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夏休み 『アルバイト・オン・ザ・ビーチ4』

「そろそろ戻ろうか」

「……うん」


 泣き腫らした目で、彼女は微笑んだ。

 つかえていたものが取れたような、少しだけすっきりとした笑みだった。


(うむ。では、なるべく人目につかんところにするか」

「おう、頼む。じゃあ、いくよ」

「……はい」


 僕たちが目をつぶると、ふわりと体が浮かぶ感覚があった。


 再び目を開けると、僕たちはイベント会場と隣のビルの隙間。

 室外機のせいで、二人並ぶのがやっとの狭い路地に立っていた。


(よし、晴人。信二を外に呼び出せ。そしたら、儂がここまで連れてくる)

「おっけー。頼む」


 僕は信二に電話をかけたが応答はなく、仕方がないので「外に出てくれ」とだけメッセージを送った。


「もうちょっと待ってね、ひかりん」

「あ、あの」


 車の音と室外機の駆動音の中で、ひかりんのきれいな声が僕の耳を包んだ。


「なに?」

「ひかりんじゃなくて、ひかりって呼んでください。高若さんと会ってるときは、ただの東田ひかりですから」


 もうね、こんなこと言われて嬉しくない男がいるはずないよ。


 照れつつも笑いかけるその顔からは、僕への信頼が見て取れた。

 その気持ちを拒絶することも、裏切ることも僕にはできない。


「う、うん。じゃあ、改めてよろしく、ひかりちゃん。じゃ、じゃあ僕のことも晴人でいいよ。友達はみんなそう呼ぶから」

「はい。その、こちらこそ、よろしくお願いします。晴人さん」


 きっと、もう二度と来ないであろう夢のような時間。

 そして、終わりのときはもうすぐだ。

 僕は最後の一秒まで、この奇跡と幸せを噛み締めようと思った。


「……晴人さん」

「……ひかりちゃんんんってぇ!」


 噛み締めていた僕のお尻を、小型犬が勢いよく噛みついていた。

 言うまでもなく、小太郎だった。


「な、なにすんだっていうか、なんで噛むんだ小太郎! ケツ噛むのは信二限定じゃなかったのかよ!」

「うるさい! こっちがどれだけ大変で、心配したと思ってるんだ! 今だけ特別だ!」


 ここまで有難くない特別はないと感じながら、歯型のついたお尻をさすった。


「あ、あの、大丈夫ですか?」

「うわー! 本物のひかりんだ!」

「うるさい、小太郎!」


 尻尾をぶんぶん振った小太郎は、目をキラキラさせて吠えた。


「ふふふ、かわいいね」


 小太郎は、銃で撃たれたのかと言わんばかりの勢いで腹を見せ、撫でてもらいながら恍惚な顔を浮かべた。


「態度に差があり過ぎるんじゃないか、おい」

「いた! 晴人、無事か?」


 小太郎に悪態をついていると、主である信二が息を切らせて走り込んできた。


「信二! ごめん、心配かけた。それよりも小太郎をどうにかって、えぇぇ!」


 今度は僕が声を上げてしまった。


 でも、仕方ないことだと思う。


 だって、信二のあとに続いて来たのは僕自身だったのだから。


「おい、静かにしろよ」

「ご、ごめん。でも、それは?」


 もう一人の僕は無表情で、無機質な目をしていた。

 生命的なものが感じられず、よく見ると息もしていない。


「あぁ、こいつは長谷川さんの使い魔だよ。ゴードン、戻っていいぞ」


 信二の言葉にうなずくと、ゴードンは柔らかい光を全身から発した。


 すると、白い綿のような肌で一八〇センチの成人男性ほどの体躯。

 顔は丸い目と下弦の月のような形の口を、墨で塗り付けたかのように笑う人形の姿に変わった。


「ドールの使い魔だってよ。一定時間人間に変身できるらしくて、晴人になってもらってたんだ。苦労したんだぜ? 言葉は喋られないし、ところどころ動きが不自然だから、暑さでバテてるって言って誤魔化したんだ。っていうか、やっぱりお前が……うわー! 本物のひかりんだ!」


 小太郎と同じリアクションで、信二が叫んだ。


 僕はそんな信二を諫めつつも、ゴードンを見たまま固まっているひかりちゃんの様子が気になった。


「ゴードン……」

「どうしたの?」


 僕の声に、ひかりちゃんはハッと我に返った。


「あ、いや、その……なんでもないです。大丈夫」

「なぁ、どういうことなのか説明しろよ。こっちは仕事止めて、全員でひかりん捜索してるんだ。イベントスタッフが攫ったんじゃないかって疑われて点呼までとったし、ゴードンがいなかったら、お前完全に終わってたぞ」

「う、マジか」


 改めて、罪悪感が重たくのしかかってきた。


「反省しろよ。ってかおれに感謝しろ」

「ごめんなさい……」

「あ、ひかりんはいいよぉ~。オレ、永犬丸信二。信二くんでもお兄様でも好きに呼んでね」

「おい」

(悪いが、話している時間はないぞ。はやくせんと警察が動く事態になる)


 頭に響いた声に、まだまだ現役アイドルとの時間を味わいたい一人と一匹は不満げな表情を浮かべた。


「あの、私は今から事務所の人のところへ戻ります。みなさんには迷惑がかからないように、うまく言いますから。本当に、すいませんでした」


 ひかりちゃんは僕らに深々と頭を下げた。


「撫でてくれたから、おれは全然気にしてないぞ!」

「おれはこうして話せただけで満足! どっちかっていうと、晴人のほうに怒りの矛先が向いてるから」

(儂も楽しい時間が過ごせたしな。少なくとも、ひかりんが儂らに謝ることはない)

「僕は言うまでもないよ。でも、大丈夫?」


 ひかりちゃんの不安や悩みがいくらか発散できたとはいえ、騒動は僕が思っていたよりも大きくなっている。

 戻ったあと、大人たちに責められるのは明白だった。


「大丈夫。もう、大丈夫だから」


 どこか自分に言い聞かせているようにも見えたが、吹っ切れたような表情の彼女に、これ以上の心配は無用だと思えた。


「それじゃあ、私はこれで」

「じゃあな!」

「イベント、おれたちもスタッフとしているから!」

(気をつけてな)

「じゃあね」


 ひかりちゃんは僕たちにまた頭を下げ、薄暗い路地を抜け、アイドルのひかりんに戻って……行こうとしたのに。


 急に戻って来たかと思うと、僕に駆け寄り、頬にキスをして去って行った。


 去り際のいたずらな笑みを、僕は一生忘れないだろう。


「晴人、貴様ー!」

「ワンワンワン!」

(はっはっはっは!)


 悔しさと怒りの涙を流す信二に胸ぐらを掴まれ、小太郎に吠えられ、アメの愉快そうな笑い声を聞きながら、ふと物言わぬゴードンの姿が目に入った。


 僕らの後ろで、見えなくなったひかりちゃんにずっと手を振り続けるゴードンは、どこか嬉しそうに、そして寂しげに見えた。

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