43 今の自分だからこそ
リリアナたちがオービニエール伯爵の屋敷へと戻ったのは、薄らと闇が街を覆い始めた頃だった。屋敷の門を門番に声を掛けると、門番は何も言わずリリアナたちをそのまま通してくれた。そのまま門を潜り抜けて、扉の前に立つと屋敷の中はシンと静まり返っているようだ。どうやらリリアナたちが抜け出したことは伯爵には気付かれていないのだろうと胸を撫で下ろして、そっと扉を押す。
「――外は楽しかったですかな?リリアナ殿下、ヴィルフリート殿下」
扉を開けたその先にに立っていたのは、冷たい目でリリアナたちを見下ろすオービニエールであった。オービニエールはエントランスホールの中心に立ち、リリアナたちを迎えた。
「オービニエール伯爵……!」
「私が気付かないとでもお思いでしたかな?護衛もほとんど付けずにお出かけになられるなんて。殿下のご身分を考えれば、何があってもおかしくありません。それとも、よほど自分の腕に自信がおありなのでしょうかね」
驚いて固まるリリアナに、オービニエール伯爵は嘲笑するような調子で言い切った。彼が話すことは正論で、リリアナたちが軽率だったことは言うまでもない。そのためにリリアナは当然ながら言い返すことも、言い訳を言うことも出来ずに黙り込んでしまった。
「オービニエール伯爵にはご心配をおかけしたようで申し訳ない。中に入ってもよろしいか?」
「……そうですね。どうぞお入り下さい。それでは私は失礼致します」
リリアナたちはまだ扉の前に立ったままだった。ヴィルフリートの問いかけでようやくオービニエールもそれに気付いたようではっとした顔をして中へと促すと自身は奥へ下がって行ってしまった。
彼が居なくなったのを見計らって、隅に立っていたらしいジゼルがリリアナの元に駆け寄って来た。
「姫様!申し訳ありませんでした。私が居ながらこのような事に……」
ジゼルはシュンとうな垂れて、すっかり肩を落としてしまっている。いつもは人に知られていない隠し通路などを通って抜け出すことが多かったので、人に見られることが限りなく少なかったために見つかることも無かった。しかし今回は変装をしていたとしても、堂々と表から出て行ったのだから誰に見られていてもおかしくないだろう。その上、王族が二人も揃って抜け出したのだから気付かれない方が屋敷の警備に問題があるというものだったのだ。
「いいえ、私が軽率だったのよ。ジゼルにも心配をかけたでしょう?侍女服、気に入っていたんだけれどもう着替えなければダメね。手伝ってくれる?」
手伝いなど無くても着替えはできるのだが、あえてお願いをする形でジゼルに言った。
「はい。それはもちろんです!お部屋へ行きましょう」
「ええ。ヴィルフリート様、また後ほど」
「あのままヴィルと呼んでもらって構わなかったんだが。では、またな」
そう言うとヴィルフリートはにやりと笑って、くるりと踵を返すと自室に向かって歩いて行った。
部屋へ戻ると、早速侍女服から屋敷内で過ごす用の少し簡素なドレスに着替える。当然ながら簡素とは言っても、布の質は上等で目立たない場所にも細かなレースが縫いつけられており、侍女服に比べると段違いに重い。
服に着替えると部屋を出て、部屋の前で待っていたローレンスを伴って廊下を歩く。足を止めたのは、この屋敷の主が暮らす大きな扉の前だ。一つ深呼吸をしてから、丁寧に四回ノックをすると中から白髪の執事が顔を出してリリアナと後ろに立つローレンスの顔を見た。
「オービニエール伯爵とお話がしたいのですが、中へ入ってもよろしいですか?」
「――どうぞ、お入り下さい」
「ありがとうございます。こちらにお掛けになってお待ち下さいませ」
執事はすっと体を引いて、リリアナたちを中に招き入れた。扉を入ってすぐの場所が応接スペースになっているらしく、ソファへ腰掛けるように促された。リリアナとローレンスは言われるままにソファに座り、メイドがお茶を淹れてくれたのを見ながら少しの間待つ。応接室に置いてある家具は大げさな装飾が施されているものではなく、シンプルで手触りの良いものだ。美術品など華美な置物の類もあまり置いていないように見える。夜会で伯爵に会った時も宝石を無駄にたくさん身に着けているタイプではなかったので、飾り立てたりするのは好きな方ではないのだろうと思った。
「――お待たせ致しました。私にどのようなご用件でしょうか」
奥の扉から姿を現した伯爵はシャツにガウンというジャケットを羽織っていた先ほどとは違うラフな格好で、すでに寛いでいたことが分かる。伯爵はリリアナの向かいの席に悠々と座ると、一体どんな話があるのだとても言いたげな顔でリリアナを見た。
リリアナはひとつ呼吸を置いて、ゆっくりと丁寧に言葉を発した。
「オービニエール伯爵はこの国についてどうお考えですか?」
「……リリアナ殿下、貴女にこの国を掻き回されるのは迷惑です。学校を作りたいなどと仰っておられるようですが、遊びならば止めていただきたい。同情では民の腹は膨れません」
「私はそんなつもりはありません!」
初めは自分の運命を変えるための行動だった。国を変えようだなんて大それたことを初めから考えていたわけではない。
それでも自ら動いて行動しているうちに、それまでは姿が見えていなかった国民の暮らしが直接見えるようになった。国民の声を直接聞き、国民がどんな暮らしをしているのかが分かるようになったのだ。だからこそ王族である自分だからこそ出来ることがあるはずだと分かった。平凡で、人の力を借りなければいけない自分。それでも王族という立場であれば、民や貴族たちよりもより多くのことが出来る。それだけの権力を持っていた。
そしてリリアナは前世での平和な国を知っている。
「――昔々、あるところにお爺さんとお婆さんがいました」
「リリアナ殿下?」
唐突に話し始めたリリアナにオービニエールは戸惑った顔でこちらを見ている。
「お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが川で洗濯をしていると、川から大きな桃が流れて来ました。お婆さんはその大きな桃を拾い、家へと持ち帰るとお爺さんと割ってみることにしました。そしてその大きな桃を割ってみると、男の子の赤ちゃんが大きな泣き声を上げて出てきたのです……という件で始まるのが、私の知っている桃太郎というおとぎ話です。伯爵が教会で子供たちに話をされていた、大きなルリモという果物から出てきた王子様のお話というのはこの桃太郎のことではありませんか?」
それはリリアナもよく知るおとぎ話だった。今では顔も思い出せないかつての母が寝物語にと話してくれていたのだ。それこそ子供の頃何度も何度も話してもらったこの話は、教会で少女に話を聞いた瞬間に記憶の彼方から甦った。そもそもルリモという果物も、橙色の桃のような形をしている。もし桃という果物を知っている人がいれば、桃に似た食べ物と認識することだろう。
伯爵の顔からは血の気が失せ、ただ驚いたようにリリアナを見ていた。
「なぜ……それを?」
「それは、私もその話をよく知っているからです。私も貴方と同じように、前世の記憶があります。だからこそ、この国のために出来ることがあると思っています」
リリアナは確信していた。王都の食堂にも、かつての故郷を思わせる料理を作る女性がいた。そのことは、他にも同じような人が居てもおかしくないと思わせるには十分な出来事であった。
まさかオービニエール伯爵がそうであるとは思いもしなかったが、彼が話していたというおとぎ話はこの世界では同じような話を聞いたことがなかった。多少、この国の子供にも分かりやすいようにとアレンジされていたようだったが、それでも紛れも無く前世でよく聞かされた話だったのだ。




