42 お守り
教会を出るとすぐのところに大きな広葉樹が広々と枝を広げている。この大樹以外にあるものと言えば、細々とした畑と教会のみなので大きい木がさらに大きく見える。そんな大樹の枝の間を縫って、日差しがリリアナの顔に届いた。どこに居ても変わらずに日差しは明るい。
夏は暑く、冬は雪の降り積もる記憶の彼方の故郷でも見上げた空は広く、日差しは暖かかった。
「……おいしそうな香り」
皆が歩くままに着いて来ていたのだが、ふいに鼻先に届いた香りがリリアナの意識を浮上させた。ぽつりと漏れた言葉をそのままに匂いの元を辿ると、色鮮やかな赤色のキャンディーのようなものが目に入る。
「それを一つもらえるか」
声を発したのはヴィルフリートだった。彼は誰に聞く前に屋台の前に立ち、さっさと注文してしまう。手のひらほどのカップに入れられた一口大のそれ受け取ると、当たり前のように目の前に突き出した。
「あの?」
「甘いものはあまり食べられん。食べ物を粗末にしたくない。受け取ってくれないか」
「……ありがとうございます」
戸惑いがちにヴィルフリートを仰ぎ見たリリアナにヴィルフリートは至極当たり前のような顔で言い切った。
受け取ったそれは僅かに透き通ってきらりと光る。おずおずとその一つを口に含むとルージュに似た香りがふわりと香る。そしてルージュをぎゅっと凝縮して閉じ込めたような甘さが口いっぱいに広がった。僅かに弾力性のあるこれは不思議な食感で面白い。
「ルージュのお菓子なんですね」
「お嬢さん、口に合ったかい?ルージュはこの町の名物だからね。加工品もたくさんあるんだよ」
「はい、とても美味しいです。ルージュの香りも良いし、この甘みもルージュのものなんですか?」
このルージュの菓子を売っている屋台の女性がリリアナに声をかけた。その声ににこりと笑って返せば、女性もにこにこと笑う。
「そりゃあ良かった。もちろん、うちの菓子には余計なものは何一つ入れてないよ。この町のルージュの果実がどれだけ甘いか分かるだろう?」
「先ほど、屋台で食べた肉を挟んだパンも美味しかったです。この町は良い町ですね」
自慢げに笑った女性に向かって、横に居たローレンスがにこりとさりげなく笑って話しかけた。
「ああ、そうだろう?この町には良い領主様がいらっしゃるからね!治安も良いし、仕事もあるし、飯も美味しいし。良い町だろう?」
「領主様と言えばオービニエール伯爵ですね」
「伯爵の話かい?あの人は本当に良い領主様なんだよ。あの方のお父さんは言っちゃあなんだけど、冴えない男だったんだよ。本当にあの人からあんな出来た人が生まれるなんて信じられないくらい、代替わりしてからこの町は本当に良くなったんだよ」
ローレンスがオービニエール伯爵の名を出すと、近くに居た男性が本当に嬉しそうに笑って口を挟んできた。男性は極々普通の一般庶民のように見えるが、着ているものは汚れもほとんど無くきちんと洗われているきれいな服を着ている。
「本当にそうだね!働ける人間には仕事、働けない人間には食べ物をくださる。子どもたちにも難しい顔でおとぎ話なんか聞かせているらしいしね。あんなに出来た人はなかなか居ないと思うねぇ」
「ほう。それは確かに良い領主だな」
「だろう?あの人のおっしゃることは間違いないのさ!」
ヴィルフリートの相槌に女性は当然のような顔で頷いた。すれ違う住民は上等な服でなくても、きちんと手入れの行き届いた清潔な服を着ている。それは当たり前のようでこの世界では当たり前ではない光景だ。
前世で暮らした国が清潔にされすぎているということもあったのかもしれない。だが、それにしてもこちらで暮らしている人は薄汚れた服を平然と着ていることが多い。平民であれば持っている服の数もそう多くないこともあるのだろうが、それは身分の低い人であればあるほどその傾向が強いのだ。
つまりこの町で暮らす人はこの世界の基準で考えると、総じてみんな清潔なのだ。
「――リア様、こちらに」
その声に反応するのと同時にリリアナの手がぐいっと引っ張られる。
「ヴィ、ヴィル様!?」
「こちらだ」
顔を上げたリリアナにヴィルフリートはにやりと笑うと、そのままリリアナの手を引っ張って人混みに向かって走り出した。いつもより軽装であるにしても、あまり走り慣れないリリアナはヴィルフリートにされるがままである。足が縺れて転ばないように気を付けるだけで精一杯だった。
「――、いかがされたのですか?何か起こったのですか?」
しばらく走ってヴィルフリートの足が止まったので荒れる呼吸を整えながらようやく声を発すると、そこは人混みを抜けた先の路地だった。路地から辺りを見てみると、人の姿は見えるがローレンスとルイの姿は見えない。
「何も問題はないな。この町はどうやら平和な町のようだ」
「では、何故?」
「リア様、デートをしよう」
「デート、ですか?」
リリアナはヴィルフリートに返された言葉にきょとんとした顔で聞き返した。リリアナの記憶違いでなければ、デートとは男女が一定の時間を一緒に過ごすことを指すはずだ。それも恋愛の関係にある男女。
しかし王族であるリリアナには縁遠い言葉である。この世界で生まれてから十八年が経つが、デートなんてものは当然ながらしたことはない。侍従以外の異性と二人きりになることすら今まで経験のないことだ。
それに気付いて瞬時に顔が熱を持つのが分かる。そんなリリアナをヴィルフリートは目を細めて見ると、繋いだままだった手を引いて歩き出す。
「さぁ、こちらに。向こうに髪飾りを売っている店があるようだ」
「え、ヴィルフリート様!?」
「今日はヴィルと呼んで欲しいと言っただろう。――ほら、この緑は貴女の瞳の色のようじゃないか?」
ヴィルフリートは咎めるような調子で言って、傍に置いてあったカフスを手に取った。売っている場所が露天であるので、当然ながら決して高価なものではない。何かの石のようだが、上等でない証に石の中に傷が入っているようだ。
しかしそれは確かにリリアナの瞳と同じ色のように見えた。フォンディアの王族には緑の瞳を持つ者が多いが、リリアナの緑は姉たちとも両親とも少し違う色だ。明るすぎず、濃すぎない森の緑の色だ。
「確かにこの中でしたら、この緑が私の緑ですね。それにしても、カフスって色々な形があるのですね。でも、やっぱりこの四角が良いかしら」
リリアナも一人の女だ。普段アクセサリーなどを見慣れているとは言っても、やはり色とりどりの鮮やかで華やかな飾りを見ると心が躍る。自然と笑顔になって、露天に並べられたアクセサリーをあれでもないこれでもないと眺めた。
「ふむ、そうだな」
「お兄さん、それを気に入ったのか?」
「――ああ。この石は?」
「それは古の精霊シルヴァの加護が掛かっているんだよ。まじないみたいなものだけど、身につけていると会いたい人のところへ運んでくれるらしい」
そう言って、露天の若い男性はリリアナとヴィルフリートを見て意味深ににやりと笑って赤い石のついたイヤリングを指差した。
「それで、こっちの赤い石は精霊サラマンドラだ。身につけている人の身を守るお守りさ」
「ほう。そうか、分かった。そのカフスと、この花の形のイヤリングをもらえるか?」
ヴィルフリートはそう言って、先ほどリリアナが見ていたカフスと花の形にカットされたイヤリングを手にとって露天商に渡した。イヤリングの石は小さな五枚の花弁に見立てられた石がついた簡単な花の形をしたもので、華美すぎないのがリリアナにとって好ましいものだった。
「あの?」
「見ていただろう?」
そう、数あるアクセサリーの中でちょうどそのイヤリングを見ていた。リリアナが持つアクセサリーは華美な装飾がされているものが多いが、あまり好みではないので身に付けるのは人前に出るときくらいになってしまっている。このデザインのイヤリングであれば普段も付けたいなと考えながら見ていたのだ。
「――はい、色男さん。シルヴァとサラマンドラの加護がありますように!」
露天商の男性はにっこりと笑うと、簡単に包まれたそれを代金と引き換えにヴィルフリートに渡した。
二人は露天から離れて、広場の脇にあるベンチに座った。二人でこんなに近くで並んで座るのは、初めて会った王宮の庭園以来のことだった。そわそわと落ち着かないリリアナとは対照的にヴィルフリートは平然とした様子だ。
「リア様、カフスを付けてもらえないか?不器用で私には付けられそうにない」
「あ、はい。……失礼します」
リリアナはヴィルフリートからカフスを受け取ると、それをシャツの袖口に付ける。おのずと距離はぐっと近くなり、リリアナは顔を上げることもできずにシャツの袖にだけ視線を向けた。
「ありがとう。助かった。それでは、リア様失礼する」
「え、あの」
ようやくの思いでカフスを付け終わった。するとリリアナが制止の声を掛ける前に、ヴィルフリートの手がリリアナの耳に僅かに触れた。その距離は当然ながら息がかかるほどに近い。先ほどよりもさらに近い距離になってしまい、リリアナは視線の先に悩んで下を向こうと俯いた。
「リア様、顔を上げてくれないか。これでは付けられない」
「……は、い」
「貴女だと思って大事にしよう」
戸惑いがちに上げた視線がヴィルフリートの視線と絡む。ヴィルフリートの赤の瞳は熱を持ってリリアナを見ている。ヴィルフリートはイヤリングを付け終わると、見せ付けるようにリリアナの瞳と同じ色をしたカフスに唇を寄せた。
その瞬間、リリアナの顔はイヤリングの石と変わらない色に変わった。ヴィルフリートはくすりと笑うと、リリアナから体を離す。
「時間切れのようだな。続きはまたの機会に」
「……イヤリング、ありがとうございます。大切にします。あの、また一緒にデート、していただけますか?」
「もちろん」
リリアナの精一杯の言葉にヴィルフリートは目元を緩めて頷いた。
そしてそれから少し。まるでヴィルフリートは見つかることが分かっていたかのように、二人が体を離してすぐにヴィルフリートの護衛であるルイが声を上げた。
「――見つけましたよ!いきなり困ります。何かあったらどうなさるおつもりだったんですか!」
「何もなかったからいいじゃないか、そう怒るな」
「ああ、もうこれだから……!今日はお一人ではなくて、リリ……リア様もご一緒だったんですよ!」
「リア様、ご無事で安心しました」
ヴィルフリートとルイのやり取り見ていると、ローレンスが心の底から安心したというような顔でリリアナを見た。
「心配をかけたわね。ごめんなさい」
「いえ。ご無事であれば良いのです。……ええと、その、ヴィル様とは少しはお話ができましたか?」
はっと顔を上げると、ローレンスは何とも言い難い表情でリリアナを見ていた。笑っているのに目は悲しげで、それでいて優しい笑みだ。
「え?ええ……」
「それは結構でございます。しかし、今後あまりこのようなことは止めて下さいませ。リア様が突然居なくなられて心臓が止まるかと思いましたよ」
「ごめんなさい。もうしないわ。……多分」
「……居場所だけはお知らせ下さい。それで妥協しましょう」
今度はにっこり笑ったローレンスに頷いて、四人は屋敷に向けて歩き出す。そろそろオービニエールの屋敷に戻らねばならない頃合だろう。
リリアナはそっと指先を自身の耳に添える。そこには先ほどまでなかった小さな赤が彩っていた。




