48 手を繋いでくれた人
「リリアナ、今日の機嫌はいかがかな?」
「変わりなく、ですわね。……そうだわ。叔父様、私と少しお話をしませんか?」
朝、リリアナの支度が終わったころの時間にディオンがリリアナの部屋へ顔を出す。それはディオンの屋敷に来てからの朝の恒例行事とも言えた。
リリアナは努めて何でもないように無邪気な顔でディオンを見た。
「リリアナ?」
「もちろん、叔父様に時間があればですわ。せっかくだから叔父様に母のことを聞きたいなと思いまして。私の中の母はいつもベッドに寝たきりで、思い出も少ないのですもの」
「メルの話、か。分かった。いいだろう」
昨日までのリリアナはディオンの顔を見ればここから出して欲しいと訴えていた。だからこそ、ディオンは初めこそ怪訝そうな顔をしたものの、話の内容を聞くと少し考えてリリアナの傍に腰を下ろした。
「ええと、そうですわね。とりあえず小さかった頃のお話を聞かせて欲しいのですけれど。母はどんな子供でしたの?」
「メルの小さな頃、か。メルは優しくて心配性な子だったよ。私が兄と喧嘩をすれば、目に涙をいっぱいに溜めて間に入って。私と兄が走り回るのをいつも心配そうに見ていた。――そうだ、あれは兄が初めての鹿狩りに行ったときだったかな」
「お父様が鹿狩り?そんな話聞いたことありませんわ」
父であるフェルディナンが鹿狩りをするなんていう話は聞いたことがなかった。だからそういうことに興味のない人であるとてっきり思い込んでいた。リリアナが驚いて聞き返すと、ディオンはくすりと楽しげに笑った。
「それはそうだろう。あのことがあってから、あの人は鹿狩りをしなくなったから。嬉しそうに捕まえてきた鹿の亡骸を見て、メルがそれはそれは泣いてしまってね。メルに喜んでもらえるだろうと思っていた兄はとても困った顔をしていた。それから兄は鹿狩りだけでなく、狩りの一切を辞めたんだよ」
「まぁ!そうでしたの?」
「……あの頃は良かった。兄がいて私、メルでいつも笑い合っていた」
ぽつり、とまるで零れ落ちたような言葉だった。
「叔父様?」
「メルが怒ったのを見たのは一度だけだ」
「一度だけ……?」
「それはフェルディナンがレオンティーナのことを裏切った時だけだ。それ以外は例え自分の婚姻が直前に壊されようとも、自分に愛が向けられなくても怒ることも憎むこともしなかった。メルは全てを受け入れて、そして抱えきれずに壊れてしまった」
そう言ってディオンは悲しげに目を伏せた。
母は、フェルディナンのことを愛していたのだろうか。だから父が母を邪険に扱っていても我慢していた?
リリアナが幼少期の頃を思い浮かべても、そこに父の姿はない。離宮にはいつも母とリリアナ、そして母が貴族令嬢だった頃からの多くはない侍従たちだけ。訪れるのはリリアナの兄や姉たちと叔父のディオンだけだった。最後の母はすっかり心が弱っていた。いつしかディオンにフェルディナンの影を重ねて、すっかり同一視していた。
母がディオンに「フェルディナン」と呼びかけるようになったのはいつからだったのだろうか。たまに正気に戻ったように見える母はリリアナに優しく微笑みかける。その繰り返しだった。
「叔父様、どうか母の影に縛られないで」
「リリアナ?」
リリアナはディオンを真っ直ぐに見て言った。ディオンはメルに今も縛られ続けている。壊れてしまったメルに今も縛られて、フェルディナンの代わりに傍に居ようとしている。
「私は母……メルではありません。リリアナです。確かに母は可哀想な女性だった。でも、それに叔父様が縛られていなくて良いです。母じゃない人を愛しても良いのです」
「でも、そうしたら……メルは?メルは忘れられてしまうじゃないか」
「忘れませんよ。母の良い思い出はたくさんありますもの。それに――」
「?」
ディオンは先を促すように黙ってリリアナを見た。
「母は叔父様が自分を想ってずっと一人でいることを喜ぶでしょうか?私の中の母の記憶は少ないです。でも、母は思いやりがあって優しい人。自分のことよりも他の人の心配ばかりする人でした。そんな母が、叔父様が幸せにならないことを望むのですか?」
リリアナがそう聞くと、ディオンは呆然と天を見上げて顔を両手で覆った。
その時。
「――叔父上、私の妹を返していただけますか?」
「……お前はギルバート!なぜ、ここに?」
唐突に場を割ったのはリリアナの兄、ギルバートの声だった。堅く閉じられているはずの扉は開かれ、そこに数人ばかりの護衛を連れてギルバートが立っている。
「それはこちらをどうぞ。陛下からの書状をお持ちしました。――リリアナ、身体の具合は良いのか?」
「え?あ、はい」
ギルバートは蝋でしっかりと封蝋された封筒をディオンに渡すと、くるりとリリアナを見て心配そうに言った。リリアナは突然のことにまだ状況が理解できないながらもようやく頷いて兄を仰ぎ見た。
「そうか。それなら良かった。叔父上には体調を崩したリリアナを療養のために預かっていただいた、そうですよね?」
「――はぁ。分かった、その通りだ」
ディオンはギルバートの言葉に大きくため息を吐いて、こめかみに手をやり頷いた。
「では、リリアナの体調も戻ったようなのでここからは私が引き受けます。さぁ、リリアナ立って。城へ戻ろう」
ギルバートはリリアナを促すように立たせると、扉の所でリリアナを振り返って待っている。リリアナは一瞬下を向いて、ぎゅっと下唇を噛んで顔を上げた。
「――叔父様、また来ます」
「リリアナ?」
リリアナの言葉がよほど予想外だったのだろう、ディオンは驚いた顔でリリアナを見返していた。そんなディオンにリリアナは瞳を潤ませながらどうにか笑顔を浮かべて言う。
「だって、叔父様は私のたった一人の叔父様ですもの。私が寂しかった子供の頃、手を繋いでくれたのはディオン叔父様だったわ」
「……ああ、また来ると良い。また美味しいお茶菓子を用意しておこう」
そう言ったディオンの顔に浮かんでいるのは弱弱しいながらも、いつもの笑顔だった。
屋敷から出ると、リリアナは恐る恐る兄に尋ねた。いつも忙しい兄がわざわざリリアナのために来てくれたのは嬉しいが、想定外だったと思ったことは否めない。
「――あの。お兄様、ありがどうございました。でも、どうしてこちらに?」
「ああ。それなら、リリアナの騎士に聞くと良い」
ギルバートはそう言ってにやりと笑うと、顎で馬車を指した。そこにゆるゆると視線をやると、そこに居るのは間違いない。
「騎士?……ローレンス!」
「リリアナ様!ようやくお顔を拝顔することが叶いました。本当に心配致しました。お体の具合はよろしいのですか?」
ローレンスは待ちきれない様子でリリアナに駆け寄ると、リリアナを仰ぎ見た。
「ええ。大丈夫よ」
「そうですか……。本当に良かった」
ローレンスはほっとした様子で力が抜けたように呟いた。
「君の騎士は本当にリリアナの心配をしていた。最初に私の所に来た時は本当に今にも倒れそうな顔色で――」
「――殿下!それ以上はご容赦下さい!」
楽しげにからかうギルバートの言葉を顔を真っ赤に染めて遮ると、ギルバートは嫌な顔もせずにくつくつと笑っている。
「まぁ、いいじゃないか。とにかくだ、私もリリアナの元気な顔を見ることができて安心したよ。さぁ、みんな待っている。城へ戻ろう」
「はい」
ギルバートに促されて、リリアナは馬車に乗り込んだ。たった数日だったとは言え、長く感じた日々だった。でも不思議とディオンを恨む気持ちなどはない。
彼も愛する人を思うが故の行動だったのだと思うから。




