入学 『この親にしてこの子あり』
見慣れぬ場所、大勢の人たち。
高鳴る鼓動、荒くなる息づかい。
不審になる挙動、落ち着けと諭す母。
僕は生まれ育った故郷を出て、遠く離れた街にいる。
これからこの場所で生きていくのだ。
憧れの大学生として。
目指すキャンパスは、最寄り駅から徒歩五分ほどの距離にある。
僕を含めた多くの新入生が、この駅から大学を目指していた。
真新しい、慣れないスーツに着られている人たちを見ると、自分も同じなのかと恥ずかしくなってしまう。
「あら、ネクタイ曲がってるわよ」
今朝、四苦八苦して結んだネクタイが、はやくも三角の結び目を襟の下に隠そうとしていた。
伸びてきた母さんの手から逃れると、乱暴に引っ張って定位置に戻した。
「逃げることないじゃなーい」
母さんが、ムスッとして言った。
気持ちはわかるが、せめてこんな人前ではやめてくれ。
もし、結び直してもらっているところを見られて、マザコンだなんて噂が流れたらどうする。
始まってもいない大学生活が、ここで終わってしまうじゃないか。
「お父さんがいればね。きれいに直してくれたんだろうけど」
僕が大学に合格してから、いかに自分の学生時代が楽しかったかを語ってくれた父さんは、ここにはいない。
うつむく母さんの肩に手を置き、僕は微笑んだ。
今更嘆いたって仕方ない。
なにを言ったって、父さんがここにいない事実は変わらない。
どうすることもできないのだ。
だって、父さんは
逆の新幹線に乗ってしまったのだから。
入学式を前に、すでにこの地で一人暮らしを始めていた僕は、駅で両親を待っていた。
改札から出てきたのが、微妙な表情を浮かべた母さん一人だったときは、頭に大量の疑問符が浮かんだ。
「どうしたの、母さん。父さんは?」
「あのね、実はお父さん、バカだったの」
「いや、バカなのは小二くらいから気づいてるけど、なにがあったの?」
母さん曰く、新幹線に乗る前、父さんはトイレに行った。
しかし、出発時間が近くなっても現れず、心配になって電話をすると「そっちには間に合いそうになくて、別の入口に並んでる。中で合流しよう」とのことだった。
母さんは安心して座席に座り、新幹線は発車した。
ところが、いくら待っても父さんは来ない。
メールをしても電話をしても返ってこない。
指定席の番号を間違えたのかと思い、車内を探すも見つからない。
どういうことだと思っていると、三十分以上経ってからようやく電話がかかってきた。
「もしもし」
「もしもし、あなた? 今どこにいるの?」
「それが……」
「どうしたの?」
「反対の新幹線に乗っちゃったみたいで」
「……は?」
「乗り場、間違えたみたい。母さんより先に席に着いたと思って、今まで寝てたんだ。そしたら今、予約した人に起こされて。怖かった、もうそっち系の人にしか見えなくて」
父さんの声は、かわいそうなほど震えていたという。
「で、今どこなの?」
「え、今? えっと、次が……えっ! そんなに止まらないの? ちょっと待って、途中で降ろして! なんで次が九州」
「お土産よろしくね」
という経緯があったらしい。
改めて思い出し、僕たちは深いため息をついた。
「母さん」
「なに?」
「お土産、こっちにも送ってね」
「そうね。明太子でいいかしら」
駅の構内から出ると、人と人以外の騒がしさも加わり、慣れない街の姿に期待と緊張の高まりを感じた。
そのうち、にぎやかなキャンパスが近づいてきた。
これからの四年間は、この学び舎で過ごすことになる。
一体どんなことが待っているのだろう。
僕の物語は、ここから始まる。
とりあえず、まずは念の為にトイレの場所を確認しておこう。




