06 仕上げの紅
鏡台の前で最後の仕上げにと頬紅を塗っているところだった。少しでも顔色を悪く見せようと化粧は薄っすらで良いと伝えても有能な侍女はそれを許さなかった。
「ひ、姫様!大変ですっ!」
まるで幽霊か何かでも見たかのような顔で部屋に飛び込んできた年若い侍女にジゼルは顔を顰めた。
「何です。騒々しい。リリアナ様の御前ですよ」
「いいのよ、ジゼル。どうしたの?何がありましたの?」
侍女を咎めるジゼルを制して、リリアナが侍女に聞くと侍女は驚きを隠せないまま震え上がっていた。
「ガルヴァンの王子がお迎えにいらっしゃっております」
「ヴィルフリート様が?」
ジゼルは訝しげに侍女を見つめ、リリアナを振り返った。
「分かりました。すぐに行きますとお伝えして」
リリアナが侍女に言うと、侍女は頷いてドアの向こうへ引き返した。部屋に残されたのはリリアナとジゼル。ジゼルは化粧の手を止めないままリリアナを厳しい目で見る。
「リリアナ様、いつの間にお知り合いになられたのですか?私の記憶では、少なくとも昨日の晩まではお迎えにいらっしゃるような関係ではなかったと思いますが」
「いつだったかしら。そうね、最近知り合ったのよ」
「リリアナ様?もう少しコルセットをお締めしたら思い出していただけるかもしれませんね」
ジゼルの手はそうにっこりと笑いながらドレスの紐へと伸びている。リリアナはこれ以上コルセットを締められたらたまらないと震え上がった。そして、考えるふりをして思い出すような素振りを見せた。
「ええっと、何だったかしら。そうだわ!思い出したわ。昨日の晩に月が美しいから外に出て、そしたら庭園で会ったのだったわね」
「当番の者に昨日は私が退出した後は廊下に出られていないとお聞きしていたのですけれどね」
そう言ってジゼルはふうとため息を吐いた。
「ジゼル、ごめんなさい。でも、危ないことはしていないわよ」
「分かっております。……私の姫様はどうしてこんなにお転婆なのでしょうね?」
「ヴィルフリート様はとてもお優しい方だったわよ」
昨日の月夜に会ったヴィルフリートは彼の持つ色と美しすぎる容姿のせいで冷酷な印象に変えられていた。しかし、実際に話した彼は恋の苦悩に表情を曇らせる一人の青年だった。リリアナが身体をふら付かせて支えてくれた腕は温かく優しいものだった。
「ガルヴァンとの今の関係は悪くないとは言え、良くもありません。ガルヴァンの王子のお相手は十分お気を付け下さいませ」
ジゼルの瞳には心配の色がはっきりと見えた。今のリリアナは王位継承権を持たない身分の低い姫とは言え、リリアナの言動一つで戦争が起こる可能性も無いとは言い切れない。もし戦争が起こってしまえば、町へ一人で降りていた時以上の危険があるだろう。ジゼルはそういうことを言いたいのだ。
「分かったわ。ジゼルにこれ以上心配かけないように気を付ける」
「お言葉の通りでしたら嬉しいのですけれどね」
そう言って小さくため息を吐いたジゼルはリリアナの唇に薄く紅を伸ばした。
「ジゼル、心配をかけるわ。でも、あなたを裏切ることは決してしないと約束する。行って来るわね」
化粧の終わった顔を鏡でさっと確認すると、ジゼルに向かって笑みを作って言った。
「有難いお言葉でございます。姫様、行ってらっしゃいませ」
ジゼルの美しいお辞儀を見てから扉の向こうへ足を進める。本当はヴィルフリートが来なければ、適当な言い訳をして一人になって顔色が悪いように化粧をし直す予定だった。けれどそれが叶わなくなった今では覚悟を決めてダンスを踊るしかないだろう。
リリアナの仕度室の向こうにある応接室に彼は居た。ソファーと小さなテーブルのみが置かれたその部屋は訪れる人の少なさを表すかのように物が少ない。ただ使われているものはそこが王室であると示すように派手ではないが質の良いものだ。
彼は当然ながら昨日の軽装とは違う正装に身を包んでいた。しかし軍国であるせいなのか、彼の服は髪と同じ黒色で普通の王子のものよりも煌びやかな印象が薄い。お飾り程度に使われている金色と赤色が辛うじて正装であるのだと理解させてくれた。しかしシンプルなその衣装も彼が着ると雰囲気と相俟ってとても様になっていた。
「お待たせいたしました。ヴィルフリート様」
「いや。私こそ急に来て悪かった。それにしても今日のリリアナ様は美しいな」
リリアナに気付いたヴィルフリートは立ち上がり、目を細めてリリアナを見た。
「昨日の軽装よりは見れるものになっているはずですもの」
「そういうつもりじゃないんだがな。本当に美しいと思っている」
それは勘違いをしてしまいそうになる熱のある視線だった。しかし、この人はユリシアを慕っているのだ。リリアナは今感じた視線を受け流し、にっこりと笑う。
「ありがとうございます。ヴィルフリート様も黒色の衣装がよくお似合いで素敵ですわ。そういえば、今日はどうしてこちらに?」
「舞踏会のエスコート役を勤めさせていただこうと思ってな」
そう言ってヴィルフリートは悪戯めいた笑みを見せた。
「え?でも……」
確かに舞踏会への入場時に女性は男性にエスコートされて入場するのが普通だ。男性の場合は一人で入場しても問題ないが、女性の場合はそうではない。だから今回のそれはユーグが勤めるべきなのであるが、今回は夫人と招待されている。よって彼には姫たちだけで披露するダンスのパートナーだけを頼んで、リリアナは誰か手近な近衛騎士と入場するつもりであった。しかし、近衛騎士よりも王子であるヴィルフリートの方がエスコートしてもらえるのであれば適当だった。それ故にリリアナはヴィルフリートを断る理由を見つけられないでいた。
「ユーグ殿は夫人と来るのであろう?」
「そうですわ。でも、ヴィルフリート様のご迷惑になりませんか」
「問題無い。私にも相手が居ないのだ。姫、私を助けるつもりでエスコートさせてもらえないだろうか?」
戸惑うリリアナにヴィルフリートは言い切った。仮にも一国の王子である彼にそこまで言わせてしまうと、リリアナにはもう断ることが出来なかった。
「……はい。分かりました。私でよろしければエスコートしていただけますか?」
「ああ。喜んで。では、行こう。そろそろ時間だろう」
笑みを浮かべて差し出された手を取ると、ヴィルフリートはスムーズに腕へと導いた。王子らしく慣れた姿に少しだけ意外だなと驚きながらも、ヴィルフリートについて会場へと向かった。