞窟のようなものだった。翌朝初めて大きな広場を眺めて、広場が日差しを浴び、北側に赤レンガの住宅が堂々と立ち並び、東側にオフィスビルがそびえ立ち、真下の舗道にトラックや荷車や自動車や乗り物が騒音を撒き散らしているのを見たところ、すべてに若さとエネルギーがあって快活に見えた。
「着替えて朝食を食べに行かないといけないね」ユージンは言った。「買い置きしようとは思わなかったんだ。実際、そうしたくても何を買っていいかわからなかったろうし。僕は自分で家事をやろうとしたことがなくてね」
「あら、大丈夫よ」アンジェラはユージンの手を優しく撫でながら言った。「やむをえない場合以外に、朝食を食べに出かけるのはよしましょう。ここに何があるのか確認させて」アンジェラは調理用に割り当てられたとても小さな部屋に戻って、どんな料理道具があるのかを確認した。ユージンのために家事や料理をしたり、撫でたり甘やかしたりするのをずっと夢見てきて、ついにその時が来たのだった。気前のいい家主のデクスター氏は便利なものをたくさんそろえていたのがわかった……茶色と青の朝食と夕食用の陶磁器一式、コーヒーメーカー、すてきな渋い青のティーポットとおそろいのカップ、こんろ付き卓上鍋、ワッフルメーカー一式、鉄板、フライパン、スキレット、シチュー鍋、ロースト鍋、スチールや銀のナイフとホークがたくさんあった。パン、ケーキ、砂糖、小麦粉、塩の箱、小さな引き出しにいろいろなスパイスが入った小さな収納まであるところをみると、明らかに時々人をもてなしていたのだ。
「ここなら簡単に何かできそうね」アンジェラはそう言ってガスストーブのバーナーに点火して正常に作動しているかどうかを確認した。「あなたが来て一度案内してくれれば、市場に出かけるだけで、ほしいものができるわよ。ものの一分とかからないわ。そのあとは私だけでわかるから」ユージンは快諾した。
アンジェラは自分が理想的な主婦になる姿をいつも想像してきた。ユージンが自分のものになった今、始めたくて仕方がなかった。自分がどれほど上手に仕切れるか、自分の手にかかればすべてがどんなにスムーズに運ぶか、自分がどれほど彼の稼ぎ……二人の共有財産……に気を配っているか、を彼に示せることが、とてもうれしかった。
芸術が富の偉大な生産手段ではないことや、ユージンに渡すお金が自分になかったことを今は残念に思ったが、ユージンが心の底ではそんなことを何とも思っていないことも知っていた。ユージンは世事にうと過ぎた。立派な画家だったが、現実的な問題となると、自分の方がはるかに長けているとアンジェラは本能的に感じた。彼女は兄弟や姉妹に代わってずっと買い出しを担当し、しっかりやりくりしてきたのだった。
アンジェラは(トランクがまだ到着していなかったので)鞄から薄緑色のリネンのすてきなホームドレスを取り出し、髪をゆったりと巻いてからそれを着て、ひとまずユージンをガイドにして一緒に店を探しに出かけた。ユージンは窓の外を見ながら、広場から南に続く脇道にイタリア系の食料雑貨の店、肉屋、八百屋が並んでいるとアンジェラに伝えておいて、さっそくその中の一軒に飛び込んだ。人でごったがえしている通りの印象的な日常生活は、アンジェラにほとんど息をつかせなかった。通りはとても混雑していた。ジャガイモ、トマト、卵、小麦粉、バター、子羊の肉、塩……十数種類の小物がすべて少量ずつ買われ、二人は張り切ってアパートに戻った。アンジェラはいくつかの店の外観に少し難色を示したが、中には十分清潔な店もあった。明るい、熱っぽいといってもいい目をした浅黒い皮のような顔のイタリア人の女性や子供たちが周囲にいるイタリア人街で買い物をしていることが、アンジェラにはとても奇妙に思えた。茶色いコール天のスーツを着て、柔らかい緑色の帽子をかぶり、彼女のそばで世話を焼いて意見を言うユージンは実に対照的だった。彼はとても背が高く、かなり異質で、あまり口数が多くなかった。
「僕は耳にイヤリングをつけてるときの彼らが好きなんだ」ユージンはある時はこう言った。
「山賊のような石炭売りに出くわしたぞ」またある時はこう言った。
「この老婆ならエンドアの魔女の代わりになるかもしれないな」
アンジェラは買い出しに専念した。明るくてにこにこしているが現実と向き合っていた。品物はどれくらいの量を買えばいいのか、新鮮な野菜をどうやって保存しようか、冷蔵庫は本当に清潔だろうか、アトリエにあるいろいろなものの埃を払うにはどれくらい気を遣う必要があるのか、を考えるので忙しかった。通りのありのままのレンガの壁や、側溝のゴミや汚泥や、腹をすかせてやせ細った野良猫や野良犬や、ごった返す人の流れに、アンジェラは絵としての魅力を全然感じなかった。ユージンが厳かに語るのを聞いて初めて、このすべてにも芸術的に重要な意味があるに違いないと気づき始めた。ユージンがそう言うのならそうなのだ。それがどんなものであれ、ここは魅力的な世界であり、彼女がものすごく幸せになるのは確かだった。
それから部屋で、新鮮なバターを使った熱々のビスケット、トマト入りのオムレツ、ジャガイモのクリームシチュー、コーヒーの朝食があった。ユージンが長年取り続けた平凡なレストランの食事のあとだと、これは理想的に思えた。どんなサービスでもしようという魅力的な妻と向き合い、味覚の経験の最高の思い出をよみがえらせる料理が目の前に並ぶ、自分の私的なアパートの中で腰を落ち着けることは、完璧に思えた。これに勝るものはありえなかった。こういうことに金をかけられたら、幸せな将来の展望が見えた。それには大金が要る。これまで稼いできた以上のものが。しかしユージンは自分なら稼ぎ出せると思った。朝食後にアンジェラはピアノを弾いた。やがてユージンが仕事をしたくなったのでアンジェラは本腰入れて家事を始めた。トランクが届いたので荷解きの仕事が増えた。それに加えて昼食、夕食、恋愛は言うまでもなくアンジェラはやることに事欠かなかった。
ほんの少しの間、これは魅力的な生活だった。ユージンは、手始めに親友のスマイトとマクヒューをディナーに招待しようと提案した。アンジェラはユージンの知り合いに会いたくてたまらなかったので心から賛同した。自分が誰にも負けないくらい接待やもてなし方を知っていることをユージンに示したかった。アンジェラは来る水曜日の晩……ディナーの夜……に向けて張り切って準備をした。その日が来ると、ユージンの友だちってどんな人だろう、私のことをどう思うかしら、と気が気ではなかった。
ディナーは滞りなく進み、かなり盛り上がった。この陽気な二人はこの部屋に大きな感銘を受けた。二人はさっそくアンジェラの前で部屋を褒めちぎり、彼女を射止めたユージンの幸運を祝福した。バッファローのディナーのときと同じドレスを着たアンジェラは印象的だった。そのボリュームのある黄色い髪は、スマイトとマクヒュー両者の目を楽しませた。
「いやぁ、見事な髪だよな!」アンジェラとユージンの耳に入らないところで、スマイトはこっそりマクヒューに耳打ちした。
「まったくだ」マクヒューは答えた。「見た目は全然悪くないね?」
「悪くない」アンジェラの素朴で気さくな西部人らしい態度を称賛したスマイトは答えた。少したってから二人がもっとさりげなく彼女を褒めるとアンジェラはとても喜んだ。
その日の午後遅く到着したマリエッタはまだ姿を現さなかった。彼女は空いている一室の寝室で身支度を整えている最中だった。アンジェラはせっかく立派な服を着たのに料理の監督で忙しかった。管理人を通して何とか給仕役の女の子を借りる交渉はできたが、料理人まで手が回らなかった。スープ、魚、チキン、サラダが順番に出てきた。ピンクのシルクを美しく着飾ってマリエッタがようやく現れた。スマイトもマクヒューも姿勢を正した。マリエッタは二人を虜にし始めた。マリエッタは男性の等級も格も知ったことではなかった。男性はすべて彼女の奴隷だった……暇に飽かせて彼女の美貌に串刺しにされたり、二人の恋の不確かさに焼かれる犠牲者だった。後年ユージンはマリエッタの微笑を『短剣』と呼ぶようになり、笑顔で登場した瞬間に言ってやった。「ああ、また仕留めるんですか? 今夜はどなたがその刃を喰らうんだか? 犠牲者が気の毒だ!」
今やユージンは義理の兄だったから自由にマリエッタの腰に手を回したし、マリエッタはこうして家族の一員になったのだからユージンにキスをしても許されると受けとめた。いつもユージンには彼女をひきつける何かがあった。マリエッタは最初の数日間ユージンの腕に抱かれたいという自分の欲望を満たしたが、常に慎みを心がけ相手を牽制し、この人は私のことをどのくらい好きなのかしら、と密かに思いを巡らせた。
マリエッタが現れるとスマイトとマクヒューはそろって席を立ち世話を焼き始めた。マクヒューは火に近い自分の席を勧めた。スマイトは目的もなく張り切った。
「ウエストポイントですてきな一週間を過ごしたばかりなのよ」マリエッタは楽しそうに切り出した。「ダンスをして、正装閲兵式を見物して、若い軍人さんとお散歩もしたわ」
「僕は今この場できみたち二人に警告するが」ユージンはマリエッタのからかい方をすでに習得していたのでさっそく開始した。「きみたちはただじゃすまないよ。このご婦人は危険なんだ。せっかく立派な画家になったんだから自分の身は自分で守った方がいいよ」
「まあ、ユージンったら、何て言い草よ」マリエッタは効果的に歯を見せて笑った。「スマイトさん、あなたにうかがいますけど、義理の妹を紹介するのにあれはないんじゃないかしら? ここにはほんの二、三日しかいないのよ、そんな時間はないわ。あんまりだと思います!」
「失礼ですね!」スマイトは言った。明らかに自分から進んで犠牲者になった。「あなたは違うタイプの義兄弟をお持ちになるべきだ。もし僕が今知っている誰かをあなたが……」
「侮辱もいいところだ」マクヒューが言った。「だけど一つ言わせてもらうなら、あなたにかかったらそんなに多くの時間は必要ないかもしれません」
「まあ、失礼にもほどがあるわ」マリエッタは笑った。「スマイトさんを除くと私はここで孤立無援なのね。まあいいわ。私がいなくなったら、みなさんは残念がるでしょうけど」
「それは確かだ」マクヒューはしみじみと答えた。
スマイトはただ見つめるだけだった。彼はマリエッタのクリーム色と桃色の肌、ふわふわのシルクような茶色の髪、明るい青い目、ふくよかな丸みを帯びた腕に見惚れて我を忘れた。こんな輝かしい見事な性質を持つ人と一緒に暮らせたら天国にいるようなものだろう。ユージンが縁を結んだ家族はどんな人たちなんだろうと考えた。アンジェラ、マリエッタ、ウエストポイントにいる兄。みんな気持ちのいい、保守的で、裕福な西部の人間に違いない。マリエッタが姉を手伝いに行き、ユージンがいなくなったところでスマイトが言った。「あいつ、うまいことやったな? 彼女、いかしてるな。姉さんに少し気を遣ってるし」
マクヒューはただ部屋を見つめるだけだった。いろいろなものの外観と配置全体に心を奪われた。古い家具、敷物、壁掛け、絵画、ユージンが手配した白いエプロンをつけ帽子をかぶったメイド、アンジェラ、マリエッタ、着色した磁器と銀の燭台が並ぶ明るいテーブル……ユージンは確実にこの十日間で人生の進路をがらりと変えてしまった。どうして彼は驚くほど幸運なんだ。この部屋だってすばらしい幸運の一部だ。そういう人っているんだなあ……マクヒューは瞑想しながら首を振った。
「なあ」身だしなみの最終チェックを済ませて戻ってきてユージンは言った。「これをどう思うかい、ピーター?」
「きみは確実に前進しているよ、ユージン。これほどのものを目にするとは思ってなかった。神さまに感謝すべきだな。きみは本当に運がいいよ」
ユージンは不可解な笑みを浮かべた。運がいいのかどうなのか自分でも知りたいところだった。スマイトにもマクヒューにも誰ひとりとして、これがどのような状況で起こったのかを想像できるはずがなかった。いずれにせよ、世界は何というまやかしだったのだろう。見た目を信じたら大間違いだ! 最初にアパートを探し始めたときは、明らかにそうするしかなかったことや、それに対する彼の心境を知る人がいたとしたら!
マリエッタとアンジェラが戻ってきた。アンジェラはこの男たち、というかすでに子供扱いしていたので、子供たちに優しく接した。ユージンにはみんなを、彼の言い方で言うと「ただの人」に変えてしまう能力があった。才能と能力があるこの二人はユージンと同じただの田舎の少年だった……アンジェラは彼の気持ちをつかんでいた。
「いつかあなたの絵を描かせてもらいたいですね、ウィトラ夫人」アンジェラが暖炉に戻って来るとマクヒューが言った。副業として肖像画をやっていたので練習のチャンスをさがしていた。
アンジェラはこのすてきな誘いと、ユージンの旧友に自分の新しい名前が使われたことに感激した。
「喜んで」アンジェラは赤くなりながら答えた。
「言ったでしょ、あなたはすてきなんだから、エンジェルフェイス」マリエッタは姉の腰のあたりをつかんで声高に言った。「三つ編みにした髪をおろしたところを描くといいわよ、マクヒューさん。すばらしいグレッチェンができあがるから」
アンジェラは改めて赤くなった。
「それは僕が自分のためにとっておいたんだが、ピーター」ユージンは言った。「きみが挑戦するといい。どうせ僕はあんまり肖像画をやらないからね」
スマイトはマリエッタに微笑みかけた。マリエッタを描けたらいいとは思ったが、海のシーンに関係のない人物を描くのは苦手だった。彼は女性よりも男性の方が上手に描けた。
「ブルーさん、もしあなたが今、年寄りの船長だったら」スマイトは勇敢にもマリエッタに言った。「僕はあなたをモデルにしてすごい作品を作れたんですがね」
「もしあなたが私を描きたいのなら、私は頑張ってその格好をするわよ」マリエッタは明るく答えた。「大きな長靴をはいてレインコートを着れば様になるんじゃないかしら、ユージン?」
「僕の判断でよければですが、きっとお似合いです」スマイトは答えた。「アトリエに来てください、そうすれば僕がその格好にしてあげますよ。道具はすべて手もとにありますから」
「私はやるわよ」マリエッタは笑いながら答えた。「あなたが言ったんですからね」
まるでスマイトは自分を出し抜こうとしているみたいだ、とマクヒューは感じた。彼もマリエッタに親切にして、自分に関心をもってもらいたかった。
「なあ、ジョセフ」マクヒューは抗議した。「僕だってブルーさんのスケッチを提案するつもりだったんだぞ」
「まあ、きみが出遅れたんだよ」スマイトは答えた。「さっさと言わないからだ」
マリエッタは、アンジェラとユージンが暮らしているこの雰囲気にとても感銘を受けた。何か芸術的なものを見ることは期待したが、この部屋ほど立派なものは全然期待していなかった。アンジェラはここがユージンの持ち物でないことを妹に説明したが、これはマリエッタがこの重要性を評価する上で小さな違いしか生まなかった。ユージンはこれを持っているのだ。彼の芸術と社会的な人脈がこれをもたらしたのだ。二人はすばらしいスタートを切っていた。結婚生活を始めるときに同じくらい立派な家を持てたら満足するだろう。
デクスターの貴重な財産の一つである丸いチーク材のテーブルを囲んで座り、彼らはアンジェラが借りてきたメイドの給仕を受けた。会話は軽く、ほとんど中身がなく、その場にいる人たちを互いに打ち解けさせる効果しかなかった。アンジェラもマリエッタも、この二人の芸術家に家庭的な保守的性格を感じたから彼らに惹かれた。この男たちは、画家の生活の苦労と成功や、いい暮らしをすることの大変さをあっさりと自然に語った。各界の評判の高い人物と懇意であることが最高の報酬であるようだった。
ディナーの間にスマイトは船乗りの生活の経験を、マクヒューは西部の山のキャンプの経験を語った。マリエッタはウィスコンシンでのボーイフレンドたちとの経験と、アンジェラを交えてブラックウッドの田舎の隣人たちの特徴を語った。最後にマクヒューが、田舎のファンが作る長蛇の列を従えたマリエッタの絵を鉛筆で描いた。その目はとても恥ずかしそうな、人を惑わす感じで上を向いていた。
「これはあんまりだと思うわ」ユージンが本気で笑うとマリエッタはきっぱりと言った。「私はそんなんじゃないわ」
「あなたは見た目も行動もそんな感じですよ」ユージンは言った。「あなたは破壊に通じる広い花の咲き誇る道ですから」
「大丈夫よ、ベビエッテ」アンジェラが口を挟んだ。「もし他に誰一人味方がいなくても私が味方だから。あなたはいい子で、控え目で、引っ込み思案な女の子だわ。誰のことも見たりしないものね?」
アンジェラは立ち上がり、わざとらしく同情してみせてマリエッタの頭を抱きかかえた。
「いやぁ、最高の愛称ですね」スマイトはマリエッタの美しさに感動して言った。
「かわいそうなマリエッタ」ユージンが言った。「こっちにおいでよ。僕がついてるからね」
「あなたは僕の絵の真意を汲み取っていませんよ、ブルーさん」マクヒューは楽しそうに口を挟んだ。「その絵はただあなたがどれくらい人気者であるかを示しているだけです」
客が帰る時アンジェラはユージンの横に立ってその細い腕を彼の腰に回した。別れ際にマリエッタはマクヒューをたらしこんでいた。この二人の友人はマリエッタに対し陽気な誘惑的態度をとれる独身者の特権を持っていた。これはもうユージンにはないものだった。彼はもうどんな女性にもその態度をとれなかった。品行方正な生活を送らなければならなかった……冷静で慎重であらねばならなかった。この考えはユージンを切り裂いた。これが自分の本性に合わないことをすぐに理解した。もし相手が許すなら、いつもしていることをしたい……マリエッタと愛し合いたい……と思ったが、できないのだ。部屋のドアが閉ざされると、ユージンは暖炉のところに行った。
「なかなかいい子たちね」マリエッタは言った。「マクヒューさんは最高に面白いと思うわ。おどけるのが上手なのね」
「スマイトもいい奴だよ」ユージンは言い訳がましく答えた。
「二人ともすてきね……ほんとすてきだわ」マリエッタは答えた。
「私はマクヒューさんが一番好きかな……変わっていて面白いわ」アンジェラは言った。「でもスマイトさんも頑張っちゃってすてきだと思う。あれでとても古風よね。でも私のユージンほどすてきな人は誰もいないわ」アンジェラは抱きつきながら愛情を込めて言った。
「あらまあ、お二人さん!」マリエッタは叫んだ。「さて、私は寝るとしますか」
ユージンはため息をついた。
マリエッタにはソファーが用意してあった。これは客がいないときには銀色の魚網の奥の部屋のへこみに収納できるものだった。
すでにこのアンジェラの愛が自分にとって新鮮味がないのが何とも残念だとユージンは考えた。マリエッタかクリスティーナを娶っていた場合とは違っていた。二人は寝室に行ってやすんだ。そのときユージンは、自分にあるのは情欲だけだとわかった。これに満足しなければならないのだろうか? そんなことができるだろうか? これは執拗に邪魔が入ったりぼやけることはあっても、絶対に断ち切られない思考の堂々巡りの始まりだった。一時的な同情、欲望、称賛がこれを曖昧にするかもしれないが、基本的にこれは常時存在した。ユージンは間違いを犯したのだ。自分で自分の首を絞めてしまった。心から賛成していない状況に自分をさらしてしまった。彼はどうやってこれを改善するつもりなのだろう……これは改善できるものなのだろうか?
第三章
内心はどんな考えであったにせよ、ユージンは表向き結婚生活に十分真剣に取り組んでいる人を装って自分の結婚生活をスタートさせた。結婚した今、事実上法的な絆で結ばれたが、それを最大限に生かそうと感じた。かつては、結婚したことを何も言わず、アンジェラを隠し通せるかもしれないと考えたが、アンジェラは言うまでもなくマクヒューとスマイトの態度により、この考えは却下された。そこで友人……ミリアム・フィンチ、ノルマ・ホイットモア、それに帰国したらおそらくクリスティーナ・チャニング……にも知らせるしかないと考え始めた。思えばこの三人の女性が一番厄介だった。三人のしそうなコメントを身体で感じた。三人は僕のことをどう思うだろう? アンジェラのことはどうだろう? 今この街に彼女を迎えてみて、ユージンはアンジェラが違う考え方をする人であることがわかった。スマイトとマクヒューを招待しようと提案してユージンはお披露目を始めた。今やるべきことはこの問題を前進させることだった。
ユージンを悩ませたのは、ミリアム・フィンチにこのニュースを伝えることだった。クリスティーナ・チャニングは遠征中であり、ノルマ・ホイットモアのことはそれほど重要だとは考えなかった。事前に伝えておくべきだったが、それを怠ったのだから、すぐに行動するべきだと今になって思った。ユージンはようやく行動をとって、ノルマ・ホイットモアに手紙を書いた。くどくど説明することもなく切り出した……「実は結婚しました。紹介がてら家内を連れて行っていいですか?」ミス・ホイットモアにすればまさに不意打ちだった。まずは残念がった……それもかなり……ユージンは彼女の大きな関心事であり、結婚が裏目に出るのではないかと心配した。しかし運命を悪い方に向けてやろうと急いで次のような手紙を書いた。
「親愛なるユージン、ならびにユージンの奥様
これはまさしくニュースですね。おめでとうございます。呼吸が正常に戻り次第駆けつけます。それから、お二人さん、私のところにも会いに来なくちゃだめですよ。
ノルマ・ホイットモア」
ユージンは相手が快く受け入れてくれたことを喜び感謝したが、アンジェラはユージンがこれまで自分に言ってくれなかったことを内心ほんの少しだけ残念に思った。どうして言わなかったのだろう? 気になる相手だからだろうか? ユージンを疑いながら待ち続けたこの三年間は、アンジェラの疑念をかきたてて、恐怖心を育んでいた。しかしアンジェラはそれをおくびにも出さず、楽しがっているふりをしようとした。喜んでミス・ホイットモアに会うつもりだった。ユージンはアンジェラに、ノルマが自分にどれほど親切にしてくれたか、自分の絵をどれほど称賛しているか、若手の文学者や芸術家をまとめるのにどれほど役に立ち、重要な人物にどれほど影響力をもっているか、を語った。ノルマはユージンのためになることをいくらでもすることができた。アンジェラは辛抱強く聞いていたが、ユージンが自分以外の女性のことをそこまで考えることにほんの少しだけ腹が立った。どうして彼、ユージン・ウィトラが、女性の引き立てに依存しなければならないのだろう? きっととても立派な人に違いない。仲良しになれるだろう、でも……
二日後の午後、ノルマが興奮冷めやらぬ様子でやって来た。ユージンには栄光の雲がノルマを取り巻いているように見えた。ユージンが愛情を放棄したことにたとえほんの少し腹が立ったとしても、ノルマは尊敬と共感の立場から、ユージンにとって火であり力でもあった。
「子豚のユージン・ウィトラったら」ノルマは叫んだ。「とんずらして、結婚までして、梨のつぶてとは一体どういうつもりかしら。お祝いを渡す機会さえなかったから、こうして持って来なきゃならなかったわ。ここすてきじゃない……うん、快適この上ないわね」開けもしないままプレゼントを置いて、ユージン・ウィトラ夫人はどこかしらとキョロキョロした。
アンジェラは寝室で化粧をしていた。この来訪は予期していたので、明るい緑色のホームドレスをきちんと着こなして準備は万全だった。アンジェラは、ミス・ホイットモアの馴れ馴れしい挨拶を聞いて顔をしかめた。これは長い付き合いの遊び仲間だと言ったも同然だった。これまでユージンは最近ほどミス・ホイットモアについてあまり多くを語ったことがなかったが、二人がかなり親密な関係なのがアンジェラにわかった。アンジェラは注意して相手を見た……背が高く、あまりスタイルはよくないが優雅な女性だ。存在全体が、活動的なエネルギー、意識、物の見方の繊細さを表していた。ユージンはノルマの手を握り、にこやかに顔を見つめていた。
「どうしてユージンはこの女をこんなに好きにならないといけないのだろう?」アンジェラは即座に自分に問いかけた。「どうしてユージンの顔は強烈な熱意の込もったあんな光で輝くのだろう?」『子豚のユージン・ウィトラ』という言い方にアンジェラはカチンときた。まるで彼女がユージンと恋愛関係にあるかのように聞こえたからだ。アンジェラは少ししてから顔に喜びの笑みを浮かべ、あらゆる好感を態度で示して近づいた。なのにミス・ホイットモアは真逆のものを感じ取ることができた。
「すると、こちらがウィトラ夫人ね」そう叫んでキスをした。「お会いできてうれしいわ。ウィトラさんはどういうお嬢さんと結婚するんだろうっていつも考えてたのよ。ユージンって呼ぶのを許してね。こうして結婚したことだって、少ししたら乗り越えると思うわ。でも、私たちはとてもいいお友だちで、私、彼の作品が大好きなのよ。アパート暮らしはどう……それともそういうの慣れてるのかしら?」
ユージンの旧友を隅々まで細かく観察していたアンジェラは、いかにも気取った調子で答えた。いいえ、アパートの生活には慣れてません。田舎から出てきたばかりなもので……普通の農家の娘なんです……それもウィスコンシンのブラックウッドですから! ここで話をやめてノルマに親しみのこもった驚く表情をさせてから、ユージンはあまりあなたのことを話してくれなかったと思うが、手紙はよく私にくれましたと話を続けた。ユージンがこれまで黙っていたことがどれほど自分を軽視しているように見えても、結局彼を勝ち取ったのは自分でありミス・ホイットモアではなかったことで自分が満足している事実をアンジェラは楽しんでいた。ミス・ホイットモアの熱烈な態度から彼女はユージンのことが大好きに違いないと想像し、どんな女たちがユージンに結婚を遅らせたいと思わせたのか、よくやくアンジェラは知ることができた。アンジェラは他の女たちの正体も知りたくなった。
話題は普通の都会の経験談だった。マリエッタがリンク夫人と買い物から帰ってきた。リンク夫人はウェストポイントで教官を務める陸軍大尉の妻で、そのすぐ後でお茶が出された。いつかディナーを一緒にしましょうとミス・ホイットモアは執拗に誘った。ユージンはアカデミーに絵を送っていることを打ち明けた。
「もちろん展示してくれるわ」ノルマは保証した。「でもね、あなたは自分の個展を開くべきよ」
マリエッタは大きなお店のすばらしさを大げさにしゃべった。やがてミス・ホイットモアの帰る時間が来た。
「今度はうちに来ない?」ノルマはアンジェラに言った。性格の不一致と意見の違いをある程度感じはしたが、相手を好きになろうと決めたのだ。アンジェラは少し未熟であり、ユージンと結婚するのはおこがましいと思った。アンジェラがユージンのレベルに達していないのは心配だったが、それでも古風で趣があり、小気味良かった。多分とても上手に立ち回るだろう。アンジェラはずっと考えていた。ミス・ホイットモアはユージンの古い知り合いなのをいいことに差し出がましい……入れ込み過ぎでのぼせている。
別の日にはミリアム・フィンチが訪れた。スマイトとマクヒューのアトリエでユージンの結婚と現住所を知ったリチャード・ホイーラーが急いでやって来て、その足でミリアム・フィンチのアトリエへ直行したのだった。彼自身驚いたが、ホイーラーは彼女がそれ以上に驚くのを知っていた。
「ウィトラが結婚したぞ!」部屋に飛び込むが早いかホイーラーは叫んだ。その瞬間ミリアムは冷静さを失い、ほとんど芝居がかった返事をした。「リチャード・ホイーラー、あなた、何言ってんのよ! まさか本気で言ってるんじゃないわよね?」
「結婚したんだってば」ホイーラーは力説した。「そしてワシントン・スクエアで暮らしてるんだよ、六十一番地だ。きみが見た中でも一番かわいい黄色い髪の奥さんをもらったのさ」
アンジェラはホイーラーに親切で、ホイーラーはアンジェラに好感をもった。住居の雰囲気まで気に入って、これならユージンのためになると考えた。ユージンは落ち着いて仕事に励む必要があった。
ミリアムはその光景を思い精神的にひるんだ。ユージンのこの裏切りに傷つき、結婚の意思を示すほど彼が自分のことを考えていなかったことを悔しがった。
「結婚して十日だってさ」ホイーラーが言うと、これが彼女の一時的な悔しさを増幅した。アンジェラが黄色の髪でかわいいという点でも心穏やかではいられなかった。
「そう言えば」ミリアムはやっと陽気に叫んだ。「そんな話をしていたかもしれないわ」そして本当に考えていることは何も見せない明るい無頓着な態度で自分の最初の狼狽を隠した。ユージンにしては確かに水臭い。それにしても、どうして知らせてくれなかったのだろう? ユージンは一度もミリアムにプロポーズしたことはなかった。しかし二人は精神的に親密だった。
ミリアムはアンジェラに会いたくなった。相手が本当はどんな女なのか気になった。「黄色い髪で、かわいいときた!」すべての男性と同じで、ユージンは可憐な姿とかわいい顔のために、知性と精神的魅力を犠牲にしたのだ。奇妙に思えた。ユージンはそんなことをしないだろう……もしユージンが娶るなら、奥さんはおそらく背が高くて、優雅で、美しい心の持ち主……群を抜いている人……だとミリアムは想像していた。男って奴は有識者も芸術家もみんながみんな、どうしていつも馬鹿なまねをするのだろう! とりあえず、ミリアムはアンジェラに会いに行くことにした。
ミリアムには伝えておいたとホイーラーが知らせてきたため、ユージンは手紙で、結婚したことと、アンジェラを彼女のところへ連れて行きたいことをできるだけ簡潔に述べた。ミリアムは返事を出す代わりに自ら出向いた。明るく、笑顔で、完璧に着飾り、自分が勝者であることを証明したアンジェラを傷つけてやりたかった。ついでにユージンにも、これが自分に与えた影響が微々たるものであることを見せつけてやりたかった。
「あなたってほんと秘密主義の若者ね、ユージン・ウィトラさん」ミリアムは会うなり叫んだ。「どうしてあなたは彼に私たちに報告させなかったの、ウィトラ夫人?」ミリアムは茶目っ気たっぷりにアンジェラに尋ねたが、目には密かに短剣を忍ばせていた。「彼は私たちに知ってほしくないんだってあなたは思ったでしょ」
アンジェラはこの鞭の紐のように辛辣な言葉の棘にすくんでしまった。まるでユージンがアンジェラに自分の人間関係を隠そうとしていたかのように……まるでユージンがアンジェラを恥じているかのように……ミリアムはアンジェラに感じさせた。ミリアムやノルマ・ホイットモアのような女はあとどのくらいいるのだろう?
ユージンはおめでたいことにミリアムの会話に潜む本物の敵意に気づかなかった。最初の残酷な瞬間が終わった今、すべてをできるだけ単純で自然に見せようと気を遣い、いろいろなことをぺらぺら喋っていた。ミリアムが来たときユージンは絵のひとつを制作中で、しかも完成間近だったので、彼女の批判的な意見が欲しかった。意見を求めると、ミリアムは目を細めて作品を見たが何も言わなかった。普通なら盛大な拍手を送っていただろう。傑作だと思ったが、何も言わないことにした。淡々と歩き回って、偉そうな態度であれもこれも品定めして、この部屋を手に入れるに至った経緯を尋ねて、幸運を祝福した。ミリアムは、アンジェラは興味深いが精神的にユージンの域に達していない、無視されてしかるべきだと判断した。ユージンはミスを犯した、これは明らかだった。
「今度はウィトラ夫人を連れてうちに来なさいよ」ミリアムは帰り際に言った。「あなたたちのために私の最新の曲をすべて演奏して歌ってあげるわ。古いイタリアとスペインの作品なんだけど最高にすてきな発見をいくつかしたのよ」
音楽なら多少は心得があるとユージンに触れ込んでいたアンジェラは、ミリアムの態度全体だけでなく自分にあるかもしれない能力や好みを尋ねない、この偉そうな招待の仕方に憤慨した。なぜ彼女はこうも傲慢なのだろう……そんなに偉い人なのだろうか? ユージンが私のことで何か言ったか言わなかったかが、この女に何の関係があるのだろう?
彼女は自分自身も演奏することを示すことを何も言わなかったが、ユージンが何も言わないのが不思議だった。これはユージンが無頓着で配慮を欠いているように思えた。ユージンはミリアムが自分の絵をどう思うかを考えるので忙しかった。ミリアムは別れ際に温かくユージンの手を握り、楽しそうに彼の目を見つめて「あなたたち二人はとんでもなく幸せになるわよ」と言って出て行った。
ユージンはようやくあせりを感じた。アンジェラが何かを感じているのがわかった。ミリアムは憤慨していた。確かにそうだった。彼の関心のなさそうな態度を受けてユージンに腹を立て、アンジェラの容姿と劣った点について自ら批評して、結局ユージンの妻は大して重要ではなく、自分と彼が属している芸術的な上級の世界の人ではないことを態度で示したのだ。
「彼女とはうまくやれそうかい?」ユージンはミリアムが帰った後でとりあえず尋ねた。強い反対の流れを感じてはいたが、それが何に基づくものなのか正確にはわからなかった。
「私は彼女のこと好きじゃないわ」アンジェラはふてくされて答えた。「自分が恋人だと思ってるのかしら。あなたをまるで自分の持ち物みたいに扱うのね。あなたが話さなかったことであからさまに私を侮辱したわ。ホイットモアさんも同じことをしたわ……みんながそうするのね! これからもこうなるのね! ああ!」
アンジェラは急に泣き出して、泣きながら寝室に向かって駆け出した。
ユージンはびっくりするやら恥ずかしいやら、非難されるやら罪の意識に苛まれるやら、まるで恐怖に襲われたかのように後を追った……何が何だがわからなかった。
「ねえ、アンジェラ」ユージンは彼女の上に身体を乗り出して相手を起こそうとしながら、頼み込むように呼びかけた。「あれが真実じゃないことくらいわかるよね」
「真実よ! 真実に決まってるわ!」アンジェラは執拗に食い下がった。「私に触らないでよ! 私のそばに来ないでよ! あなただってこれが真実だって知ってるくせに! あなたは私のことなんて愛してないんだわ。私がここに来てからだって、あなたは私をまともに扱ったことがないじゃない。あなたは自分がやるべきことを何もしなかったわ。彼女は面と向かってあからさまに私を侮辱したのよ」
アンジェラはすすり泣きながら話を続けた。ユージンはこのしつこい予期せぬ感情の表出に、たちまち苦痛と恐怖を感じた。これまでアンジェラのこんな姿を見たことがなかった。どの女性のこんな姿も一度も見たことがなかった。
「ねえ、アンジェラ」ユージンは言った。「どうすればこんなことを続けられるんだ? 自分の言ってることが真実でないことはわかってるはずだ。僕が何をしたというんだい?」
「あなたは自分の友だちに話してなかったじゃない……話してなかったことが問題なのよ」アンジェラはあえぎあえぎ叫んだ。「友だちはまだあなたが独身だと思ってるわ。あなたは人目につかないように私をここに隠しているじゃない、まるで私が……ええと……ああわかんない! あなたの友だちが来ては、面と向かってあからさまに私を侮辱するわ。そうよね! そうでしょ! ああ!」アンジェラはすすり泣きを再開した。
アンジェラは怒って逆上していても自分が何をしているのかをよく知っていた。自分が正しい行動をとっていると思っていた。ユージンには厳しい叱責が必要だった。彼はとても悪いことをしたのだ。これはそれを彼に思い知らせる最初の手段だった。ユージンの行為は弁解のしようがなかった。アンジェラの判断では、彼が芸術家で、曖昧な芸術的思考につかり、普通の生活習慣に必ずしも順応していない事実しか救済にならなかった。アンジェラがユージンに結婚を迫ったことは問題にはならなかった。ユージンがそれに応じたことは免責にならなかった。ユージンは私にそういう義務を負っている、とアンジェラは考えた。いずれにしても二人はもう結婚したのだから、ユージンは適切なことをすべきだった。
この恐ろしい責任を突きつけられて、ユージンはナイフで切られたようにそこに立ち尽くした。アンジェラの存在を隠して何かをしようという意図はなかった。彼はただ、一時的にほんの少し自分の身を守ろうとしただけだった。
「そんなことを言うもんじゃないよ、アンジェラ」ユージンは言った。「もう知らない人はいないよ……少なくとも僕が大事にしてる人にはね。考えもしなかったよ。何も隠すつもりはなかったんだ。興味を持ってくれそうな人みんなに手紙を書くよ」
悲しいからといってアンジェラがこんな野蛮な攻撃をしたことにユージンはまだ傷ついていた。彼が間違えたのは確かだが、彼女はどうだろう? これが行動のとり方だろうか、これが真実の愛の本質だろうか? 彼は精神的にもがき、のたうち回った。
ユージンは両腕でアンジェラを抱きあげて、髪をなでながら、許してほしいと頼んだ。最終的にアンジェラは十分に罰を与えたから今後ユージンは本当に反省して罪滅ぼしをするだろうと思うと、耳を貸すふりをして、突然首に腕を回して抱きつきキスをした。もちろん、情熱がこの場を締めくくったが、すべてのことがユージンの口に後味の悪さを残した。醜態はごめんだった。ミリアムのお高くとまった無関心や、ノルマの明るいごまかし方や、クリスティーナ・チャニングの至高のストイシズムの方が好きだった。この騒々しい、狂暴な、怒りの感情は、彼の人生に取り入れるべきものではなかった。これが二人の間の愛情にどう影響するかユージンにはわからなかった。
それでもアンジェラは優しい、と思った。彼女はただの小さな女の子だった……ノルマ・ホイットモアのように賢くなく、ミリアム・フィンチやクリスティーナ・チャニングのように自分を上手に守れなかった。結局、アンジェラにはユージンの配慮と思いやりが必要だった。ユージンがアンジェラと結婚したのは、おそらく彼女にとっても彼にとっても最善のことだった。
ユージンはそんなことを考えながら腕の中でアンジェラをあやした。アンジェラはそこに横たわって満足だった。彼女は最も重要な勝利を収めたのだ。彼女は正しいスタートを切っていた。アンジェラはユージンを正しくスタートさせていた。道徳的、精神的、感情的にユージンより優位に立って、それを維持するつもりだった。そうすれば、自分をとても優れていると考える女性たちは、自分たちの道を進めるからだ。アンジェラはユージンを手に入れて、ユージンは大物になる。そして彼女はその妻になる。それが彼女が望むすべてだった。
第四章
アンジェラの爆発を受けてユージンは急いでまだ知らせていなかった人たち……ショットマイヤー、自分の両親、シルヴィア、マートル、ハドソン・デューラ……に報告した。驚きと関心を表すカードやお祝いの手紙の返礼を受け取ったので、なだめたい一心でアンジェラに渡した。すべてが終わるとアンジェラは自分がユージンに不快なショックを与えたことに気がつき、方針とはいえ明らかに彼を苦しませてしまったことを自分の愛情で埋め合わせたいと思った。アンジェラは体が小さくて精神が幼さそうに見えたが、彼女の個人的問題を処理する方法や手段が関係するときは、実に賢明な思慮深い女性のつもりでかからねばならないことをユージンは知らなかった。アンジェラはもちろん、ユージンに対する自分の愛情の渦に巻き込まれて混乱していて、彼の心の感情的、哲学的な領域を理解できなかった。しかし、夫と妻の間や、あらゆる夫婦と世界の間に、何が安定した関係を築くのかを本能的に理解していた。アンジェラにとって結婚の誓いの言葉は、まさにその言葉通り、二人が互いに忠実であることを意味した。結婚の誓いの文言や精神に従わない考え方、感情、情動は今後一切あってはならないし、ましてや行動は絶対にあってはならなかった。
ユージンはこれを多少は理解していたが、きちんとというか完璧ではなかった。アンジェラの信条と信念の胆力というか頑固さも正しく評価しなかった。アンジェラの性格にも、彼自身の寛容や雅量に似たものが多少はあるかもしれないと考えた。人間は……特に男性は……造りが多少不安定であることをアンジェラは知らねばならなかった。人生は厳格なルールで支配できるはずがなかった。まあ、誰でもそのくらいのことは知っている。人間は保身や世間体のために、できる限り自分を抑制しようと努力するかもしれないし、努力すべきだった。しかし、間違いを犯したとしても……しかも簡単に犯すかもしれないが……それは決して犯罪ではなかった。確かに、他の女性を憧れの目で見るのは犯罪ではなかった。もし欲望に負けて道を踏み外したとしても、所詮、物事とはそういうものではないだろうか? 我々は欲望のおもむくままに行動しただろうか? 確かに行動しなかった。そして、もし我々が欲望を完全にコントロールすることに成功しなかったとしても……まあ……
ようやく二人が落ち着いた人生の動向は、十分に興味深いものだった。しかしユージンは失敗する可能性を考えてしまい複雑だった。こういう気質から予想されるかもしれないが、彼は心配性で、普通の努力の期間中でも物事の暗い側面を見る傾向があった。自分の意志に反してアンジェラと結婚してしまったこと、今のところ年間二千ドル以上の収入を得られる明確な芸術関係のつながりがまったくなかったこと、衣食住と娯楽の費用を二倍にする経済的義務を負ってしまったこと……二人の新居のアパートは、スマイトとマクヒューとの共同部屋の分担金よりも三十ドル高いこと……がユージンの重荷になった。スマイトとマクヒューにふるまったディナーは、その週の普通の経費に加えて約八ドルも高くかかった。似たような性質の他のことをすれば、それ以上かかるだろう。たまにはアンジェラを劇場に連れて行かねばならない。こういう思いがけない幸運が再び起こらない限り、翌年の秋には新しい部屋に家具を設置する必要が生じるのだ。アンジェラはいろいろな役に立つ嫁入り道具を持参していたが、彼女の服が永遠にもつわけではない。結婚して間もないのに、何かと足りないものが出始めた。結婚する前にしていたような自由で管理が行き届いた生活をするのなら、収入はもっと多くて確実なものでなければならないことがわかり始めた。
こういう考えが引き起こしたエネルギーが、結果を出さないわけではなかった。ユージンは手始めにイースト・サイドの絵『六時』の原画をアメリカン・アカデミー・オブ・デザインの展覧会に送った……ずっと前に完成していたが送りそこねていた。
ナショナル・デザイン・アカデミーは美術品を展示するフォーラムであり、一般人でも招待されたり有料で参加が認めらえるとアンジェラはユージンから聞いていた。ユージンはこれをあまり重視しなかったが、絵がこの団体に受理されて視線の高さに展示されたら、それなりに功績と承認の証だった。すべての絵は芸術家で構成された審査員に審査されて入選の是非が判断され、入選した場合は名誉ある場所が与えられるべきか、どこか目立たない場所に掛けられるべきかが判断された。「視線の高さに」掛けられるというのは、光がよく当たって来場者が見やすい低い位置に絵が展示されることだった。ニューヨークでの最初の二年、ユージンは確かに自分は経験も実力も十分ではないと考えた。そしてその前の年に、ナショナル・アカデミーはありきたりで時代遅れだと考えたので、制作中の作品はすべて自分の個展で初披露するためにとっておこうと思った。ユージンにしてみれば、これまで見てきた展覧会はありふれた退屈な作品ばかりで、そういうコレクションに認められても大した名誉ではなかった。マクヒューが努力を続けていたことと、興味を持たせたかった民間のギャラリーで個展を開ける量がたまったこともあって、今、ユージンはアメリカの標準的な芸術家が自分の作品をどう評価するかを知りたかった。彼らは拒絶するかもしれない。もしそうなっても、それはただ彼らが芸術として受け入れられている手法と主題からの根本的逸脱を認めないことを証明するだけだった。ユージンは印象派がかなり無視されていることを知っていた。彼らがユージンを受け入れるのはもっと先のことだろう。もし彼が認められたなら、それはただユージンが信じていたよりも彼らがよくわかっているというだけのことだった。
「僕は必ずやるよ」ユージンは言った。「とにかく僕は彼らが僕の作品をどう思うか知りたいんだ」
絵は計画したとおりに送られて、受理されて展示されてユージンはとても満足だった。どういうわけか、それほど注目はされなかった。しかし多少の称賛がないわけではなかった。初日の夜、詩人のオーエン・オーバーマンがアカデミーの総合受付でユージンに会い、心から祝福した。「〈トゥルース〉で見たのを覚えてますよ」オーエンは言った。「だけど原画の方がはるかにいいですね。すばらしいよ。ああいうのをどんどん描くべきだ」
「ええ」ユージンは答えた。「近いうちに自分の個展を開きたいと思っています」
ユージンは、彫像を見に行ってしまったアンジェラを呼んで紹介した。
「どれほどご主人の絵を気に入ったか、ちょうど話していたところです」オーバーマンはアンジェラに伝えた。
自分には名画に見えるもので壁が埋め尽くされ、重要で著名な人物で部屋がいっぱいの、こういう立派な展覧会に絵を飾れるほど、夫が大した人物だったことがアンジェラはうれしかった。歩き回る間に、ユージンはほぼ毎回とても才能がある人だと言いながら、有名な画家や作家をアンジェラに指し示した。著名なコレクター、賞の授与者、絵画のパトロンの三、四人と顔見知りだったので、それが誰なのかをアンジェラに説明した。そこには、評判や友人のささやいた感想や、あるいはユージンが個人的に知っていた印象的なルックスのモデルが大勢いた……その中にユージンのためにポーズをとったことがあるゼルマ・デズモンドや、ヘッダ・アンダーソン、アンナ・マグルダー、ローラ・マシューソンがいた。アンジェラは、この若い娘たちの派手さと美しさに衝撃を受け、ある意味で心を奪われた。誰もが固有の自由と勇気の雰囲気を漂わせてアンジェラを驚かせた。ヘッダ・アンダーソンは見た目は大胆だがものすごく頭が切れた。彼女の態度は、普通の女性などどうでもよく価値がないと評しているようだった。ユージンと一緒に歩いているアンジェラを見て、誰だろうと気になった。
「あの人、衝撃的じゃない」アンジェラは相手がユージンの知り合いなのを知らずに言った。
「僕の知り合いだよ」ユージンは答えた。「彼女はモデルなんだ」
ちょうどその時、ミス・アンダーソンがユージンの会釈に応えて魅力的な微笑を返した。アンジェラは冷や冷やした。
エリザベス・スタインが通り過ぎた時もユージンは会釈した。
「彼女はどなた?」アンジェラは尋ねた。
「彼女は社会主義を扇動する過激派だ。時々、イースト・サイドで石鹸箱を演壇にして演説することがある」
アンジェラは慎重に彼女を観察した。ロウのような顔色、額を覆って均等に編まれた滑らかな黒髪、まっすぐ細く彫られたような鼻、平べったい赤い唇と低い額は、型破りで繊細な魂を表した。アンジェラは彼女を理解できなかった。あんなにきれいな女の子がユージンが言うような活動をしていることが理解できなかった。それでも大胆でかなり自由でのんきな感じがした。ユージンは確かに変わった人たちを知っていると思った。ユージンはアンジェラに、ウィリアム・マコーネル、まだ二人に会いに来ていなかったハドソン・デューラ、ジャン・ジャンセン、ルイス・ディーサ、レナード・ベーカー、ペインター・ストーンを紹介した。
ユージンの絵について新聞は一紙を除き何も論評しなかった。しかしこの一紙は他の全紙に代わってユージンとアンジェラの心を埋めてくれた。それは芸術評に最も定評がある新聞〈イブニング・サン〉だった。この特定の作品についてのその論評はとても明確だった。記事の内容は、
「新人画家のユージン・ウィトラに『六時』というタイトルの油彩画がある。これは率直さ、力強さ、共感、細部への忠実さ、そして他にいい言葉がないので仮称するが、精神の総量において、この展覧会で最高といっていい作品である。これはアカデミーの展覧会場ですぐに見つかる風景画や水彩画の弱い曲がりくねった解釈の作品に囲まれるといささか場違いの感があるが、だからといって決して劣るものではない。この画家は、新しい、粗野で、露骨な、ほとんど雑と言っていい手法を使うが、彼の絵は彼が見て感じたものを如実に語っているように見える。もしこれが能力の一度きりの爆発でなければ、時間はかかるかもしれないが、彼は言い分を聞いてくれる者を手に入れるだろう。これだけは疑問の余地がない。ユージン・ウィトラは芸術家である」
ユージンはこの論評を読んで感激した。もし彼があえて言ったとしたら、まさしく自分にそう言ったであろう言葉だった。アンジェラはうれしくて我を忘れた。これを言った批評家は誰だろう? 二人は知りたがった。どんな人だろう? きっと知的な人物に違いない。ユージンはその人のことを調べに行きたかった。今、ある人が彼の才能に気づいたのなら、他の人もやがてそれに気づくだろう。その後、絵は売れずに彼のところに戻り、真価や賞には言及されなかったが……ユージンが自分の個展を開こうと決心したのはこれが理由だった。
第五章
名声への期待……思い惑う時間、意気込みの心拍数、努力の熱量……は、この異様に微妙な幻想が基になっている! それでもこれは魅力であり、ほぼすべての生きている心が有する、人を惑わす理想である。若い頃だとこれは特に春の火の甘さと香りを帯びて燃える。その頃だと、とりわけ名声の影の中……ものすごい人物が世界に投じるあの底知れない美しい幻想の中……では、かなり本物らしく見える。名声の安泰と充実と甘美な満足……海にも大地にもないあのすばらしい達成感……は、きっと手が届くように思える。名声には、朝の美しさと新鮮さの性質がある。その中には、バラの香りと、豊かなサテンの感触と、若者の頬の色がある。もし有名になれるのなら、頭髪が白く染まり、顔に昔の苦労を物語る皺が刻まれ、目が長年の緊張と憧憬と絶望とで疲弊する頃ではなく、名声を夢見る頃でありたいものだ。人生の始まりの朝に世界を支配すること、愛と信仰が若いときに喝采や歓声の中を歩くこと、若さと健康が好調のときに若さや世界の愛情を感じること……純粋な太陽の光と月の光が作り上げるのはどんな夢だろう。太陽にさらされる大空の薄雲、水面に映る月明かり、目覚めかけている心にとどまろうとする夢……若い頃の名声はこういうものであり、決して後々まで続くものではない。
ユージンの心はそういう幻想に取り憑かれていた。人生が自分の努力に何を報いるかを彼は全然考えなかった。シカゴでブーグローの『ヴィーナス』を見たときのように、絵を五番街のギャラリーで展示してもらえて、あの時の彼のように人々が足を運んでくれたら……これは彼にとって大きな慰めにも満足にもなっただろう。もし彼がニューヨークのメトロポリタン美術館に購入されるような作品を描けたら、そのときこそ彼が神々と崇める一流の芸術家たち、フランス人ならコロー、ドービニー、ルソー、イギリス人ならターナー、ワッツ、ミレー級の古典的大物たちの仲間入りだ。この人たちは僕にないものを持っているようだとユージンは考えた。自分たちが描いたものを通して何らかの形で明らかになる、技術の格段の幅広さ、色や特徴へのより繊細な理解、人生の裏側の微妙なものに向ける感覚だ。もっと大きな経験、もっと大きな視野、もっと大きな感情……といったものが、その場に展示されたすばらしい絵の中で迫ってくるように見えた。これはユージンの自信を少し削いだ。取り越し苦労する彼を勇気づけたのは〈イブニング・サン〉のあの批評『彼は芸術である』だけだった。
ユージンは自分が描いたいろいろな油彩画……約二十六枚あり、すべて川や街や夜の生活などの景色を描いたもの……を集めて丹念に見直し、最初はただのスケッチか素描だったものの細部に手を加えて、こっちの色の一か所を強調し、そっちの色調や陰影を修正した。そして最後に起こりうる結果をじっくり検討してから、これらの作品に場所を提供して販売を引き受けてくれそうなギャラリーを探し始めた。
ユージンの印象では、作品は少し露骨で大雑把だった……時には工場の建物、艀やタグボート、機関車、高架道路をそのままの赤と黄色と黒で扱っていたのを見てもわかるように、人間的な魅力は十分備わっていないかもしれなかった。しかしマクヒュー、デューラ、スマイト、フィンチ、クリスティーナ、イブニング・サン、ノルマ・ホイットモア、みんなが作品を、そのうちの一部を称賛した。世界はジョン・ミレー卿に代表されるような古典的な美の形式と精神にもっと大きな関心を寄せるのではないか? 世界はこれまでに描かれたどの街角の風景よりも、ロセッティの『祝福されし乙女』の方を好むのではないか? ユージンは全然自信を持てなかった。〈サン〉が彼の絵を称賛した勝利の瞬間でさえ、そこには本質的な弱さの可能性が潜んでいた。世界はこういうものを求めているだろうか? 世界は彼を買うだろうか? 彼に本物の価値があるだろうか?
「ない、画家の心といえど価値は他のどの労働者を上回ることも下回ることもない」と答える人がいるかもしれない。「トウモロコシに降り注ぐ日の光、メイドのほっぺの夜明けの色、水面に映る月明り……なんてものは、見る人の好み次第で価値があることもあればないこともある。心配することはない。世界は夢と夢の美しさでできているんだ」
過去から現在の巨匠の名画を扱い、二十八丁目に近い五番街に事務所を構えるケルナー商会は、この街切っての本格的な美術品取り扱い会社だった。ケルナー商会の店頭を飾る絵、店の超一流ショールームの中の展示物、店の厳しい審美眼が下す普遍的承認は、三十年もの間、芸術家や一般大衆の注目を集めてきた。ユージンはニューヨークに来てからずっとこの店の展示物を見るのを楽しみにしてきた。折に触れてその立派な店頭にいろいろな流派の度肝を抜く作品が展示されるのを見てきたし、芸術家たちが時々そこで他のことをかなり熱心に論評するのを聞きもした。印象派初期の代表作……ウィンスロップのポプラの木立に降る春の豪雨の絵……は、この会社の店頭で展示され、ユージンをその技法で魅了した。オーブリー・ビアズレーの退廃的な素描、エルーの銀筆画、ロダンのすごい彫刻、タウロウの堅実なスカンジナビア系折衷主義などのコレクションに遭遇したのもここだった。この店は世界中に有能な芸術家の人脈を持ち、イタリア、スペイン、スイス、スウェーデンの最新の有力な芸術家を後援しているらしいので、イギリス、ドイツ、フランスのもっと認知度の高い作品と同じように時流に乗った表現をここで見けそうだった。ケルナー商会は最高の意味での美術品鑑定家だった。ドイツ人の創業者は何年も前に亡くなっていたが、店の経営もセンスも全然衰えなかった。
ユージンはこの時ケルナーの主催で個展を開くことがどれほど大変か知らなかった。自分たちが塞ぐ空間と時間の代金を支払う意欲と能力を備えた著名な画家たちからの美術品の提供や展示のお願いが殺到していた。一定の料金が課せられ、画家の才能や、困窮度や、展示の是非が極端な場合を除いて、決して例外はなかった。店のショールームの一室を十日間借りたら二百ドルでは済まないと考えられた。
ユージンにそんな余裕はなかった。なのに一月のある日、状況を本当に何も知らないまま〈トゥルース〉で時々制作されたレプリカを四枚持参し、自分には見せたいものがあることを確信してケルナー氏の事務所に向かった。エーバーハート・ザンが会いに来てほしがっていることをミス・ホイットモアが伝えてくれたことがあったが、ユージンはどうせ行くのならケルナー商会の方がいいと思った。彼は、ケルナー氏に、もしいればそういう人に、自分にはもっとすばらしいと思う絵がもっとたくさんある……アメリカの生活について深まり続けている自分の理解、自分自身のこと、自分の技術をもっと表現している絵がある……ことを説明したかった。気取ってはいたが、この冒険はかなり彼の心をかき乱したので、ユージンは恐る恐る中に入った。
ケルナー商会のアメリカ店支配人、アナトール・シャルル氏は生まれも育ちもフランス人で、フランスの芸術の精神と歴史、世界各地の芸術の流れと傾向に精通していた。彼がベルリン本社によってこの地に派遣された理由は、イギリスの美術様式を徹底的に訓練していたからでも、国内外で注目を集め会社に信用と繁栄をもたらしてくれそうな絵を選ぶ能力を買われたからでもなく、どこにいても金持ちや権力者の間に友人をつくって重要な絵を次々に売りさばく能力があったからだった……優れた芸術に関心を持ち、それに進んで金を出したがる人たちを自分に引き寄せる何かのコツというか魅力を持っていた。彼の専門はもちろん世界各地で大成功している芸術家……生きていて成功している者……の作品だった。彼はどんなものが……ここで、フランス、イギリス、ドイツで……売れるかを経験で知っていた。アメリカの芸術はまだ実質的に価値がない……商業的観点からは絶対になく、芸術的観点からは微々たる価値しかない……ことを確信していた。イネス、ホーマー、サージェント、アビー、ホイッスラー、その姿勢がアメリカ的というより外国的、あるいは普遍的な人たちの数少ない作品を除けば、アメリカの芸術の精神はまだ若くて未熟でお粗末だと考えた。「こっちじゃまだそういうのが育っていないようだ」と親しい友人には語った。「小さなものを力強く描くんだけど、まだ物事を全体として見ていないみたいだね。ヨーロッパの巨匠の多くの作品で目にする宇宙の縮図といった感じがないんだよ。ここにいるのは芸術家というより上手なイラストレーターなんだな……どうしてだかわからんが」
アナトール・シャルル氏はほぼ完璧に英語を話した。彼は世界の本物の男性の典型だった……洗練され、威厳があり、完璧に服を着こなし、思考は保守的で、口数少なく表現した。批評家や芸術愛好家が、いろいろな芸術家に関するいろいろな提案を持ってひっきりなしに彼のところに駆けつけたが、彼はただお洒落な眉を上げ、立派な口髭を反らせ、とても芸術性の高い山羊鬚を引っ張り、「ほお!」とか「それで?」と叫ぶだけだった。自分が最もやりたいことは、才能のある者……儲かる才能のある者を見つけることだといつも主張していた……しかし、時には(手を外側に振り、肩をすくめることでそれを示し)、ケルナー商会は芸術のためならできることをするのを厭わない……そしてそれが完全に採算度外視であろうと……とも言った。「あなたの芸術家はどういったものですか?」とシャルル氏は尋ねる。「拝見、拝見。ホイッスラー、アビー、イネス、サージェント……ああ……古いですね、新しいのはどちらですか?」
「ほら、これですよ」……批評家はおそらくねばる。
「さて、さて、拝見するとしますか。しかし私はあまり期待しませんね……希望は微々たるものです」
シャルル氏はせかされて、しょっちゅうあちこちのアトリエに顔を出し、調べものや批評に明け暮れていた。何が悲しくて、彼ほどの者が数少ない芸術家の作品を一般公開向けに選んで、いつもそれにいい料金を請求しなければならないのだろう。
午前中にユージンが会う運命だったのが、洗練され、芸術にかけては並み外れて優秀なこの男性だった。ユージンが豪華な設えのオフィスに入るとシャルル氏は立ち上がった。彼は緑色のシルクのシェードのランプに照らされた小さな紫檀材の机にいた。シャルル氏は一目でユージンが芸術家だとわかった……おそらくは才能があって、それ以上に繊細で神経質な性格かもしれない。シャルル氏は礼儀正しさと気転には何のお金もかからないことをとっくの昔に学んでいた。芸術家の信頼を勝ち取るには、これはどうしても欠かせないものだった。制服姿の係員に渡されたユージンの名刺と伝言が用件の内容を伝えていた。ユージンが近づくと、シャルル氏のもち上がった眉が、ウィトラ氏のために何ができるかをとても知りたがっていることを伝えた。
「絵のレプリカを何枚かお見せしたいのです」ユージンは精一杯勇気を振り絞って切り出した。「個展を開きたくてかなりの数の作品に取り組んできました。こちらでの展示を念頭に置いて作品を見ることにあなたが興味をお持ちになるかもしれないと考えた次第です。全部で二十六枚あります……」
「ああ、申し上げにくいのですが」シャルル氏は慎重に答えた。「うちは今、とてもたくさんの展覧会の予定をかかえておりまして……この先何も考えなくても丸二年かかるほどあるんです。昔から取り引きのある画家との付き合いだけでスケジュールがいっぱいなんです。時にはベルリンとパリの店が結ぶ契約で、うちの地元の展覧会が開けなくなることもありますから。もちろん機会さえあれば、いつだって面白い展覧会を開きたいと思っております。うちの料金はご存知ですか?」
「いいえ」ユージンは、そんなものがあることに驚いて言った。
「二週間で二百ドルです。それより短い展覧会は扱いません」
ユージンの表情が曇った。彼はまったく違う反応を期待していた。それでも作品を持参していたので、印画をしまってある書類鞄の紐をほどいた。
シャルル氏は物珍しそうに作品を見た。まず、イーストサイドの群衆の絵に大きな感銘を受けたが、吹雪の五番街の絵を見ているうちに、痩せた手入れの行き届かない骨ばった馬の一団に引かれた、みすぼらしいおんぼろバスの迫力に胸打たれ、一度動きをとめた。渦を巻きながら風に煽られる雪の描写が気に入った。いつもはとても混雑しているこの大通りの空虚さ、道行く人々がボタンを留めて縮こまり、背中を丸めて内にこもった様子、窓枠や窓棚や戸口やバスの窓に降り積もった雪の山の非常に優れたディテールが彼の注意を引いた。
「効果的なディテールだ」評論家が評論家を相手に語る調子で、バスの片側の窓の白い雪の線を指摘しながらユージンに言った。人の帽子の縁の雪を描いた筆遣いも彼の目を奪った。「風を感じることができるな」シャルル氏は付け加えた。
ユージンは微笑んだ。
シャルル氏は無言で、二隻の大きな貨物用の艀を牽引して闇のイーストリバーを進む蒸気式タグボートに目を移した。結局、ユージンの絵は、明らかにドラマチックなものをただ捉えているだけのものだと自分に言い聞かせていた。これは色の構成や生活の分析の芸術というよりは、演出技法だった。目の前にいるこの男には人生のドラマチックな側面を見る能力があった。しかし……
シャルル氏は最後のレプリカに目を向けた。それは霧雨の降っているグリーリースクエアを描いたものだった。ユージンは妙技を駆使して、さまざまな電灯の輝きを浴びながら灰色の石に染み込んでいく水の質感を正確に捉えていた。タクシーの光、ケーブルカーの光、店の窓の光、街灯の光など、さまざまな種類の光の色の価値を捉え、それらによって群衆や空の黒い影を和らげていた。ここでの色使いは紛れもなく見事だった。
「これらの原画の大きさはどのくらいですか?」シャルル氏は思案しながら尋ねた。
「ほぼすべてが縦三十の横四十です」
ただの好奇心なのか関心を持ったのか、ユージンは相手の態度からは読み取れなかった。
「全部、油彩画ですよね」
「はい、全部そうです」
「悪くないと言わなければならない」シャルル氏は慎重に観察した。「ドラマ性へのこだわりが少しあるが……」
「こういうレプリカだと……」印刷物であることをあげつらい、原画の質の高さに関心をもってもらおうと、ユージンは切り出した。
「うん、わかってる」シャルル氏は、何が起こりかけているのか、よくわかっていたからさえぎった。「印刷っていうのはとてもひどいものだ。それでも原画がどういうものなのかを十分に伝えている。アトリエはどちらですか?」
「ワシントンスクエアの六十一番です」
「さっきも言いましたが」シャルル氏はユージンの名刺に住所をメモしながらつづけた。「個展を開く機会というのは非常に限られていますし、うちの料金はかなり高額です。展示したいもの……展示しなければならないもの……がたくさんあります。状況が許す時期を明言するのは難しいのですが……もしあなたが興味をお持ちなら、私はいつか作品を拝見しにうかがっても構いません」
ユージンは動揺した様子だった。二百ドル! 二百ドルだと! そんな余裕があるだろうか? これはユージンにとってはかなり大金だった。それなのに、この男はこの値段でも彼にショールームを貸したいと全然思っていなかった。
「私はうかがいますよ」シャルル氏は相手の意向を確認しながら言った。「あなたがお望みならば。それがあなたが私に望んでいることですよね。うちだってここで展示するものには慎重を期さねばなりません。普通のショールームとは違うのでね。あなたがお望みであれば、いずれその機会があった時にご案内します。私が提案する日時で大丈夫かどうかを知らせてください。私はむしろ、あなたのこれらの絵を拝見したいですね。こういうのはとてもいい。もしかしたら……断言はできませんが……機会はあるかもしれない……どこかの他の展覧会の合間の一週間か十日くらいなら」
ユージンは内心ため息をついた。こういう具合に物事は運んだ。これはあまり喜べる状況ではなかった。それでも個展を開かなければならなかった。いざとなれば、二百ドルは出せた。よそでの個展だったらこれほどの価値はないだろう。ユージンはこれよりもっといい印象を与えることを期待していた。
「いらっしゃるのをお待ちしています」最後にユージンは心を静めて深く考えながら言った。「スペースを確保できるのならそれでいいと思います。あなたの感想を知りたいですね」
シャルル氏は眉を上げた。
「わかりました」彼は言った。「連絡します」
ユージンは出て行った。
この展覧会の仕事は何とも情けないものだ、とユージンは考えた。ここで彼はケルナー商会での展覧会の夢を見ていた。それは相手が彼の作品に大きな感銘を受けたので無償で彼に持ちかけられるというものだった。今だって先方は彼の作品を欲しがりさえしなかった……それを見せるために二百ドルを請求するつもりだった。とても残念な結果だった……かなりがっかりさせるものだった。
それでもユージンは、これが何か自分のためになるだろうと考えながら帰宅した。批評家たちが他の芸術家の作品を論じるように自分の作品を論じるだろう。自分が夢見てとても慎重に計画したことがついに実現したら、彼らは自分に何ができるかを確認しなければならなくなるだろう。ユージンはケルナー商会での個展を、上昇基調の芸術の世界で獲得するべき最後の喜びと考えていた。今ようやく自分がそこに近づいたかに見えた。それが本当に実現しつつあるのかもしれない。この男は自分の残りの作品も見たがった。それを見ることに反対ではなかった。それさえも勝利だった!
第六章
もしよろしければ一月十六日水曜日午前十時にうかがいます、という手紙をシャルル氏が書くまでに多少時間はかかったが、ついにその手紙が届き、これが彼の仲介の疑いと不安をすべて払拭した。ようやく発言の機会を得ることになった! この男が作品に何かを見いだして、もしかしたら気に入ってくれるかもしれない。そんなことが誰にわかるだろう? ユージンはまるで当然のことのようにこの手紙を気楽な態度でアンジェラに見せたが、ものすごく期待を寄せていた。
アンジェラはこの訪問がユージンにとってどれほど重要かわかっていたのでアトリエを完璧な状態にした。街角のイタリア人の花屋で花を買い、花瓶に入れて要所々々を飾った。床を掃き清め、埃を払い、一番似合うホームドレスを完璧に着こなし、かなり緊張して神経質になりながら呼び鈴が運命を告げるのを待った。ユージンはずっと以前に描き終えた絵の一枚に取り組むふりをした……子供たちが群がり、みすぼらしい手押し車があり、そそくさと足をひきずりながら押して歩く大勢の人たちがいて、苦しい虐げられた生活感がそこを駆け抜けている、イーストサイドの通りのありのままの金属の音が絶えない壁だった。しかしユージンはその作業に全然身が入っていなかった。シャルル氏はどう思うだろう、とユージンは何度も自分に問いかけていた。このアトリエがとても魅力的に見えることに感謝するとしよう! 淡い緑色のガウンドレスをまとい、喉元に赤いサンゴのブローチを一つ飾ったアンジェラがとても優美なことに感謝しよう。ユージンは窓辺に行き、葉を落とし風に揺られる木の枝、積雪、あちこちで先を急ぐ蟻のような歩行者のいるワシントンスクエアを眺めた。もし自分が金持ちだったら……どれだけ心穏やかに絵を描いただろう! シャルル氏なんかくたばればいい。
呼び鈴が鳴った。
アンジェラはボタンを押した。シャルル氏は静かに上ってきた。廊下で足音が聞こえた。シャルル氏がノックしてユージンが応えた。明らかに内心緊張していたが、表面上は冷静で堂々としていた。シャルル氏は中に入った。毛皮の裏地のついたオーバーコートに、毛皮の帽子をかぶり、黄色いセーム革の手袋をしていた。
「ああ、おはようございます!」シャルル氏は挨拶した。「すがすがしい一日ですね? ここは何て魅力的な景色なんでしょう。ウィトラ夫人ですね! お会いできてうれしいです。少し遅れてしまいました。出るに出られなくなりましてね。ドイツ人の同僚の一人が、この街にいるものですから」
シャルル氏は立派なコートを脱ぎ捨てて、暖炉の前で手をこすった。ここまでつくろいだこのときを機に、穏やかで思いやりのある態度を取ろうとした。もし彼とユージンが将来何かの取引をするとしたら、そうしなければならなかった。それに、しばらく彼はそれが目に入らないふりをしていたが、窓に近い目の前のイーゼルに乗った絵は、驚くほど力強いものだった。それは彼に誰の作品を連想させただろう……誰かいるだろうか? 膨大な量の絵の記憶をかき回しながら、これにぴったり一致するものは何も思い出せないことを自ら認めた。そのままの赤、そのままの緑、汚ない灰色の敷石……そういう顔の数々! なぜこの作品はその事実をわざわざ叫ぶのか。それはこう言っているようだった。「私は汚い、私は平凡だ、私は残酷だ、私はみすぼらしい、それでも私は人生だ」そして、そこには何かに対する弁解は一切なく、何も取り繕っていなかった。バーン! ガチャン! バリッ! ありのままの姿を辛辣、冷厳に主張して事実が次々に出て来た。そうだ、苦々しい気分の落ち込んだ憂鬱な日に、どこかでこういう通りを見かけたことがあった。そこには……汚い、悲しい、だらしない、不道徳な、酔っ払った、ものが……何もかもが、全てのものがあった。しかしここにそれが存在した。「現実主義者であることを神に感謝する」見ている間にシャルル氏は密かに思った。この冷たい鑑定家は人生を知っていた。しかし何も顔に出さなかった。彼はユージンの背が高くてスリムな体を見た。頬がかすかにこけて目が輝いている……彼のどこをどう切っても芸術家だ。それからアンジェラを見た。小柄で、熱心で、優しくて、愛情深い、ちっぽけな女だ。シャルル氏は、この作品を展示しましょう、と言えそうなのがうれしかった。
「それでは」イーゼルの絵を初めて見るふりをして言った。「作品を見始めた方がいいかもしれません。ここに一つありますね。とてもいい、なかなか力強いと思いますよ。他にはどんな作品をお持ちですか?」
ユージンは、これは自分が期待したほど相手にとって魅力的ではなかったと心配して、さっさと脇にどけてしまい、緑色のカーテンに覆われた壁に立てかけあるストックの中から二つ目を手に取った。大きな貨物用車庫に並走して進入する三両の機関車、湿った冷たい空気の中にまっすぐ立ち上る高い白灰色の柱のような機関車の煙、黒灰色の雲がかかった低い空、水でじめじめした暗闇の中で目立つ赤、黄、青の車両の絵だった。冷たく濡れる霧雨、びしょ濡れの線路、『切替作業』のだるさまで感じとれた。赤い停止信号への『切り替え』作業を行っている制動手が手前に一人ぽつんといた。男は真っ黒で、明らかに濡れていた。
「灰色の交響曲だな」シャルル氏は簡潔に言った。
この後も作品はすぐ現れた。どちらからもあまり意見が出ないまま、ユージンは次から次へと相手の前にキャンバスを置き、しばらくそのままにしておいて別のキャンバスと取り替えた。シャルル氏は絶えず距離を置いていたため、ユージンの作品に対する評価はあまり急速には上がらなかった。しかしパチパチする電灯の下で繰り広げられる夜の群衆の奇観と喧騒でいっぱいの絵『上演後』を認めずにはいられなかった。シャルル氏は、都会の大衆の生活のドラマチックな光景と呼ばれるほぼすべての局面と、彼が手をつけるまではドラマチックに見えなかった多くのものをユージンが取り上げていたことを知った……午前三時の誰もいないブロードウェイの谷間、奇妙な提灯を揺らしながら午前四時に波止場からやってくる巨大な牛乳輸送車の長い列、エンジンからもくもくと煙をあげて突進する消防車の列、走っている人とぽかんと口を開けた見物人、オペラ座から出て来る上流階級の人たち、パンの行列、ロウアーウェストサイドの混雑した通りで抱えたカゴから空の鳩にエサを投げているイタリア人の少年。彼が手をつけたすべてのものにロマンと美がありそうに見えた。しかしこれは現実だった。そしてほとんどが悲惨でみすぼらしかった。
「ウィトラさん、おめでとうございます」この男性の才能に感動し、もう警戒する必要はないと感じて、ようやくシャルル氏は叫んだ。「私にとってこれはすばらしいものだ。レプリカで見るよりもはるかに効果的で、ドラマチックで真に迫っている。これが金になるかどうかは疑問ですがね。この国ではアメリカの絵はほとんど売れないのです。ヨーロッパならもっとうまくいくかもしれません。売れていいはずなんだが、それはまた別の問題なんです。最高の作品がいつもすぐに売れるわけじゃない。時間がかかるんです。でも私は自分にできることならしますよ。あなたには一切負担をかけないで四月の初めに二週間、この絵を展示しましょう」(ユージンは驚いた。)「わかる人たちに私の方で声をかけてみます。バイヤーにも話を通します。これをやれて光栄だと断言しますよ。私はあなたをあらゆる意味で芸術家だと考えています……偉大な芸術家と言っていいかもしれません。良識を持って慎重に行動すれば、遠くに、それもかなり遠くに行けるはずです。時期が来たら絵を取りに人を遣わしたいと思います」
ユージンはこれにどう答えていいかわからなかった。こうして形式的にいとも簡単に心から表明されたわけだが、彼はこのヨーロッパ人の手法重視の姿勢も天才を見極める目も全然理解していなかった。シャルル氏は発言の一語一語が本気だった。これは、待望のまだ認められていない天才に、世界の評価と承認を保証することを許された、彼の人生の中でも希少な喜ばしい瞬間の一つだった。シャルル氏はそこに立ってユージンが何を言うか聞こうと待っていたが、ユージンは青白い肌を紅潮させただけだった。
「とてもうれしいです」ようやくユージンはかなり平凡に、思い付いたまま、アメリカ人らしく言った。「自分ではかなりいいと思いましたが、確信はありませんでした。あなたにはとても感謝しています」
「私に感謝の気持ちを感じる必要はありませんよ」シャルル氏は答えた。もう堅苦しい態度を改めていた。「自分を祝福すればいいんです……自分の芸術を。私は言葉のとおり、光栄ですよ。作品はうちで立派に展示します。額はありませんよね? なあに、心配いりません。額はうちでお貸しします」
シャルル氏は笑顔でユージンと握手をしてアンジェラを祝福した。アンジェラは驚きと高まる誇りを感じながらこの話を聞いていた。彼女はユージンの態度とは関係なく、彼が感じている不安や、彼がこの対面の結果の上に築いているとても強い希望に気づいていた。シャルル氏の冒頭の態度はアンジェラを欺いた。結局、この男にはあまり大きな関心はなく、ユージンはがっかりするだろう、とアンジェラは感じていた。急に認められても、これをどう受け止めていいのか彼女はよくわからなかった。ユージンを見て、彼がただ安心しただけでなく、誇りと喜びとでものすごく感動しているのがわかった。青白い暗い顔がそれを示していた。深く愛するユージンからこの不安の重圧が取り除かれるのを見ることは、アンジェラの心を乱すのに十分だった。感動のあまり取り乱していることに気がつき、シャルル氏が自分の方を振り向くと、今度は目に涙があふれた。
「泣かないでください、ウィトラ夫人」シャルル氏はこれを見て、もったいつけて言った。「あなたにはご主人を誇りに思う権利がある。偉大な芸術家なんですから。しっかり支えてあげてください」
「ああ、とても幸せだわ」アンジェラは半分笑い半分すすり泣きながら言った。「私じゃ力になれないでしょうけど」
アンジェラはユージンのいるところに行って、彼のコートに顔を押し付けた。ユージンはそっと腕を回して、いたわるように微笑んだ。シャルル氏も自分の言葉の影響に満足して微笑んだ。「あなたたち二人には、とても幸せだと感じる権利がありますよ」と言った。
「ちっぽけなアンジェラ!」ユージンは思った。これがお前にとっての本当の妻、お前のいい女だ。夫の成功が自分にとってすべての女だ。彼女には自分の人生ってものが何もない……夫と夫の成功以外は何もないのだ。
シャルル氏は微笑んで「では、私はこれで失礼します」と最後に言った。「その時がきたら絵を取りに遣いの者をよこします。その間に、あなたたち二人は私と一緒にディナーに行きませんとね。お知らせしますよ」
シャルル氏は好意をたっぷり保証したお辞儀をして退室した。アンジェラとユージンは顔を見合わせた。
「まあ、すてきじゃないの、あなた」アンジェラは半泣き半笑いで叫んだ。(アンジェラは結婚初日からユージンをあなたと呼び始めた)。「私のユージンは偉大な芸術家だわ。彼はとても光栄だって言ってくれたわ! それってすてきじゃない? そして今度は全世界がすぐにそれを知ることになるのね。それってすごいじゃない! ねえ、あなた、私、とても誇らしいわ」そしてアンジェラはうっとりしながら首に抱きついた。
ユージンはアンジェラに優しくキスをした。しかしアンジェラのことはケルナー商会……その立派な展示室、金の額縁に収まって展示される二十七から三十枚ほどの名画、 見に来るかもしれない観客、新聞の批評、称賛の声……のことほど考えていなかった。これで彼の芸術家仲間はみんな、彼が偉大な芸術家と見なされたことを知るだろう。サージェントやホイッスラーのような人物に出会えば、彼らと対等に付き合うチャンスを手に入れることになるだろう。彼は世界に広く知れ渡るだろう。彼の名声は地の果てまで届くかもしれない。
ユージンはしばらくしてから窓のところへ行って外を眺めた。すると彼の脳裏に、アレキサンドリア、印刷所、シカゴのみんなの家具社、アート・スチューデンツ・リーグ、デイリー・グローブがよみがえった。確かに遠回りをしてしまった。
「そうだ!」ユージンは最後に一言叫んだ。「スマイトとマクヒューがこれを聞いたらよろこぶな。行ってあいつらにも教えてやらないと」
第七章
四月に開かれた個展は幸運な魂に起こる数ある出来事の一つだった……その感情、情緒、認識、理解力は、世界の目の前で完全に開花していた。我々はみんな自分の感情や情緒を持っているが自分で表現する力はない。確かに、どんな人間の作品にも行動にも性格はある程度表れるが、それとは違う。ほとんどの人生の詳細は、いついかなる時も公開の審査にはさらされない。我々はどこのどんな場所でも、個人が何を考え、何を感じているかを簡潔には見抜けない。芸術家でさえも、毎回あるいは頻繁に、著名な画商の肝いりで作品が集められて一般に公開されるチャンスは与えられない。中にはとても恵まれた者がいる……が、多くはない。ユージンは幸運が自分に微笑みかけていることを実感した。
その時が来るとシャルル氏は親切にも絵を取りに人を寄こし、細かいことを全部手配してくれた。ユージンと相談して、表現の仕方の力強さと全体の配色から、黒の額縁が一番いいと判断した。絵が展示される一階の大展示室は赤いビロードがふんだんに使われていた。これを背景にさまざまな絵は効果的に際立った。ユージンは絵の展示期間中に、アンジェラと、スマイトとマクヒューと、ショットマイヤーや他のメンバーたちと一緒にショールームを訪れた。ノルマ・ホイットモアとミリアム・フィンチには随分前に通知しておいたが、フィンチにはホイーラーが話すタイミングがつかめるまで話さなかった。これもまた彼女を悔しがらせた。結婚の時もそうだったが、ユージンがわざと自分をないがしろにしていると感じたからだ。
夢はついに実現した……濃い赤のビロードがかけられ、隠された照明からソフトな光が注がれた十八×四十ほどの部屋でユージンの絵が、人生そのものと同じくらい力強く、その生々しさと現実を際立たせた。人生をはっきりと直視しせず他人の目を通してしか見ない人には、余計にそう見えた。
そのために、ユージンの絵画展は、それを見た人のほとんどがびっくりするものだった。それは主に人間が何気なく目にしていた人生の一面や、ありふれたいつものことなので芸術的意義の圏外にあると思われていた事柄に関わるものだった。特に一枚の絵の、やたらと図体のでかい不格好な黒人、どうみても野獣のような男、耳は分厚く突き出し、唇は太く、鼻は平らで、頬骨は高く、獣の力と汚れや寒さに無頓着な動物らしさを表している全身は、この点を説明するのに特にちょうどよかった。男はさえない平凡なイーストサイドの道端に立っていた。時期は明らかに一月か二月の朝だった。男の仕事はゴミ収集車の運転手で、絵に描かれたときに男がしていたのは、灰や紙や生ゴミがごちゃ混ぜの大きな缶を、不格好な鉄のワゴンの端に持ち上げる作業だった。手はでっかくて、ウールと革の継ぎ接ぎの大きな赤い手袋を着けていた……汚くて、球根のようで、使いづらい、と言われそうな手袋だった。頭と耳には赤いフランネルのショールだか布切れだかが巻かれ、それが喧嘩っ早そうな顎の下で結ばれ、額とショールの上に、バッジとゴミ収集車の運転手の登録番号のついた茶色いキャンバス生地の帽子がのっていた。腰のあたりに目の粗いコーヒー袋のでかいのが結びつけてあり、腕と足はまるでズボンを二、三本、ベストも同じくらい着込んでいるように見えた。男はぼんやりとみすぼらしい通りを眺めていた。その硬いバリバリ音がする雪には、ブリキ缶、紙、残飯やクズ肉の欠片が散らばっていた。埃……灰色の粉塵……が、男にひっくり返された缶から舞い上がっていた。男のずっと後ろに、牛乳のワゴン、数名の歩行者、惣菜屋から出て来た小さな薄着の少女がいた。頭上にはありふれた小さなガラス窓と、薄板が数か所壊れた雨戸があり、だらしない頭の男が外を眺めて明らかにその日が寒いかどうかを確かめていた。
ユージンの人生の告発の仕方はとても残酷だった。無情に徹した姿勢でディテールを詰めるようだった。奴隷の監督が奴隷を鞭打つのと同じで、ユージンは自分の辛辣な絵筆をちっとも惜しまず使った。「こうして、こうして、こうするんだ」(と言っているようだった)。「どうだ」 「これをどう思うかい? じゃあ、これは? なら、これは?」
人々がやって来て、目を見張った。若い上流階級の既婚婦人、画商、美術評論家、絵に関心がある文学者、音楽家もいくらかいた。新聞が特に取り上げたせいで、何か面白い見ものがあると思えばどこにでも駆けつける人たちが実に多かった。これは注目に値する二週間の個展だった。ミリアム・フィンチ(しかし彼女は自分が個展を見たことをユージンには絶対に認めなかった……ユージンをいい気にさせるつもりはなかった)、ノルマ・ホイットモア、ウィリアム・マコーネル、ルイス・ディーサ、オーエン・オーバーマン、ペインター・ストーン、文学や絵を生業とする凡人や野次馬がこぞってやって来た。そこには、ユージンがこれまで見たこともなかった優れた才能を持つ芸術家たちがいた。街で最も著名な社交界のリーダー格の数名が時々自分の絵を見ているのを偶然見かけたりしたら、彼は大喜びしただろう。彼を観た者はみんな、彼の男らしさに驚き、彼の人柄に興味を持ち、それがどのような動機、重要性、視点を持っているのかを知りたがった。いろいろなことからもっといいものを取り入れたがる教養人は、美術評論家がこれに何と言うのか、どういうレッテルを貼るのか……を知りたくて新聞に目を向けた。作品の力と、ケルナー商会の威信と批評家的な判断と、自分の本能と意志を持つ大衆が興味を持ったという事実のおかげで、批評は概ね好意的だった。大手出版社の保守的な傾向と関係があり、それを代表しているある美術誌は、このコレクションの価値を全面的に否定し、みすぼらしいディテールへの芸術家のこだわりを芸術的価値があると嘲笑し、彼が正確に描写できることを否定し、純粋な美の愛好家であることを否定し、残酷なものを残酷に描くことで現在の大衆に衝撃を与えたいという願望以上の高い理想は何も持ち合わせていないと彼を非難した。
「ウィトラ氏は」この批評家は書きつづった。「アメリカのミレーと呼ばれたら、間違いなく喜ぶだろう。この画家の芸術の残酷な誇張は、おそらく彼自身の価値を証明するだろう。彼は思い違いをしている。かの偉大なフランス人は、人間性を愛する人であり、精神の改革者であり、デッサンと構図の達人だった。自分の作品で人を驚かして怒らせたいという安っぽい願望はまったくなかった。もしゴミ入れや機関車やよぼよぼのバス牽引馬を芸術として、喉に押し込まれることにでもなれば、天が我々を守ってくださるだろう。我々はすぐにでもありふれた写真撮影に切り替えて、こんなものとは関係を断った方がいい。壊れた窓の雨戸、汚い舗道、半分凍ったゴミ収集車の運転手、そして警察官、アパート住まいの口うるさい老婆、物乞い、乞食、サンドイッチマンの誇張されたかなり不自然な姿……ユージン・ウィトラによればこういうものが『芸術』なのである」
ユージンはこれを読んで顔をしかめた。しばらくの間、それは十分正しいように思えた。彼の絵はみすぼらしかった。しかし、ルーク・セヴェラスのように逆の極論に向かう他の者もいた。
「悲哀の本当の意味、ドラマ性の本当の意味、色彩を与える能力……今どきの考え方ではそう思えるかもしれないが写真的な価値ではなく、もっと高度な精神的意味を備えたもの、偶然でもいいからひとりでに癒えてくれないかと、人生をそれ自身の下劣さで告発して、それ自身の卑しさと残酷さとで予言のように説示する能力、恥辱や悲哀や堕落の中でさえも美がどこにあるかを見極める能力、この男の作業にはそういうものがある。彼は明らかに土から生まれて、偉大な仕事を始めたばかりである。ここに恐怖はなく、伝統に屈するでもなく、受け入れられた手法はまったく認められない。おそらく彼は受け入れられた手法がどんなものなのかを知らないのかもしれない。かえってよかった。我々は新しい手法を手に入れた。世界はその分だけもっと豊かになった。以前にも述べたが、ウィトラ氏は認められるまで待たねばならないかもしれない。こういう絵がすぐに購入されて客間に掛けられないのは確かである。普通の美術愛好家は新しいものをそう簡単に受け入れない。しかし彼が辛抱し、彼の絵が彼を挫折させなければ、彼の出番はくるだろう。行き詰まるはずがない。彼は偉大な芸術家だ。彼が生きて、それを意識的に自分の魂の中で実現できることをお祈りする」
これを読んだときユージンの目に涙があふれた。自分が何かの崇高で超人的な目的のための媒体であるという考え方は、しこりのようなものを感じるほどユージンの声帯を厚くした。偉大な芸術家になりたかった。こうして自分に与えられた評価に値する者になりたかった。これを読んで自分を思い出してくれそうな全ての作家、画家、音楽家、絵の愛好家のことをユージンは考えた。これから彼の絵はある程度売れる可能性があった。ユージンは大喜びでこっちに専念するつもりだった……雑誌のイラストは完全にやめるつもりだった。雑誌のイラストは何て馬鹿馬鹿しく、何て限定的で重要性がないんだ。これからは純粋な必要性に迫られない限り、もうそれをやるつもりはなかった。彼らは無駄に頼み込むはずだ。ユージンはその言葉の本当の意味での芸術家だった……ホイッスラー、サージェント、ベラスケス、ターナーと並ぶ偉大な画家だった。発行部数の少ない短命な雑誌などは好きにさせておけばいい。彼は全世界のために存在していた。
個展がまだ開催中のある日、ユージンは部屋の窓辺に立ち、アンジェラの横で、寄せられたすべての賛辞について考えていた。絵はまったく売れなかったが、終了する前にシャルル氏は、何枚かは引き取られるかもしれないと言ってくれた。
「これで儲かったら」ユージンはアンジェラに言った。「今度の夏はパリに行こうと思う。僕はいつもパリを見たいと思ってたんだ。秋に戻って来たら住宅街でアトリエを手に入れよう。六十五丁目でいい物件を建設してるんだ」ユージンはアトリエに年間三、四千ドルを払える芸術家たちのことを考えていた。描いたすべての絵で四百、五百、六百、さらには八百ドルでさえも稼いでしまう男たちのことを考えていた。もし彼にそれができたなら! あるいは、来年の冬に壁の装飾の契約でもとれたらいいのだが。彼には蓄えがほんの少ししかなかった。ユージンはこの冬、時間の大半をこれらの絵の制作に費やしていた。
「まあ、ユージン」アンジェラは叫んだ。「それってとてもすてきそうね。とても信じられないわ。あなたは本当に、まさに、偉大な芸術家よ! そして私たちはパリに行くのね! ああ、それってすばらしいじゃない。まるで夢のようだわ。考えても考えても、時々自分がここにいることが信じられないのよ。それと、あなたの絵がケルナー商会で飾られているとか、それから、ああ!……」アンジェラはうれしさのあまり恍惚にひたりながらユージンにしがみついた。
公園ではちょうど葉っぱが出始めていた。まるで広場全体が、彼の部屋の網と同じように、小さな緑の葉っぱが散りばめられた透明の緑の網ですっぽり覆われたかに見えた。鳴き鳥が日なたぼっこをし、スズメが小さな雲の中を騒がしく飛びまわり、ハトが下の通りの車のわだちの間をのんびり歩いていた。
「パリを題材にした絵のシリーズを描いてもいいな。どうなるかはきみにもわからないだろ。絵の準備ができれば来年の春にまた個展を開催するってシャルルは言っている」ユージンは両腕を頭の上に押し上げて気持ちよさそうにあくびをした。
ミス・フィンチは今何を考えているだろう、クリスティーナ・チャニングはどこにいるのだろう、ユージンはそんなことを考えた。彼女がどうなったのか、新聞には今のところまだ一言も載っていなかった。ノルマ・ホイットモアが考えていることはわかった。まるでこの個展が自分の事であるかのように見るからに幸せそうだった。
「じゃ、私は昼食の支度をしに行くわね、あなた!」アンジェラは叫んだ。「食料雑貨商のジオレッティさんと八百屋のルジエーリさんのところまで行かなくちゃならないわ」イタリア系の名前が面白かったのでアンジェラは笑った。
ユージンはイーゼルに戻った。クリスティーナのことを考えていた……彼女はどこにいるのだろう? ユージンは知らなかったかもしれないが、そのとき彼女は彼の絵を見ていた。ヨーロッパから戻ってきたばかりだった。〈イブニング・ポスト〉の批評を見たのだった。
「これほどの作品だなんて!」クリスティーナは思った。「これほどの実力があるなんて! ああ、何てすてきな芸術家なのかしら。そんな人が私と一緒にいたのね」
彼女の心はフロリゼルと木立ちに囲まれたあの円形の場所に戻った。「彼は私のことを『山のダイアナ』、『ハマドリュアス』、『暁の狩人』って呼んだわね」クリスティーナはユージンが結婚したことを知っていた。彼女の知人が十二月に手紙で知らせてくれたのだ。過去は過ぎたことだった……彼女にはもう未練はなかった。でも思い出すのは楽しかった……いい思い出だった。
「私ったら変な娘よね」クリスティーナは思った。
しかし彼女はまた彼に会えたらいいなと思った……面と向かってではなく、どこか相手からは見えないところで会いたかった。彼は変化を続けているのだろうか……これから変わっていくのだろうか、とクリスティーナは考えた。彼女にとってはあのときの彼がとてもすばらしかった。
第八章
パリは今ユージンの想像の中にはっきりと現れ、その期待は他のたくさんの楽しい考えに入り交じっていた。新聞や美術誌に大きく取り上げられ、エリート層の幅広い来場を勝ち得た一般公開の個展を開催して箔をつけた今、芸術家、批評家、物書きの誰もがユージンを知っているようだった。彼に会って挨拶をしたがる者や、作品を認めながら話しをしたがる者が大勢いた。正確にはその才能はまだ最大に到達したわけではなく、まだ新人で、道半ばだったが、彼が偉大な芸術家であることは、明らかに一般的に理解された。ユージンはこの一度の個展によって彼を知る人たちの中で、スマイトやマクヒュー、マコーネルやディーサのような男たち、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインや水彩画協会の半年に一度の展覧会をキャンバスで埋める、ある意味では彼も同類と思われていた小さな画家たちの世界のつまらない努力のはるか上の孤高の域にほぼ一日で持ち上げられた。彼は今や偉大な芸術家だった……もののわかった名だたる批評家にそう認められたのだ。これからはそういうものとして偉大な芸術家の仕事をすることが期待されるだろう。個展開催中に掲載された〈イブニング・サン〉のルーク・セヴェラスの批評の一節が彼の記憶に鮮明に残った……「彼が辛抱し、彼の絵が彼を挫折させなければ」どうして僕の絵が僕を挫折させるんだ?……ユージンは自問した。個展終了時にシャルル氏から絵が三枚売れたと聞いてユージンは大喜びした。……一枚は三百ドルで銀行家のヘンリー・マッケンナに、もう一枚はシャルル氏が絶賛したイーストサイドの通りの風景が五百ドルでアイザック・ヴェルトハイムに、三枚目は三両の機関車と鉄道操車場の絵が、鉄道員でニューヨークに乗り入れている大手鉄道会社のうちの一社の初代副社長ロバート・C・ウィンチョンに五百ドルで売れた。ユージンはマッケンナ氏もウインチョン氏も聞いたことがなかったが、彼らが裕福で洗練された人物であることを確信した。アンジェラの提案でユージンはシャルル氏に、彼が自分にしてくれたすべてのことに対するささやかな感謝の証として絵を一枚受け取ってくれませんかと尋ねた。ユージンではこうすることを思いつかなかっただろう。彼は全然気が利かず世事に疎かった。しかしアンジェラはそれを思いつき、ユージンが実行するのを見届けた。シャルル氏は大喜びしてグリーリー・スクエアの絵を受け取った。彼はこれを色彩解釈の傑作だと考えた。ともかくこれは二人の間の友情の絆を固め、シャルル氏はユージンの利益がきちんとあがるように配慮したくなった。ユージンは風景画の三枚をしばらく売りに出しておくよう彼に頼んで、自分にやれることを確認するつもりだった。その一方で、これまでの収入から銀行に残しておいた千数ドルに千三百ドルが加わって、実績ができたと確信し、計画したとおりに少なくとも夏にパリに行くことに決めた。
ユージンにとってかなり特別でかなり画期的なこの旅行は簡単に準備が整った。ニューヨークにいる間ずっと彼は仲間内で、他のどの都市よりもパリについての話をよく耳にしていた。そこの通りも、街区も、美術館も、劇場も、オペラ座も、すでに彼にとってはほぼ普通の場所だった。生活費、理想的な暮らし方、旅行の方法、見どころ……ユージンはどれほど頻繁にこういうものの解説を腰を据えて聞いただろう。今は向かっているところだった。アンジェラは率先して実務的な細かいことを全部手配した……蒸気船の航路を調べ、必要なトランクのサイズや持って行くものを決め、切符を買い、二人が滞在するかもしれないいろいろなホテルやペンションの料金を調べた。アンジェラは夫の人生に突然現れた栄光に呆然とするあまり、どうすればいいのか、どう判断したらいいのかよく分からなかった。
「あのビアダットさんが言うにはね」アンジェラは相談に乗ってくれた蒸気船代理店の店員に言及しながらユージンに言った。「夏の間行くだけなら、どうしても必要なもの以外は持っていかない方がいいんですって。必要なら着るものは現地でいくらでもいい小物が買えるし、秋に免税で持ち帰ることができるそうよ」
ユージンはこれに賛成した。アンジェラがそういう店を見たいからだろうと思った。最終的にロンドンを経由してアーヴルから直接戻ることに決めた。五月十日に出発して、一週間後にロンドン到着し、六月一日にパリに到着した。ユージンはロンドンに大きな感銘を受けた。イギリスの湿気と寒さを避けて、魅惑的な金色に輝く霧を通してロンドンを見物できるちょうどいい時期に到着したのだった。アンジェラは自分が『低俗』と評した店や、貧しくみすぼらしい服装をした下層階級の実情を嫌った。アンジェラとユージンは、イギリス人はみんな見た目も服装も歩き方もまったく同じに見え、帽子のかぶり方から杖の持ち方までまったく同じである興味深い事実について話し合った。ユージンは男性のはっきりとした『動き』に感銘を受けた……きびきびして洗練されていた。女性はおおむね野暮ったく家庭的で扱いにくくて嫌だった。
しかしパリについてみると、何と大違いだった! ロンドンでは、十分な財力がなかったため(まだ自分には都会のもっと高価な気晴らしや娯楽にふけるだけ余裕はないと感じていたため)、適切な社交の紹介の労をとってくれる人がいなかったことから、不意に来た旅行者しか見ないような物事の上っ面、外側の一面……曲がりくねった通り、交通渋滞、ロンドン塔、ウィンザー城、法曹院、ストランド通り、ピカデリー、セントポール大聖堂、国立美術館、大英博物館……で満足するしかなかった。サウスケンジントンと、美術品が展示されたさまざまな恵まれた宮殿はユージンを大喜びさせた。彼が主に衝撃を受けたのは、ロンドンの保守性、帝国らしい雰囲気、軍隊などであり、ロンドンは単調で面白みがなく、ニューヨークに比べてどぎつくなく、実際、画趣をそそらないと考えた。しかしパリに来ると、このすべては一変した。パリはそれ自体が休日の街だった……装いがいつも陽気で、魅力的で、新鮮で、まるで田舎で一日を過ごしに出かける人のようだった。ユージンはカレーの埠頭に足を踏み入れ、その後で横断して街に入ったときに、フランスとイギリスの大きな違いを実感できた。片方の国は若く、希望に満ち、アメリカ的で、愚かなほど陽気に見えるのに、もう片方の国は真面目で、考え深く、気難しそうだった。
ユージンはシャルル氏、ハドソン・デューラ、ルイス・ディーサ、レナード・ベーカーなどからたくさんの手紙をもらった。彼らはユージンの渡航を聞きつけて、彼の力になってくれるかもしれないパリの友人のところへ行くように申し出てくれた。もし自分のアトリエを持ちたいのではなく、学びたいのであれば、一番いいのはフランス語が聞けてすぐに身につけられるような、陽気なフランス人一家と一緒に暮らすことだった。もしそうしたくなければ次にいいのは、モンマルトル地区の、いいアトリエが確保できてアメリカ人やイギリス人の学生が大勢いるどこかの一画か路地にでも落ち着くことだった。彼が持っている手紙の宛名のアメリカ人の何人かは、すでにここに定住していた。英語を話す友人の連絡先が少しあれば、うまくやっていけるものなのだ。
「驚くかもしれないがね、ウィトラ」いつだったかディーサが言った。「賢く身振りで合図を送れば、いくらだって英語を理解してもらえるんだ」
ユージンはディーサの失敗談と成功談を聞いて笑ったがディーサの言うとおりだと気づいた。身振りの合図はかなり有効で、一応それでひと通り話は通じた。
ホテルで数日過ごした後、ユージンとアンジェラが最終的に選んだアトリエは、ケルナー商会パリ支店のアークキン氏に勧められ、手が届くところにあるのがわかった家の三階にある快適なものだった。シカゴでルビー・ケニーから言われたことがあったのをユージンが後で思い出したもう一人の画家のフィンリー・ウッドは、夏の間パリを離れようとしていた。シャルル氏の印象的な手紙を受けてアークキン氏は、ユージンが快適に現地入りできるようにとても気を遣い、これにするよう提案し、費用は何なりと……月四十フランを……彼が払いたがった。ユージンは部屋を見てよろこんだ。部屋は家の裏側にあって小さな庭に面していた。この方角から地面が西に傾斜し、たまたま建築線が切れていたため、パリ市街、ノートルダムの二つの塔、そびえ立つエッフェル塔が一望できた。夕方、街の灯が点滅するのを見るのは魅力的だった。ユージンは中に入るといつも椅子をお気に入りの窓辺に引き寄せ、アンジェラはレモネードかアイスティーを作り、卓上鍋で料理の腕前を見せた。ほぼ標準的なアメリカの料理をユージンに出すとき、アンジェラは自分の最大の特徴である実行力と天性の働き者ぶりを発揮した。近所の食料雑貨店、焼肉屋、お菓子屋、青果店に行って、必要なものを最小限の量で手に入れ、常に最高の品を選び、細心の注意を払って調理した。アンジェラは料理の名人であり、風味のいいきらびやかな食卓を作るのが大好きだった。ユージンと二人っきりなら完全に幸せであり、彼は自分と一緒にいなければならないと感じたので、友だちは必要なかった。アンジェラはひとりではどこにも行きたくなかった……ユージンと一緒にいたいだけだった。そして、すべての考えと動作に注目して、ユージンが楽しみにしているのは何なのか、彼が言うのを待っていた。
ユージンにとってのパリのすばらしさは、その新鮮さと、あらゆるところで表現される芸術精神の豊かさだった。幅広の赤いズボンに青いコートと赤い帽子の小柄なフランス兵、マントと剣を身につけた警察、悠然とした偉そうな態度のタクシーの運転手を見ていて全然飽きなかった。一年のこの季節に船でにぎわうセーヌ川、白い大理石の裸体像や幾何学的配置の歩道や石のベンチがあるチュイルリー公園、森、シャン・ド・マルス公園、トロカデロ博物館、ルーブル美術館……すべてのすばらしい通りと美術館は夢の中に閉じ込めるようにユージンをとりこにした。
「うーん」ある日の午後、ユージンはセーヌ川のほとりをイシーに向かって進みながら、アンジェラに叫んだ。「ここは確かにすべての優れた芸術家に授けられたふるさとだ。香水の香りを嗅いでごらん。(香りの出処は遠くの香水工場だった)。あの艀を見てごらん!」ユージンは川の胸壁に寄りかかって、「ああ」とため息をついた。「これは完全だな」
オープンカーの屋根に夕暮れをあおぎながら二人は戻った。「死んだら」ユージンはため息をついた。「パリに来たいな。パリはまさに僕が求める天国だ」
しかしすべての完全な喜びがそうであるように、パリといえど時間が経てばそれほどではないにしても多少は面白みがなくなった。ユージンは自分の絵が通用すればパリで暮らせると感じた……いずれにせよ、当分は戻らなければならないことを知っていた。
精神面は至らずとも、アンジェラが自信をつけ始めていることにユージンはしばらくして気がついた。初めてニューヨークに来た前の年の秋に彼女の特徴になってしまい、芸術家生活の急な変化と、あちこちで遭遇した慣れない強烈な個性の持ち主たちのせいで一時的に高まって増大した、ある種の漠然とした不安から脱却して、アンジェラは経験から芽生えたある種の自信を開花しつつあった。ユージンの考えること、感じること、関心は完全に思考の上位の世界……類型、群衆、建物や通りや地平線の様相、人生のユーモアと哀れな側面……にあるとわかったので、アンジェラはもっぱら管理面の細かい作業に徹した。ユージンは、誰かが身の回りの世話から解放しようとすると、相手にそれをやらせてしまうとアンジェラが気がつくまでに長く時間はかからなかった。ユージンは自分で買い物をすることが全然楽しくなかった。物事の管理や金銭のやり取りの細々したことが嫌いだった。切符の購入、時刻表調べ、問い合わせ、議論や言い争いで苦労しなければならなくなると、それをやりたがらなかった。「これをやってくれないか、アンジェラ?」とか「きみが先方にそれを確認してよ。僕は今できないんだ。いいだろう?」と頼むのだ。
アンジェラは、それがどんなことでも、自分が本当に役に立ち、必要であることを示したくて、急いでその仕事に取り組んだ。ニューヨークでやったように、ロンドンやパリでもユージンはバスの中で、描いて描いて描きまくった……タクシー、セーヌ川の小さな客船、カフェ、公園、庭園、ミュージックホールなど、どこでも、どんなものでも。彼は実際に疲れを知らなかった。ユージンが望んだのは、あまりわずらわされないことと、好きにさせてもらうことだけだった。時々アンジェラがユージンのために一日の請求をすべて支払うことがあった。彼女はユージンの財布を持ち歩き、現金が振り込まれたすべての急ぎの注文を受け持ち、すべての支出のリストを管理し、買い物、買いつけ、支払いを行った。ユージンは自分が見たいものを見て、考えたいことを考えられるようになった。アンジェラは最初のうちユージンを神さま扱いした。するとユージンはすっかりその気になって仏像のように足を組み、神として振る舞った。
ユージンの注意を引く異質な光景も音もなく、彼の芸術さえも二人の間に入り込むことができず、アンジェラが彼を自分の腕の中に引き寄せて、彼の落ち着かない精神を愛の潮流に沈めることができる夜だけは、彼と同等……本当に彼にふさわしい……と感じた。暗闇や、広いベッドの近くの天井から鎖で吊るされた小さな石油ランプのまろやかな光や、下の小さな庭の一本の木で鳥たちがさえずり出す夜明けのかすかな清々しさと共に訪れる、これらの恍惚に……アンジェラはたっぷりひたると同時に心底自分本位になった。自分たちに関する限り、自分が楽しければいいというユージンの哲学を熱心に取り入れていた……それは彼女の漠然とした考えや彼女自身の熱い衝動と一致したので容易いことだった。
アンジェラは、長年の自己否定と、多分決して実現することはないと思っていた結婚に対する長年の悲痛な憧れを経て結婚にこぎつけ、それだけの年月から蓄積された激しい情熱をかかえて夫婦のベッドにたどり着いたのだった。自分が処女であること以外に、性の倫理や生理学の知識が全くなかったので、結婚というものを全然わかっていなかった。若い娘の噂話や、新婚女性のあいまいな告白や、(会話の成り行きは神のみぞ知る)自分の姉の助言を聞いても相変わらず無知同然だった。そして今ようやくその謎を思うがままに探求して、情熱を抑えず満足することは正常ですばらしいと確信した……さらに、心の平穏を脅かす意見や気質の違いをおぎなう万能薬だとわかるようになった。ワシントンスクエアのひと間のアパートでの生活から始まって、現在もパリでなお一層熱烈に続いているのに、二人の本質のいかなる必然性とも関係がなく、ユージンの知的で芸術的な仕事が彼に課した要求とも確実に無関係な、欲望の飽くなき享楽とでも評されていいものが二人の間には存在した。ユージンにとってアンジェラは驚きであり喜びだった。しかしおそらく喜びは驚きほどではなかった。アンジェラはある意味で全く単純だったが、ユージンはそうではなく、他のことと同じようにこれにかけても芸術家であり、知的なデリカシーに損なわれた力ではぶっ通しで続けられない鑑定の域に自分を奮起させていた。冒険の興奮、ある意味では陰謀の興奮、女性という人間の秘密を発見することの興奮は……御しがたい衝動ではないとしても、実はこれらが彼のロマンスの魅力を構成するものだった。征服することはすばらしかった。しかしこれは本質的には知的な冒険心だった。自分のせっかちな夢が、望みの女性が有する究極の甘美に屈する形で実現するのを見ることは、彼にとって肉体的にはもちろん想像的にも抗いがたいことだった。しかしこういう冒険は深淵に張り巡らされた細い銀の糸のようなものだった。その美しさはユージンに知られていても危うさまで知られてはいなかった。それでも彼はアンジェラが与えてくれるこのすばらしい悦楽を生み出すものを喜んだ。これに関する限り、まさに彼が欲しいと思ったものだった。そしてアンジェラは、彼の飽くなき欲望に思えるものに応える自分の力を、ただの優しさだけではなく義務だと判断した。
ユージンはここにイーゼルを設置して、ある時は九時から正午まで、またある時は午後の二時から五時まで絵を描いた。暗ければ、アンジェラと一緒に散歩やドライブに出かけるか、美術館や画廊や公共施設巡りをするか、市内の工場や鉄道区画を散策した。ユージンは陰鬱な感じのものに最も共感し、常にひどい仕事を代表するものを描いていた。ミュージックホールのダンサー、後にアパッチ地区として知られる界隈の無法者、ベルサイユやサン=クルーで夏のピクニックを楽しむ者、セーヌ川で船に乗っている人たちの他にも、いつも印象的な通りの風景を背景にして、工場の群衆、監視員と踏切、市場の人たち、真っ暗な市場、新聞売り、花屋を描いた。パリの最も興味深いシーン、塔、橋、川の景色、建物の正面のいくつかが、おぞましい、絵のように美しい、哀れな特徴の人たちの背景に登場した。アメリカにこういうものへの興味を持ってもらうことが彼の希望だった……次の個展では、自分の多才と才能の持続性を例証するだけでなく、技量、色価を評価する確かな感覚、特徴を分析する力、構図や配置を選ぶセンスの確かさが向上したことを示すつもりだった。ユージンは、このすべてが無駄かもしれないことに気づいていなかった……彼は自分の芸術から離れて、才能からその最も繊細な持ち味を奪い、自分の世界観を変色させ、想像力の幅を奪い、神経質に苛立つことで努力を妨げ、達成できなくするかもしれない生活を送っていた。ユージンは、自分の性生活が作品に及ぼす影響も、そういう生活が悪い形で落ち着いた場合、完璧な芸術に何をもたらすかも……それがどれほど色彩感覚を歪めて、人生の正常な解釈にどうしても不可欠な特徴についてのあのバランスのとれた判断力を弱めて、すべての努力を台無しにし、芸術からその最も楽しい構想を取り上げ、人生そのものを重要ではなく、死をも安らぎに見せることができるかを……知らなかった。
第九章
夏が過ぎ、それとともにパリの新鮮みと目新しさはなくなったが、ユージンは全然飽きなかった。異国の生活の風変わりな点、この国と自国との間の国民的理想の違い、道徳に対する明らかにかなり慈悲深い人間的な態度、その問題点や欠点や階級差を平然と受け入れる姿勢、いろいろな身体的外観は言うまでもなく、人々の服装、住居、娯楽は、ユージンを楽しませ驚かせた。アメリカとヨーロッパの建築様式の違いを研究し、フランス人がやっていそうな穏やかな暮らし方に注目し、フランス人女性が家事で心がける清潔さ、効率性、徹底ぶりについてアンジェラが性懲りもなく解説するのを聞き、絶えず活動したがるアメリカ人がいないのを喜ぶことに、全然飽きなかった。アンジェラは、洗濯代がとても手頃な値段だったことと、コンシェルジュ……この住居を管理しアンジェラと対話ができる程度の英語がわかる管理人……が、買い物、料理、裁縫、もてなしが上手だったことに感動した。アメリカ人の生活物資の多さと目的のない無駄使いは、同じく知らないことだった。アンジェラはもともと家庭的な性格だったので、ブルゴーシュ夫人ととても親しくなり、家事の効率化と整理整頓のちょっとしたコツをたっぷり教わった。
「きみは変わった女の子だ、アンジェラ」ユージンはかつて彼女に言った。「きみなんかはこれまでに存在した最高に面白い作家や芸術家に会うよりも、階段に座ってあのフランス女とおしゃべりする方がいいんだろうね。何について話すとそんなに面白いんだい?」
「あら、大したことじゃないわ」芸術がわからん奴だと暗に言われたことに気づかないわけではなかったがアンジェラは答えた。「あれでなかなか賢い人なのよ。とても手際がいいんだから。彼女ならすぐに、私がこれまでに会ったどのアメリカ人の女性よりも、節約や買い物や小さなことで十分な成果を上げることに詳しくなるわ。だからって私が他の誰よりも彼女に興味があるわけじゃないわよ。私が見たところ、芸術家がやることって、遊び回って、そうでないときに自分が大したものだと装うだけでしょ」
ユージンは自分が気に障ることを言ってしまったと気がついた。必ずしもそういう受け取られ方を意図してはいなかった。
「僕はその女性に能力がないとは言っていないさ」ユージンは続けた。「才能はどれも同じようにすばらしいと思うよ。僕にはその女性が確かに賢く見えるからね。旦那さんはどこにいるんだろう?」
「戦死なさったそうよ」アンジェラは悲しそうに答えた。
「ニューヨークに戻ったときにホテルの一つも経営できるくらいのことをあなたは彼女から学ぶと思うわ。今のあなたは家事だっておぼつかないでしょ?」
ユージンはそれとなく褒める感じで微笑んだ。アンジェラの気持ちを芸術の問題から締め出したかった。ユージンは自分に他意がなかったことをアンジェラに感じてもらうなりわかってもらうなりしてほしかったが、アンジェラはそう簡単に収まらなかった。
「あなたって私のことをかなり未熟だって思ってない、ユージン?」しばらくしてからアンジェラは尋ねた。「私がブルゴーシュ夫人と話をしようがしまいが、どうでもいいことだって思ってない? あの人はそれほど鈍くないわ。すごく賢いのよ。あなたがあの人と話したことがないだけよ。あなたを見れば、あなたが立派な芸術家なのがわかる、って言ってるわ。あなたは人とは違うって。あなたはかつてここに住んでいたドガさんを思い出させるんですって。ドガって偉大な芸術家だったの?」
「ドガだって!」ユージンは言った。「ああ、そうだとも。ここは彼のアトリエだったのか?」
「ええ、ずっと昔……十五年前だって」
ユージンは至福の笑みを浮かべた。これはすばらしい褒め言葉だった。ユージンはそれだけでブルゴーシュ夫人を好きにならずにいられなかった。彼女が聡明なのは間違いなかった。そうでなければ、このような比較はできないからだ。アンジェラは以前と同じように、きみの家庭的な性格と家事の腕前はこの世界の他の何よりも重要である、という言葉をユージンから引き出した。これをやり遂げると満足して再び明るくなった。芸術や環境や気候や国くらいでは、人間の本質の基本的な特徴はほどんど変わらないとユージンは考えた。彼はここパリにいて、比較的お金に余裕ができ、有名になり、もしくはそうなりつつあるのに、ワシントン・スクエアにいるときとまったく同じように、ささいな家庭内の行動様式の違いを巡ってアンジェラと喧嘩していた。
ユージンは九月下旬までに、パリの絵のほとんどを、どこででも仕上げられる状態にしておいた。約十五枚はその限界まで完璧であり、他のたくさんの作品もそれに近かった。ユージンは有意義な夏を過ごせたと判断した。懸命に作業に励んで、その成果を示す作品がここにあった……彼の判断では、二十六枚のキャンバスはニューヨークで描いた作品と同じくらい出来がよかった。時間はそれほどかかっていなかったが、ユージンは自分に自信がついた……自分の手法への自信が強くなった。このパリの風景画コレクションが、ニューヨークの風景画と同じようにアメリカ人に感銘を与えるだろうと信じて、自分が見たすべてのすてきなものたちと渋々別れた。アークキン氏をはじめ、ディーサやデューラの友人を含む他の大勢の人たちが作品を見て喜んだ。アークキン氏は、そのうちの一部がフランスで販売されるかもしれないと信じるところを述べた。
ユージンはアンジェラと一緒にアメリカに戻った。すると十二月一日まで元のアトリエにいられることがわかったので、個展用の作品をそこで仕上げるために落ち着いた。
自分のフランスの作品をアメリカ人がどう思うか、についての高まる不安とは別に、どうも体調が悪いとユージンが最初の兆候を感じたのは、秋になって、コーヒーが自分に合わない……と思い始めた、もしくはおそらく実際にそうだった……時だった。この数年の間、昔からの持病……胃の不調……と無縁だったが、徐々に再発し始めていた。食後にむかむかする、コーヒーが喉にこみ上げる、とアンジェラに訴え始めた。「これがとまらないなら、紅茶か何か他のものにしてみようと思う」と言った。アンジェラがチョコレートを勧めたのでそれに切り替えたが、これはただ災いを次の四半期にずらしただけだった。今度は自分の作品と喧嘩をし始めた……ある効果が得られなかったり、時には絵を修正してはまた修正し、さらにまた修正して原形とは似ても似つかぬものにしたりして、ひどく落胆した。あるいは、ついに完成したと思っても翌朝には考えが変わった。
「さて」ユージンは言った。「やっとうまくいったな、ありがたい!」
アンジェラはユージンが感じたどんな苦悩も無力感も瞬時に感じ取ることができたから安堵したが、その喜びは束の間だった。数時間後にはユージンが同じキャンバスで何かを変えながら作業をしているのを見つけるからだ。この頃になるとユージンは一段と痩せ細って顔色が悪くなり、将来の不安は急速に病気に関するものになった。
「ああ! アンジェラ」ある日ユージンはアンジェラに言った。「今病気になったら僕は困るんだ。ちょうど倒れたくない時期なんだ。僕はこの個展をきちんと終わらせて、ロンドンに行きたいんだよ。ニューヨークでやったとおりにロンドンとシカゴでやれたら、ほぼ成功なんだが、もし病気にでもなったら……」
「まあ、あなたは病気になんかならないわ、ユージン」アンジェラは答えた。「自分でそう思ってるだけよ。この夏、一生懸命働いたことを思い出してほしいわ。それに去年の冬、どれだけ頑張ったか考えてよ! 十分な休息が必要なんだわ。それがあなたには必要なのよ。この個展の準備が済んだら、活動を停止してしばらく静養したらどうかしら? 少しの間生活できるくらいの十分な蓄えはあるでしょ。多分シャルルさんがもう少し絵を売ってくれるわ。あるいは絵の何枚かが売れるわよ。そうすれば待てるわ。春にロンドンに行こうとしてはいけないわ。歩いて旅するとか、南の方へ行くとか、どこででもいいから、しばらく静養するとか……そういうことがあなたには必要なのよ」
自分に必要なのは静養ではなく心の平安であることをユージンは漠然と気づいていた。疲れてはいなかった。ただ神経質に興奮して不安なだけだった。よく眠れなくなり、恐ろしい夢を見るようになり、心臓が弱っていると感じ始めた。午前二時、人間の生命力が何かの理由で異常な変調をきたす時間になると、体が沈んでいく感じがして目を覚ました。脈拍がかなり低下しているようだったので、恐る恐る手首に触れてみた。冷や汗をかいて立ち上がり、調子を取り戻そうとして歩き回ることも珍しくなかった。アンジェラも立ち上がって彼と一緒に歩いた。ある日イーゼルの前でユージンは異常な神経障害に襲われた……突然目の前がきらきら光って、耳鳴りがして、体が一千万本の針で刺されているような感じだった。まるで神経全体が要所要所で機能を停止したかのようだった。しばらくの間、ユージンは自分がおかしくなりかけていると信じ込んでひどく怯えていたが何も言わなかった。自分の問題は肉体的欲望への過剰な傾倒であるというびっくりするような事実をユージンは思いついた。治療法は全面的、もしくは少なくともある程度の禁欲だった。おそらく精神的にも肉体的にもかなり疲弊していて、回復は極めて困難であり、絵を描く能力が深刻な影響を受けるかもしれなかった……彼の人生は台無しだった。
ユージンは筆を握ったままキャンバスの前に立ち、考えていた。ショックが完全におさまると震える手で筆を置いた。窓のところへ行って、冷たく湿った額を手でぬぐい、クローゼットからコートを取ろうとして振り向いた。
「どこへ行くの?」アンジェラは尋ねた。
「ちょっと散歩してくる。すぐ戻るよ。どうも気分が晴れないんでね」
アンジェラは玄関で見送りのキスをしてユージンを行かせたが、内心不安だった。
「ユージンが病気になるのが心配だわ」と思った。「仕事はやめるべきね」
第十章
これは五、六年続くことになる一時期の始まりであり、控えめに言ってもユージンはこのとき、本来の自分ではなかった。明確な論理的思考、絶妙な冗談、知的な議論や読書のできる力が正気の証であるなら、彼はいかなる意味においても狂っていなかった。しかし、心は密かに矛盾する疑い、感情、情動が渦を巻いていた。日頃の哲学的・内省的な気質、深く論理的に考えて感動的に感じることができるこの特異な能力は、今や彼と彼自身の状態に向けられた。我々が近過ぎるところで創造物の微妙な点を見つめるすべての場合と同じで、混乱がこの結果だった。これまでユージンは、世界は何もわかっていない、ということで十分納得していた。宗教にも哲学にも科学にも、存在の謎に対する解答は存在しなかった。人間の思考の小さなきらきら光る平面の上下にあるものは……何だろう? 最高の望遠鏡の光学レンズでも見られないところ……宇宙のおぼろげにしか見えない領域のはるか彼方……にも星雲はあった。星はそんなところで何をしているのだろう? 誰が星を支配しているのだろう? 天体の活動はいつ計画されたのだろう? ユージンは人生を、残酷な暗い謎、暗闇の中であてもなく変遷を続ける悲しい半意識の活動、と考えた。誰も何も知らなかった。神さまは何も知らなかった……彼自身もほんの少ししか知らなかった。悪意、死の上で生きている人生、明らかな暴力……これらが存在の主な特徴だった。もし何らかの形で人が力を失ったら、もし人生が親切に天賦の才能を与えてくれなかったら、もし幸運が甘やかしてくれるところで生まれなかったなら……そうでない者は悲惨だった。彼に力があって繁栄していた時代でも、暮らしぶりは十分に哀れだったから、危機的な遅れをとって挫けている時間ともなると、それはひどいものに思えた。もしも今、彼の絵が彼を挫折させたら、彼には何があるのだろう? 何もなかった。小さな取るに足らない評判を守りきれず、お金はなく、養わねばならない妻がいて、おそらく何年も苦しみ続けて死ぬのだ。死の深淵だ! 人生と希望のすべてを失った後で中をのぞき込んだとき、それはどれほどユージンに衝撃を与えて、どれほど傷つけただろう! ここには生命と幸福と健康な愛情があって……向こうには死と無があった……全部か皆無か、無のすべてか皆無か。
ユージンはすぐには希望を捨てなかった……崩れつつある現実の証拠にすぐには屈しなかった。何か月もの間、彼は毎日のように、これは一時的な状態に過ぎない、薬と医者が治してくれる、と想像した。新聞広告には治療薬、特効薬と銘打って、血液浄化剤、神経回復剤、健脳食などの様々な薬が載っていた。ユージンは普通の市販薬に効果があるとは思わなかったが、強壮剤、それも本格的な強壮剤なら何かいい効果が得られるかもしれないと想像した。ユージンが相談した医者は、休養と、話に聞いたことがある優れた強壮剤を勧めた。医者は何かの消耗性疾患にかかっていますかと尋ねた。ユージンは否定した。ユージンは情欲に過剰に溺れることを告白したが、医者はそれがノイローゼを引き起こすとは考えなかった。根を詰めて働いたのと取り越し苦労がこれに関係しているに違いなかった。彼のような気質は生まれつきノイローゼにかかりやすいので、自分の身は自分で守らなければならなかった。ユージンは細心の注意を払わければならなくなるだろう。規則正しく食事をとって、できるだけ長く眠って、決まった生活のリズムを守るべきだった。体系的な運動は、ユージンにとって悪いことではないかもしれない。棍棒やダンベルや運動具を手に入れて、そういうやり方で健康を取り戻せるかもしれなかった。
ユージンはアンジェラに運動を試してみようと思うと告げて、スポーツジムに入会した。強壮剤を飲み、アンジェラと一緒にたくさん歩き、精神的にまいっている事実を無視しようとした。これらは事実上、何の効果もなかった。身体が正常な状態を大きく下振れしていたので、徐々に元の状態に回復できるまで普通の状態以下のすべての地獄に耐えねばならなかった。
その一方で、アンジェラとの情熱的な関係が、自分にとって何らかの形で有害である、との判断が出来上がりつつあったのに関係を続けていた。慎むのは簡単ではなかった。そして禁欲に失敗すればするほどますます困難になった。「これをやめなければならない」が彼の口癖だったが、これは大酒飲みの、改心しなければならない、という言い訳がましい安請け合いのようなものだった。
世間の注目を浴びるようになった今……芸術家や批評家や作家が多少なりとも彼を知り、彼が何をしているかを時折気にかけるようになった今……ユージンは自分の絵が不朽の名作だと世間に納得させるために特別な努力をする必要があった。自分が日の目を見ない長く苦しい期間に入ったと気がついてすぐ、倒れる前にパリの絵がほぼ完成していてよかったと思った。ユージンは本格的な衰えの始まりを告げるかのような変なノイローゼにかかる日までに、二十二枚の絵を完成させた。アンジェラはそれに手を触れないようユージンに頼み込んだ。かなり腑に落ちない点もあったが、ユージンは意志の力だけで、さらに五枚完成させた。シャルル氏は折に触れてこのすべてを見にやって来て、高く評価した。結局のところ、パリは街中がイラストや風俗画で散々描かれてきたから、これらの作品にアメリカの絵ほどの魅力があるという確信は彼にもなかった。ニューヨークの絵ほど新しくはなく、ユージンが選んだものは、それほど型破りではなかった。それでも、作品は非凡であると正直に言うことができた。ここで駄目でも、後日パリで個展を開けばよかった。シャルル氏はユージンの健康を損ねた姿を見てとても残念がり、身体を大事にするよう勧めた。
まるで何かの悪い運星がユージンに影響を及ぼしているかのようだった。ユージンは占星術や手相判断を話に聞いて知っていた。ある日、好奇心と漠然とした不安から占星術師に相談して、お金と引き換えに、自分は芸術か文学で大きな名声を得る運命にあるが、何年も続くスランプの時期に入りかけている、とのお告げをもらった。ユージンの気分はかなり落ち込んだ。占星術の知識を何冊も本にしていたその古臭い老紳士は首を振った。御大層な白髪で白い顎鬚をはやしていたが、コーヒーの染みついたベストはタバコの灰をかぶり、襟や袖口は汚れていた。
「二十八歳から三十二歳にかけてかなり悪そうだが、その後に目覚ましい繁栄期がありますな。三十八歳から三十九歳のどこかで、もう少し大きな問題が生じる……ちょっとしたものが……でもそれからは抜け出すでしょう……まあ、そうなるように見えます。あなたの星は、あなたが神経質で、想像力の豊かな性格で、心配性であることを示しています。そして私が見たところ、あなたは腎臓が弱いですな。絶対に薬を飲み過ぎないように。あなたの星座はそっちを向いています。ですがそれはあなたのためになりません。あなたは二度結婚するでしょうが、子供には恵まれません」
相手が陰気にとりとめのない話を続けたので、ユージンはひどく落ち込んで立ち去った。衰退期を迎えて、将来はもっと問題を抱えることになる、と運勢には記されていた。しかし三十二歳から三十八歳にかけて大きく成功する時期があることがわかった。これは多少の慰めになった。ユージンが結婚することになる二人目の女性とは誰だろう? アンジェラは死ぬのだろうか? 十二月初旬の午後、ユージンは何度も考えながら街を歩いた。
ブルー家の人たちはアンジェラがニューヨークに来てから、ユージンの活躍をたっぷり聞いていた。一週間に少なくとも一通、時には二通の手紙が届かない週はなく、家族の間で回し読みされた。もともとはマリエッタに書かれた手紙だったが、ブルー夫人、ジョーサム、兄弟姉妹全員が順番に受け取った。だからブルー家にゆかりのある全員が、アンジェラの事情を正確に、しかも実情よりいい状況を知っていた。物事は十分順調そうに思えたが、夫の成功を語るにあたって、アンジェラはありのままの事実の範囲に踏みとどまらなかった。アンジェラはブルー家の様々な関係者が、特にマリエッタが、こんなに才能のある男性の妻を待ち構えるものは威厳と至福以外には何もないと信じてしまうほど、架空のものではなく、自分の心にあるもっともらしい栄光の雰囲気を付け足した。アンジェラがここやパリで見たアトリエの生活、ロンドンとパリの絵のような描写、シャルル氏、アークキン氏、アイザック・ウェルトヘイム、ヘンリー・L・トムリンス、ルーク・セヴェラスといった名士たち……二人がニューヨークや海外で出会ったすべての有名人、が詳しく語られた。それ本来の特色とそれ以上で描写されなかったディナー、ランチ、パーティー、ティーパーティーはなかった。ユージンは西部の身内にとって神のような存在になっていた。彼の芸術の質は決して疑われなかった。金持ちになるか、あるいは少なくとも順調にいくまで、あとほんの一息だった。
親戚一同は、ユージンがいつか訪問がてらアンジェラを連れて家に来ることを望んだ。彼女がそんな立派な男性と結婚していたとは、と思えばこそだった。
ウィトラ家でも状況はまったく同じだった。ユージンは最後にブラックウッドへ立ち寄ってから両親に会いに帰っていなかったが、両親はニュースを知らないわけではなかった。ひとつの原因は、ユージンが無頓着だったからであり、このためアンジェラが彼の母親と文通を始めることになった。母親は、あなたを存じ上げませんが、私はユージンが大好きです、ぜひいい妻になってください、満足のいく義理の娘になってください、と手紙を書いた。ユージンは筆不精だった。今はアンジェラがユージンに代わって手紙を書くので、母親は毎週、近況を知ることになった。いつか夫婦そろって何とか両親に会いに行けないものかと尋ねた。母親はとても喜ぶだろうし、これはユージンにとてもいい影響を及ぼすだろう。マートルの住所……オッタムアから引っ越していた……を教えてもらえないか、時々シルビアも手紙を書いてくれないだろうか、と尋ねた。アンジェラは自分とユージンの写真と、ユージンがいつの間にか描いたアトリエのスケッチと、窓からワシントンスクエアを眺めて物思いにふけっている自分の姿を描いたスケッチを送った。新聞に掲載された最初の個展の絵、作品の解説、批評など……すべてが公平に両家のメンバーに届いたので、家族は状況をしっかり把握していた。
ユージンがかなりひどい体調不良を感じていて、もし健康を損なうのであれば大幅に節約する必要があるかもしれないため、その間に訪問がてら帰省するのが二人にとって望ましいかもしれないとアンジェラは思いついた。彼女の実家は裕福ではなかったが、二人が生活できる財力くらいはあった。ユージンの母親も、二人がしばらく来ない理由を知りたくて、絶えず手紙を書いた。どうしてユージンがニューヨークやパリのようにアレキサンドリアで絵が描けないのか、母親にはわからなかった。ユージンは喜んでこの話に耳を傾けた。ロンドンに行く代わりに次はシカゴに行き、ユージンとアンジェラはブラックウッドにしばらく滞在し、ユージンの実家にもしばらく滞在すればいいと思いついたからだった。二人は歓迎されるだろう。
この当時のユージンの資産状況は必ずしも悪くはないが、あまり良くもなかった。最初の三枚の絵が売れて受け取った千三百ドルのうちの千百ドルは、海外旅行で使っていた。その後、残り千二百ドルの資産のうちの三百ドルを使っていたが、シャルル氏が絵を二枚それぞれ四百ドルで売ったおかげで、銀行の預金残高は千七百ドルに膨らんでいた。しかし次の絵が売れるまでは、これを頼りに生活しなければならなかった。販売の続報を聞きたくて毎日期待したが、何も起きなかった。
さらに一月の個展はユージンが期待した成果をあげなかった。個展は見応えがあった。批評家も大衆も、ユージンはもうすでに自分の支持者ができたに違いない、さもなければ、どうしてシャルル氏が彼の作品の特集を組まねばならないのだろう、と想像した。しかしシャルルは、こういう外国を扱った絵はアメリカの絵ほどアメリカ人受けは期待できないと指摘し、フランスでやればもっと好評かもしれないと言った。ユージンは意見の全体的な論調に落胆したが、これはそういう感じ方をする持ち前の理性というよりも、彼の健康ではない精神状態が原因だった。試すべきパリの絵がまだあったし、ここで作品が多少売れるかもしれなかった。しかし作品の売れ行きは悪く、二月までユージンが働けなかったことと、極力慎重に資産管理する必要があったため、自分の両親の招待はもちろんのことアンジェラの家族からのも受け入れて、イリノイとウィスコンシンでしばらく過ごすことに決めた。おそらく健康は回復に向かうだろう。健康が許すなら、シカゴで働くことも決めた。