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02.額と頭

 妻は麦茶を()れていた。

 「おかえり。まだ冷えてへんけど、氷入れて飲む?」

 「いや、いらん。それより、フク……これ見てくれ」

 汗だくの腕を突き出し、帽子の中を見せる。妻の福子(ふくこ)怪訝(けげん)な顔で、老眼鏡を掛け直し、中を覗いた。


 「落としもん、(ひろ)たん?」

 「(ちゃ)う。高架下で()うた」

 「あぁ、さよか。新品やない思たら、中古かいな」

 「あぁ、それよりフク、中見てくれや、帽子ん中」

 「中?」

 古女房が覗きこむ。眉間の(しわ)が深くなる。


 「何やいな。洗濯もせんと売っとったんか。前の人の毛ぇ付いとぉやないの」

 「前の人(ちゃ)う」

 「(ちゃ)うて、何やのね」

 薬罐(やかん)のような頭を見上げ、首を傾げる。


 妻の頭は天然のまま、少し黄ばんだ白糸を茂らせている。

 若い頃よりやや減って、近頃は洗うのが大儀(たいぎ)だと短くし、飾り気はない。(くし)()き、さっぱりと撫でつけていた。

 まじまじと妻の頭を見詰めて黙る。


 「ユキさん、どなしたん? 熱中症で気分悪なったんか?」

 「(ちゃ)う」

 続きを言えず、口を結んだ。

 女房は諦めて流しに立った。


 幸照は手を洗い、鏡に映る顔を見た。

 眉毛より上には何も残っていない。肌はツヤ良く、汗が玉成(たまな)し輝いている。額と頭、その境界は判然とせず、一続(ひとつづ)きだった。

 洗顔し、汗の(にじ)んだ頭部も洗う。

 さっぱりすると人心地つき、女房に話す勇気が湧いてきた。


 茶の間へと取って返すと、女房が帽子を持って端坐(たんざ)していた。

 背筋を伸ばす女房に幸照は、全身が強張(こわば)った。

 意を決して、その前に腰を降ろした。勢いを付け、一気に話す。

 「それな、(わし)の毛ぇやねん」

 女房は答えない。

 自分でも、有り得ないとは思っている、だが、現にここにある。


 「ちょっと貸してみ」

 受け取ってすっぽり(かぶ)り、頭を()でる。

 布越しにブラシのような手触りをはっきり感じ、推測を口に出す。

 「中は普通の布やろ? 何でか知らんけどな、これ被っとぉ間だけ……け……毛ぇ生えるんや。ちょっとこっち来て、触ってみ」

 動悸がし、頭が熱い。だが、言った。


 女房が、首を(ひね)って手を伸ばす。

 幸照は耳を赤くし、目を閉じた。

 妻の手が、帽子に触れる。布と毛がこすれ合い、わしゃわしゃと(かす)かな音を立てている。懐かしい感触に、遠い昔の風景が脈絡もなく思い出された。


 「何やこれ? 手品の帽子?」

 ひょいと帽子をつまみ上げ、しげしげと中を見る女房の声で(うつつ)に戻された。

 手品なら、毛は帽子から生える筈。

 「(ちゃ)う……何やわからんけど、(わし)の頭に毛ぇ生えるんや。今度はちょっと、引っ張ってみぃ」

 「何でやねん。頭おかしいんちゃうか?」

 その言葉、中身のことか、頭皮を指すか。追求せずに今はただ、帽子を被る。


 女房は付き合って、言われるままにつまんで引いた。

 「あれっ? これ、何やのね?」

 異変に気付き、身を乗り出して更に引く。知らぬ間に力が籠り、頭皮がぐいと引き上げられる。幸照は腰を落ち着け、踏ん張った。

 力比べに耐えきれず、ブチブチと毛が抜ける。

 妻の手がすっぽ抜け、尻餅をつく。女房は帽子の中を覗き込む。

 気味悪そうに顔を上げ、亭主の頭、特に先程、引いた所を穴のあく程見る。


 「こんなツルツルの身ぃつまめるワケあらへんのに……(あこ)なっとぉな……」

 「毛ぇ引っこ抜かれたから、ちょっと痛いわ」

 得意げな声に自分で驚いて、幸照はじんわりと痛みの残る頭を撫でた。いつもと同じ、ツルツルの身が手に触れる。


 「何、喜んでんねん。気色の悪い」

 「何がやねん。儂の毛ぇやないか」

 「有りもせんもんが有るから、気色悪いねやんか。古希(こき)過ぎてそんな真っ黒の毛ぇ、ホンマにユキさんのんかいな」

 「今、めっちゃ痛かったわ。(わし)が痛いねやから、儂のんで間違いない。大体、白髪になるまで、生えてへんかったんや。黒うて何がおかしいねん」

 言ってから、自分の声に傷ついて、涙が(にじ)む。

 福子は夫の涙を見、声を和らげ心配を口にした。

 「せやかて、そんなワケわからんもん……ユキさんに害はないんやろね?」

 「知らんがな」

 涙に揺れると息と共に声を出す。


 福子は更に懸念を示す。

 「得体の知れん帽子被って、何ぞあってからじゃ遅いからね。サイズ合わんかったか何か、テキトー言うて、お店に返しといでよ」

 「いやや」

 「……さよか。そしたらもう知らんからね。勝手にし」

 夫の気性を良く知る妻は、諦めて夕飯の支度に立った。

 端坐(たんざ)=正座

 古希(こき)=数え年の七十歳

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