二人の亀裂
「はっきり言わせてもらうけどさ、それって異常だよ? わかってんの?」
阿部幸恵は強い口調で問いただす。晴美は表情を歪め、何か言いかけた。が、何も言えず俯く。
そんな彼女に、幸恵はなおも言葉を続ける。
「晴美はさあ、もっと自分を大事にしなきゃ。今まで黙ってたけど、もう見ていられないよ」
二人は、ファミリーレストランに来ていた。晴美の家から、歩いて五分ほどで到着できる場所である。外出は一時間以内、という晴美の家の異様な条件は、幸恵も知っている。
幸恵は、晴美の古くからの友人だ。中学生の時からの付き合いで、隆之のことも知っている。晴美と隆之が付き合うことを知った時は、げらげら笑っていた。
しかし今では、晴美のことを本気で心配している。何かと連絡をよこし、彼女の相談相手になっていた。
「でもさ、隆之は命の恩人なんだよ。あたしのせいで、腕が──」
「それだけどさ、おかしいと思うんだよ。だいたい、あいつにそんなこと出来んの?」
晴美の言葉を遮り、幸恵は鋭い口調で聞いてきた。
「そんなことって?」
「あんたの命を助けたって話だよ。本当に、隆之が助けたのかな」
「そ、それは……」
晴美は、言葉につまった。すると、幸恵はさらにたたみかけてくる。
「だってさ、あいつはスッゴいひ弱じゃん。しかも、ろくに泳げもしない男なんでしょ。なのに、海底からあんたを引き上げるなんて出来るの?」
「わからないよ」
「やっぱり変だよ。隆之は、スキューバやったの初めてだったんでしょ? なのに、気を失ってる晴美のこと引き上げられるかな。なんか、話がおかしいんだよね。あんただって、そう思うでしょ?」
そうなのだ。
隆之の話が不自然であることには、以前から気づいていた。しかし、当時の詳しい話を聞こうとすると、隆之は必ず言葉を濁す。「忘れた」「よく覚えてない」「夢中で引き上げた」などと言うばかりだ。
さらに話を続けようとすると、非常に面倒なことになる。自身の左腕を見せつけ、ねちねちと文句を言ってくるのだ。
「それにさ、隆之の話が全部本当だったとしても、あんたをそこまで縛る権利はあるの? 命の恩人だからって、そこまで要求する権利はないでしょ」
「それは……」
晴美は、また俯いた。幸恵が言っていることもわかる。だが、今の隆之を放っておくことも出来ない。
もし自分がいなくなったら、夫はどうなるのだろう。
下を向く晴美に、幸恵は静かに語った。
「これ以上は、夫婦の問題だからね。あたしが踏み込むのは、ここまでにしとく。けど、最後にこれだけは言わせてもらうよ。今のあんたは、隆之の奴隷にしか見えない。夫婦って、そういうものじゃないでしょ」
「う、うん」
頷きながら、時計を見る。
「悪いけど、そろそろ時間だから。今日はありがとう」
家に帰ると、玄関にて隆之が立っていた。ジャージ姿で微笑んでいる。晴美は、嫌な気分になった。ひょっとして、出かけてから帰るまでの間、ずっとここで帰りを待っていたのだろうか。
だとしたら、狂っている。
「お帰り。今日は早かったね」
晴美の気持ちをよそに、隆之は話しかけてきた。同時に、彼の右手が伸びてくる。
彼女の頬を、そっと撫でた。晴美は、さらに不快な気分になる。払いのけたい衝動を懸命にこらえていた。
昔は、こんな気持ちにはならなかったのに。
「ハイチで何があったのか、もう一度くわしく教えてくれないかな?」
なぜ、その問いが出たのかはわからない。気がつくと、尋ねていた。
隆之は、きょとんとした表情になる。次いで、曖昧な表情になった。
「前にも言ったけど、よく覚えてないんだよ。気がつくと、海底で君が動かなくなってた。だから、無我夢中で引き上げた」
前にも聞いた言葉だった。今までなら、口論になるのを恐れてそのまま流していただろう。
だが、今日はそれが出来なかった。
「よく、あたしを引き上げられたね。初めてのダイビングで、そんなこと出来る人いないよ」
その時、隆之の表情が変わった。
「さっきから、何が言いたいの? 僕が嘘をついていると、そう言いたいの?」
「別に、そういうわけじゃない。ただ、何があったのか知りたいだけだよ」
笑顔を作って答えた。だが、その態度がかえって不快にさせたらしい。
「だから、何度も言ってるじゃん。僕が、君を助け出したって。おかげで、僕は腕を失ったんだよ。ほら、見なよ」
言いながら、隆之は袖をまくる。左腕の切断面があらわになった。
晴美は、思わず顔を背ける。しかし、隆之は近づいてきた。彼女の耳元で、ゆっくりと囁く。
「そう、僕のちぎれた左腕は見たくないんだね。けど、君のせいで僕はこうなったんだよ。君には、僕の言うことを聞く義務がある。一生、僕の左腕の代わりをするんだ。いいね?」
「そ、そんなこと言われても……」
「出来ないというのかい? 僕は、君のせいで左腕を失ったんだよ。出来ないというなら、僕の腕を返して」
「や、やめて……」
思わず、その場でしゃがみ込んでいた。だが、隆之は容赦しない。
「さあ、返してよ。僕の腕を返して」
言いながら、左腕を押し付けてきた。
その途端、彼女はついに限界を迎えた。心の中で、何かが弾けたような気がした。
「だったら、あたしの腕をあげる。それでいいでしょ?」
「はあ? 君は何を言ってるんだ?」
言い返した途端、晴美は立ち上がる。同時に、隆之を思いきり突き飛ばした。
不意を突かれた隆之は、無様に転倒する。だが、晴美は彼のことなど見ていなかった。台所に行き、包丁を握りしめる。
隆之は、震えながら立ち上がった。
「何をする気だ? バカな真似はやめろ」
「今から、あたしの腕をあんたにあげる。これなら満足できるでしょ!」
喚いた直後、包丁を振り上げる。晴美は本気だった。この包丁を自身の左腕に突き立てる。そのつもりで、彼女は包丁をつかんだのだ──
直後、隆之が恐ろしいスピードで突進してきた。彼の全体重をかけた体当たりを浴び、晴美は後ろに倒れる。
だが、隆之の攻撃は終わらない。晴美に馬乗りになったかと思うと、包丁を握っている手を掴み、思いきり噛み付いたのだ。
激痛が走り、彼女は包丁を落とした。隆之は包丁を拾い上げ、異様な勢いで立ち上がる。
そして、部屋の隅に放り投げた──
「君は何を考えてるんだ! 二度と、こんなことはするな!」
喚く隆之の顔は、涙と鼻水とが入り混じりぐしゃぐしゃになっていた。まるで子供のようだった。
その姿を見た時、晴美は自身の裡が冷えていくのを感じた。怒りも、悲しみもない。感情が湧いてこないのだ。
虚ろな表情で立ち上がった。リビングまで歩いて行き、椅子に座る。その時、隆之がはっとなる。
「ご、ごめん! 大丈夫だったかい?」
慌てて駆け寄ってきた。不安そうに、こちらを見ている。
「う、うん。大丈夫だから」
一応は、そう答えたものの……晴美の心は、完全に冷えきっていた。
初めて、隆之から暴力を振るわれた。それが気にならないかといえば嘘になる。だが、それよりも大きな問題の存在を、今ようやく意識した。
もう、駄目だ。一緒には暮らせない。
隆之は、自分の手には負えない。完全に狂っている。このままでは、お互い幸せにはなれない。
いや、幸せにはなれない……などという生易しいものではない。このままでは、どちらかが死ぬことになる。
明日、この家を出よう。