39 リコンテ領の暮らし
リリアナはヴィルフリートと一緒にルージュ作りを見学していた。リコンテに到着した日にオービニエ伯爵には「どこを見ていただいてもかまいません」という言葉をもらった。その言葉に甘えて、見学の途中であちらこちらと気になるものを見せてもらっているが、今の所は特に気にかかることはない。リリアナには酒造りの知識はほとんど無いが、それでもリコンテのルージュ作りの丁寧さに感心するほどだった。
「この樽全てにルージュが入っているのね!」
「はい。そうでございます。手前にあるものはまだ熟成の若いもので、年月が経てば経つほど味に深みが生まれるのでございます」
案内係の説明に声を弾ませる。洞窟の中に作られた薄暗く寒いくらいの貯蔵庫にはたくさんの背丈ほどもある大きな樽がずらりと並び、それは圧巻でさえある。これよりももっと小さな一瓶でさえ市民にはなかなか手に届かない高級品だ。これだけあればどれだけの価値があるのだろうと思う。
説明を聞きながら、忙しそうに作業を行う人々を眺める。身なりはリリアナが想像していたよりもずっと良い。服の質は良さそうだし、そんなに古くも見えないし傷んでいる様子もない。王都の市民と言ってもピンキリであるのだが、平均的な王都の市民よりもずっと良い暮らしをしているのではと思うくらいだ。
こんな暮らしぶりの良さそうな民を見ていると、領主は真っ当な良い人間なのではと思えてくる。噂では恐ろしい人いう話なのに、領民想いの優しい人のように思えてしまう。一体彼は本当はどんな人なのだろう。
「――リリアナ様はルージュ作りにとてもご関心があるのだな。お好きでいらっしゃるのか?」
「あ、はい。リコンテ領のルージュはとても美味しいですし、こうしてお酒を作るところを見るのは初めてなので珍しくて」
リリアナがよほど熱心に作業を眺めているように見えたのだろう。ヴィルフリートが微笑ましいと言いたげな顔でリリアナを見ていた。その瞳と目が合って、リリアナの頬はルージュの色に染まる。照れたようにはにかんだ笑みで返せば、ヴィルフリートも笑みを返した。
「そうか。とても真剣に聞いていらっしゃるから、勉強熱心なのだなと感心していたよ」
「いえいえ、そんな……ありがとうございます。ヴィルフリート様は何か参考になることはございましたか?」
「ああ。そうだな。色々と参考にできそうなことがありそうだ」
ヴィルフリートはそう言って頷くと、また視線をルージュの樽に戻した。すでに案内役の青年は少し先を歩いているのが見える。
「そうですか。それは良かったですわ」
「まずは美味しい果実を作るところからだがな――?」
「ヴィルフリート様いかがなさいました?」
冗談めかした物言いのヴィルフリートにくすくすと笑いながら返していると、ヴィルフリートの視線が一つの場所に止まっていることに気付く。少し厳しくなったヴィルフリートの表情を不思議に思い、リリアナがそこへ視線を向けてもそこには他の場所と同じように大きな樽が並んでいるだけだ。ヴィルフリートに顔を向けると、ヴィルフリートは難しい顔を崩して誤魔化すように笑顔を浮かべた。
「……いや、誰かがいるように気がしたんだが。作業員でも居たのだろう」
ヴィルフリートに再び顔を向けると、そう言って首を横に振ると誤魔化すように小さく笑顔を浮かべた。
「そうですか?」
「ああ。さぁ、先に行こう。私たちだけが置いていかれてしまう。私はリリアナ様と二人きりでも良いのだが」
「ヴィ、ヴィルフリート様……っ!」
「っふ。君の騎士も私の事を睨んでいることだし、本当に行かねばなるまいな。お手を失礼する」
リリアナの反応を見て、ヴィルフリートはくつくつと楽しげに笑いを零す。そしてリリアナの手を取ると、自身の腕に乗せて止まっていた足を先に進ませ始めた。
少し先にはヴィルフリートとリリアナのそれぞれの護衛が待っていて、二人を見ていた。あまり近くに寄りすぎずかといって遠くにいるといざという時に駆けつけられないので付かず離れずの距離で待っているのが彼らの仕事だ。
「ヴィルフリート殿下。お楽しげなのは結構でございますが、あまり離れないでいただけると護衛の者としては有難いのです。もちろん、殿下の剣の腕はよく存じ上げておりますが」
近くまで行くとヴィルフリートに話しかけてきたのは、こちらではほとんど見かけない珍しい褐色の肌の大きな男だった。フォンディアに住む国民、民族にはああいう褐色の肌を持つ人種はいない。外から入って来た人間であればその限りではないが、王宮内にいるとそういう人間と会う機会はそうそうないものだ。そして彼の上背はかなり大きく、リリアナの背は平均的であって決して小さくはなかったが、それでもこの男を見上げると自分が小柄であるように思わせるほどだ。どうやらヴィルフリートの護衛であるらしい彼は眉を寄せて注意するような口調で言いながら眉を顰めている。
「はは。ルイならどこに居ても駆けつけてくれるだろう?」
「……はぁ。殿下にはかないませぬな。あまり目の届きにくいところへ行かれなければ結構でございます」
ルイと呼ばれた彼は大きくため息を吐いて、ヴィルフリートの後ろに下がる。そんな彼の様子をヴィルフリートは楽しげに見て、笑っていた。護衛と守られる者という間柄であっても、仲が良いのだろうと思わせる。
「ふふ。仲がよろしいのですね」
「ああ。付き合いは長くないが、信頼している」
「殿下、そのようなことを」
「はは。ルイは期待に応えてくれる男だろう?」
困ったように眉を顰めるルイにヴィルフリートはさらに笑みを深くした。
「とにかく、殿下はあまり勝手に遠くに行かれませんようお願い致します。それでは失礼致します」
「ああ」
そう言ってルイは少し離れた他の護衛係がいるところに下がったようだ。ローレンスもリリアナが公務としてヴィルフリートの傍にいるので配慮しているらしく、少し離れて様子を伺っていたが用件があるらしく傍に寄って来た。
「リリアナ様。お次の行事についてですが、よろしいですか?」
「ええ。ヴィルフリート様、少し失礼致します」
リリアナはヴィルフリートに断って、ヴィルフリートから離れてローレンスの傍に寄った。
「次の行事は伯爵と会食だったわね?何かあった?」
「はい。そうだったのですが、時間が一時間ほど延びたそうです」
「何か問題が起こったのかしら?向こうは何て?」
もともと早めの時間に設定されていたとは言え、プライベートな会食であればまだしも、今回のこれは自国の王族と隣国の王族が出席する正式な会食だ。そのような会が何の理由もなく時間が延びることは考えにくい。何か問題が起こったと考えるのが正しいだろう。
「理由は食材の到着が遅れたとのことでしたが」
「そう、ローレンスはどう思う?」
「このような日にそのようなことが起こるのは考えにくいことかと」
理由はそれならば仕方ないとも思えるが、それは平民であればの話だ。仮にも貴族であるオービニエ伯爵がこのような日にそんな初歩的なミスを犯すだろうか。そう思ってローレンスに聞いてみれば、ローレンスもリリアナと同じことを述べた。どんな些細なミスであっても、相手次第では国同士の争いになってしまうことも考えられるのだ。だからこそどんな些細なことであっても万全の準備を持って臨むし、そのような対応を伯爵にも求めているはずだ。
「そうね。ただの行き違いであれば良いのだけれど。殿下に何か起こったら大変だわ。何か気付くことがあれば教えてちょうだい」
「……まだ定かではないのですが」
「いいわ。話して」
「リコンテ領は今の時期は作物もよく出来る時期であったように記憶しています。届けることに時間がかかるようなものを、こんなに急にわざわざ取り寄せたりするのでしょうか?」
「……それもそうね。とりあえずこのことは一旦置きましょう。ヴィルフリート様には私からご説明するのが良いでしょうね。ローレンスは少し伯爵側のことを探ってもらえる?」
「はい。承知致しました」
ローレンスが頷いて下がったのを見て、リリアナもヴィルフリートの方へと歩き始めた。




