一年後期 『愛』
空気が重い。
比喩ではなく、物理的な重たさを感じる。
水を含んだタオルが全身に覆い被さって、粘り気のある空気を吸っているようだ。絶対的に異常な空間の中で、ルイはその象徴となっていた。
「嗚呼、愚かな子らよ」
裸の女性たちに全身を包まれ、唯一見えていた顔が美しい女性に変わっている。
声も澄み渡り、美声と呼ぶにふさわしいものだ。
なのに、気味が悪い。
美しい女性であるはずなのに、自分がなにを見ているのかわからなくなる。声も聞いただけで頭が揺れ、吐き気を催す。
「私はフレイヤ。女神フレイヤ。愛の女神。生命の女神。感謝しなさい、今このときを誇りに思いなさい。私に会えた幸運を」
第二の連中はなにが起こったのかわからず、ガタガタと震えながら、目の前の存在から目が離せなくなっていた。
信二たちも立っているのがやっとのようで、いづみちゃんはアキラちゃんに体を支えてもらっている。
「しかし、私は怒りを抱いています。此度はそれで現れました」
女神の声が刃を構えたように鋭くなった。
「この子が私の力を求めました。乙女を弄び、愛を愚弄する者に罰を求めました」
フレイヤの視線と言葉の対象になったことで、第二の連中はさらに震え出した。
「お、おお、俺らがなにしたっていうんだ! ル、ルイにはなにもしてねがぶをうばば」
桜庭が裏返った声で反論したが、言い終わる前に白目を剥き、泡を吹いて倒れた。
女子部員の悲鳴が上がる様子を、僕らは見ていることしかできなかった。
体が動かない。
視線すら逸らすことができない。
きっと、他のみんなも同じなのだろう。辛うじて見える信二と小太郎も、石像のように固まっていた。
(全員、なにもせずにいろ。抗おうとするな、身を委ねろ)
アメの諭すような声が頭に響いた。
でも、僕の視界には姿が見えなかった。
「罪は汚れた色欲。愛を愛し、愛に生きるこの子は貴方たちの行いが許せなかった。けれど、人間の世では権力で裁きを逃れるという。ならば、愛の女神たる私が罰を与えましょう」
フレイヤの声は信じられないほど冷たい。
「本来であれば、この罪で裁くは男のみ。だが、そこの女三人。貴女たちを許すわけにはいきません。貴女たちには、純粋なる女神の怒りが向けられているのです」
凍てつく視線を向けられ、女子部員たちは失禁して震えた。
「な、な、なんで? な、なにも、し、してない」
「先日の騒動、貴女たちの仕業ですね?」
女子部員たちから、血の気が引いていく。
「お前たちが面白がって、浮遊魔法で眼鏡を取り上げたことはわかっています。そのせいで、魅了の力が暴走した! そのせいで、この子はっ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「返す! 返すから!」
「許して! 許してください!」
三人は土下座し、泣き叫んだ。
一人がポーチから黒縁の眼鏡を出し、献上するように差し出した。
「貴様の手垢に汚れたものなど、この子に使わせられるかぁ!」
女神の怒号。
それは向けられた者にとって、絶望を意味している。
「愚かな子らよ。自らの罪の報いを」
「ま、待ってください」
僕は、恐れ多くも女神の裁きを止めに入った。
アメの忠告も聞かず、こんなクズ共のために禁忌とも言える危険を冒している。
みんなが、ぎょっとして僕を見ているのを感じた。
怒れる女神、フレイヤの視線が僕に向けられる。
強烈な光を見たときのように、眼球に鈍い痛みが走った。
「……晴人ですね? 貴方はこの子がずいぶんと気に入っているようです。いいでしょう、この子の好意に免じて、発言を許しましょう」
(晴人!)
アメの焦燥の声が聞こえたが、そちらに反応する余裕はなかった。
「あの……どうか、寛大な心を。命だけは、助けてもらえないでしょうか。」
僕は動こうとしない体を無理やり動かし、地面に額をつけた。
「……なぜ、貴方が庇うのです? この愚か者共の行いに、嫌悪を抱いていたはずでしょう?」
「……ルイのためです。あなた様は、ルイにとってこの世界のすべてです。そして、出会ったときの約束が生きる理由なんです」
フレイヤは黙っていたが「そんなことわかっている」と、視線で訴えている。
「だから、どうかルイを迎えに行くまでは、誰の命も取らないでもらえませんか。貴方が『すべて』をもらうのは、ルイだけにしてもらえませんか」
このまま裁きが行われれば、ルイがあまりに可哀想だ。
女神に心奪われ、たったひとつの約束を期待し、人生のすべてを捧げている。
こいつらが女神フレイヤに殺されれば、その純粋過ぎる想いが報われない。
きっとルイは『そんな幸せ』が自分以外に与えられるなんて、我慢できない。
あいつにとって、それがすべて。
女神にすべて捧げることこそ、求める愛なのだから。
まだ出会って二週間も経っていない。
そんな相手のことなのに、僕はこの考えに絶対の自信を持っていた。
だからだろうか。
女神フレイヤが、人間の僕を目を丸くして見ていた。




