夏休み 『ロッカーの天国』
上昇する気温、真夏の陽気。
高まる鼓動、荒くなる息づかい。
密着する体、落ち着けと諭す自分……
なぜだ。なぜこうなった。
今、僕の目の前には女の子がいる。というか、目の前と言うには近すぎる距離だ。
体が、密着している。
ほとんど抱きしめ合っている状態だ。
このうだるような暑さの中、僕らはここまでしなければ入ることができない場所にいた。
とある施設の、とある更衣室の、とあるロッカーの中。
汗の匂いの中に、シャンプーの甘い香りが混ざっている。
重なる体は柔らかく、上半身には二つのふくらみが押し付けられていた。
天国だ。
暑さと狭さを差し引いても、ここは天国に違いないと思えた。いっそこのまま、この安らぎに身を任せてみようか。
「いたか!」
「いや、こっちにはいません!」
「絶対に見つけろ! 探せ!」
だが、聞こえてきた怒号に、召されかけた僕の魂は現実へと戻り、頭に冷水をかけられた気分になった。
そうだ。この状況を、なんとかしなければ。
ふと、彼女の顔を見た。
小柄で、僕と比べて頭一つ分小さい。ショートカットの黒髪が、汗で光っている。僕を上目使いで見上げながら、かすかに口を開いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
潤んだ瞳から、目が離せなくなった。
まるで子猫を相手にしているようだ。
なぜだ。なぜこうなった。
僕はここに至るまでの記憶を遡った。
この春、繋文大学に入学した僕は、初めての夏休みを迎えていた。
初日から終わりまで大いに満喫するつもりだったが、なにをするにもまず資金が必要だ。
そこで僕は大学の友人、永犬丸信二の誘いで派遣のアルバイトを始めた。
人材派遣会社に登録をして、送られてきたメールから条件に合う仕事を選ぶ。ほとんどが日給の短期のアルバイトだ。
僕は普通にコンビニなどで働こうかと思っていたのだが、信二が「どうせなら色んな経験がしたくない?」と言って、僕を誘った。
僕もせっかくなら友人がいたほうがいいし、割高な給料は魅力的だったので了承した。
そして、今回のアルバイトは楽多にある多目的施設で開催される、新作ゲームイベントの会場設営と当日の売店スタッフだった。
このゲームは人気シリーズの三作目で、僕も好きなアクションゲームだった。
前の二作もけっこう売れたはずだが、意外にも信二はやったことがなかった。
僕の持っていた二作目を貸すとハマったらしく、この仕事のメールが来たとき、速攻で登録していた。
そして、アルバイト開始二日目。
いよいよイベントが翌日に迫り、会場設営も追い込みに入っていた。
「あっついな~」
「今日の気温、三十六度だってよ」
「マジか。じゃあ、この中は四十度は超えてるな、きっと」
僕たちが作業を行う会場は、広さが八千平方メートル、天井は十三メートルある。
柱がないので、体感としてはもっと広く感じられる。全面コンクリートのフロアは無機質だが、搬入が進むにつれてだんだんとイベントの色彩に彩られていった。
しかし、暑い。
四方の壁面上部には、巨大な空調が備え付けてある。
しかし、今は作動していない。
経費の削減や搬入口が開けっ放しなので、電源を入れても効き目が薄いなどの理由があるのかもしれない。
だが、気休めにでもつけてほしい。
実際、中で作業している人たちは例外なく汗だくだった。
休憩時間になり、出入り口から入る風を浴びる僕たちでさえ、汗が止まることはなかった。
「ちくしょう。なんだか、ドコツカの中で涼んでる小太郎が憎たらしくなってきた。出してやろうかな」
「ひどい八つ当たりだな。やめとけよ、また噛みつかれるぞ。僕なんて、相棒は今頃どっかのビーチで水着美女を眺めてるだろうよ」
信二の相棒、魔犬の使い魔小太郎は、ドコツカというカードに刻まれた魔法陣で作られた快適空間で休んでいる。
今の時代、ほとんどの人間がこのカードを所持し、使い魔と行動する上でこのカードを使用することが常識となっている。
そんな世の中の常識や、流行に乗れない人間が僕だ。
僕の使い魔、国造りの大妖怪ダイダラボッチのアメは、そのプライドから使い魔となってからもドコツカを利用することを拒否した。
その日そのとき、対象が存在する場所を変える能力を持つ、唯一無二の存在。
この力のせいで、過去に僕は苦しみ、悩み、命の危険にさらされた。
でも、だからといってアメのことを嫌いになったり、憎んだりしたことはない。彼の行動はすべて僕のためだったし、いざとなったときには必ず助けてくれる。
僕のパートナーはアメ以外に存在しないし、考えられない。
だから、普段は勝手にどこかへ行ってしまう自由も許している。
しかし、この溶けてしまいそうな暑さの中を働いていると、夏を満喫しているアメを想像しただけで無性に腹が立ってきた。
「あっはっは、そうだったな」
「戻ってきたら、八つ当たりしてやる」
内緒でドコツカを買って、無理やり使ってしまおうかと思いながら、僕はよく冷えた炭酸飲料を飲み込んだ。
泡の爽快感と冷たさが、うなだれていた体を中から励ましてくれた。
「なぁ、やっぱり衛も誘ったほうがよかったんじゃないか? こういう仕事、絶対あいつのほうが向いてると思うんだけど」
「手芸部の作品作りが忙しいんだとよ。細かい編み物より、こっちで機材とか運んでるほうが絶対似合うと思うんだけどな」
信二の言葉を想像して、僕は「確かに」と頷いた。
身長一九〇センチを超えるゴリラみたいな友人には、力仕事がしっくりくる。
「おい! いつまで休んでんだ! さっさとこっち手伝え!」
ペットボトルの中身が半分に減ったころ、僕らに怒号が向けられた。
 




