50 精霊サラマンドラ
リリアナが父フェルディナンに相談した留学の話は内容を話す前に却下されてしまった。男でもない、女が外の国に学びに行くなんていうことは言語道断ということらしい。
「順番を間違えたわ。もう少し丁寧に下準備をして話をすれば良かった」
リリアナが一人きりの部屋でそう呟いたところで後の祭りである。こうしてリリアナは反省するまで自身の部屋で謹慎することとなってしまった。仲の良い侍女たちも全て遠ざけられてしまい、精神的にも孤立無援の状態だ。
思えば、近頃は何かにつけ部屋に閉じ込められてばかりである。先日のディオンの屋敷に次ぎ、今度は王宮の自分の部屋から出ることもままならない。そう思うと、よく分からない笑いがこみ上げてくるから不思議だ。こうして笑える内はまだ大丈夫なのだろう。
「それにしても、どうしようかしら。今度はジゼルたちとも会うのを禁止されてしまったし」
まさに手詰まりだ。そう思って、ついため息を吐いているとリリアナの部屋の扉をノックする音が聞こえる。恐らく、お茶を淹れに来た侍女だろうと思い返事を返す。
「――はい。どうぞ」
「失礼致します」
リリアナが入室を許可して顔を出したのは見知らぬ一人の侍女だった。確かに今リリアナの身の回りを担当していた侍女は全て外されている。それはリリアナに少し頭を冷やすようにという罰のようなものでもあったのだが、いくら何でも見たことがない侍女だ。そう思っていると、ふいに彼女の赤毛が妙に見覚えがあることに気付いた。
「貴女はアラン伯爵家の……?」
前に一度夜会で会ったことがある、ローレンスの元婚約者だ。ウェーブがかった赤い豊かな髪を揺らして、リリアナの前に現れた日のことはよく覚えている。だが、だからと言ってこのようにリリアナの部屋を訪ねてくるような関係ではない。さらに、今はかなり限られた人しかリリアナの部屋を訪れることもできないはず。だが、それの答えは彼女が着ている侍女服にあるのだろう。
「ええ。そうですわ。……貴女さえいなければ、今頃私はローレンスと結ばれていたのに!貴女さえ!」
彼女は視線を鋭く尖らせ、その瞳でリリアナを貫く。そしてリリアナに向かってきたと思うと、リリアナの口元に白い布を当てた。すぐにツンとした匂いがリリアナの嗅覚に届く。本能的に嗅いではいけないものだと分かるのに、それは鼻も一緒に押さえつけているために瞬間的に結構な量を嗅いでしまったようだった。
そしてリリアナの意識は遠くに白んだ。
「――ん……っ……!」
緩やかにリリアナの思考が晴れる。身じろぎして頭を動かすと、ズキリとした痛みがリリアナの頭を貫いた。思わず右手でそこに触れようとしたが、右手と一緒に左手までついてきた。どうやらリリアナの両手は何かで縛られているようだった。
恐らくはこの頭痛も気を失う前に嗅いだ匂いのせいなのだろう。ズキズキと頭痛がする中で自身の身体に視線をやれば、荒い縄が自身の両手と両足をそれぞれ纏めている。どうりで肌触りが悪いはずだ。それはかなりキツく結ばれていて、身動きした程度では身体に食い込むだけだった。どうにか取れないかと身を捩ってみたが、リリアナの肌に血が滲んだだけだった。どうあがいてもリリアナがそれを取ることができる気もしない。
「――目が覚めたようね。リリアナ様。何て無様な姿なのかしら?とってもお似合いでいらっしゃるわよ」
その声の方向に視線をやれば、エリーズが冷たい床に横たわるリリアナを蔑むような視線で見下していた。その凍るような冷たい視線は以前会った時はここまでではなかったと思う。
「エリーズ、どうしてこんなことをしたのですか?」
「どうしてですって?これも全て貴女がいけないんだわ。私からローレンスを奪って、さらに国まで変えようとしている。父上がお怒りになられるのも当然ね」
エリーズはそう言って鼻で笑うと、近くに置いてあった一人がけのソファに悠然と身体を沈ませる。
「……こんなことをして、私をどうする気ですか?」
「何、お前を探す者はおるまいよ。王家の要らない王女。隠された姫、リリアナ王女が居なくなったところで困る者はおらないだろうて。――おっと、自己紹介が遅れましたな。私はディディエ・アラン。伯爵の爵位を戴いている者でございます、王女様」
エリーズに向けて発した言葉はリリアナの後ろから現れた、エリーズによく似た赤毛と口髭を持っている恰幅の良い男から返答が返ってきた。彼はリリアナを馬鹿にしたような目で見て、にやりと笑う。
「それで私をどうするつもりですか?……まだ命があるようですが」
本当にリリアナが邪魔であるならば、いつでもリリアナを殺せたはずだ。だが、今のリリアナはまだ呼吸をしている。気を抜くと身体が震えそうになる。だが、彼らの前でそうすることは自分でも許せないことだった。リリアナは自分を叱咤して、強い意思を持ってアラン伯爵を見た。
「貴女は自分の立場が分かっていらっしゃらないようだ。それとも、だから下々の者に文字を教えようなんていう馬鹿な考えが浮かぶのか?」
「下々の者とは何ですか!それが民を指す言葉であれば、許しません!」
「許さない?では、どうする?……ふん。貴女の母君も下らない女だったが、貴女様もよく似ていらっしゃるようだ。あの女にも、陛下の寵愛が得られないのなら私が相手してやると言ってやったのに。よくも無下にしてくれたもんだ」
「あらそれは当然なのでは?貴方みたいな男、私だったらお断りですもの」
「この女……っ!」
冷たい視線で言い返したリリアナに激情したらしいアラン伯爵の手がリリアナの頬に飛んで来る。身体の自由がきかないリリアナはその衝撃に備えて身構えることもできず、彼に叩かれた勢いのまま床に転がった。
「……っ、身動きの取れない女を殴るしかできないなんて、可哀想な人ですね」
「忌々しい!頭が冷えるまで転がってろ。――エリーズ、行くぞ!」
「は、はい。お父様」
アラン伯爵はリリアナを一瞥して、怯えた瞳のエリーズを伴って部屋を出て行った。乱暴に閉められた扉はよほど頑丈にできているのか、大きな音を立てて閉まった。
部屋に残されたのはリリアナ一人。先ほど頬を叩かれた衝撃で口の中を切ったらしく、口の中が鉄の味がする。拘束されている両手を口元に持っていき、指でどうにかそれを拭う。どうやらそう深い傷にはなっていないようで、指に少しの血が付いただけだった。
ふと床に転がる赤い光に目を取られる。どうやら転がった時に外れたリリアナのイヤリングのようだった。這ってそれに近づくと、ヴィルフリートの瞳に似た赤い石の花がきらりと光を零す。
何気なくそれを掴むと、その光が大きくなってリリアナを包んだ。
「な、何?」
光が収まったと思うと、手の中にあった赤い石の付いたイヤリングはすでにない。その代わりにそこにいたのは手のひらほどの大きさの小さな赤いトカゲだった。
「――ふぁ。よく寝た。外に呼び出されるのなんて久しぶりだなぁ。オレと呼び出したのは、なんだ。緑の姫さんじゃねーか。それで、オレに何か用?」
欠伸と一緒に小さな火の玉が吐き出された。その姿はまさに本の世界で知る、精霊のようである。
「え?あなたは?え?なに?何で?」
「オレの名前は火の精霊サラマンドラ。姫さんが血の誓約で呼び出したんじゃないか。用があるから呼び出したんだろ?」
今もなお混乱しているリリアナにサラマンドラと名乗った赤い鱗のトカゲは呆れたような声色で言い放った。まさに知ってて当然のことであるとばかりに。
「血の誓約?」
「何だ?知らねーのか?――そういや、数百年か?随分呼び出されてなかったもんなぁ。オレはフォンディアに誓約している。石と血が揃った時、手を貸すってな」
そう言って、サラマンドラはリリアナの指に付いていた血をぺろりと舐めた。その舌は温かいというよりは熱いくらいの温度だ。
「石ってこのイヤリングのことですか?」
そう言って、リリアナはもう片方に残ったイヤリングを指す。先ほど手の中にあったイヤリングは消えてしまったが、片方のイヤリングはまだリリアナの耳に残っている。
「そうだ。しっかし、身体小せぇなと思ったらそんな小せぇ石で呼び出されたのか。どうりでな」
「……まさか、石の大きさで身体の大きさが変わるんですか?」
「まぁな。だけど、そういうわけで今のオレの身体は小せぇから出来ることも少ねぇぜ」
そう言ってサラマンドラはまるでリリアナに見せ付けるかのように、親指ほどの火を吐いた。
「それじゃあ、この縄を焼き切ってもらうことは?」
「それくらいなら朝飯前だ」
サラマンドラはそう言うと、いとも簡単にリリアナを拘束していた縄を焼き切ってしまった。荒い縄であったためにリリアナの肌には血が滲んでしまっている。それをサラマンドラが舐め取っていると思ったら、その場所から傷が消えている。
「傷が……」
「久しぶりの外界だからな。サービスしといてやるよ、お姫さん」
誰も味方のいない冷たい部屋でサラマンドラはそう言って笑う。
「……ふっ……っ」
リリアナの瞳からは透明な雫が流れ落ちた。
怖かった。攫われたことも。殴られたことも。
――人からこんなに嫌悪の気持ちを向けられたのは初めてだった。




