二人の出会いと始まり 2
二人の関係は、のんびりと進んでいく。
その間、隆之は三冊の本を書き上げた。業界内でも、少しずつ名前が知られていく。
やがて、二人は大学を卒業した。晴美は食品会社に就職し、隆之はフリーのライターになる。もっとも、小説も書き続けてはいた。いつか、有名な賞を取ったらプロポーズしよう……などという思いを胸に秘めつつ、ひそかにあちこちの賞に応募していた。
そんな隆之と晴美は、恋人とはいうものの、姉弟のような間柄であるのは昔と変わりなかった。ところが、二人の関係を根底から覆してしまう事件が起きる。
それは半年前、まだ二人が夫婦になる前に起きた出来事である。隆之と晴美は、カリブ海の島国ハイチに旅行に来ていた。
隆之は、マニアックな男だ。B級ホラー映画に妙に詳しく、学生時代は二人で『ゾンビVSエイリアン』なるタイトルの映画を観に行ったこともあった。言うまでもなく、恋する二人が観にいくような内容ではない。あまりのバカバカしさに、観終わった後に晴美は苦笑しつつ隆之の頭を小突いてしまったくらいだった。
もっとも、隆之の趣味はB級ホラーだけではない。海外の神話や伝説を調べるのも好きである。ハイチに来たのも、そのためだった。現在、執筆している小説の取材を兼ねていたのである。
二人は、日本語ペラペラな現地人ガイドの案内に従い、ハイチのあちこちを見て回る。現地の人たちの怪しげな儀式を見たり、村の人々を聞いたり、ブードゥー教の呪術士に取材したり……隆之は楽しそうに瞳を輝かせて見ていたが、晴美にとってはただただ不気味なだけだった。
もっとも、マニアックな場所ばかりを観光していたわけではない。二人は南国の自然に触れたり、見知らぬ町を見て回ったり、マリンスポーツを楽しんだりもした。晴美にとっても、ハイチ旅行は楽しいものだったのだ。
あの時までは──
その日、二人は海に来ていた。スキューバダイビングをするためだ。
隆之にとっては、生まれて初めての体験である。そもそも、二人の趣味は成長してからも真逆のままだった。隆之はインドア派であり、晴美はアウトドア派であるのは変わらない。
性格が真逆であるのも、全く変わっていない。おとなしく人見知りで引っ込み思案な隆之と、明るく朗らかな性格で友達の多い晴美。こんな二人が、なぜ付き合うようになったか……周囲の友人たちも、不思議がっていたのである。
今回のスキューバダイビングも、晴美が無理やり付き合わせたものだ。初めは渋っていた隆之だったが、最終的に「ひょっとしたら、小説のネタになるかもよ」という一言の前に折れたのだ。
二人は、海へと潜っていく……晴美が覚えているのは、ここまでだった。
その時、海底で何が起きたのか。
晴美は、ほとんど覚えていない。気がつくと、彼女はハイチの大病院のベッドで寝かされていた。
医師の話によれば、海底で器材が故障して意識を失ったのだという。隆之が、晴美を海底から引き上げて救急車を呼んだおかげで、一命を取り留めたのだ。
しかし隆之の方は、無事では済まなかった。彼は、左腕切断という重傷を負ってしまう。
意識を失った晴美を引き上げる際、海を泳ぐ魚のヒレで切ってしまったのだという。しかも、そのヒレには猛毒があった。激痛に耐えながら、晴美を地上へと運び救急車を呼んだ後、彼もまた意識を失った。
結果、隆之は左腕を失ったが、晴美は助かった。彼女には特に後遺症もなく、すぐに動けるようになったのだ。医師も、彼女の回復力には驚いていた。
その日を境に、二人の関係は変わってしまった。
退院と同時に、隆之は晴美にプロポーズする。指輪も何もない。突然、結婚しよう……とだけ言われたのだ。それも、何かに憑かれたかのような表情で。
普段の晴美なら「唐突にわけわかんないこと言わないの。まずは落ち着きなよ」と笑いながら返していたかもしれない。もちろん、隆之との結婚を意識していなかったわけではなかった。嬉しくなかったわけでもない。だが、これはあまりにも突然すぎる。もう少しムードというものを考えろ、とツッコむところだ。
ところが、今の隆之にそんなことは言えなかった。彼は命の恩人である。さらに失われた左腕に対する負い目が、晴美に重くのしかかっていたのだ。
晴美は、隆之のプロポーズを受け入れた。いや、受け入れざるを得なかった。命を助けてもらった恩を返すため、また失われた左腕の代わりを務めるため。
それからの隆之は、完全に変わってしまった。
まず晴美に、仕事を辞めるように言ってきたのだ。夫である自分のため、家庭のことに集中してくれ、と。
正直、辞めたくなかった。だが、夫の言うことには逆らえなかった。勤めていた会社に退職届を出し、隆之の住む家に引っ越して来る。
次に彼は、家の中のことについても事細かに指示を出す。家にこもり、晴美の行動をじっと監視するようになったのだ。
すぐそばで、隆之に監視され続ける生活は息がつまりそうであった。遠慮がちに、やめてくれないかな……と言ったこともある。しかし、彼はやめなかった。
夫からの指示は、それだけに止まらなかった。さらには、外出する際のきめ細かいルールまで作られた。
「外出の際は、どこに何をしに行くのか必ず告げること。外出したら、一時間以内に必ず帰ること。最低でも二十分ごとに、何をしているか必ず連絡を入れること」
刑務所から、監視付きで出所した重罪犯のごとき扱いである。
以前の晴美なら、ふざけるなと一蹴し従わなかったであろう。それどころか、実際に蹴飛ばしていたかもしれない。
だが、彼女は従うしかなかった。今の隆之には、逆らうことなど出来ない。
欠損した左腕を見る度、晴美の心を罪悪感が苛むのだ。黙って従うしかなかった──
日を追うごとに、隆之の束縛は強くなっていく。もともと出無精で、自宅から一歩も出ないことも珍しくない男だ。
事故をきっかけに、その傾向はさらに強くなる。近頃では、家から一歩も出なくなってしまった。買い物はほとんど通販で済ませるし、遊びに出歩くこともしない。仕事は、たまに訪れる出版社の人間と打ち合わせをする以外、ほとんどがパソコンによるやり取りだ。出社の必要もない。
隆之は、晴美にもその生活を強要したのだ。彼女は、夫につきっきりの生活を強いられる。
今まで、活発な生活を送っていた晴美にとって、隆之との夫婦生活は刑務所にて服役しているようなものであった。実際、最近の彼からは、看守のごとき雰囲気を感じる。晴美の一挙手一投足を、取り憑かれたような目で見ているのだ。
いつしか、晴美の口数は少なくなっていた。雰囲気も暗くなり、家の中で隆之の顔色を窺うようになっていた。
こんなはずでは、なかったのに。