46 歪なカタチ
リリアナがはっと気付くと、そこは彼女の知っている風景と違った。一瞬の間を置いて、離宮の方へ戻ってきたのかと考えたが、考え直してみてもそんなはずはなかった。彼女が寝かされていたベッドから上半身を起こして、ぐるりと部屋を見渡す。城の石造りの寒々しい壁でも派手な色遣いの装飾でもなく、温かみのある色遣いのタペストリー。どちらかと言うと可愛らしい雰囲気のインテリアで揃えてある。
「ここは……どこ?」
ぽつりと漏らした声はシンと静まり返った部屋に消える。いつも城の内外に人がいる城と違って、人の気配が少ないように感じる。リリアナはそのままベッドから足を下ろして傍にあった窓に近づいた。窓の外から何か見えないかと思ったが、大きな木が立っていて外の様子は窺えなかった。
「――おや、僕のお姫様はもう目を覚ましたみたいだね。裸足で歩くなんてはしたない、と言いたいところだけど靴を用意してないんだから仕方ないね。ルームシューズくらいは用意しないといけないな」
そこへやって来たのは叔父であるディオンだった。彼は不気味なほどにこにこと笑っている。表情はまるで幼子を見つめるかのような優しい笑みなのに、どこか冷え冷えとしていて恐ろしい笑み。思わず後ずさったが、リリアナのすぐ後ろには分厚い石の壁があるだけだ。タペストリー越しでもひんやりと冷たいそれはまるでリリアナの心情を表しているかのようだった。
「叔父様?」
不安を瞳に宿してディオンを見つめるリリアナにディオンは柔らかく微笑む。
「そう怖がらずとも、リリアナを傷付けるつもりはないから安心しなさい。ここに居れば安全だから安心すると良いよ」
「ここ?ここはどこなのですか?」
「気付いていなかったのかい?ここは僕の屋敷さ。だから誰の邪魔も入らないよ」
「でも」
リリアナはそう言って言葉を詰まらせた。ディオンがリリアナの叔父とは言え、意識の無いリリアナを城の外に連れ出すには目立ちすぎるし、さすがに無理がある。いくら叔父であっても止められないはずがないのだ。
「おや、不思議そうな顔をしているね?秘密の道を知っているのは君だけじゃないよ。僕もリリアナくらいの時はよく秘密の道を通ってメルの元に通ったものさ」
「……そう、なのですか」
ディオンが言っている秘密の道とは恐らく、リリアナの部屋から街へと続いている王家の血が鍵となっている隠し通路のことだろうと思う。リリアナが初めてあの通路を使った時は長い間使った形式がないように見えたので、てっきり自分以外の誰もあの道を知らないものだと思っていた。だがそれもディオンは早くから城の外に屋敷を構えていたので、あの通路をしばらく使っていないだけのことだったのだろう。
そんなことを考えながら、まるで今のこの時間も他人事のように現実感がない。今までリリアナがよく知っていると思っていたディオンがまるで彼女が知っている人ではなかったかのようだ。
「そうだ。メルのために整えた部屋だったけれど、メルによく似た君なら気に入ってくれただろう?このタペストリーはメルが好きだった職人に特別に作らせたものなんだ。この若草色の緑が綺麗でね。メルはこの色が特に好きだと言っていたよ」
明るい声でそう言って、ディオンはリリアナの傍に掛けてあるタペストリーを見つめる。確かに瑞々しい色遣いのそれはとても魅力的であると言える。だが、そんなことよりも気になる言葉があった。
「お母様のため、ですか?」
ディオンは確かに「メルのために整えた部屋」と言った。メルはリリアナの母の名だ。そう多い名前ではないので、恐らくそれは間違いない。しかし彼の口から、彼女のための部屋という言葉が出るのはどう考えてもおかしいことだった。なぜならば、彼女は彼の妻でも何でもなく、現王フェルディナンの側妃だった女性の名だからだ。
「ああ。そうだよ。君の母だね。メルはこういう柔らかい雰囲気のものが好きだったからね。彼女のために整えたんだ」
「なぜ、母のために?」
「メルをいつこの屋敷に迎えても良いようにだよ。……その前に彼女は兄に殺されてしまったけれどね」
「殺され、た?」
ディオンの空気が急に張り詰めた。先ほどから理解しにくい言葉ばかりだが、今ディオンが発した言葉はその中でも特に意味が分からなかった。母のメルが亡くなった時、リリアナはまだ幼いと言っても良いくらいの年頃ではあったが、それでも確実に病死だったはずだ。特別仲が良いとは思えない両親ではあったが、殺意があるような関係にも到底思えなかった。むしろ父は母にそのような感情を抱くほど興味がなかったはずだ。
ざわざわと心が騒ぐのを止めることもできずに聞き返したリリアナに対して、彼は遠い目をしてタペストリーを見つめている。
「そうだよ。メルはあれに殺されたも同然さ。心優しくて穏やかだったメルはあんな王宮の暮らしはとても無理だったのさ。それを分かっていたくせに王宮に留めさせた、あいつの責任だろう?」
「それは……。それにしても、叔父様はなぜ母の事をそんなに?」
ディオンはそう言って憎憎しげに顔を歪めた。思い返してみればほとんど顔を見せない父フェルディナンの代わりに、リリアナの傍でいつも父代わりのように接していてくれたのはこのディオンだった。
「――メルは私たちの幼馴染だった」
ディオンは苦しげに表情を歪ませて、ぽつりぽつりと語り始めた。
メルはフォンディア有力貴族の一人娘だった。年はディオンのちょうど一つ下でその兄フェルディナンとは六つほど年が離れていた。彼女の父は王宮で重役に就いており、彼の仕事ぶりはとても優秀で先王の信頼も厚かった。メルはそんな父の登城と一緒にやってきては同じ年頃のディオン、暇があればフェルディナンも顔を見せていたので三人でよく一緒に過ごしていた。
仲の良い三人は城内では有名で、いつしかどちらかの王子の妃にどうかという話が持ち上がった。穏やかで心優しいメルはギスギスと冷え切った空気の王宮の中で癒してくれる存在であり、それは彼らにとってとても安らげる時間だった。だからフェルディナンもディオンもメルが妃になることを嫌がることも、拒むことも考えたことがなかった。そしてメル自身も年上で頼りがいのあるフェルディナンに恋心を抱いていたようで、王宮に嫁ぐことを嫌がるそぶりは当然見せなかった。
その状況が一変したのは、隣国ガルヴァンの姫レオンティーナがフォンディアとの関係向上のためという理由で縁談が決まった時だった。
「絶世の美女と謳われていた話は嘘でも何でもなくてね。私も初めてあの人を見た時は、こんなに美しい人がこの世にいるのかと衝撃だったよ」
ディオンはそう言って苦々しく小さな笑いを零す。
「……王と王妃は今も仲が良いように思います。でも、それなら何故ユリシア姉さまと私が生まれるのですか?レオンティーナ様はギルバートお兄様をお産みになられて、他に妃なんて必要ではなかったはずでは?」
今も王と王妃は仲睦まじいことで知られている。それは外聞だけでなく、身内である自分ですら思うから真のことであるように思う。今だけでなく、リリアナが物心付く頃にはそうだったと思う。
しかし、それであるならばなぜリリアナが生まれることになるのだと思う。ユリシアが生まれる前にはすでにギルバートも生まれ、跡継ぎ問題も解決しているはずだ。だからこそ余計に疑問だった。
「王妃はギルバートをご出産後、体調を悪くして一時期国へ帰られたんだ。その間に手を出したのがユリシアの母だ。そしてユリシアが出来て、慌てて側妃にした。だが、庶民を側妃にしたことで貴族たちからの不満は募る。そこで以前話があったメルを妃にすることにしたんだ。……私との結婚が決まっていたのに、それを無かったことにしてね。――さて、リリアナはもうしばらくここで休んで行くといい。今、足を洗うものを持って来させるから大人しくベッドで休んでいなさい」
ディオンは寂しそうな顔で呟くように言うと、くるりと踵を返して扉の前でリリアナを労わるかのような調子で言った。そしてリリアナが返事をする前に扉を閉じて、ガチャリと鍵を閉める音が聞こえた。




