謎へ 『生本』
「あ、えっと。なんですか?」
さっきのことが恥ずかし過ぎて逃げ出したくてたまらなかったが、なんとか衝動を抑えた。
「あの、さっきは大丈夫でしたか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ」
やめてくれ、そのことには触れないでくれ。
とは言えないまま、平静を保った。
「よかった。あの、わ、笑っちゃってご、ごめんなさい」
「ははは。気にしてないですよ」
言うな。わざわざ言わなくていいんだ。
本当は気にしてるんだから。
とは言えないまま、辛うじて平静を保った。
「な、なにか調べものですか?」
江田さんは、机の上に積まれた本たちを見て言った。
「はい。実は……」
謎の生物のことを説明すると、江田さんは口元に手をやってなにかを考え始めた。
もっと驚くと思っていたのだが、意外に冷静だった。
「でしたら」
ゆっくりと手を下すと、江田さんの口には笑みが浮かんでいた。
「閲覧禁止の書物をご覧になりますか?」
江田さんに連れられて、僕は未だ入ったことのない図書館の地下へ足を踏み入れていた。
一般のエレベーターや二階に続く階段とは反対の場所にあるスロープを下って、突き当たりにあるエレベーターで下へと降りる。階は一つしかなく、体感としてはそこまで深くない。だが、こんな場所があったなんてまったく知らなかった。
「あの、閲覧禁止なのに見ちゃってもいいんですか?」
静かな、白いコンクリートの通路を歩きながら、江田さんに声をかけた。
蛍光灯の光が照らすだけで、あとはなにもなかった。でも、奥に見える分厚い耐火扉が目指す場所なのだということはわかった。
「あ、新入生でしたね。じ、じつは閲覧禁止じゃないんですよ」
「え?」
意味がわからない。
「た、正しくは閲覧禁止ではなくも、持ち出し禁止です。それが学生の間で間違って広まってしまったようで、閲覧禁止とよ、呼ばれています。学生には、そう言ったほうがわかりやすいと思ったんですが。す、すいません」
歩きながら、江田さんは頭を下げた。
「ほ、本来なら、職員の許可があれば、だれでも読んでいいんです」
「へ~、初めて知りました。ありがとうございます。でも、なんで持ち出し禁止なんです? あ、古い本なんですね」
「そ、そうですね。古いことは古いんですけど」
話しているうちに、頑強な耐火扉の前までたどり着いた。
江田さんはポケットから鍵を取り出すと、鍵穴にさした。
ガチャンと重い音が通路に響き、扉を這うように魔法陣が紫色に輝いた。光が消えると、扉に施された施錠魔法が解かれたのか、江田さんは鍵を抜いた。
「特別ですから。も、持ち出しはもちろん、通常のか、館内にも置けないんです」
「特別?」
首をかしげていると、江田さんは大きな取っ手を掴んだ。
体重をかけて引くと、扉は引きずられながらゆっくりと開いた。
「えぇ。特別なんです、彼らは」
中は暗く、よく見えなかった。江田さんが先に中に入り、明かりを点けてくれた。
「なんじゃ! まぶしいのぉ!」
「うるさいわ! 人が来たんじゃから当たり前じゃろうが!」
「どうせ点検だろう?」
「おっ! 恵里香ちゃん。おつかれさま~」
図書館は静かな場所だ。
その地下、人気のない書庫ならば尚更だ。
だが、うるさい。
この書庫は騒がしいことこの上ない。
だが驚くことに、声の主は人間でも使い魔でもない。
本だ。
並べられた本たちから声が発せられている。僕は開いた口が塞がらなかった。
「あ、あの、これはもしかして」
「は、はい。彼らはすべて生本。マスターブックとも呼ばれる存在です」
生本とは、魔力を込めて書かれた本や読まれていくうちに魔力蓄えた本が、人格を持った状態のことを言う。日本で言うところの、付喪神の一種だ。
しかし、現代では滅多にお目にかかることはない。有名なものは、ほとんどが国や博物館に保管されている。これはたしかに、気軽に持ち出していいものではない。
「すごい」
ざっと見えるだけでも、数百冊はある。
これがすべて生本だとは本当に驚きだ。本好きにとっては、夢のような光景だ。
「ん? だれじゃ、その小僧は」
どこかの誰かが言った。
数が多いし口を動かしているわけではないので、どの本が喋ったのかわからない。
「が、学生さんです。なんでもし、調べものがあって、みなさんなら知ってるかと思って」
あれほど騒がしかった書庫に、一瞬の静寂が訪れた。
「ど……」
「読者じゃあぁ!」
サッカーのサポーターかと思うほどの歓声が、書庫の中で爆発した。
うるさい。
「ど、どうしよう。私、カビ臭くないかしら?」
「しまった! ワシ、旧仮名遣いじゃから読めるかわからん!」
「解説してやれよ! ねぇ、大丈夫? 俺、ページ折れてない?」
「……江田さん」
「……はい。これが館内に置けないり、理由です」
なるほど、これでは図書館としての機能が半減してしまう。
心の底から納得した。
「ちょ、ちょっと! まずはあの子の話を聞かなくちゃ!」
「あぁ、そうだった!」
「長老! 代表して話してやって!」
やっと落ち着きを取り戻した生本たちは、長老という存在を呼んだ。
なんでも、この書庫の中で一番古い生本らしい。
「あ~、ごほん! すまんのぉ、久しぶりの読者じゃったから、皆嬉しくての」
奥からしわがれた声がした。
落ち着いた雰囲気が漂い、長老と呼ばれるにふさわしい風格と思えた。だがどの本が長老なのかは、わからなかった。
「いえ、気にしてません。むしろ、こんなに多くの生本が見られて嬉しいです」
「そうかそうか。ありがとう。さて、きみは一体なにを調べに来たのかね?」
「実は……」
再び謎の生物について話すと、生本たちは黙って聞いてくれた。
「なるほど。ほれ、皆の衆聞いての通りじゃ。久しぶりの読者のために、全員ページをめくりなさい」
長老の言葉のあとに、書庫にぼんやりとした光が点り始めた。
一冊一冊の生本が、色とりどりの淡い光を発し始めたのだ。
ゆらめきながら、光に宿った魔力は次第に充満し、分厚い綿を押し付けられるような感覚が僕を包んだ。




