07 二人しか知らない
身分の低い貴族が会場に入れられた後、王族に連なる者たちがペアごとに淡々と名を呼ばれ会場へ足を進ませる。先ほど従兄弟の名が呼ばれたからそろそろ自分の番だろうと覚悟を決めて顔を上げた。
「緊張しているのか?」
「……はい。少し。このような場は苦手です」
そう言ったリリアナは正直に眉を顰めてため息を吐く。王女ならば人前に出て堂々と背筋を張り、笑顔を作ることを平然とこなさなければならない。しかし、リリアナはそれが苦手だった。だから段々と人前に出ることを避けるようになってしまった。王位を継ぐのは兄に決まっているし、人前に出るのが苦ではない姉二人がいる。上の三人が上手にこなしてくれたからリリアナが無理をしなくても今までも何とかなってしまっていたのだ。
「そうか。ここに来るまでの貴族たちの顔を思い出してみろ」
ヴィルフリートは悪戯めいた笑みで笑うと、リリアナを力づけるかのように少しだけ腕に力を込めた。
「ガルヴァン第三王子ヴィルフリート様、フォンディア第三王女リリアナ様」
名を呼ばれると意を決して顔を上げ、前を見て歩く。いつもであれば少しは笑わなければと思えば思うほど顔が緊張してしまうリリアナだったが、ヴィルフリートの言葉に舞踏会の会場へとやって来る道中を思い出してくすりと自然な笑みを零した。
ほとんど公の場に現れない病弱の姫が珍しく部屋から公の場へと出てきていることにも驚いている貴族たちは多かった。しかし姫に驚いた後に、さらにその横の人物の正体に目を丸くする貴族の姿が良く見られた。リリアナをエスコートしているのは、リリアナと交流が全くないと思われるガルヴァンの王子である。きっとそれぞれが何故リリアナをエスコートしているのかと思案を巡らせていることだろう。それとも、王に命じられたのかと探りを入れている者もいるかもしれない。
今会場にいる貴族たちは皆がそれぞれ驚いた顔でリリアナたちを見つめていた。
「面白いだろう?」
ヴィルフリートはそう言っておかしそうに口元を緩めた。
「そうですわね」
そして会場へ入ってしまうとすぐに姉たちの入場があり、最後に王と王妃の入室となった。その頃にはどうやら彼らの視線も他の華やかな王族たちに移ったようだった。
彼らの入場を待って、ギルバートから来場を感謝する挨拶があった。まるで政略結婚とは思えない夫婦は見ていてとても幸せな気持ちになれた。彼らを見ていると、自分がいつかするであろう政略結婚にも希望が持つことができるのだから。
そして、もうじき姫たちによるダンスの時間だろうと思われる頃になった。挨拶の次に姫たちによるダンス披露がある。その後、王子夫妻によるダンスが行われてようやく招待客が踊ることができる。
「それでは、エスコートありがとうございました。もうすぐダンスですので失礼致しますわ」
「いや。その必要は無い」
「え?」
ヴィルフリートから手を離して離れようとすると、ヴィルフリートは片手でそれを押さえて阻止する。きょとんと首を傾げてヴィルフリートを見るリリアナに彼は首を振った。
「昨日あれだけ私と練習したんだ。私がお相手ではご不満か?」
「しかし、ユーグ様にお願いしておりますし…」
「それは私から断っておいた」
その言葉にリリアナは耳を疑った。リリアナの耳がおかしくなければ、彼は今ユーグに断ったと言ったが。一体何故とリリアナの心には疑問ばかりが埋まっていく。
「ヴィルフリート様、今何とおっしゃいました?」
「私と踊っていただけますか?リリアナ姫」
ヴィルフリートは改めてリリアナの正面へ来ると、彼女の手を取り恭しくその甲へと口付けた。その仕草はさすが王子と言ったところで洗練されていて美しい。しかし、そこはダンスを控えていたために会場の真ん中に近い場所だった。そしてヴィルフリートは容姿が優れているだけでなく、訪れることの少ない隣国の王子。
つまり、彼らは会場の視線を集めていた。視線という視線がリリアナの反応を待っている。
「……お手柔らかにお願いしたいですわ」
そんな空気で断る精神をリリアナは持ち合わせていなかった。ようやく頷いたのを見て、ヴィルフリートはまるで悪戯が成功したかのような表情だ。
「さて。姫様、お手を拝借いたします」
ちょうど良く始まった音楽にヴィルフリートは手を差し伸べる。その手に重ねて二人の身体は音楽に合わせて軽やかに動いた。その息の合った様子に、驚いたようにリリアナたちを見つめていた貴族も息を呑むのが分かった。二人の踊りは昨日の晩に予行練習済みだったのは二人以外知らない。
「――リリアナ、姉さまには紹介して下さらないの?」
踊りを終えて会場の隅へ移動すると、ランベルトを伴って黄色のドレスを纏ったユリシアが現れた。
「……ユリシア姉さま、ランベルト様。今晩は。挨拶が遅れて申し訳ありません。こちらガルヴァンのヴィルフリート様です」
現れた人にリリアナの心はどきりと揺れた。隣に立つ彼の顔はとても見ることができない。もし自分だったら、慕っている人とその仲睦まじい婚約者の姿は目に入れたくないだろう。
「ヴィルフリート様。以前もフォンディアにいらしてくださっていましたわね。お久しぶりです」
「……覚えて下さっていたのですね」
ヴィルフリートの言葉が感激の心を滲ませるように僅かに揺れた。
「ガルヴァンのヴィルフリート様と言えば、政だけでなく剣の腕も立つと有名です。いつかお手合わせ頂きたいものです」
「私も。フォンディアの獅子と呼ばれるランベルト様にはいつかお手合わせ願いたいと思っておりました」
ランベルトがにこりと人の良い笑みを浮かべたが、そんな彼にヴィルフリートは鋭い視線を投げた。空気はピリピリと肌に突き刺さるように鋭い。
「まぁまぁ。今日はせっかくの舞踏会でしてよ?そんな物騒なお話は女性のいないところでお願いしたいですわ」
「そうだな、ユリシア様の前ですまなかった」
ユリシアの言葉にふっと場の空気が軽くなるのが分かった。ランベルトはそう言って、愛しげにユリシアの髪を一撫でした。
もしここに居るのがリリアナ一人であれば、そんな二人を微笑ましく見ていられたに違いない。姉の幸せはリリアナにとっても嬉しいことだから。しかし、今日のリリアナはヴィルフリートと一緒だった。きっと彼は今心を痛めているのであろうけれど、リリアナは彼の顔を見ることができず笑顔を貼り付けるしかなかった。
「そういえば昨日はユーグ様と踊るって言っていましたのに、どうしましたの?」
「偶然お話する機会があって、それが縁で」
「まぁ。そうでしたの?リリアナにこんな素敵な方が居たなんて知らなかったわ!何で教えてくれませんでしたの?」
「姉さまが思っているようなお話はありませんわ。それよりも、今日のお二人のダンス素晴らしかったですわ。私も姉さまみたいに上手に踊れるようになれれば良いのですけれど」
「もう、いいわ。そういうことにしておいてあげます。それではお二人も良い夜を。二人のダンス息がぴったりでとっても素敵でしたわよ?」
ユリシアは満足な答えが得られないことに不満そうであったが、にこりと笑うとランベルトを伴ってその場を去った。
「……リリアナ様、すまない。私は少し頭を冷やして来よう」
「ええ。私のことをお気になさらずに」
そう言ったヴィルフリートの表情は苦悩に満ちていた。もちろんそんな彼を止める術を持たないリリアナは彼を黙って見送るしかなかった。
きっと彼は今深く傷ついているのだろうけれど、恋をしたことがないリリアナには彼にかける言葉は何一つ見つからなかった。恋をしたことのないリリアナが何か言ってもそれは彼の心に届かないに違いないから。