38 初恋の香り
「――またお会いすることが出来て光栄です。リリアナ王女」
「……ヴィルフリート、様?」
その瞬間、思わず叫びだしそうな気持ちをどうにか堪えて目の前に現れたヴィルフリートを見つめた。きっと今のリリアナの顔はそれはそれは間抜けなものだろうと鏡を見ずとも分かる。
「ああ。久方ぶりだな、リリアナ様。そのご様子であれば私のことは忘れられていないようで安心したよ。今回リコンテ領への見学に同行させていただけるとか。私も一度リコンテ領のルージュ作りを見学してみたいと思っていたので有難い話に感謝する」
にこりとリリアナに微笑むヴィルフリートはどこからどう見ても、紛れもなくヴィルフリートである。だがしかし、隣国の王子がまた国に来ているなんて話は誰からも一言だって聞いていなかった。驚いて固まるリリアナを見て、傍にいたディオンが悪戯でも成功したような顔で笑っている。
「リリアナのそんな顔を見れるとは珍しいことがあるものだ」
「え?え?ディオン叔父様、これはどういうことなのですか!」
「どういうって、ヴィルフリート殿下もリコンテ領にご一緒されるのさ。だからリリアナはきちんと王族としての勤めを果たすこと。いいね?」
詰め寄るリリアナにディオンはそれでも楽しそうに笑っている。何も隠さなくても良いはずだ。そもそもリリアナにヴィルフリートが訪れることを隠すことになんのメリットがあるというのか。
「それはもちろんですけれど。私聞いておりませんわ。ヴィルフリート様がいらっしゃるならいらっしゃるで仰って下さればよろしいのに!」
「いや、教えてしまったらつまらないじゃないか」
「つまらないだなんて!……ジゼル、貴女も知っていたのね?」
「――も、申し訳ありません!あの、私はリリアナ様にもお教えするべきだと進言させていただいたのですけれど」
くるっと振り返って後ろに控えていたジゼルを見れば、ジゼルはシュンとうな垂れた様子で申し訳無さそうにリリアナを見ていた。当然ながら身分上、ジゼルがディオンに言われたらそれに逆らうことはできない。思い返せば近頃様子がおかしいような気はしていた。しかしジゼルは何でもないと言い張るし、あまり問い詰めるのは良くないだろうと考えた結果がこれである。どうにかして問い詰めればよかったと頭に過ぎるが、それではディオンがしていることと変わらないことに気付いて思い直す。
「ジゼルは仕方ないわね。ディオン叔父様に言われたら逆らえないもの」
ジゼルを慰める調子だが、それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。こんなことで動揺していたらいけないと分かっているのに、ヴィルフリートを前にするとどんな顔をして良いのかが分からない。ふとジゼルから視線をずらすと、ヴィルフリートと目が合って微笑まれる。たったそれだけで何故だか心臓が煩いのだ。
「私もお止めしたのですが。本当にディオン殿下もお人が悪い。――姫様。大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。ローレンス」
心配そうに顔色を伺うローレンスに笑顔で断って、その隙に浮わついた気持ちをどうにか落ち着ける。
「申し訳ございません。ヴィルフリート様、お見苦しいところをお見せしました。いつからフォンディアに?」
「いや、可愛らしいところを拝見出来て良かった。フォンディアには昨日着いたところだ」
ヴィルフリートの言葉にせっかく落ち着いた心臓がまたどきりと高鳴った。
「昨日お着きになられたのですか?お体がお疲れなのでは?」
「問題ない。これでも一応所属は軍になっている。演習ともなればこれよりも厳しい日程で移動を行うこともままあることだ」
「……そうなのですか。でも、お体がお辛くなられたらいつでも仰って下さいませね」
「ああ」
リリアナが心配の色を滲ませてヴィルフリートを見上げると、ヴィルフリートは嬉しそうに微笑んで頷いた。その表情をぼんやりと見惚れていると後ろから声がかかる。
「リリアナ様。大変申し訳ないのですが、日程のご説明をしてもよろしいでしょうか?」
「え、ええ。お願いするわ」
こちらを伺うように見るローレンスと目が合った。はっと気付いて、ローレンスを促すように言うとローレンスは手元の紙を確認しながら話し始めたのを見てようやく冷静になったのだった。
ディオンに見送られ馬車に乗り、しばらく揺れらていると休憩時間が取られる。この馬車は現代のもののように衝撃が吸収されるような仕組みはないので、この時代の馬車は酷く揺れる。きちんと道が均されている場所であればその揺れも大分我慢できる程度のものであるのだが、王都から遠ざかれば遠ざかるほど当然ながら道は悪くなる。
「馬車の揺れでお疲れではございませんか?ただ今お飲み物をご用意しているところですので、もう少々お待ち下さいませ」
「私は良いのよ。ジゼルも大丈夫?他の者たちにも疲れていれば私には構わず休むように言って」
「いえ、お気遣いありがとうございます。そのお言葉だけで皆喜びますわ」
「そう?無理しないように言って頂戴ね。――それにしても、この揺れは何度乗ってもすごいわね。もう少し揺れが軽減するようになれば良いのだけれど。衝撃を吸収するようなものないのかしら」
ジゼルが下がっていったのを見ながら、ぽつりと漏らした言葉にローレンスがふむと頷いて傍で聞いている。
馬車はほとんどが貴族のためのものだ。簡素な相乗り馬車もあるが、あれは馬車といよりも大きな荷台に無理やり椅子がついているような簡素な作りのものだ。そういう性質なこともあり、あまり長距離には利用されない。そもそもフォンディアは国土があまり大きくないので、それほど長距離馬車の必要性が無いこともあるのだろう。市民が長距離移動する際は同じ方向に移動する荷台に乗せてもらうか、自身で馬の手配をするか、徒歩である。そういった経緯もあるのだが、馬車を制作する人間は馬車に乗らない人であることが多い。そのために見た目は華やかになっても、乗り心地という点には考慮されていないのだろうと考えられた。それでも乗り合い馬車よりも恐らく乗り心地は良いのだろうが。
「衝撃を吸収ですか?」
「ええ、バネみたいなものとか……。えっと、コイルがソファに入っていたわよね?ああいうの」
ふと思い浮かんだのは前世での記憶だ。近頃ではほとんど思い出さなくなっていたのだが、ふいに思い出すこともある。何気なく口に出したのだが、ローレンスは考え込むような仕草に変なことを言ってしまったのだろうかと不安になる。
リリアナが普段城で使っているソファにも確かコイルが入っているはずだ。リリアナが前世で知っていたものとは大分違うもののようではあったが。
「……はい、そうですね。分かりました」
リリアナの不安な顔に気付いたのか、ローレンスはその不安を消すかのようににっこりと笑った。
「――リリアナ様、お飲み物をお持ちしました」
「ありがとう」
そこへジゼルが飲み物を持って戻ってきたので、それを受け取った。
「ね、ジゼル。ヴィルフリート様もお休みになられていた?」
「ええ。ヴィルフリート殿下の従者の方に伺いましたら、お困りのこともないとのことでしたわ」
「そう……。それならよかったわ」
ほうと息を吐いて、ジゼルが持ってきてくれた柑橘の香りがする爽やかな紅茶を口に含む。
「ふふっ。ええ、本当に。そうですわね」
ジゼルはリリアナの顔を見て、くすくすと楽しそうに笑っている。
「ジゼル?」
「いえいえ。何でもございませんわ」
ジゼルはそう言って楽しげに笑うと、少し減ったリリアナのカップに紅茶を注ぐ。
「何でもない顔じゃないわよ」
「あら、そうでございますか?それは失礼致しました」
ジゼルは大げさに言って、何てこと無い顔で取り澄ます。このようになったジゼルには何を言っても無駄だ。長い付き合いのおかげでそのくらいのことは分かる。リリアナは諦めてため息を吐くと、また紅茶を飲む。
「爽やかね、これは?」
「リモーヌです。街娘の間では初恋の味とも言われておりますわね」
「……!」
思わず噴出しそうになったリリアナをジゼルはしたり顔で見ている。
「あら、リリアナ様。どうかなされましたか?」
「どうかって!もう、分かってやってるんでしょう?」
リリアナは我ながら子ども染みた顔をしているだろうと思った。拗ねたような態度をわざとらしく示してみれば、ジゼルはくすくすと笑いながら謝った。
「申し訳ございません。私には何のことだか」
「……もう、いいわ。それで」
そう言いながら少し温くなった紅茶を飲む。甘酸っぱくて爽やかな香りは前世でもよく知っていたレモンとそっくりだ。そしてその味に似た気持ちも。
おそらく、これは恋なのだろうとおぼろげに思った。この気持ちはリモーヌの味にそっくりなのだから。




