困惑(side:クロエ)
―――…妖精が現れたのかと思った。
飛んできた小石に頭をさすりながら、周囲の気配を探る。
「誰だ?誰かいるのか」
と、いつの間にそこにいたのか。応えるようにスルスルと木を登り、目の前の顔を出したのはまだ年端もいかない美しい少女だった。
自分のものよりも遥かに深い、美しい藍色の瞳。流れる髪は、月の光の下で幻想的に輝いているように見えた。
(まるで、おとぎ話に出てくる妖精のようだ)
彼女は、いや、彼らしい。この国では女騎士は認められていないから、見習い騎士であるということはそういうことなのだろう。
彼はシエルと名乗ると、笑いかけてきた。
警戒を続けながらも、促されたのでこちらも、「…クロエだ」と名乗る。
どこまでも軽くこちらへ飛んで、ふわりと着地する。そのあまりの軽やかさに、やはりこいつは妖精なのではないだろうかと思った。…だが、背後に目を凝らしてみても、話に聞く透き通った羽根は生えていない。
こんな時間にこんなところで何をしていたのだ、と不思議に思っていたら、…月光浴をしていたのだそうだ。
普段では絶対にしない間抜けな顔を、目の前に突然現れた少年にさせられていることを自覚しながら、言葉を紡いだ。
「月光浴って、この城の庭は高い塀で囲まれているし、騎士といえど見習いがそう簡単に忍び込めるわけでは…」
無いだろう、と言おうとしたが、シェルメリア、ことシエルの先ほどの見事な木登りを思い出して、もしかしたらこいつならそれくらいあまり難しくないのかもしれない、と口をつぐむクロエ。
(騎士団長に警備網の見直しを頼んでおくべきか?)
「まあ、それはその。塀は…登って?」
あはは、と案の定あの高い塀を登ったと返事するシエルを呆れたように見る。
(…どんな野生児だ)
「それより、クロエこそどうしてこんな時間まで起きていたのですか?」
別に夜会が開かれていたわけでもなく、普通ならもう寝ている時間だろうときょとんと首を傾げる少年に、呆れてため息を溢した。
「その言葉、そっくりそのまま返してもいいか?」
自らを見習い騎士であると言うシエル。見習いのうちは毎日訓練でしごかれる騎士に、こんな時間に起きて徘徊する余裕など無いはずである。考えれば考えるほど怪しい。再び目の前の少年を警戒するクロエに、少し考えるそぶりを見せてからシエルは告げた。
「…第二王子殿下が、勇者に選ばれたと聞いて」
仲良くなりたくて、会えないかなぁ、と思って。…彼と出会うチャンスを待つついでに月光浴をしていました。
笑って言った見習いに、今度こそぐるぐるとクロエの思考が迷走する。
「仲良く?それは…どういう意味だ」
「どうもこうもありません。そのままの意味です、殿下。いえ、勇者様。私とお友達に、なってくださいませんか?」
にーっこり。
「はぁ」
我ながら間の抜けた声だなと自覚しながらも、なんと答えて良いのか分からない。王族として叩き込まれたどの知識にも、こういう時の対処法は無かった。
見習いは、なおも続ける。
「とはいえ、いきなり友達になってくれ、と言われても貴方も困るでしょう。…また遊びに来ますね」
小さく手を振って、バルコニーからその身を乗り出し。
……飛び降りた妖精。おい、ここ、四階だぞ。
「―――ッ?!」
いそいで手すりに駆け寄って下を確認するが、そこに見えたのは月明かりに照らされた静かな庭だった。人のいた痕跡は無い。
クロエは目を擦ってつぶやいた。
「…夢か」