40 違和感
「――ヴィルフリート殿下、リリアナ殿下。お時間が遅れましたこと、大変申し訳ありませんでした」
顔を合わせるなり頭を垂れたのはオービニエ伯爵だ。リリアナが何を言う隙も無く、二人の顔を見るやいなや丁寧に頭を下げた。それがリリアナにとっては少し意外なくらいだった。
「いや。かまわない。おかげで予定になかった果樹園の見学もできたのでな」
リリアナが声を発する前にヴィルフリートがにこやかに答えた。その声に悪い感情は含まれて居ないようだった。隣で聞いていてほっと胸を撫で下ろしたのだが、それはオービニエも同じだったようで安堵の表情を浮かべていた。
リリアナとヴィルフリートはは空いた時間を利用して、ルージュのための果樹園の見学に行った。利便性からなのか、酒造所と果樹園は隣接した立地になっていて、空いた時間を潰すには丁度良かったのだ。
しかし今は果実がなる時期には早く、果樹にはまだ花すら咲いていない。それでも土壌の状態や、木々の剪定の様子などが見られたのでヴィルフリートにとっては十分だったらしい。
「そうですか。少しでもお役に立てたのであれば幸いです。また何かありましたら遠慮なくお申し付け下さい。それでは、どうぞお掛けになって下さい。ただ今料理を運ばせますので」
オービニエ伯爵は安心したように強張った肩を緩め、リリアナたちを席に案内した。
席に付いて、飲み物を飲みながら待っているとすぐにリリアナたちの前に料理が並べられた。出てくる料理は宮廷のものと違い、洗練されたものとは違うが、それぞれの素材がとても良いことが分かる。保冷する技術も、運搬する技術もリリアナの知る現代とはまるで違うのだから取れたてが一番美味しいに決まっているのだ。
「どの料理もとても美味しいのですが、このチーズはこちらのものなのですか?」
「ありがとうございます。いえ、そのチーズだけはユルゲン地方のものでございます。リリアナ殿下がお好きだと聞きまして」
「まぁ。ありがとうございます。私、ユルゲン地方のチーズが好きなんですの。嬉しいですわ」
臭みは少なく、淡白であっさりしているユルゲン地方のチーズはリリアナの好物だ。本当のチーズ好きには好まれないタイプかもしれないが、それでもリリアナはユルゲン地方のチーズが好きだった。オービニエににっこりと笑って返して、リリアナは心の中で疑問に思う。
確かにユルゲン地方のチーズは好きだが、それを王宮で食べることは無い。どうしても熟成の短いチーズであるために、王宮に運ぶまで鮮度を保つことができない。そして、チーズ好きからすると美味しくないとされてしまうこのチーズは王族の口に入るに適していないとされているらしい。そのため王宮の料理人はこのチーズを食材として選ばないのだ。だからリリアナはこれを食べたのは離宮のあるフリアンの町で何度かだけであった。
つまり、リリアナがこのチーズを好きだということを知る人間は限りなく少ないはずなのだ。どこから聞いたのかは分からないが、リリアナの目には食えない男の笑みが映っている。
昼に見た果樹園や酒造で働く人々の服装、そして丁寧に謝罪するオービニエ。リリアナの胸にはじわじわと違和感が広がっていた。
次の日の日中はぎっしりつ詰められた日程の中では唯一休養に当てられていた。遠方からやって来たヴィルフリートと体の弱いという設定のリリアナの疲れた心身を癒すためである。
「姫様、本当に行かれるのですか?」
心配そうにリリアナを見るジゼルの手には薄手の上着が持たれている。それはリリアナが普段着るような明るい色味で美しい装飾のされているようなものではなく、落ち着いた色合いで地味なものだ。リリアナはそれを受け取ると、さっと腕を通してジゼルを見て笑う。そしてベッドの上で体を起こす栗色の髪の女性に声をかけた。
「ドレスを脱いだら私が誰か分かる人なんていないわ。大丈夫、すぐに戻って来るわ。――メアリ、少しの間だけよろしく頼むわね」
「はい。姫様も楽しんで来て下さいませね」
ベッドの上にいるのはリリアナ付きの侍女内の一人だ。リリアナに似た栗色の髪を持っていて、似たような背格好をしている。
「ジゼルは私は休んでることにしておいてちょうだいね。メアリが気付かれないようにフォローをよろしくね」
「はい。それはもちろんです。くれぐれもお気を付け下さいませ。ローレンス様、リリアナ様をよろしくお願い致しますね」
「はい。お任せ下さい。……今日はリア様とお呼びした方がよろしいのですよね?」
「そうね。今日の私は侍女のリアだもの」
リリアナはそう言って悪戯めかして笑うと、ひらりとスカートを翻して回ってみる。今のリリアナの格好はベッドに寝るメアリから借りた侍女服である。いつも着ているドレスよりも数段も軽く動きやすい侍女服に思わず心が弾む。フリアンに行く時に着る服よりも動きやすいのは、さすが仕事服だと言うべきなのだろう。スカートの丈は当然ながら長いが、余計な装飾は一切無い。胸元と襟がに清楚なレースが僅かに飾られているだけである。
「まぁ!そのようにしたらはしたないですわ!もう子どもではないのですから」
「少しはしゃいだだけよ。それじゃあ、行って来るわ。――ローレンス様、行きましょう?」
「はい、リア様」
出会った当初のように丁寧な言葉でローレンスを見ると、ローレンスは目を細めて笑った。
咎めるジゼルから逃げるように寝室を出て、廊下へと通じる扉の近くまで行くと、上着のフードを被る。大き目の作りになっているそれは、目元まで隠してしまいそうだが、かえって都合が良いだろう。髪の色と背格好が似ているとは言え、リリアナかメアリを知る人が見たら別人なことは明らかに分かる。
部屋を出るとドアの前に警護という名の見張りが立っていた。がっしりとした体がいかにも頑強そうな男で、ローレンスをちらりと見た。
「どこへ?」
「姫様の遣いで侍女と町へ」
「……そうか」
男の視線はリリアナにも降ってくる。
「もう行っても?」
「ああ」
視線を下に落としたままそれを受けていると、男は満足したようだ。ローレンスが急かすように訪ねると、男はすぐに頷いた。
男の許可も得られたので、リリアナは男の横を通って先に行くローレンスの少し後ろに付いて歩く。廊下で人とすれ違うたびに胸がはらはらとしたが、誰もローレンスの後ろを歩く侍女がリリアナだと気付く素振りも見せなかった。そのことに段々と緊張が解けてきていたのだが、ふいにローレンスに掛けられた声に体がびくりと跳ねる。
「――おや。貴方はリリアナ様の騎士であったな」
下仕えは主の目を見てはいけないという決まりがあるので、王族や貴族に仕える者たちは廊下を歩く際は視線を下に向けて歩く。当然リリアナも侍女服を着ている今はそれに習っていたのだが、顔を向けずとも明らかにその声に聞き覚えがあった。
「これはヴィルフリート殿下ではないですか。私に何か御用でしょうか?」
ローレンスの背中に緊張が走るのが分かる。リリアナはそっと目立たないように背後に一歩下がって、侍女らしく顔を下に向けたまま待つ。
「いや。用というわけではないが。貴方が姫の御前から離れるのは珍しいと思ってな」
「ああ。ちょうど、今姫様の遣いで出るところだったんです。大変申し訳ないのですが、急いでおりますのでこれで失礼させて頂きます」
ローレンスは柔らかく微笑んで断って、その横を通り過ぎようとした。
「それでは、リリアナ様はどちらへ行かれるのだ?」
ヴィルフリートの視線はリリアナに向けられていた。
「――あの、お間違えでは?私はメアリです」
「間違えたか?それでは、お顔を確認させていただこう」
その言葉に返す前に、リリアナの顔を覗き込んだのは赤の瞳。ヴィルフリートの端整な顔であった。
「それでどちらへ?」
あのまま廊下に居ては目立つということで、人気の無い場所へと移動して早々にヴィルフリートの咎めるような視線がリリアナを刺している。
「町へ視察に行こうとしていました。王女のままでは見られないこともありますので」
「ほう?」
「でも、危険なことをしようというわけではありません」
「そうです。私も付いておりますし、心配はございません」
リリアナの言葉を援護射撃するかのように、ローレンスの言葉が続く。
「では、私が一緒でも問題ないな」
「え?」
「しかし、殿下のお姿では少し視線を集めますし……」
にやりと笑って、ヴィルフリートは信じられない言葉を言い放った。戸惑うリリアナを見てか、ローエンスがやんわりと断りの弁を述べようとしていた。
「問題無い。貴女のことはディオン殿下にも頼まれている。準備を整えたら向かおう。あそこに見える木の前で落ち合おう」
ヴィルフリートはそう言って屋敷の窓から見える大きな木を指した。リリアナには断る理由をぱっと言うこともできず、頷くしかなかったのだった。




