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銀の月の鳥 明け星の囁き  作者: 吉田伊織
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序章


暗い……暗い場所。

 ざざーっという音は耳鳴り? ううん。違う。磯の匂い、いつもの場所だ! 

 琅玕ろうかんはそう思った。それなのに奇妙に胸に広がる恐怖と不安。

 ふっと光点が見えて、キラキラと光る鱗が見えた。


「きっとね、また明日。約束よ」


「うん。また明日も来るよ」


 男の子の物らしい服は、大陸では見た事もない形をしているし、海の色もいくら夜でも大陸のものとはまるで違う。


 遠くで火山のものらしい、噴煙とマグマの炎の色が空を照らしている。大きな噴火の度、ずんずんという、地響きも伝わってくる。


 磯の岩場に腰かけている、可愛らしい少女の足は、魚のような形態をしている。

 波しぶきを受け、美しい尾ひれがユラユラと揺れている。


砂綾さあやおやすみ。これ、ありがとう、大切にするね」


 にっこりと笑みを交わした二人の上へ、大きな投網が投げられる。

 子ども二人の悲鳴に、男達の声が重なる。


「なんだ、1人は人間の小僧じゃないか」


「いや、女だろ? ついでだ、小銭稼ぎぐらいにはなるさ」


 網に絡まって、暴れる子どものうち人間の方の子どもの瞳が、怒りの為に赤く血の色に染まった事に、1人が気付く。


「おい、このガキっ!」


「げっ?! お前幽明ゆうめいか!!」


 瞬間、男達は怯んで、網の中から琅玕を放り出し、砂浜へ捨てた。

 やせこけた琅玕の体は岩場まで転がり、そこで体中を岩に打ちつけて止まった。 それでも負けじと起き上がった琅玕の目の前で、男達は可愛らしい幼い人魚を攫っていってしまう。


「嫌だ!! 連れていくな!!」


 琅玕の両目から涙がふきこぼれ、乱れた銀青色ぎんせいしょくの髪が頬にはりついた。


「砂綾~~!!」


「琅玕ーーー!!助けてーーー!」


 誰か! 誰でも良い! 力を貸して! 砂綾を助けたいんだ!


 琅玕のすべての神印が肩甲骨の辺りから、全身に広がると、おぼろげな光を発した。すると次の瞬間、光とは正反対の美しい闇が出現し、その中からこの世のものならぬ美貌が現れる。

………コ、ウヨ………?。


 ざぁーーっと言う耳鳴りのような波の音とともに、意識が眩しい何かに包まれた。

 その光が去ってそっと目を開けると、そこは一面百花繚乱の景色が広がっていた。

 満開の桜。春だというのに降り続けるのは白い花弁と、冷たい雪。


「エエか? 誰に何を言われたって、アンタはアンタに自信をもつ事! 琅玕は『闇の翼』なんかやない。確かにその瞳は幽明や。邪眼なんて言われてる瞳ぇやけど、それは琅玕の強みにもなるんや。感情で色彩を変えるその瞳は魅了師、魅縛師達が、喉から手ぇが出るほど欲しいもんやで?! それに琅玕は手も足も長い。指も綺麗や……な? 琅玕は踊れる。なんてったって、師匠がウチなんやからなー? 最強の幻惑師で魅縛師や! 琅玕はその瞳のおかげで、幻惑にも魅了にも強い。踊れるようになれば鬼に金棒や!」


 褐色の日に焼けた健康的な肌、この地に咲く桜の花のような薄紅色の長い髪を、高々と結い上げたその人は、大きな瞳で琅玕にウィンクしてみせた。


 そんな二人の様子を、奇妙な、人間と同じ姿の……否、それ以上に美しい、仙女のような妖魔が、美しい着物を翻らせながら、桜の木の下で艶然と微笑んで、二人を見下ろしている。


 ここはどこだろう……怖くて寒いのに、ひどく心は温かい。


 そこで妖魔と戦っている途中で、師匠の居ない間の出来事で、苦戦して、深い手傷を負った。

 命を諦めかけたその時、どこからかチャリチャリと鈴の音のような涼しい、金属のこすれる音がした。

音の出所を探しているうちに、双子の夜風の精霊に出会った。

 雪が降り、花が咲き乱れる、その山の名を魅仙境みせんきょうと人は呼んだ。


 山を下りて沢山の人と合流すると大騒ぎになっていた。

 幼い琅玕を一時面倒みてくれていた、歌舞踊団の、伯母である座長と、その他数人が山賊に攫われたというのだ。

 身代わりに幻惑師リィンをよこせ。という要求だった。


「師匠! オレも行きます!」


「ただの山賊や! アンタは待っとれ!」


 それでも琅玕はついて行った。

 山賊の罠は予想以上に巧妙で、人質をこれ見よがしにしてリィンと琅玕の身動きが取れないようにした。

 そこで驚いた事に、座長や歌舞踊団の面々は解放され、金貨の入った革袋を渡される。

 伯母はしゃがれた声で言った。


「なんだい?! 約束と違うじゃないか。こんなはした金じゃ売れないよ!」


「何言ってやがる、幻惑師の方はともかく、弟子に至っちゃ何が10歳の女だ、どう見ても男じゃねぇか。男か女かもワカラネェ野良犬に良い値はつかねぇよ!」


「なに言ってやがる! 闇の恵し子なんだよ?! 珍重する人間もいて、高値で売れるって言ったのはそっちじゃないか!」


 怒りで琅玕の瞳が真紅に染まる。

 その手に慣れ親しんだ大鎌の感触があった。

 切ったのが縛られていた鎖だったのか、背後の男だったのかも分からない。我を失うほどの怒りの中で叫んだ。


「師匠! 逃げて!!」


 リィンを束縛する鎖を断ち切り、男達を睨み据える。


「ほう。聖具の持ち主とは………しかも」


 どこからか出現した不気味な魔斑まはんを顔中に持つ呪術師が、呪文を唱え始める。

  一度は二人して捕まり、その結界は大鎌で斬りつけて破壊した。


 琅玕にとっては、造作も無い事だった。


 しかし、魔物は散々相手にしてきたが、人間の、しかも呪術師を相手に、どうしたらいいのか分からず、琅玕はその場から動けなくなってしまった。


 結果、まんまと呪陣に捕まり、呪術師に捕らわれて動けなくなった琅玕に、覆いかぶさるようにして、リィンは素早く己の剣を抜き、喉元を切りつけた。

 その血が空中に飛び散ると、呪術師の結界がそれと同時に消滅していく。ほんの一瞬の出来事だったが、琅玕には時間が止まったかのように感じた。


「師匠!?」


「はよ逃げ……ありがとな、楽しかったでアンタとおれて。アカンで、ウチみたいに、好いた男とも一緒になれんで、死んで……」


「師匠ーーーーーー!!!」


 琅玕の絶叫に空間が割れるようだったが、呪術師はリィンの死骸を琅玕の手から奪い、地面に転がすと、次の呪術を素早くくり出してきた。



 次に気がついた時には、呪術を施された枷を手足に付けられたうえで、奴隷を運ぶ馬車の中だった。


 鋼鉄の柵の間から外を見たが、どこの街かも分からなかった。ただ、大きな繁華街だとは分かった。

 その時、触れられそうな程に近くをすれ違った青年の、悲しいほど青い瞳に惹きつけられて、じっと見ていると、目が合った。


 だがそれだけで、馬車の速度で、二人はすれ違っていった。

 それからは、望夫郷ぼうふきょうの門外の奇獣を調教する調教師の宿に売られては逃げ、また捕まっては売春宿などに売られた。




 とある大きな歓楽街で、ひときわ大きな緑の門と、紺青の柱。立派な塀に囲まれた売春宿に売られた。


 雑用もし、今まで習ってきていた楽器や踊り以外にも、作法や様々な事を習わされた、歌舞踊団に居たせいなのか、幻惑師として習った踊りのおかげなのか、その宿での待遇は悪くなかった。


 夜には高級女郎の次の間に、寝ないで控えていないといけなかったり、嫌な事もあったが、こっそり馬小屋やゴミ捨て場で泣く事も出来た。


 琅玕は十五歳になっていた。


 十六歳になって女になったしるしが来て、暗くなる心……逃げたくなる。そんな事が、出来るわけがないと、頭では良く理解していた。


 落ち込んで泣きたいような、そんな時、娼館の用心棒であるセイが、よく琅玕を構ってきた。


「天河、お前あちこち売られては逃げてるようだが、ウチではやめておけよ? ここは東国一の公娼幽門街ゆうもんがい。結界も並じゃないからな。その手枷も足枷も簡単にゃ外れない。すぐ捕まる。いざとなれば、俺達用心棒も容赦なく斬るぞ」


「わかってる。強い結界が街全体に張ってあるのも、この枷が外れないものだということも……」


「そう。んで、お前はおかみさんの命令で、家畜のように耳環を開けられ、客を取る。借金が返せるまでな」

「フン。そんな事言って、返す尻から衣装代だの化粧代だの取るくせに」


「……よく分かってんじゃねぇか。」


 笑ったセイの武骨な手が、琅玕の頭をなで回していく。


 この娼館で、琅玕は天河という源氏名をつけられていた。

 名前なんて、家畜の番号にすぎないじゃないか。一、ニ、三、とでも、適当に付ければいいのに。

 そう思っていた琅玕だったが、最近セイに天河と呼ばれるのは、ほんの少し嬉しかった。

 娼館で琅玕は、何とか時間を見つけては、姉のように面倒を見てくれる女郎達に頼んで、魔術や呪術、古文書の類いの本を手に入れ、それを読みあさった。


……逃げる為に……。


 そのわずかな希望も、無情に打ち砕かれる。


 天河が十七歳になって間も無く、その日はやってきた。


 セイに連れられておかみの部屋へ行くと、いつもと違い旦那も一緒にいた。


「発育は悪いが、アンタは踊れるし笛も吹ける。これ以上は待ってやれないからね。今日から出てもらうよ。ただし、今夜は座敷が入っていてね、上客だ。くれぐれも粗相の無いようにして、部屋に呼んでもらうよう、せいぜい頑張るんだね。座敷がはけてから客がついていなけりゃ、見世にだすからね! 分かったら返事をおし!」


「……はい」


「まったく、生意気な子だね。セイこの子に耳環を開けてやりな。呪術師が必要なら、呼ぶけど、別料金だって言いやがるんだよ。どうだい?」


「いや。俺で大丈夫でしょう」


 セイに連れられて琅玕が入った部屋は、琅玕も何度か入った事のある、折檻用の部屋で、知らず身を固くしてしまう。


「阿呆。お前が絶叫しても恥ずかしくないように、ここでやってやるって言ってるんだよ」


 言いつつ、セイは慣れた手つきで棒切れに布を巻き付けていく。それを目の前に突き出され、首を傾げる。


「なんだよ?」


「俺はされた事ねぇから、知らねぇけど、神印持ってたり、精霊やらの加護を受けてる人間には、相当な苦痛らしいからな。コレも飲んどけ、気休めぐらいにはなるだろう。痛み止めと熱冷ましだ。植物性だから安心しろ」


 小瓶に入ったドロリとした茶色の液体に顔を顰めると、セイが笑う。


「夕刻から宴なんだろ? 痛みで笑顔も作れないんじゃ、商売にならないだろうが」


「はいはい」


 そう言って琅玕は一息で薬を飲み干す。


 薬の味は最悪で、すでに吐きそうだ。


「で? どうすればいいんだよ」


 そう言って棒をくわえた琅玕は、セイを見上げる。


「いいさ。何もしないで。壁を背中にくっつけて座ってろ。気絶しないようにだけしとけ」


 黒い円すい形のものを手にしたセイは、おもむろに琅玕の左右の耳を見比べて、筆を取ると印をつけていく。


「お前は頭も小せぇけど、ちっちぇ耳だなぁ、面倒くせぇ」


 印は左に三コ。右に二コつけられた。


「いくぞ」


 セイの声と同時に冷たい金属が耳朶に当たり、セイの指が少し耳朶を引っぱる。その直後、耳に痛みが走る。思わず前屈みになりそうになった頭を壁に押し付けられて、どうやら先程の金属の器具で穴を開けた所に、耳環を通すようだ。他の姉女郎の物は、細い三角形や菱形、涙型、丸のようなものが多いのに、琅玕のものは、厚みもある三日月型のものだった。


 セイの手が、開けた穴にそれを通した瞬間に、心臓に杭を打たれたような痛みが走る。


 呻いた琅玕の頭を、再び壁に押し付けて、セイが言い放つ。


「気絶したら水ぶっかけてでもやるぞー。動くと穴が曲がるから、やり直しになるからじっとしてろよ」


 すでに意識があやうい状態の琅玕には、セイの声がやけにのん気に聞こえて腹が立った。

 左側の三コの穴を開け、耳環を通した時点で、琅玕は意識が朦朧としていた。


(———なぜこんな目に遭わなければならないのか……父に売られ、伯母に売られ、大好きだった師匠とは、あんな死別をしてしまった。そして、売られ、売られて、もう、帰る場所も、居場所も無い。今まで見てきた女郎達のように、男に物のように扱われ、誰のものとも分からぬ子を宿し、堕胎して。例え運良く借金がすべて返せて足を洗う事が出来ても、もとが花街の女だと分かれば、まともな職にさえ就けず、川べりの土手や、花街の外に広がるあばら屋の町で、夜ごとわずかな金で身を売り歩くしかなくなる。そして病にかかり、看取られる事も無く、死ぬのか———)


 涙が出た。


 もう、セイになら見られてもいいと思った。この瞬感だけはセイにでもいいから縋って泣きたかった。

 セイは何も言わず、三コの穴の開いた左の耳朶を引っぱった。痛みが走ったが、セイはそんな事は気にしないとばかりに、ヌルヌルしたものを耳に塗り込んでいく。


 どうやら膏薬を塗ってくれているようだ。しかし、穴の中にまで塗ろうとしてくれているのか、金属をずらされる度に、激痛が走る。


「いかしスゴイな。天河って普段見える場所にゃ、神印なんて無いから、『闇の女神の恵し子』だ『富貴』だっていわれても、ピンとこなかったが……お前の目と同じで神印も普段は見えてないんだな」


 セイに取られた腕一面、まくり上げられた肩まで続く神印を見て、ため息を吐く。

 神印はほぼ全身に出てしまっているだろう。


 見慣れた模様は自分ではなんとも思わない。嫌なだけだ。


 娼館で見た他の女達の神印の方が、形も美しく、大きさも小さくて綺麗だと思った。

 琅玕は荒い息を吐きながら、口にくわえていた棒を外して、セイを睨め付ける。


「無駄口、たたいてんじゃ、ねぇ、よ……あと何コだ?」


「左に二コだな」


 のん気な声に、セイの手から筒と耳環をふんだくる。


「自分でやる! 鏡貸せ! 印の所に当ててここ押すだけで穴が開くんだろ?! 後はコイツを刺せばいい!」


「……気の強い事で。まぁ女郎にゃ向いてるか。客に惚れたら命取り。惚れさせてなんぼだからな」


 言いながら、セイが手鏡を持って映してくれたので、それを見ながら、穴を開け、震える手で耳環の金具を通す。

 心臓を縛りつけられるような痛みは、その度に襲ってくる。

 息がさらに上がる。同じようにもう一つ穴を開け、耳環を通すと、指に血が付いていたので、悔し紛れに袖で拭う。


「ご苦労さん。胡蝶以来だぜ。自分で開けるなんて言い出して、実行したのは」


 胡蝶というのは今、ウチで一番人気の売れっ子女郎だ。豊満な体つきで、その右胸に蝶のような形の、薄い青い神印がある。


「……だから?」


 ちょっとでも気を抜いたら気を失いそうで、怒りで真紅に燃える瞳でセイを睨んでいると、意外な事に、さもおかしそうに笑った。


 笑いながら右耳に膏薬を塗ってくれ、琅玕の顔や首の汗を、自分の手ぬぐいでふいてくれると、長年琅玕を苦しめてきた手足の枷を外してくれた。


 そして、汗でぐっしょり濡れている琅玕の服に手をかけ、脱がし始める。


「何すんだよ!?」


「お前みてぇなガキに何もしやしねぇよ。おかみさんの言いつけでな。確かめさせてもらうぞ、神印の確認だ。今なら出るだろうからってな」


 慣れた手つきでセイに服をはぎ取られ、どうせ今夜同じ目に遭うんだと、投げ槍な気持ちで、座っているのも辛いので、されるがまま、うつ伏せに床に寝転がると、セイの手が背中に触れて、確かめるように触ってくる。


「なにしてんだ?」


「神印……ちょっと本とものとは違っているが、確かに闇の女神のものだろうな……それと、この腕から肩まで続いてる神印は風か? この解読書に出てるどの風の神印とも、かなり形も色も違うなぁ、まいったなぁ……」


「夜風の神印だけど!? 一体なんなんだよ?!神印!神印!ってウルセぇな?!」


「へぇ、知ってたのか。助かった。俺が怒られなくて済んだ。しかし、闇の女神の神印なんて初めて見たが、確かにこりゃスゴイ。藍に紅、それに金と銀の何とも言えない翼のような模様……こりゃぁ、神々しい上に優美だな。で、夜風の神印っと。他には無いようだな。コレだけでも充分スゴイがな」


言いつつセイの指が神印の終わる尾てい骨の辺りまでなぞってきて、勝手に身体がビクリと反応する。


しかもセイの手は、琅玕の体中に触れていった。


こんな事、この先される事に比べれば、何でもないんだろう。けれど、悔しい。この先ずっと、ワケの分からない男達に肌身を触られながら、生きていかなければならないなんて……こんなによく知っているセイでさえ、触れられるのが気色悪くて嫌なのに……いっその事、死んでしまいたい。


「へぇ、感度も悪くないらしい。肌もキレイだし、変な客を取らせないよう、おかみさんによくよくいっといてやるよ、夜風の神印だって教えてくれた礼にな。起き上がれるようになったら、風呂入ってさっさと支度部屋へ入れよ」


そう言ったセイは自分の薄手の上着を脱いで、琅玕の体に掛けると、さっさと仕置き部屋から出て行ってしまう。

そこで琅玕は少しの間泣いた。




 セイの上着を引っかけ、そのまま女郎の使う大きい浴室ヘ行き、上着を脱ぐと、何故か周囲がざわつく。

 無視して浴場に入り、ざばざばと頭から湯をかぶっていると、同い年の優河ゆうがが隣へやって来て、腰を下ろす。一緒に芸事にも通わされた仲だし、結構仲はいい方だ。


 同い年とはいえ、すでに見世にもでている優河は、もうすっかり女性らしい体つきをしている。


「天河ちゃん、枷、外してもらえたんだね。でも、傷、少し残っちゃったね」


「ああ、まぁな」


 濡れた髪をかき上げ、優河を見ると、ちょっと戸惑うように琅玕の体を見ている。


「ああ神印コレ? 気色悪いだろ。見なくて良いよ」


「ううん。びっくりしちゃって。いつもは腰の辺りに薄くあるだけなのに」


「あ~耳環されたせいかな。スゲェ痛くて腹立って、2コ自分で開けてやった。ムカつく……っとに……まだ痛ぇ」


 ムスっとした顔で、石鹸を手に髪を洗い始めた時、心地よく響く笑い声がして、振り仰ぐと胡蝶がいた。

 美しい蜜色の髪に、キツイ顔立ちの美女の、大きな右胸の上で、青い蝶のような神印が揺れている。


「アンタ、莫迦だねぇ。アタシは敵に塩を送るような親切はしたくはないけど、これだけは教えといてやる。アンタのソレは強みにこそなれ、気色悪がる客なんて滅多にいやしないよ。運が良けりゃ、早々に落籍ひかされて足抜けできる。うらやましい限りだよ。それとね、耳環。穴が固まるまできちんと毎日薬を塗らないと、腐って耳が無くなるよ。薬はおかみさんに言って売ってもらいな。勿論借金につけられるけどね。その耳環の代金もね。まぁ、ずいぶん御立派なものを五コもなんて、豪勢に開けられたもんだねぇ」


ころころと笑って、胡蝶はさっさと出て行く。その両耳には、やはりひとつずつ、太陽の光を受けて、耳環が光っている。


「ちっ、腹黒のやり手ババァめ。いらんもん勝手につけてくれた上、人の足下見やがって、一体いくら借金あんのかもう分かんなくなりそうだぜ」


と、いうより正確な額はまだ聞かされていない。


客を上げなければ、一人前の女郎とは認められない。

女郎になって初めて、自分の値段を知るのだ。

頭と体をいつものように洗って浴場から更衣室に来て、着替えを忘れた事に気付いた。


(まぁ、いいや)


いつものように、浴室に用意されている体を拭く大きな布で、体を拭いた後、その布を体に巻いて、セイの上着を他の女郎たちが出した洗濯物の中に放り込む。


(どうせ汗でびっしょりだったし、構うもんか)


いつものように一階の奥にあるまだ部屋を与えられていない女郎達の、大部屋のひとつへ向かって、廊下を歩いていると、なぜか女達が振り向いてくる。


終いには用心棒にまでジロジロ見られた揚げ句に振り向かれて、腹が立ってくる。


「畜生、なんだってんだよ……」


痛みで苛々していた事もあり、文句をたれていた時、セイと出くわす。


「お。まぁたそんな格好でウロついてんのか。今日限りでやめろよ、一人前扱いになるんだしな。しかも、今日は御立派なもん見せびらかして」


「はぁ?! おあいにくと、この通り女郎になっても一生借金返せないんじゃねぇかと思うような、乳も尻もぺったんこな、貧相な物しか、持ち合わせてないんですけどねぇ!」


 ぱんぱんと胸を叩いて見せると、セイが笑う。


「確かに胸はお粗末だが、背中と腕は見事なもんだよ。初めて眼にした人間にとっちゃ、振り返りたくもなる」


 言いながら、琅玕の額にコツンと冷たいものが当たる。


 手を出すと、膏薬の小瓶だった。


「……これ、いくらするんだよ」


「後でおかみさんに教えてもらえ。コイツは俺のおごりだ。2コ穴開ける手間も省けたし、うるせぇ女の絶叫も聞かずに済んだしな」


「……ありがとう……」


「どういたしまして。客の前でその汚ねぇ口すべらすなよ」


 セイはひらひらと手を振って去って行った。



 部屋に入って、自分にあてがわれた箪笥の一段をひき開け、セイからもらった膏薬を耳に塗ってからしまうと、薄い一重を着て、髪を拭きながら支度部屋に向かう。


 部屋付きの女郎になれば、自分の部屋で支度もするし、客も取るが、大部屋の女郎は皆支度部屋で支度をする。

 昨日までは手伝っていただけだったが、今日からは自分も、着替えや支度をしなければならない。

 部屋に入るなり、おかみの『遅い!!』という怒声を浴びせられる。


 すっかり忘れていたが、初見世の女郎(今夜初めて客を取る)は、縁起を担いでその日だけは一番最初に支度をする、というのがこの街の仕来りらしい。


 床にずらっと並べられた衣装箱の中から、自分のものを探そうとしていた琅玕の手を、姉女郎がそっとつかんで、引いてくれる。


「天河、髪からだから、あっちが先」


 髪結いをいつもしている男のいる、化粧台のある部屋へ行くと、胡蝶が窓際の椅子に座り、不機嫌そうに煙草をふかしていた。


「遅くなって済みません」


「まぁ、今日だけの事だけどね。早くして頂戴」


 急いで鏡台の前の椅子に座ると、何をどうやったのか濡れた髪をあっという間に乾かして、髪をいくつかに分けて止め、膨らませて櫛やかんざしで飾られた。


 髪をやられている間に、姉女郎たちが化粧の仕方を教えてくれながら、化粧をしてくれる。これにも、初見世だとか、色々決まりがあるらしい。


 琅玕は軽い頭痛を覚えた。


「あの、ひとつ聞いても良いですか。このかんざしや櫛って……」


「借金だよ」


 胡蝶のあっさりした答えに、耳の痛みを思い出し、うなだれる。


「やっぱり、そうですよね……」


 そんな琅玕の様子に、クスクスと胡蝶が笑う。


「アンタ、本当に面白いねぇ。入ってきた時からどんくさくて、口が汚くて可愛げの無いコだとは思ってたけど、普通は借金もするけど、綺麗な服着せてもらえて、髪を飾られて、食事だって、アンタみたいに悪ささえしなけりゃ普通に食べさせてもらえる。なのに、なんにも興味が無いんだねぇ……」


「綺麗な格好とか、化粧とか、あまりにも別次元な世界な気がして。オレなんかに似合うとも思えねぇし」


 そう言った瞬間、胡蝶の手が琅玕の額を叩いた。


「その言葉遣い、今のを最後にやめな。普段使ってると思わず出る時があるからね。アンタの幼顔でそんな口利いた日にゃ、たつもんもたたなくなるよ」


 言うなり胡蝶は琅玕の手を取り、その手の中に、小さな宝石のついた銀や真珠で出来た耳環に付ける飾りを落とした。


「アタシにはこんな安っぽいの、もう似合わないからね。アンタにやるよ。次がつかえてるんだから、そこ、おどき」


「は、はい。あの、でも、胡蝶姉さん……」


 素早く椅子から退きながらも、手の中の物に、困惑してしまう。


「うるさいね。口答えしてないでさっさと着替えな。アンタが着替えなきゃみんな着替えられないんだよ?! わかってるのかい!?」


 手の中の十コ程の飾りと胡蝶を交互に見ていると、化粧をしてくれた仲の良い姉女郎達が言ってくれた。

「よかったね、もらっときなよ。くれるって言うんだから」


「この街でも五本の指に入る人気女郎の胡蝶姉さんがくれたんだもん。縁起がイイよ?」


「ほら、ちゃんと、お礼言いなさい」


 背中を押されて、床に正座した琅玕は、お師匠さん達にするように、きっちりと床に指先を付け、深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。大切に使わせて頂きます」


 琅玕がそう言うと、意外なほど優しい目で、胡蝶が笑って言った。


「しっかり稼ぎなよ」


「はい」


 頭を上げ胡蝶を見ると、もう髪の毛を上げ、化粧を始めていた。


 姉女郎達に手を引かれ、自分の衣装箱の前に行くと、藍色の綺麗な衣装が入っていた。


 羽織っていた薄い上着を脱ぐと、一瞬周囲がシンとなった。


 見回すと、まだ神印を見ている者もいれば、慌てて目を逸らす者もいる。


「そんなに珍しいですか」


 親しい女郎たちが、『初めて見たわ』『綺麗ねー』などと話しかけてきた所で、おかみの怒声が入る。


「遅い遅い!! 誰か! 天河に着付けてやんな!」


 手伝っていたので、天河もある程度着付けは出来たが、姉女郎達はさすがだった。手が早い。


 女郎の服は最後に薄い紗の、裾も袖も長い物を着るのだが、天河のものは踊りを踊ったりしない女郎よりも細身でかなり動きやすくなっている。


 しかし、細めとはいえ帯を締められ、飾り紐をつけられ、とても激しい踊りは出来そうにない。


(大人しくしか踊れないな。まぁ、それでいいんだろうけど)


 胡蝶のような高級女郎はひと通りの事は出来るが、余程の上客で、客が望まなければ、めったに歌ったり、楽器を奏でたりもしない。


 他の女郎達も着替え始め、邪魔になっては悪いと思い、隅に避けたが、居場所が無い。


 ふと、壁に掛けられた顔が映る程度の鏡に気付いて、先程胡蝶に貰った耳環に付けられるようになっている飾りを取り出して、つけてみる。


「———つっ……」


 耳環に金属を止める時に、耳環も引っぱってしまって、かなり痛い。


 適当に選んですべての耳環にひとつずつ付けると、脂汗がにじんでしまった。そうして、何時も優しくしてくれる姉女郎の傍へ行く。


「あの。コレ、部屋に置きに行っても大丈夫かな?」


「平気よ。貴方の初見世は夜の宴会ですもの。なんと、総揚げよ~! たまに来るお客さんなんだけど、イイ男も多いし、天河は本当に幸運よ~!?」


(……幸運、ね……)


 急いで支度をする女郎達の間をすり抜けて、大部屋に戻る。


 ずっとつけていて、もうボロボロの守り袋を、自分に与えられた引き出しの奥から取り出して、胡蝶に貰った耳環の飾りをそっとしまう。


 守り袋の中には、水神の神印に似た模様の描かれた薄い木の板と、薄紅色の珊瑚のような珠が三粒入っている。


 砂綾がくれた首飾りの成れの果てだった。最初に売られた男達に取られそうになり、取り返そうとするうちに糸が切れて、手に残ったのは、この三粒だけだった。


(こういう物を身に付けていたら怒られるんだろうけれど、今夜だけ……事が始まる前に、布団の下にでも隠してしまえばいいんだ)


 守り袋の紐を首からかけ、見えないように衿の奥に隠し、そっと部屋を出ると、琅玕の脚は迷わず裏庭に向かった。




大掃除のせと新規を来年から改めてはじめます。

こちらからも、お読み頂けます。

拙いですが、どうぞよろしくお願いいたします。

 https://ameblo.jp/0037084/entry-12340173304.html




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